独航録 ~ 中久喜 匠太郎

N予備校英語講師中久喜の多少真面目なブログです。N予備校向けのものはこちらです→ http://n-nakakuki.hatenablog.com/

【著書案内】


KADOKAWAより著書「魔法の英文読解ノート」が刊行されました。

英文の「読み方」を体系的、網羅的に伝授すべく、2014年の大半を費やして誠心誠意執筆した自信作です。

大学受験生、高校生のみならず、TOEICなど英文読解を必要とする大学生、社会人の方々にも読んでいただける内容になっています。

お近くの書店、ネット書店でお買い求めいただけます。

ぜひご一読ください。


↓出版社のサイトです

http://www.chukei.co.jp/study/detail.php?id=9784046009166




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尊敬する映画監督森達也氏の「FAKE」をようやく見に行きました。騒動後の佐村河内守氏に密着したドキュメント映画です。
 
5月に安田講堂で行われた水俣病の講演会に森監督の講演を聴きに行って、その場でこの映画がまもなく公開されることがアナウンスされていたのでずいぶん前から存在は知ってはいた。けれど生来の天邪鬼がここでも豪快に首をもたげて、「FAKE」公開後しばらくは森監督の前作「A」「A2」のDVDを何度も見直すという謎の時期を経て、ようやく心の準備が整ったので、今日見に行ってまいりました。
 
ちなみに「A」「A2」はオウム真理教の事件後の若い信者たちに密着した、日本のドキュメンタリー史に燦然と輝く名作です。見られる側から見た世界。個人的には「FAKE」より「A」「A2」をまず見てもらいたいと思う。何故かというと、「A」「A2」のほうがわかりやすいから。つまり「FAKE」はわからないから。でもその「わからなさ」こそが森監督が一番伝えたかったことなのだと個人的には思う。
 
「暗喩が通じない世界」「善か悪かの二元論に傾倒して、わかりづらいことを嫌う国になった」…5月の講演の時に「何故しばらく映画を撮っていなかったのか」という問いに対して森監督はこういう言葉で答えた。
 
結論にいたるスピードが重視される社会、またはパン喰い競争みたいに結論はもうそこにぶらさがっていてそれを拾うまでのスピードが重視される社会。そういうことを言いたいのではないかと私は解釈した。結論はあるものではない。つくるものだ。
 
信じることは難しい。愛するよりたぶんずっと難しい。そもそも難しいところに私達の脳のキャパシティをはるかに超える量の情報が日々流れ込んでいる。だから結局自分の信じたいものしか信じなくなる。それに沿わない情報に出会うと自動的に耳にフタが生える。賛成か反対か、善か悪か、という両極端に逃げ込む。そして信じるという言葉も行為も陳腐なものになる。「両極は概念であって、実在はしない。」森監督はこう断言していた。
 
私は年に数回福島浜通りの写真撮影を続けているが、原発について賛成か反対かと問われたら自信をもって「わからない」と答える。行けば行くほど、知れば知るほどわからなくなる。月は原始地球に大きな小惑星が衝突してできたという説が正しいかどうかと問われたら自信をもって「わからない」と答える。読めば読むほどわからなくなる。
 
信じるってのはジャンプすることだ。そのジャンプは勇気でもあるし放棄でもある。
 
 
 
 
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皆さまにご報告です

私が在籍するN高校の課外授業「大学進学授業」が今週木曜日、7月14日午前10時より「N予備校」としてついに独立します。

ごく簡単に申し上げます。全授業の無料一般公開を開始いたします。「N予備校」のアプリさえDLしていただければ世界中の誰もがどこでも私達のコンテンツをお楽しみいだたけるようになります。

