読書記録 2014年(2) | れぽれろのブログ

れぽれろのブログ

美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

最近読んだ本に対する覚書。
「読書メーター」に投稿した内容と感想、及び本に対するコメントです。
(コメントは一部本の内容とは関係のない、好き勝手なお喋りです。)


---

■ギリシャ正教/高橋保行 (講談社学術文庫)

<内容・感想> ※読書メーターより
東のキリスト教であるギリシャ正教の歴史・習慣・思想についてまとめられた本。
正教はビザンツ帝国を経てその後帝政ロシアにもたらされます。
ドストエフスキーの著作にも、正教の考え方が色濃く表れているのだそうです。
正教のポイント。
西欧のような政教分離ではなく、ビザンチンハーモニーと呼ばれる政教の一元化。
信仰と理性の分離ではなく、信仰と理性の一体化。
西欧的な原罪論や予定説はなく、死後の復活を信じた現世での信仰生活が
重要視されます。
カトリック・プロテスタントとは一味違う、キリスト教の見方が変わる本です。

<コメント>
原始キリスト教はユダヤ教の一分派です。
イエスはユダヤ的戒律を否定し、隣人愛を説きます。
時代を経て、ローマ帝国はキリスト教を国教化。
後にローマは東西に分裂し、西ローマ帝国は滅亡、
政治権力はゲルマンの諸王に委ねられます。
以降、西のローマカトリックは政治に(形式的には)直接関与せず、
「政治を行う世俗の王」と「心を管轄するローマカトリック」という
政教分離の考え方を生みます。
16世紀以降、宗教改革によりプロテスタントが登場、
キリスト教の力点がコミュニティ的なものからよりパーソナルなものに移り、
予定説であるとか、悔悛をやたらと強調するだとか、
独特の考え方に変化して行きます。
このようなプロテスタントの理念は、とくに現代アメリカ社会に
強く受け継がれています。
以上が西欧のキリスト教についての自分のざっくりとした知識。

この本を読んで、東ローマ帝国以降の東欧のギリシャ正教は、
西のキリスト教と比較して、より原始キリスト教に近いのではないかという
印象を受けました。
政治と宗教が分離し、宗教が個人化・内面化していった西のキリスト教と異なり、
政治と宗教の調和を理想とするギリシャ正教。
近代においては政教分離は重要(逆に言うと国家と宗教の一体化は危険)だと
思いますが、コミュニティが希薄になった現在は、パーソナルな宗教よリも
コミュニティを形成しやすい宗教の方が現代的なのではないか、
このあたりにギリシャ正教の現代的な意義があるのかも、などと考えました。

もう一つ、ギリシャ正教に原罪という考え方がないというのは驚きました。
原罪=人間の必謬性という考え方は、近代社会ではたいへん重要です。
人間は必ず間違える、政治は必ず間違える、
「間違えることもある」ではなく「必ず間違える」、なので、
政治的決定には不断の修正が必要、これが近代政治の考え方のベースです。
このような考え方なくしてのビザンチンハーモニーは、
近代国家として捉えた場合は、かなり問題がありそうです。
ギリシャ正教、カトリック、プロテスタント、
それぞれの現代的意義を考えてみるのも重要なのではないかと考えました。

<関連記事>
・人間の境界 → 
人間の必謬性(=原罪)、人間の決定は必ず間違える、間違えるが
それでも決定しなければならない・・・
ということをあれこれ書いた記事。


---

■セメント樽の中の手紙/葉山嘉樹 (角川文庫)

<内容・感想> ※読書メーターより
別短編集で読んだ「淫売婦」が面白かったので読んでみました。
プロレタリア文学というと何やら観念的で、
もっともらしい正論が並べられているような印象がありましたが、葉山嘉樹は
意外とそうではなく、プロットや着想の点で小説として面白く読めました。
表題作や「淫売婦」が有名で面白く、
かつプロレタリア文学らしい告発の意図が込められた作品なのだと思います。
しかし、労働者家族の群像と大自然の猛威の対比が印象的な「濁流」や、
死に囚われた男のモノローグである「氷雨」などの、
弾圧&転向時代以降の作品のやるせなさも印象に残ります。

<コメント>
葉山嘉樹の作品は、社会的告発の意図と、お話としての面白さが
程よく混在しており、意外と楽しく読めました。
表題作「セメント樽の中の手紙」や、「淫売婦」の始まり方など、
ある種の恐怖小説のようで、ホラーっぽい作品としても楽しめます。
「死屍を食う男」、これなんかホラーっぽいというより、
むしろただのホラーです(笑)。
このようなエンターテインメント的な作品が突然出てくるのも面白いです。

