続きです。
「古代奈良」の夢の中、奈良盆地には巨大な湖があった。
それは、現実でも実際にあったのだ。
私はその夢の中で「アマノトリフネ」を見た。
あの時代はいつだったのか、それを知りたかった。
あの湖の状態から、時代が特定できないだろうか?
今回の旅はその手掛かりを掴むためでもあった。
大阪の新石切駅から生駒山を越えて矢田丘陵へ、更に九条駅まで。
YAMAPの軌跡には、ルートの標高も記録される。
標高が分かれば、どの辺りまで水があったか分かる。
標高
彼らが過ごしたのは、矢田丘陵。
その辺りの標高は?
古代、今よりもずっと海面が高い(おそらく5mほど)ので、このごく近くまで海だったのかもしれない。(以下、通ったルートの標高)
*生駒山は標高641m。
*山を越えた、最初の谷は生駒山の麓の地域が標高100mくらい。(一番深い地点、生駒市有里町)
*次の山が矢田の山。
一番高い場所が標高250mくらい。
*矢田丘陵(16.9kmと書いてある周辺)、標高90mほど。
*ゴールの九条駅の辺りは60m程になる。
奈良盆地は、(盆地なので)全体的に大阪側より標高がある。
知りたかった矢田丘陵「三之矢塚」は標高90m程の地点にあった。
ちょうどスクショしていた。
図2の画像の青い点の場所は、奈良県奈良市石木町
前回の「登弥神社」の側になる。
ここで90m。
矢田丘陵はここよりほんの少し(数メートル)高い場所にあったので、90m以上の地点に間違いない。
登美の地
彼らは登美族であり、「登美」にいた。
では、その場所は陸地であっただろう。
その範囲はどこか。
図3は「饒速日を求めて ① ~生駒越え~ 23.5キロ」にもある私が歩いた軌跡(薄い水色)。
左側の濃い緑が生駒山山系。
「1」の数字の左下の紫の印(見にくいですが)が生駒山山頂。(左上)
生駒山山系の東(右)に連なる緑が「矢田の山」。
紫で囲った部分が「矢田丘陵」。
中の二つの紫印の内、上が「三之矢塚」。
下の紫印が「矢田坐久志玉彦神社」。
右上の「3」の紫印が平城で「神功皇后の御陵(五社神古墳)」のある地。
そのすぐ側に今の私は住んでいた。
昔は、この辺りも「登美」だったという。
今でも「登美ヶ丘」という地名がある。
だから、御炊屋姫の「登美一族」の地は奈良盆地の北西の大部分を占めていたのかもしれない。
推測だが、緑の線で囲った線の内側。
(南の方はどこまでか分からない)
また、薄い水色に塗った中の低い土地はすべて湖だと思われる。
大体、上記のような感じ。
下は奈良盆地全体の図。
「1」の紫に囲ったのが矢田丘陵。
緑の線の西側が登美の里(推測)。
図4 地図はYAMAP
記憶の湖
湖の南端はその辺りまできていた。
図4 の「3」が三輪山。
右下にある三つの山が大和三山。
北にある「2」の側の山が耳成山。
この場面を見た時、耳成山が南南西(から南寄りかな)にあった。
これは「アマノトリフネ」と違う場面。
(時間的に前後かは分からない)
北の端は分からない。
でも当時から登美と言われる地域は陸なので、近鉄の東西線よりは南であったことは確かだろう。
*
「前世の古代の夢」にあった巨大な奈良の湖。
これが「あの時代」を特定してくれた。
( つづく )