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独航録 ~ N予備校講師 中久喜 匠太郎

N予備校英文読解講師中久喜のちょっと真面目なブログです。
生徒向けのブログはこちらn-nakakuki.seesaa.net/

この期に及んでじたばたしてもどーにもなるもんではない、くらいの達観した気持ちでいてくれるのが理想なんだけど、まあなかなかそうはいかないよね。


というわけで、どうにもこうにも気持ちが高ぶって落ち着かないとか、不安に押し潰されそうで夜も眠れない、というあなたのために。


まず一つ。センター英語は「bestを狙う」べきものではありません。特に、180点から上の得点は正直言って運に左右される部分も大きいです。受験生時代の私は普段から安定して180点はキープできていたのですが、本番は気負いすぎたのか何だかわかりませんが大コケして、全教科中最低の点数をたたき出してしまいました。こういう「worstを避ける」ことを心がけよう。


つまり、ミスはするんです。必ず間違うんだ。自己最高点なんてとれやしないんだ。それぐらい大らかに構えておかないといけない。


特に、第2問のAなんて満点を取ろうとしてはいけない。難しいですよ、あれは。ところがみんなあれを満点とろう!と気負いすぎるから実際の問題を前にしてあたふたして、他の問題にも影響がおよび、それがまた他の問題に…というvicious cycleに陥ってしまうわけです。


というわけで、今年受けたセンター英語模試の中で一番悪かった、できれば、「予想に反して」悪かった模試を引っ張り出して、その時自分がやらかしていたことを振り返ろう。それを明後日やらなければいい。


そして二つ目。もうここまできたら自分におまじないかけるしかないね。というわけでやってみよう。今年一年、自分が勉強してきたテキストを全部引っ張り出して、積んでみよう。どれくらいの高さになりますか。ちなみに、私のオリジナル単科だけでもこれだけの高さになります。




高さ9.9mのジェット機(ブラジル・エンブラエル170。小型のボディに積まれた強力なエンジンで、暴力的な加速を楽しめる。)を遥かに超えるこの高さ。私のテキストだけでもこれだけの高さになるんですよ。「先生、夏期の後半と2学期の後半は同じじゃないですか」「一学期の最後10ページくらいってやってませんよね」そういう内部情報はリークしなくてよろしい。私のテキストだけでもこれだけの高さになるんですよ。他の英語のテキスト全部積んでごらんなさい。軽く成層圏を突破するくらいの高さになるはずです。


それだけの量をあなたはこの一年間こなしてきたのです。その量は今までに読んだ英語テキストの何倍になりますか。そこに、レベルの高さを加味したら実質的には月のうさぎのモチの中に突っ込むくらいの高さになるはずです。


あなたはそれだけの経験を積んできたのです。その経験はあなたを裏切りません。


これだけの質と量を併せ持った英文と今までにどれくらい向き合ったことがありますか。おそらく、今までのどの一年に比べても圧倒的に充実した知的生活を送れてきたはずです。それは、明後日あなたの周囲を取り囲むどの受験生にも絶対に負けることはない。


昔、一橋大に合格できた生徒にこう言われたことがある。「試験中に先生が乗り移ってきた感じになって、すいすい解けました。」英語に限った話ではない。他の教科だってそうだ。あなたにもいろんな講師達が乗り移っているはずです。


そういういろいろな講師達の影、ちょっとアクの強い影を、あなたはシールドとして身に纏って試験会場に乗り込めるのです。こんな贅沢な受験ができるというのに、何に不安を感じる必要があるというんだい。


「影のどれもが濃すぎて体からとれなそうで怖いです」大丈夫、入試が終わってから5万回くらい除霊しよう。「ギャグがすべることに抵抗がなくなったらどうしてくれるんですか」よし、その責任は私が持とう。どんなにギャグがつまらなくても、よく噛む影でも、入試の守り神としてはいい仕事してくれるはずですよ。


代ゼミの最強の講師達が届けてくれたこの一年間の発見と感動と知的興奮を今一度思い出してみればいい。そんな贅沢な経験をできてきたのは、明後日の試験会場となる教室の中でただ一人、あなただけです。


