那珂川では七夕の頃に咲く百合を、七夕華(さひき)と言った。
狭井神社、率川神社の百合の「さい」の元がこれである。
神は那珂川におられ、七夕の神であった。
★目次
☆1 ”さい”は百合の花
☆2 筑紫の神
☆3 七夕の神
”さい”は百合の花
(「儺の國の星」22、木花星(このはなぼし)より引用
白鳥座の古名が木花星である。...そして七夕の頃までに、散り果てる那珂川の”さひき”なる山百合もXaichi(さいき)と表現できるかもしれない。... 七夕百合の別名を”せき”と言う。”さひき”の訳である。...陰暦七月七日を秋の節季とよんでいたが、立秋の前後に重なることが多いので、かく称していたものと思われる。この頃に咲く花が”せき”即ち古事記の”さい”であった。
(...は中略)
以前、「さい」が百合を意味することから、大神神社の摂社の狭井神社にまつわる伝承、率川神社の三枝祭と、神について書いた。
今回は、それも合わせて。
那珂川では、七夕の頃に咲く百合を、七夕華と書いて”さいき”と呼んだという。
昔は旧暦であり、一部の地域では七夕を八月七日にされている。
大神神社の摂社の率川(ひさかわ)神社の「三枝祭(さいくさまつり)」は、例年6月17日。
百合の古名が”さい”であり、境内に咲いていたことから、その時期に祭りを行っていたと考えられる。
狭井神社
しかし、何故百合が”さい”であるのか、はっきりは分かっていないという。
大神神社の神は、那珂川(筑紫)の神であった。
彼らを祀る一族が、大和へと移った。
ゆえに”さい”が百合であり、その花が神と結び付けられ、祭りが行われていると考えられる。
筑紫の神
神話の神は、後の世の者をのぞいて、すべて二柱の神に集約される。
それが二柱の天照、饒速日命と御炊屋姫。
彼女は市杵島姫命であり、女神天照の別名には厳御霊=厳島神社の御霊が示唆されている。
市杵島姫命は宗像神。
では、大和で饒速日命に出会った彼女は、筑紫へと移っていたことになる。彼と共に。
天照はこの国の最高神とされる。
では、筑紫に移った彼もそれである。
筑紫の国魂とは、筑後国一之宮の高良大社の高良神。
その伝承「高良玉垂宮神秘書」には、物部の神とあった。
彼らが神とするのは、祖神である饒速日命と御炊屋姫。
彼女は宗像神であるのだから、筑紫の神。
よって、高良神は「彼ら」になる。
「神秘書」には、高良神の后は神功皇后とある。
大社の本殿に合祀されるのは、神功皇后の妹とされる豊姫。
后以外を共に祀れないので、彼女が「神功皇后」だ。
神話は為政者の都合によるものに過ぎない。
彼女の御子とされる応神天皇は、推定4世紀後半。
時代も存在性もほぼ確定らしい。
だが、その祖父のヤマトタケル命(仲哀天皇の父)は、1世紀に推定されている。
その差300年強。
では、「神功皇后」という存在する時代も改変されている可能性が大いにある。
高良大社の祇園山古墳は3世紀後半頃。
眠るのは、高良神の后である可能性が大きいので彼らは3世紀前後の者。
そうであれば、応神天皇は本当の御子ではなくなる。
実際、気比神宮でツヌガアラシトと名を変えた「応神天皇」は、饒速日命に繋がっている。
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彼らが「最高神」であるからこそ、御子と設定したと考えるのが妥当であろう。
皇祖神「天照」は、彼らなのだから。
300年?
高良神は、武内宿禰様でもある。
彼は300年生きて天皇家に仕えたとされている。
関連性を持たせるためにそうなったと考えられる。
では、彼が鍵なのだ。
彼が鍵であるからこそ、その間の期間を埋める(繋げる)長寿としたのではないか。
彼らの子孫は、必ず彼らを神として祀っている。
物部氏と蘇我氏、紀氏、平群氏などは元は同じ一族である。
しかし、物部氏は饒速日命であり、その他は武内宿禰様。
同じ神であるゆえであった。
子孫は、大和へと移り、政治の中核についている。
また、居ついたそれぞれの地で彼らを祀った。
その一つが大神神社である。
百合の花が神と結び付けられ、それが那珂川に伝わる”さい”であるのは、ここが神の地であるを物語っているのではないか。
この地に伝わってきた言葉は、多くの神の名、由緒に繋がる。
それはこの地が、彼らが存在した地であった故かもしれない。
高良神は住吉神と同神。
ここには住吉の元宮、現人神社がある。
ゆえにこの地が神話の舞台であった。
七夕の神
(「儺の國の星」21、木花星より引用)
川原にこの花の群落を見る時は、かつて天地を百合動かした瀑水があったことを教えます。”さひ”とは胡語のSholl(シヨル)即ち砂礫の川原であり、”ち”は、屑(せち)即ち木(いき)、或いは桔(き)であります。
白鳥座を”ひさきぼし”と呼んだこともありました。実が羽毛ある故に白鳥(かる)がもたらす花の種子と語られていたのであります。”かるのほし”の名もありました。
百合の花の華の広がりから、土地の状況が分かるという。
”さひ”自体に川原の意味があるらしい。
狭井神社の、伊須気余理比売(いすけよりひめ=姫蹈鞴五十鈴姫)の伝承では、川原の側に百合の花が咲いていた。
”さひ=さい”がそれであることは、ほぼ間違いないと思われる。
また、「見立て」により「さい(のある地)に神がおられる」ともとれる。
彼らは「七夕の神」でもあった。
白百合と「七夕の神」を掛けているのは、十分に考えられる。
白鳥座が”さひきぼし”。
まさに白い花の七夕華(さひき)星である。
何度も似たようなことをとも思いますが、何度も書かれてるので、気にしないことにしました。
色んな角度から、彼らを知ることがこのブロブの目的なので、繰り返しもありです。
(つづく )
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小分けなので分かりやすいかもです
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