ドワンゴのスタッフ・エンジニアの方々と私達講師陣が一丸となって紡ぎあげてきた新しい未来を、ついに世に問うことができるようになりました。

やってみせます。動かしてみせます。閉塞と停滞の著しい教育の世界を変えてみせます。いつまでも進化を続けるシステムとどこまでも熱い講師陣の力で。

ニコニコ動画からも完全に独立します。私達講師の本気の授業、スタッフ・エンジニアの方々の本気の取り組みが誰でも無料でご覧いただけるようになります。

私達が提案する新しい教育のありかた、さらに言えば、ネット時代の中での新しい人間関係のありかたを、一人でも多くの人にお楽しみいだたきたいと思います。

写真は先週金曜日の私の授業です。最後に時間をいただいて僭越ながら私が「N予備校独立発表」をさせていただいたのですが、発表の瞬間ニコニコ動画が拍手の弾幕になりました。こんな経験はもうできないのではないかと思い、調子に乗ってスクショしました笑

この皆さまからの大きな期待に応えられるようにスタッフ・エンジニア・講師一同これからもどこまでも努力を続けていきます。どうぞN予備校のこれからにご期待ください!!!!




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twitterだけは手を出さない!と誓っていたのですが、ネット・ICT教育に関わるようになってさすがにそれもいかがなものかと考え直して、重い腰を上げてアカウント作りました。

https://twitter.com/n_nakakuki

といってもあまりtwitterらしい使い方はしないと思います。主に生徒の皆さんへの連絡・メッセージ用としていろいろ発信していく予定です。
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明日行われる私のN高校大学進学授業が、ニコニコ動画で視聴いただけることになりました!!

N高オープンキャンパス「大学受験英語 英文読解」公開課外授業(7/1 17:00~18:30)

http://live.nicovideo.jp/watch/lv268041029


ニコニコ動画のアカウントがあれば視聴はもちろん、コメントも流していただけます。(私が授業中に拾うかどうかは別ですが笑)アカウントがなくても視聴はできるかもしれないです。

また、ニコニコ生放送とN高の課外授業システム「N予備校」のアプリをダウンロードしてログインしていだければ、この公開授業中の全ての双方向イベント(クイズ・添削など)に参加いただけます。DL先は上記リンクのページ下部にあります。

ドワンゴのスタッフ・エンジニアの方々と我々講師陣が一丸になって創り上げてきた新しい教育の形、ぜひとも一人でも多くの方々に見ていただきたいと思います。
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のんびり歩く二人組の警官を近所で最近よく見かけるなあと思っていたのだけど、ああなるほど伊勢志摩サミットの警備のためなのだな、と今日になってやっと気がついた。

この間見た二人組は世間話しながら、別の二人組は自販機でジュース買いながら、今日見た二人にいたっては雑貨屋の前で立ち止まり商品を食い入るように見つめてうれしそうに談笑していた。どんな話してるんだろうかと聞き耳立てながらしばらく尾行してみたのだけど、家とは反対の方向にのったりと曲がって歩いていったのであきらめて家に帰った。

警官を責めたいのではない。というか責められるいわれなんぞ警官にはない。汚い下町の飲み屋街を狙う奇特なテロリストなんて皆無だということは私を含む全区民が承知している。仮に爆弾テロの標的になったところでオバマはおろかジンバブエの大統領だって1ミリも困りはしない。行きつけの呑み屋が破壊されたこの界隈の酔っ払い(私含む)が困るだけだ。そういう意味ではテロというよりは兵糧攻めに近い。

まとめると。私の街は平和そのものだ。これを書いているまさに今、どこかでサラリーマン的な声の数名が万歳三唱をしている。平和なのです。はるか遠くで行われているサミットは肌感覚としては現実ではないのかもしれない。空間の中の現実の歪みというかなんというか。

「戦時中といっても大半は暇だった」という旨のことを安吾は何かの本で書いていた。確かにそうだ。「戦時中」という言葉からどうしても後の世の私たちは日々徴兵と徴用を受け、戦火と空襲に追われ逃げ惑う人々の姿を思い浮かべてしまう。けど365日四六時中そうだったわけではなさそうだ。時間が歪ませた現実というかなんというか。

現実って何なのかっていう定義の問題はめんどくさそうだし答えが出なさそうだから首を突っ込まずにおくけど、ひとはこの現実なるものを誤認しやすいというか誤認したがる動物なんだろうなあ。