背中を丸めたらその分だけ影も小さくなってしまいます。胸張って、試験会場の門をくぐってください。



この時期の受験生にがんばれなんて言葉をかけることほど無意味かつ無神経なことはないと信じてやまない私は、リアリストらしいような、らしくないような長話をして受験生への応援にかえさせていただければと思う。

 

メンタルブロック。この言葉は出会うタイミングと出会わせてくれた人を間違えていたら、私の心を揺らすどころか鼓膜を震わせることすらもなかったと思う。

 

9月の話になるが、私はとあるロックボーカルのセミナーに出席した。

 

バンドの練習でいつも使っているスタジオがプロのシンガーを招いてセミナーをやるので来ないか、と声をかけてくれた。爆音を奏でるメンバーが勢ぞろいした私のバンドの演奏はたぶん毎回スタジオのフロアに筒抜け。そんな筒抜けたボーカルに期待してのことか不安になってのことか、どちらなのかはわからない。

 

何にせよ私はそのセミナーに参加することにした。

 

講師をしてくれたその人を私はその時まで知らなかった。だが、経歴は圧巻。歌唱はさらに圧巻。セミナー冒頭に「まず、一曲聞いてください」と始めたその歌声は、私がいつも使っているスタジオの同じ機材から出ているとは思えないほどの圧倒的なものだった。カッターで半紙をつかえながら切る幼稚園児と、日本刀で極太の藁苞を一刀のもとに切り落とす武士くらいの違いがあった。

 

はあ、さすがにプロは違うなあ、と舌を巻いていたら、年齢は私のたった一歳上。セミナー後に写真を撮ってもらうために並んでみたら身長は私と全く同じ。体形から察するに体重もたぶん変わらない。ならば俺にもできるはず!というその時湧いた中学生的な闘志を私は今でも大事にしていて、毎日失神しそうになりながら自宅でボイストレーニングに励んでいる。

 

そのセミナーの中で語られた言葉が「メンタルブロック」だ。以下はその話の要約を直接話法で言い換えたものだ。

 

「人は日々の生活の中で持っている能力のごく一部しか使っていません。それは、使っていないのではなくて使わせないように無意識にストップをしてるんです。それがメンタルブロックです。あなた、酒を飲んでいて『これ以上飲んだらやばいな』と思って自制しますよね。それがメンタルブロックです。でも、その自制の線を越えて記憶をなくしたとしても、ちゃんと家に帰ってますよね。こうやって人間は自分が作った限界を超えることができるんです。」

 

「あなた」と声をかけられたのは、私だ。大勢いた受講者の中でこいつはこの話は心底納得できるだろうと判断したその眼力にまず恐れ入る。類は友を呼んだのだろうか。ちなみに私は酒で記憶をなくしたことはただの一度もないのだが、そんなことをボーカルセミナーで主張するのはただの馬鹿だ。素直に「あ~そうですね、確かに。。。」と、アゴに手をあてうなずきうなずき、大人な演技をしておいた。

 

「歌も同じです。『この音は出ないな』と思いながら出すその音は絶対に出ない。『出ない』と思うことがメンタルブロックになっているんです。だから、『出る、間違いなく出るんだ』と思うことが大切です。メンタルブロックをとりはずしましょう。」

 

例えば私がセミナーに遅刻してきて、この話の直前にスタジオに入ったとしたら、この言葉には一切動かされていなかったと思う。こういう自己啓発系の本に載ってそうな文言は私は基本的には大嫌いだ。

しかし、私と同年代の私と同じ背格好の人が、おそらくは天性のものではなく血のにじむ努力を積み重ねた結果手に入れたことがはっきりとわかるその歌声を響かせてくれた直後だ。この言葉は私の中にすとんと落ちてきた。

 

メンタルブロックをとりはずせ。キーをあげる訓練の時も、ロングブレスの訓練の時も、常にこれを心がけている。出ないと思うから出ない。失神すると思うから失神しそうになる。

 

自宅で、スタジオで、授業が終わって帰る車の中で、日々是失神の精神で訓練を続けること3ヶ月、歌声として聞かせられるキーは2音上がった。極めて苦手なロングブレスもまあまあいけるようになってきた。

特にキーを上げる訓練でこの心構えはテキメン効果があると思う。普段から出ないキーは歌う寸前にどうしても無意識に「たぶん出ないんだろうなあ」と思ってしまう。だから力が入りすぎたり、ノドだけで声を出そうとしてしまう。きっと誰でもそうだと思う。