「濁流」は天竜川で働く労働者の群像が描かれ、
それぞれの労働者の生活と悩みが描写されますが、
天竜川が暴れ洪水が起こると、彼らの生活も悩みもすべておじゃんになる。
なんとなくP・T・アンダーソンの映画「マグノリア」なんかを思い出しました。
「氷雨」のやるせなさ、これも最晩年の芥川龍之介のような雰囲気があります。
(芥川ほど狂気的ではないですが。)

30年代のプロレタリア運動の弾圧と挫折の経験は、
インテリが政治に関わろうとして挫折していくプロセスです。
自分はこの経験が、歴史の上で結構あとあとまで尾を引いているのではないかと
考えています。
そういう意味からも、他のプロレタリア作品も機会があればまた
読んでみようと思います。

<関連記事>
・葉山嘉樹「淫売婦」の感想(下の方) → 
・葉山嘉樹も登場する「昭和モダン 絵画と文学」の展示の感想 → 
・中澤俊輔「治安維持法」の感想 → 


---

■日本写真史/鳥原学 (中公新書)

<内容・感想> ※読書メーターより
(上巻)
幕末から高度成長期までの日本の写真の歴史をまとめた一冊。
維新以降の時代の変化、写真の技術的な進展に伴い、
記録写真・前衛写真・プロパガンダ・リアリズム写真・広告・主観的な写真等々、
写真の在り方も変わっていきます。
自分は美術としての写真が好きなので、有名な写真家たち、
木村伊兵衛・土門拳・植田正治・東松照明・森山大道といった人たちが
写真史上にどのように登場するのかを追いながら、楽しく読むことができました。
かなり多数の写真家の名前が並んでおり、知らない作家の作品についても
興味が湧いてきました。

(下巻)
日本の写真の歴史、下巻は70年代後半から現在まで。
写真雑誌の増加、スキャンダリズム・盗撮・ヘアヌードの登場、
写真の低価格化・大衆化が進み、デジカメ・プリクラ・カメラ付携帯が
身近になります。
一方で写真が現代美術の中に位置付けられ、美術館による写真展が増加し、
写真美術館が新設され、その中で日本の芸術写真家が
海外でも評価されるようになります。
個人的に面白いと思う杉本博司・森村泰昌・オノデラユキ・
やなぎみわ・志賀理江子なども登場。
そして311の経験。
最後に抜粋されている志賀理江子さんのコメントが印象的です。

<コメント>
この本を買ったきっかけは、下巻のオビの写真が
やなぎみわさんの作品だったから、元々は単にそれだけの理由です(笑)。

自分はいわゆる現代美術としての写真作品が好きです。
土門拳や木村伊兵衛の展示は何度か見に行ったことがありますし、
植田正治写真美術館にも行ったことがあります。
この本に登場する作家さんの特集展示では
・オノデラユキ写真展/国立国際美術館
・杉本博司 歴史の歴史/国立国際美術館
・やなぎみわ 婆々娘々!/国立国際美術館
・森村泰昌 なにものかへのレクイエム/兵庫県立美術館
・オン・ザ・ロード 森山大道写真展/国立国際美術館
・幻のモダニスト 写真家堀野正雄の世界/東京都写真美術館
このあたりがとくに印象に残っています。
この他にも、細江英公、内藤正敏、東松照明、須田一政、牛腸茂雄、宮本隆司、
畠山直哉、米田知子、志賀理江子、
このあたりも実際に作品を見てすごく印象に残っている作家さんです。
なので、これらの作家さんが歴史の中にどのように登場するのかを追いながら
楽しく読むことができました。

この本は上記のような美術としての写真だけではなく、
写真全般に対しての広範な歴史が纏められており、情報量の多い本です。
時には撮影者の意図を超えて、後の世代の鑑賞者に
様々な感慨を与えていく写真たち。
全体を通して、やっぱり写真っていいなという素朴な感想を抱きました。

<関連記事>
・木村伊兵衛展の感想 → 
・植田正治写真美術館への旅の記録 → 
・国立国際美術館の写真コレクション展に対する感想 → 
・シンポジウム「写真の誘惑-視線の行方」の感想 → 
・「内臓感覚」の展示感想(最後に志賀理江子さんが登場) →