自分が現実だと感じるものを現実と感じたがって、痛むことのできる痛みだけを痛んで、それがどんなに改悪されつつある歴史であっても、歴史イコール過去であると思いたがって。

大好きな作家が使っていた「膚接(ふせつ)」という言葉がそれ以来私の頭から離れない。安っぽく言い換えれば肌感覚、なのかなあ。自分の肌感覚は他の誰かから押しつけられるものではない。他の誰かの肌感覚は私達が押しつけるものではない。

警官の尾行を終えて家に帰ったら、見覚えのある国家元首達がテレビのニュースにずらり勢ぞろいしていた。そんな7つの作り笑顔なんてそっちのけで、私はうれしそうな警官の姿を思い出してにやにやしていた。膚接。いい言葉だなあ。





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夕方に石神井川添いをジョギングしていたら茂みの中からぬるりとヘビが登場して、目の前を悠然と横断しはじめた。そのヘビの予想進路とこちらの右足の着地予想地点が完全に一致したもんだからたまったもんじゃない。寸前に左足でクリボーを必死によけるマリオみたいなジャンプをしてヘビを飛び越えて、家までBダッシュで一目散に逃げていった。

いろいろ新鮮だった。飛び越えられたことも、そのヘビがマムシではなくアオダイショウだと意外に冷静に判断していたことも、ヘビにビビるなんていう昭和な体験を久しぶりにできたことも、そうか5月の中旬というのはそういう季節なのかと体感できたことも。

まともに仕事を始めてからというもの私は季節を肌で感じたことがほとんどない。最高気温38度の真夏だって冷房の効いた教室の中なら快適なことこの上ないし、雪の降る朝だって電車に乗ってしまえばおじさん達(自分含む)の湿った熱気で夏ではないかと錯覚できる。

特にここ15年間は季節の変化に気づくことさえなかったような気がする。春夏秋冬なんていう時と風景のなだらかな変化を線的に優雅に示す言葉とはまるで無縁だった。川の石を順番に飛んで対岸に渡るみたいに、私の一年は春→真夏→真冬だった。「変化」ではない。点としての「移動」でしかなかった。ちょっと川の水に足をつけてみようとか、たまにゃ泳いでみようとか、週20コマ講義を持っているとそんな余裕はなかった。

そんな生活とは正反対の日々を送り始めてまだ2ヵ月足らず。季節の変化に一日単位で触れられることがうれしくてしかたない。

昔から石神井川は私のお気に入りの散歩・ジョギング・徘徊コースだ。が、昔はどちらかと言えば逃避先、非日常だった。たまにゃ走らないと太るわと思い立って走りに行ったり、山のような原稿をたくわえたパソコンの前から離れたくて夢遊病者みたいにふらふら歩いたり、そんな場所だった。

今はすっかり生活の一部だ。毎日のように歩くか走るかしている。スピードの差はあれ同じ風景に毎日触れているといろいろ新しい発見がある。川をおとずれる鳥の種類が4月のはじめからだいぶ変わってきたとか、新緑は本当に良い香りがするんだとか、虫は夕方よりも朝のほうが少ないとか、走っていってもエサに夢中のハトは寸前までどいてくれないとか。紅葉していない緑色のモミジを目にして、ほうモミジは春でも生えているのか、なんていうアホな発見に大喜びしたのは先々週ぐらいだったか。

変化していく自然の一部としての人間。そういう立場に自分を置くことができることにはどこまでも感謝しなければいけない。

「自」に対する「他」は人間であると無意識に限定し、そこから自然を無意識に排除していた、そんなエゴももうすぐ洗い流されるかもしれない。私⇔他人。私⇔自然。私が見る自然。自然が見る私。

千葉県の大原海岸をぶらりと訪れて、抜群の居酒屋嗅覚を駆使して発見した名店で大将と話しながら地酒と地魚をたらふくいただいたその帰り道。暮れた夕陽のわずかな残り火を浴びて水田がほのかに輝いていた。植えられたばかりの苗たちが風を受けてさわさわとやわらかい合唱を続ける。そうかこうやって時は紡がれていくのかと、酔った体全体でおもいっきり深呼吸してみた。