 

でもあえて、「出る!きっと出るんだ!」と、俺は心の中に松岡修造を三頭飼っているんだぜ的な勢いで自分に言い聞かせる。ついでに、出た時のイメージも持っておく。一回も出たことがなくてもだ。この俺様のハイトーンできっと女の子はメロメロさとか妄想しながら実際は酸欠で自分がメロメロになっていてもいいのです。誰も見てません。

 

それを繰り返してると、いつか出るようになる。こうして私は安定して出せる音をどうにかこうにか2音上げることができた。人に聴かせるにはまだほど遠いけれど、今は歌を歌うことが楽しくて仕方ない。

 

人間の体ってうまくできてるもんですな。

 

メンタルブロックをとりはずせ。

 

ここまで読んでくれたあなたは今、どんな壁にぶつかっていますか。

 

その壁はひょっとしたら自分自身でこしらえてしまっているものなのかもね。

 

悲観であれ言い訳であれ免罪であれ、そんなペラッペラの折り紙でつくったみたいな自己防衛の砦なんか捨てて、外に討って出てみたらどうだろう。大丈夫、せいぜいあと50日だから。傷つくことはおろか、失神することだってないよ。

 

やることは全部やりつくしたのにどうしても不安で不安で仕方ないという豊かな悩みも、やることはたくさんあるのにどうしても手につかないなんていう残念な悩みも、すべてはあなたの心が創りだした幻なのかもしれない。それを壊せるのは、あなただけです。

 

 


 

 

先日訪れた福島第一原発近縁の街の写真をアップしました。


アメプロに転載したいのですが画像のサイズ変更などいろいろ手間がかかるので、私のフェイスブックページにアップしました。リンクは一番下にあります。


全85枚とかなりの数ですが、ぜひ見てやってくださいませ。


【以下FBの引用】

国道6号線で帰還困難区域南北の通過交通ができるようになったので、撮影に行きました。第一原発から南に10キロの楢葉町から北に10キロの南相馬市小高区の間を寄り道しながら往復しました。
東日本大震災と福島第一原発の事故からまもなく4年を経ようとしている日本の1ページです。(2014年12月25日撮影)

【引用終了】


以下が写真ページへのリンクです

https://www.facebook.com/shotaronakakuki/media_set?set=a.624056144386644.1073741869.100003467933962&type=1&pnref=story  










福島第一原発近縁の写真を撮りに行って帰ってきた今まさにこのタイミングで、福島の4人の子供に甲状腺がんの疑いがあるとのニュースを耳にした。


「①全国の子供の甲状腺がんの発生率」と「②原発事故前の福島の子供の甲状腺ガンの発生率」の2つの数字を伴わないことには、この4人という数字だけからはいかなる結論も導けない、導いてはいけないのに、どうせ一部の間抜けな脱原発派はこの数字だけをつかまえてギャーキャー騒ぎ始めるんだろう。


まあニュースを出す側は当然ギャーギャー騒がせるつもりで①と②を出さずに「4人にガン」とだけ報じているわけだから、問題は出す側ではなく見抜けず踊らされてる側の間抜けさにある。


原発事故直後の、単位の意味もその相対的な大きさ小ささも影響も何もわからないのに、ただ数字だけに怯えてあわてふためいたあの時の状況は、今でも何ら変わっていない。


それにしても、何でこう賛成と反対をきっちりわけたがるんだろう。黒と白が溶け合った灰色が最大の悪であるかのように、中間であることをよしとしないのは何でだろう。


しかも、銭湯の番台で男湯か女湯かに分けられるみたいに、議論の入り口でいきなり賛成か反対かをわけた上で話が始まるのって、不自然じゃないだろうか。


まず結論ありきで、そこに牽強付会に都合のいい理由をつまみぐいして肉付けして論を偽装するなんていう愚から脱却できないのだろうか。


私は原発の存在について賛成か反対かと問われたら自信を持って「わからない」と答える。知れば知るほど、行けば行くほど、見れば見るほど、わからなくなる。


というか原発に限らず、どんなテーマでもそういうもんなんじゃないだろうか。知れば知るほど賛成である自信が高まっていった!なんてことあるんだろうか。あるんだとしたら、たぶんそれは知っていったんじゃなくて、賛成のあとおしをしてくれる言葉だけを無意識につまみぐいしたか、都合が悪い言葉は頭の中で捻じ曲げたか、何か他の意図があったんだろう。


