さてさて………………
【後宇多天皇陵】を出発したココロは、次の目的地を目指して歩いた…………………
道中気になる場所は、たくさんあるけれど
時間には限りがあるので、先を急ぐ…………
『鳥居本町自治会』の文字が見える
目的地エリアに入った事を実感する
あちこちに石碑がある京都
さすが
こんなんで足が止まり、スケジュールが滞るのもまた良し
【嵯峨鳥居本伝統的建造物群保存地区】
ココロが目指すのは、その【嵯峨鳥居本伝統的建造物群保存地区】にある『天皇陵』だ
ココロ通算115陵目(124陵分の)の『天皇陵』となる参道入口まで無事に到着ーーーーーーっ
これまた清々しい空気の参道
新緑が美しい
目的地が見えてきたぞーーーーーっ
到着したのは……………………
【後亀山天皇 嵯峨小倉陵】
京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町
小倉山の東麓に所在する。
宮内庁上の形式は石造五輪塔。
【後亀山天皇(ごかめやまてんのう)】
1350年ー1424年
日本の第99代天皇、および南朝第4代天皇。
北朝を擁護する将軍足利義満が提示した講和条件を受託して、『三種の神器』を北朝の後小松天皇に伝えて、南北朝合一を実現した。
長らく皇位が否定されてきたが、明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇に加えられることとなった。
出生・生い立ちは明らかでないが、兄長慶天皇が践祚した正平23年/応安元年(1368年)3月から8月までの間に立太子され、東宮(皇太弟)としてすでに天皇の政務を補佐していたようである。
弘和3年/永徳3年(1383年)冬に長慶天皇の譲位を受けて践祚。当時の行宮は【栄山寺(奈良県五條市)】であったという。
この皇位交代の背後には、室町幕府への姿勢をめぐって強硬派の長慶と和平派の後亀山との間で内部対立があり、最終的に参議楠木正儀ら和平派の台頭が契機で後亀山の即位が実現したと考えられている。
在位の9年間は、ちょうど南朝政権の衰退期に相当する。政令がおよぶ範囲は大和・河内・和泉・紀伊などの行宮を中心とした地方の他、九州の征西府や四国の河野氏の勢力域に限られ、将軍足利義満の下で隆盛を極める幕府との実力差は否定すべくもなかった。宗良親王や懐良親王が世を去り、威勢を失った南朝にとって、和平による合一は必至の状況となっていた。
元中9年代/明徳3年(1392年)和泉・紀伊守護である
大内義弘が南朝の吉田宗房や阿野実為と接触して下交渉を始める。
10月には義満から吉田兼熙を通じて両朝講和のための条件提示がなされ、天皇はついにこれを受託した(明徳の和約)。
同月28日に南朝君臣は神器を奉じて吉野を出立し、閏10月2日に京都【大覚寺】に到着。
同月5日に「三種の神器」のみが【大覚寺】さら北朝の後小松天皇の土御門内裏に移された。
ここに南北朝時代は終わり、皇統は北朝の一統に帰することとなった
これに伴い、南朝元号である元中は廃絶し、天皇の弟で東宮位にあった護聖院宮(惟成親王か)は事実上廃太子された
後亀山は後年、両朝合一を決断した理由に関して、自らの運命をひとえに天道神慮に任せ、民間の憂いを除くためだったと述懐している。
合一後、【大覚寺】を仙堂とした後亀山は「大覚寺殿」と称されて、幕府の被扶養者としての待遇に甘んじなければならなかった
応永31年(1424年)4月12日、雷鳴とどろく夜に【大覚寺】で崩御
宝算は75とも78ともいう。
後亀山が果たせなかった皇位回復の意志は子孫の小倉宮に受け継がれ、やがて後南朝による幕府への抵抗運動を引き起こした。
さてさて、ココロは【嵯峨鳥居本伝統的建造物群保存地区】にある寺院に立ち寄る事とした…………