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嫌いな言葉は?と問われたら私は「親友」と即答する。理由を述べないと確実に「中久喜は親友いないらしいよwww」「ひがみかよww」となるだろうから理由も言う。「友」に失礼極まりない言葉だからだ。


選ばれなかった人、もの、ことに対する視線とか、選ばれなかった人、もの、ことから見た視線。それが大切なのだというのは頭ではわかっていても、無理やり暗記させられた道徳の教科書みたいに、意外と実践できていない。その大切さを声高に語ればほんのり偽善が香り出す。


だから実践するしかないのだけど、やはり難しい。誰だって無意識にひなたに目が向くし、かわいい子は目で追うし(おい)、マジョリティの中にいれば安心するものだ。


写真のハウツー本には決まって「花の撮り方」のコツが載っているのだけど、だいたいは「良い光が当たっている花を選ぶ」「背景が整理されている花を選ぶ」「中心に置かない」などなど。撮り始めの頃はなるほどなるほどと得心してそれを忠実に守って撮っていたけれど、疑問はすぐにわいてきた。泥だらけの日陰の地面に落っこちて朽ちかけていても、花であることには変わりはないはずだ。


無意識の選別。差別との差はわずかでしかない。


3月の終わりに長年お世話になった代ゼミのある校舎に挨拶をしようと気楽に顔を出したら、ある職員さんに「よもや先生が代ゼミを棄てるとは思ってもいませんでした…」と慨嘆されて、私ははっとした。そんなつもりは全くなかった。私はドワンゴを選んだと思っていた。代ゼミを棄てたなどとは毫も思っていなかった。もちろんそれが表裏一体だということは頭ではわかっていたけれど、表ばかりを見ていて、裏側を慮ったことは移籍が決まってからただの一度もなかった。この時ばかりは自分の浅慮さに心から恥じ入った。カサコソと軽薄な音を立てて、私は校舎を逃げるように後にした。普段は温厚な職員さんの怒りが隠しきれないその言葉を、私は一生忘れることはない。


選ぶというのは本当に残酷な行為だ。棄てているんだから。


無意識に何かを選びとり、無意識に何かを棄てている。


そりゃ全部を選ぶことなんでできるわけはない。服だって記憶だって時には人だって棄てなければならない場合なんて生きてりゃいくらでもある。


でもだからこそ、選ぶことから離れて生きていくことができないからこそ、その重みは感じていなければと思う。


ほらこうやって言葉にすればするほど偽善臭くなってくる。だから私は明日もカメラかかえて地面ばかり見て歩くことにする。






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たまには早起きしてやろうと5時に起きたはいいものの、慣れないことはするもんじゃない。7時に仕事しながら失神同然に寝落ちして、気づいた時には12時を回っていた。


早起きは三文の得とか言ったやつは誰だ。嘘つきは泥棒の始まりだ。


極端に走りたがる自分がいけないのはわかっている。5時起きなんて人生初じゃなかろうか。昼前に起きる生活が続いている中でそんな人生初のトライを試みるに至った自分の思考回路は、ようやく覚醒してきた今でもよくわかっていない。


毎日遅くに起きる生活にさすがに人間としての危機感を覚えていた一昨日、神のおぼしめしか何かのように朝8時に目が覚めた。久しぶりに浴びる朝日に導かれるように石神井川沿いを散歩した。いつもならば夕方、花という花を落として恨めし気に川面にうなだれる桜の木々と時折待ち構えている柱のような羽虫の群れの中を逃げるように歩くのだが、同じ道を歩いているとは思えないほど川も新緑も美しかった。カフェでモーニングなどという酔っ払いにはまるで縁のない偉業までやってのけて、人間としての地位を多少は回復できた気がした。