私が原発事故についてただ一つはっきり言えるのは、忘れられていく土地があることがただひたすら悲しい、ということだけだ。


第一原発を有する大熊町の南に、富岡町がある。私はこの町にどうしようもなく惹かれる。福島をおとなうたびに必ずここには立ち寄っている。冨岡の惨状はもう散々写真に撮っているのに、今日も訪れてしまった。


私はこの町にある夜ノ森のという土地が大好きだ。まず、夜ノ森(よのもり)という名前がいい。人もいい。そして何より、桜が素晴らしい。老後はここに住んでもいいかな、と思うぐらいだ。


ただ、こういう街の姿を私は見たことがあるわけではない。


初めて行ったのは今年の春だ。桜は見た。地元の人とはふたりとだけ話せた。今日は誰かと話すどころか、誰にも会わなかった。


廃墟となった夜ノ森の街を私が頭の中でよみがえらせ、桜を咲かせ、人を住まわせてみて、そこにちょいと歳をとった自分を置いてみたたけだ。


春に行った時にたまたまお会いして親切にも近隣を案内してくれた区長さんは、その頃にはきっともう本格的なおじいちゃんになっているんだろう。そこそこの爺さんになった私と本格的な爺さんになった(その頃にはたぶん元)区長さんが縁側で桜餅をつまみながら、そういえばあの春、二人してバリケードの向こうに侵入して警官にひどく叱られましたなあ、なんて思い出話をしてる、そんな想像をしてみただけだ。


日本でただ一人であってもいい。私くらいはこういうことをしてみてもいいんじゃないか、ちょっと偉そうにいうと、こういうことをしてあげてもいいんじゃないかな、と思っている。


春に訪れた名所、桜のトンネルにはたくさんの人が集まっていた。そこからあらゆる色彩を拭き取り、全ての人を消し去った冬の桜のトンネルに、青い三輪の自転車がぽつんと置かれていた。


私はこの自転車を、春にも見ている。桜色との対比が鮮やかで、写真にも撮った。


半年以上ストップモーションのまま、その場所に置かれていたのだ。


今日はモノクロのトンネルの中に沈んでいた。


春に見た時と同じ姿勢で、ちょっと小首をかしげた柴犬の子供みたいに、いつまでもご主人様の帰りを待っていた。


いつから福島はフクシマになってしまったのだろう。


いつから福島は面ではなく点になってしまったのだろう。


いつから福島は人が暮らし、笑い、泣き、怒り、喜ぶ場所ではなく、人々の浅慮な意図に弄ばれるアイコンになってしまったのだろう。


私はただそれが悲しい。





ずいぶん昔、バイト講師をしていた塾の後輩講師に「俺ほんとに誰にも人生相談とかされないんだよねえ」と自嘲気味に漏らしたら、「それは中さんが誰にも人生相談をしないからですよ。」と返ってきた。これを「中さんが誰も信頼してないから中さんは誰にも信頼してもらえないんですよ。」と敬語つきで読み替えて妙に得心したことがある。


予備校講師という個人技のみが評価される人生を歩み始めてからはほぼ忘れてしまっていたこの言葉を、つい先ほど読み終わった森絵都の「つきのふね」で強烈に思い出した。


生徒にすすめられて読み始めたこの作家に最近すっかりはまってしまっている。


カテゴリー的には「児童文学者」になるらしいのだけれど、どんな本だって、対象年齢とやらにあてはまる年齢で読んでその価値がわかる本は皆無だろう。


物心つくかどうかの頃に何となく読んでいた絵本を本屋で見つけて買って読んでえらく感動したのは20代後半だった。ということは、児童文学と呼ばれるものは今ぐらいの年齢で読むのがちょうどいいのだ。たぶん。安吾はまだ先だな。辺見庸の詩は死ぬ間際にちょこっとでも意味がわかればスキップしながら天国への階段を上れるというレベルだろう。


