神経がやられてしまってますから今日から治療始めましょうね。寝間着みたいなしましまシャツの上に白衣を羽織った歯医者に嬉しそうに言われた。
ずいぶん昔に治療した前歯がズキズキ痛むから歯医者に行ったら、このザマだ。こんな忙しいさなかに歯医者通いとは。
安吾の珠玉のエッセイ「不良少年とキリスト」の虜になり、ここ数か月繰り返し読みまくっていたのだけど、そういえばこのエッセイの出だしは「もう十日、歯がいたい」だった。恐るべし、安吾の筆力。心のみならず歯まで動かすとは。
久々の麻酔を打たれて歯をグリグリされた後、しましま歯医者は仮のつめものとして、わしの前歯に白い巨大な雪山をこしらえてその日の治療を終えた。
でかい。目立つ。推定標高数ミリ。反対側の前歯にもまたがる巨大な山が突如出現。しかも、白い。加齢と飲酒でくすみまくったわしの前歯の不浄さを告発するかのような、無垢すぎる白。これは人には見せられない。
そんな日に限って、サテラインの授業が2発あるとは、どこまでもついてない。授業開始前に教壇にあるモニターで、歯がどれくらい目立つかをしきりに確認していた。教壇に向かって歯をむき出しにする講師。いい画だ。
生徒や友人に確認したら、「普通に話している分にはあまりわからないけど、笑ったらはっきりわかる」わしは雪山対策の方針を決定した。「ならば、笑わない。前歯を見せない。」
歯を見せて笑えない。そう決めたのが一週間前。安吾風に言えば、もう七日、笑っていない。
この七日間でわしは口を閉じて笑うワザを手に入れた。口を開けて笑いそうな時はすぐに下を向く鋭敏なレスポンスを手に入れた。それも間に合わない時にはアヒル口にするという超絶技巧を修得した。
そもそも前歯は昔の処置跡があまりきれいではなくてコンプレックスだったのに、ここまできたらもはやタブーの域だ。でも、隠さねばならないという使命感よりもつらいのは、大口開けて笑えない非人間性だ。
たまりかねて私は昨日歯医者に飛び込んだ。しばらく猛烈に忙しくて通院する時間すらない、人前に出る仕事をしている、明日大切な撮影の予定がある、だからとにかくきれいに埋めてくれ、と各所8割増しの理由を早口で訴えた。
歯医者はいやそうな顔をしながら、私の前歯に本気の仕事を施した。
美しい。美しすぎる。こんなにきれいな前歯は数十年ぶりだ。それくらいの仕上がりだ。
「ありがとうございました」わしは心から言った。
歯医者は後ろ姿で応えた。
白衣に透けるしましまシャツが神々しい。
やっと口が開けられる。笑える。大口あけて笑える。
もう二日、笑ってばかりいる。やや前歯を強調気味で。
笑ってばかりいる。笑いたいときに笑える幸せを噛みしめて。