早起きはいいものだ。心の底からそう得心した。


そこまではいい。そこから何故5時に起きるという発想になるのか、誰か教えてほしい。


90分授業×24コマ/週の生活を卒業した私が今送っているこんな日々は、平和とニートの中間ぐらいのランクだろう。ややニートに寄っている。


新規事業とはいうものの今は授業の数もごくわずかで、基本的には家で種々の原稿をこなす日々だ。ただ私は筆の速さには自信があるので、その結果時間はたっぷり残る。それで5時起きでもしてみたくなったのだろうか。いや、飛躍にもほどがある。


もちろんこういう生活を自分で選択したのだから何の不満もないのだが、やはりいくぶんかのダメージを伴う。それを列挙してみよう。


・平日昼間に寝癖&汚いジャージで朝飯を喰いに行く自分の姿を客観視してみた。残念の極みだ。最近はジャージはやめた。次の目標は自炊。


・マンションの中で同じおばあちゃんに1日で3回会った。私へのあいさつと視線に込められたメッセージが「親しみ→疑念→あわれみ」と変化していった。おばあちゃん、これでも一応仕事はしてます。わかってください。


・宅急便の事務所が近所にあるので届け物はいつも朝一番9時に来るのだが、これまでは「いないから受け取れなかった」のが今は「起きられないから受け取れない」に変わった。それが宅急便にもばれたらしく、最近は昼前に来るようになった。


何よりも、平日夕方にこんな益体もない文をしたためて公開して、日々忙しいあなたから数分の時間を奪ったことがだめすぎる。というわけで退散します。またひきこもります。





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次の日は昼まで寝てやろうとしこたま呑んで深夜に帰宅したその時、仲の良い先生から代ゼミは明日から新学期が始まるけどそちらはどうだい、というメールがやってきた。


翌朝、2限が始まったぐらいの時間に湯がいたたけのこの皮を剥きながら、ああ自分は代ゼミを辞めたのだと初めて全身で理解した。


よりどころ。ヨリドコロ。拠り所。拠。英語で言えばbelongingなのかなあ。


「うちの予備校は」という言い方をきっといつまでもし続けるのだろうなと思っていた、若干期待もしていたのだけど、そんなのは数日間だけのことだった。今では「前職の予備校では」という言葉がウナギみたいにぬるりと滑らかに、何の力みもなく口から出てくる。ドワンゴをうちと呼ぶ日ももう間もなくだろう。うち。ウチ。家。内。


土地に対するつながりに比するに、環境に対するつながりや愛着のはかなさやいかに。ただ私が薄情なだけなのだろうか。


人は土地とは見えない糸で結ばれている。日本まるごと自分の遊び場、骨になっても旅をしたいから墓はいらないという私のような放蕩人間でも、故郷大宮には抜きがたい安心感をいくぶんかは感じる。人は土地には戻ってくる。それが南三陸だろうが石巻だろうが浪江だろうが熊本だろうが広島だろうがチェルノブイリだろうが同じことだ。この動きを止めることは誰にもできない。止める権利は誰にもない。


belongingはどっちを指すのだろうかとかふと考えてみる。土地とのつながりなのだろうか。それとも環境とのつながりなのだろうか。belongの語源を私は寡聞にして知らないのだが、ちょっと調べてみたらbe a part for a long time「長い間一部分である」の略形だ、という喉にとりのこされた粉薬みたいなどうにも腑に落ちない解説に出会った。


ここは素直にbe+longing「切望している」でいいんじゃないかな。そりゃ元の動詞belongが動詞beと動詞longの足し算なんてことはあり得ない。それはわかってる。でも妄想は自由だ。切望している、待ち焦がれている、ということはbelongingは土地としてのよりどころではなく環境、人としてのよりどころ、なのかな。


高橋優の「旅人」の一節をふと思い出した。「人は帰るべき故郷を 探しつづける旅人」…この「故郷」は土地ではなく人。「君のこと 今もこの町のどこかで待っている人がいる」いい曲だ。


私のbelongingはどこにあるのだろう。いつか見つかるのだろうか。まあそんなものなくてもいいやとか強がってはみるものの、どれだけ皮を剥いても出てこないタケノコの本体にようやくたどりついた私は、妙に安心していた。全部皮なんじゃなかろうかと、剥きながらちょっと不安だった。





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