あらゆる早熟から見放された私なりの読書術だ。胸張って言えるのかどうかは甚だ疑問なのだけど。


基本的にライトな筆致の作品が多い森絵都の中では、「つきのふね」はたぶんヘビーな部類に入るのだと思う。この記事を読んで興味を持ってもらいたい、できれば作品を読んでもらいたいので、あまりネタバレにならないように簡潔にテーマを述べれば、心を「病んだ」人(または人々)とどう向き合うか、という、1998年の作品としては極めて現代的なものだ。だから、今読む価値があると思う。


人と向かい合うこと。その辛さと苦しさと喜び。


智は極大にまでデフォルメされた私達だ。例外や異常ではなく、私達だ。智の持つ何かを私達誰もが持っている。想像の世界に逃げ込んだり、自分だけしか見ていなかったり、死にたがったり。

そんな智に向けられた勝田の言葉「自分だけがひとりだと思うなよ」は、16年後の私達それぞれに向けられた言葉なのだと思う。そう解釈したほうがいい。


孤独を演じていればきっと誰かが手を差し伸べてくれると誰もが信じて、孤独を演じる。本当に孤独がいいならば演じて他人に見てもらう必要はない。ネットで吐き出す必要はない。つぶやく必要はない。結局みんな、誰かに気づいてもらいたい。私だってそうだ。他者に認識してもらって初めて自分の輪郭がわかる。


みんなそういう、自分の輪郭を自分で描けない葛藤とか苦しみに苛まれているんじゃないだろうか。その苦しみの度合いは、「バブル後」とか「世紀末」とか「IT時代の幕開け」みたいなどでかいモノサシがあった1998年よりも、今のほうが色濃いんじゃないだろうか。


みんながみんな、孤独を演じて、孤独の釣糸を垂らして、そこにかかってくれる人を待ってる。


だったら、自分からその、他の誰かの釣糸にひっかかりに行ってしまえばいい。うまくかからなくても、他の人の釣糸を巻き込んでぐちゃぐちゃに絡まってしまっても、永遠に待って針にも糸にも何にも触れないよりはいいじゃないか。そういう、飛び込む勇気とか、自ら曝け出す大切さとか、そういうメッセージを感じる。というか感じたほうがいい。


公は言うまでもなく私でもちょっといろいろあるタイミングでこの本に会えたことは、天啓といったら大げさだけど、何かの示唆なんだろうなあ。





たまには写真から載せてみたりする。



【2014年10月8日19:25/EOS-M 200mm F4 ISO 800】


10月8日。全国民1億3000万人が、きっとあなたも狂喜乱舞したあの一大イベント、皆既月食の写真です。


皆既状態なのに月が褐色に光っているのは、地球の大気を通って屈折した光を浴びているかららしい。この色は地球の大気の状態によって異なるそうだ。地球の健康診断みたいなもんですな。


大好きなシンガー高橋優の「太陽と花」の一節「太陽の陽と地球の影を纏って 月はその姿を夜に映す」を思い出す。10月8日に纏っていたのは影ではなく光だけどね。


月が妙に左にオフセットされているのには理由がある。褐色の月の少し右に輝く青白い点、それが私の大好きな星、天王星だ。


地球から遠く遠く離れたところを自転軸を横倒しにしてゴロゴロと回る天王星は、肉眼ではほとんど見ることができない。この日だって月が皆既状態になっていた1時間だけ見ることができた。月が太陽の光をほんのわずかでも直接反射している時は、その光で天王星は隠されてしまう。


大好きな星との初のランデブーと相成ったこの日は、家に帰ってからこの写真の小さな小さな点をパソコンでめいっぱい拡大して、それでもドット数個分にすぎないその青白い点を眺めながら、ビール片手にずっとニヤニヤしていた。この天王星の光も月の重力の影響でほんのわずかに進路を変えて、たぶん本当はこの位置にはいないんだろうなあ、とか想像しながら、ずっとニヤニヤしていた。んー美しきマニア魂。


読んでくれているあなたがドン引きしているのが手に取るようにわかるので、閑話休題。


私の大好きな天文学者、エディントンは私のこの妄想を世界で初めて証明した人だ。


当時絶対的な影響力を持っていたニュートン物理学の「光は直進する」という前提を、アインシュタインは「光も重力の影響を受けて曲がる」という理論で覆そうとした。それを証明するために、エディントンは人類が入手できる最も重い物体、太陽を利用した。皆既日食の日に、太陽の向こう側を巡る恒星からやってくる光が本来あるべき位置とは違うことを観測して、アインシュタインの相対性理論の証明に成功した。つまり、皆既日食の日でなければ太陽の光に覆い隠されて見えない星の光を利用したわけだ。


