次の日は昼まで寝てやろうとしこたま呑んで深夜に帰宅したその時、仲の良い先生から代ゼミは明日から新学期が始まるけどそちらはどうだい、というメールがやってきた。
翌朝、2限が始まったぐらいの時間に湯がいたたけのこの皮を剥きながら、ああ自分は代ゼミを辞めたのだと初めて全身で理解した。
よりどころ。ヨリドコロ。拠り所。拠。英語で言えばbelongingなのかなあ。
「うちの予備校は」という言い方をきっといつまでもし続けるのだろうなと思っていた、若干期待もしていたのだけど、そんなのは数日間だけのことだった。今では「前職の予備校では」という言葉がウナギみたいにぬるりと滑らかに、何の力みもなく口から出てくる。ドワンゴをうちと呼ぶ日ももう間もなくだろう。うち。ウチ。家。内。
土地に対するつながりに比するに、環境に対するつながりや愛着のはかなさやいかに。ただ私が薄情なだけなのだろうか。
人は土地とは見えない糸で結ばれている。日本まるごと自分の遊び場、骨になっても旅をしたいから墓はいらないという私のような放蕩人間でも、故郷大宮には抜きがたい安心感をいくぶんかは感じる。人は土地には戻ってくる。それが南三陸だろうが石巻だろうが浪江だろうが熊本だろうが広島だろうがチェルノブイリだろうが同じことだ。この動きを止めることは誰にもできない。止める権利は誰にもない。
belongingはどっちを指すのだろうかとかふと考えてみる。土地とのつながりなのだろうか。それとも環境とのつながりなのだろうか。belongの語源を私は寡聞にして知らないのだが、ちょっと調べてみたらbe a part for a long time「長い間一部分である」の略形だ、という喉にとりのこされた粉薬みたいなどうにも腑に落ちない解説に出会った。
ここは素直にbe+longing「切望している」でいいんじゃないかな。そりゃ元の動詞belongが動詞beと動詞longの足し算なんてことはあり得ない。それはわかってる。でも妄想は自由だ。切望している、待ち焦がれている、ということはbelongingは土地としてのよりどころではなく環境、人としてのよりどころ、なのかな。
高橋優の「旅人」の一節をふと思い出した。「人は帰るべき故郷を 探しつづける旅人」…この「故郷」は土地ではなく人。「君のこと 今もこの町のどこかで待っている人がいる」いい曲だ。
私のbelongingはどこにあるのだろう。いつか見つかるのだろうか。まあそんなものなくてもいいやとか強がってはみるものの、どれだけ皮を剥いても出てこないタケノコの本体にようやくたどりついた私は、妙に安心していた。全部皮なんじゃなかろうかと、剥きながらちょっと不安だった。