続き。

 

 

< 重なる場所 >
 

饒速日命と神功皇后。

彼が高良(住吉)神ならば、二人の「場所と時代」は重なる。


まずは場所。
その一つが、福岡県那珂川市。
 

現人神社の存在(住吉神の元宮)*1
住吉神=高良神=饒速日命

裂田溝と裂田神社(神功皇后と武内宿禰の伝承地)。*2

(「裂田溝と裂田神社」の記事)
神秘書では、高良(住吉)神は物部保連と名乗り、人の姿で神功皇后と共にある。

(武内宿禰と同一か、一緒くたになってるかは不明。)
裂田溝は、神功皇后が住吉の神の為に造った水路(ここに二人で住んでいたから造ったのでは?)。

「猫嶺城」の存在。*3
後に、高良の神が若い頃に住んでいたという「猫城(猫嶺城)」を那珂川で発見。
(「那珂川は饒速日命(天照・住吉・高良の神)の生誕地」の記事)←ココログの記事

高良の神は、国の根っ子を造った神として、根子神、猫神としても祀られる。
(記述を見たのは「筑前国風土記」)


伏見神社。御祭神は、神功皇后の妹とされる豊姫。(「伏見神社の磯羅舞」の記事)*4
この町には、高良の伝承の4柱が祀られている。
(表筒男と底筒男、神功皇后と、豊姫)豊姫は神功皇后と同一か、一緒くたになってる。


(日吉神社。この時のパワーが凄かった!
いつもは普通^^)


日吉神社の存在(日吉大社の元宮の一つ)*5
猿田彦(=饒速日命)の発祥の地ともされる(日吉神社の記事
発祥ということは、「生まれた地」か?


☆イザナギ神の禊の地<筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原>の地形と地名がある。*6

岩戸郷という旧地名(今は地区名が岩戸)。*7

*1 現人神社は、住吉神の元宮。
*2 裂田溝などの、神功皇后、武内宿禰

*3 猫嶺城の高良大神
*4 伏見神社の豊姫(同一か一緒くたになってるか)

*5 日吉神社は、日吉大社の元宮の一つ。
天孫降臨の時の猿田彦神、天鈿女(アメノウズメ)

最澄さんがここから日吉大社へ勧請したのは、猿田彦神でもある、大己貴神
詳しくは、「結びの山 その19」へ
 

*6 神話の「伊邪那岐の禊」で現れた神は、

天照、住吉神、月神、宗像三神(市杵島姫命)など。
*7 岩戸の神話で、上の神の他に瀬織津姫など。

上記の神、すべて、饒速日命、御炊屋姫(神功皇后)が名を替えた神。(分霊)

 

この地で神話が生まれたのだ。
神話やこれらの伝承は、彼らがこの地で共に過ごしたから創作されたもの。
 

何より、ここには「現人神社」がある。
住吉神が饒速日命であり、天照神ならば、「神話」は必然。



( 現人神社 )

ここには「納得できる」神話の名残がある。
決して、神々しい風景とは言えませんが。
これらの社に訪れた時、必ず分かるはず。

 

彼らが生きた証が、感じられるのだ。


           *


< 奈良の神功皇后の伝承地 >
 

もう一つが、奈良の登美の地。

「彼ら」と重なる。


下の地図の緑の線の内側が、古代登美族の地だと思われる。
下の画像は、次回にもリンクを載せる「饒速日命を求めて ⑧ ~天ノ鳥船の時代 前編~」より。
饒速日命の別名は、登美饒速日命。
御炊屋姫の別名は、登美夜毘売。

饒速日は、彼女(登美族)の入り婿になったという伝承がある。

 

紫色の丸で囲った周辺が「矢田丘陵」の地。
ここに饒速日命と御炊屋姫を祀る「矢田坐久志玉彦神社」がある。


行って初めて分かったのだが、古代の登美の地は広い。
 

 

右上の「3」の紫印が平城で「神功皇后の御陵(五社神古墳)」のある地。
そのすぐ側に今の私は住んでいた。
その辺りも「登美」と言われていたそう。
今でも「登美ヶ丘」という地名がある。

 

三炊屋姫の「登美一族」の地は奈良盆地の北西の大部分を占めていたのかもしれない。
推測ですが、緑の線で囲った線の内側。
(南の方はどこまでか分からない)

 

 

☆登美の地の神功皇后と饒速日命 
 

☆上記にもありますが、3は神功皇后の御陵さん。
ここから西に、「饒速日命と御炊屋姫」が暮らしていたという伝承がある登美ヶ丘がある。


忍熊皇子社と、忍熊皇子、籠坂皇子の墓。
神功皇后が誅殺した義理の皇子です。

登美ヶ丘のすぐ手前にそれがある押熊町、北、京都との境に神功町がある。
小学校の校区だったので、押熊町の名を何度も聞いていた。

奈良ではもう一カ所。

☆磐余若桜宮。
桜井市にある神功皇后が住んでいたという地。
(候補地は二カ所あるが分からない)ここで崩御したそう。
桜井の名の由来でもある地、先日行った、等彌神社の側。

(御祭神は、天照皇大宮・実際は饒速日命
 

奈良での神功皇后の伝承は、この二カ所しかない。
(しかもその二カ所とも、饒速日命と関わりがある地)

平和だったから?
筑紫(福岡)では、歩き回る度に、神社や伝承ができた彼女の「足跡」がない?

彼らは以後、奈良で暮らした形跡はみえないのだ。
何より、神功皇后は、奈良の山に登っていない。


「山に登る」

それは、神に逢う行為と等しいこと。
山に神がおられるからだ。
また、それは土地の守りを強める神事。

しないことは、あり得ない。

筑紫ではあんなに登っていたのに。


 

「彼女たち」は、筑紫から大和へ戻った後、再び筑紫へ行ったのではないかと考えている。
ここには、そう長くはいなかったのでは、と。

 

 

( つづく )