皆既日食を利用して星の位置のずれを観測するというアイデア自体はエディントンが考えたものではなく、その数年前からあったものらしい。でも、その正しさを理解して、おそらくは自身もそれまで絶対的な前提としてきたニュートン物理学を覆すために、第一次世界大戦のさなかに観測を行ったその慧眼と行動力には本当に頭が下がる。


宇宙を見上げれば見上げるほど、今ある認識だとか前提だとか原則だとかの不確実さに思いがいたる。


太陽の質量は太陽系に存在する物質の総質量の99.8%を占めると知った時、私は死ぬのが怖くなくなった。


若い頃は死をひたすら恐れていた。死の瞬間はどんなもんなのだろうか、テレビの電源がぶちりと切れる感じなのか、もっと連続的なものなのか、死んだ後はどうなるのだろうか、死の瞬間が永久に凍結されたまま続くのか、聖ピータースは俺の名前は呼ばないだろう、茫茫と考えては背筋を凍らせて頭を抱えて眠れなくなってしまうこともしばしばあった。


今は怖くない。こんな風に文字にすることだってできる。そりゃ嫌だよ、死ぬのは。まだまだやりたいこと腐るほどあるから。でも、怖くはない。


灰になって地球にばらまかれ(私は墓には入らない)、しばらくは地球中を旅してまわり、50億年後に膨張して赤色矮星になった太陽の熱にあおられて宇宙空間に脱出して、またいずれどこかの新しい星の材料になるのだろう。また生命の材料になれればラッキーだね。新しい恒星系にたどりつく前に力尽きて天王星に吸収されるなら本望だ。ようやく成仏できる。そうか、死んだら灰を宇宙に撒いてもらえばいいのか。そうすれば地球で余計な50億年を過ごさないですぐに天王星に行けるかもしれない。なるほど。


読んでくれているあなたがドン引きしているのが手に取るようにわかるので、閑話休題(2回目)


「全ての決定は仮定にすぎない」と尖った筆跡で書き記していたのは山田かまちだったかな。昔からものすごい親和性を感じていた夭折の詩人のこの言葉は、年々説得力を増している。


今ある認識は全てが暫定だ。目に見えているものが真実だとは限らない。見せられているを見ていると読み替えてはいけない。明るすぎるものの向こうにきっと何かが隠されている。


それにしてもここんとこ天文ショーが多くてたまらんね。あ、次の皆既月食は2015年4月です。お見逃しなきように。


ある程度の時間私と接してくれた人はおわかりだろうが、私は古いものが大好きだ。


古いといっても限度はある。戦国時代にはまるで萌えないし、アンモナイトはバター醤油で焼いて食べてみたいという以外の興味はない。


戦後~1980年代前半くらいまでのモノが大好きだ。ヨーロッパ車を選ぶ人が多い私の予備校の中でほぼ一人だけアメリカの、それも1981年のコルベット(燃費3キロ/リットル)に14年間乗り続けている。今メインで使っているギターもえらい昔の傷だらけのフェンダー・ジャガーに手を加えてカート・コバーン仕様にしたものだ。


最近そこに新しい仲間が加わった。1963年生まれのオリンパス・ペンFがやってきた。ペンFと聞いてわかる人はなかなかのマニアですな。わからない大半の人は「オリンパス」と聞けばなんとなくわかるでしょう。カメラです。


ペンFのことを語り尽くすには3回くらいの連載が必要なので極限まで掻い摘んで説明すると、全ての設定を自分でしなければならないカメラだ。シャッタースピードや絞りは言うまでもなく、被写体の明るさも測ってくれないので、自分で明るさを判断して設定しなければならない。簡単に言えば、フルマニュアルのカメラだ。


何より、フィルムを使わなければならないことが大きい。デジタルならば大量に撮ってうまく映った数枚をネットにあげて、写真がうまいような体を偽装することもできる。それがフィルムではできない。分母は24か36だ。一枚一枚が真剣勝負だ。とりあえず撮ってみた、みたいなお気楽なノリで続けると数年後確実に破産する。


何でこんな苦労してまで骨董品みたいな車やカメラにこだわるのか、考えてみた。理由はいろいろある。


「かっこいいから」これじゃ小学生だ。
「目立つから」これは中学生だ。
「写真がうまくない言い訳になるから」これはかっこ悪い。けど、理由としてはかなり上位にランクする。


なので偉そうに、「アップデートの必要がないから」としておく。


アップデートってのは消費社会には必ずついてまわるもんですな。じゃなきゃモノが売れない。最新のものに買い替えることをいろんな形で、四六時中脅迫される。こっちも小学生や中学生の時分に比べれば多少は金持ちになっていて、その脅迫になまじ乗ることができてしまうからまた厄介だ。


昔はシャープペン一本だってボロッボロになるまで使って、芯の繰り出しとかグリップのゴムとかいろいろな部分が朽ち果てはじめていよいよ筆記具としての体を成さなくなってきてもなお、芯を先端から入れれば使えるぞとか、グリップに輪ゴム巻いて使えばどうにかなるんじゃないかとか、知恵をしぼって使いつづけていたものだ。結果できあがったその奇怪なシャープペンは、間違いなく私の「道具」だった。


今では筆記具は消耗品と割り切っている。パソコンは2年単位で買い替えている。結果、私の周りには現在がひしめきあっている。でもそのどれも、道具とは呼び難い。愛着どころか所有の意識も希薄だ。何より、ものの見事に消費社会に呑まれている自分が嫌だ。


古いモノへの憧憬とか執着とかは、そういう現状への反動とか、そういう現状とのバランサーなのかもしれない。


ペンFはフィルムを巻き上げるレバーが重く、フィルムを使い終わってもそれに気づかずに巻き続けてしまい、結果、フィルムの穴が切れることがある。写真用語で「パーフォレーション切れ」と呼ばれる、名前だけならちょっとかっこいいこの情けない失敗を、私は今までに撮ったフィルム4本のうち3本でやってのけた。要はヘタクソなのだ。


うち1本はフィルム本体まで完全にブチリと切ってしまった。泣く泣くカメラ屋にペンFを持っていき、暗室でフイルムを取り出してもらい、現像してもらった。他には、ファインダーが暗くてピントが合わせづらいとか、シャッタースピードが遅いとか…いかん、連載が始まりそうだ。強制終了。まあ手のかかるやつなのだ。


でも、このあたりの動作感覚が私の体に染みついて、すっかり私の道具になった頃、どういう写真が撮れるようになっているのかが楽しみで仕方ない。


現在は常に現在であるための更新を繰り返さなければならないけれど、1963年は永遠に1963年のままだ。


川に突き刺さった杭が濁流に揉まれて流れ去る葉っぱ達を悠然と眺めている、そんな安心感というか優越感が好きなのだと思う。


買い替えも更新もできない1963年を、私はいつまでも手にし続ける。




大学でバンドを始めて、最初に演奏した曲はレベッカの"moon"だった。


サークルの中でもトップクラスのプレイヤーの先輩達に囲まれて私は、せめて足だけは引っ張らないようにと、青息吐息で自分の左手と右手とスコアだけを見て日々弾いていた。


そんな体たらくだったから、歌詞なんて覚える元気もなければつもりもない。国立音大の声楽科に在籍していた先輩の鳥肌が立つほどの圧倒的な歌唱も、私にはギターのまずさを隠してくれるマリア様の歌声であって、メッセージを伝えるためのものでは全くなかった。


なのにどういうわけか、"moon"の歌詞はすっかり私の中に刷り込まれている。今でもだいたいそらんじることができる。これが本物の声楽家の力量というものなのだろうか。


月は原始地球に火星サイズの小惑星が衝突してできた、いわば地球の双子の兄弟だ。地球の破片達は地球の重力に捕えられて周回運動に入り、早ければ一か月という驚異的なスピードで球体になり、それ以来私達をやさしく見守ってくれている。


8月11日はエクストラ・スーパー・ムーン。何やら仰々しい名前だが、月が地球に最も接近する一日だった。ここまで接近するのは次は20年後らしい。10日の夜にそんな月を写真におさめてやろうとカメラを構えて部屋の窓を全開にして待ち構えていたのだけど、台風の雲に阻まれてあえなく挫折。意気消沈して次の日の講義のためにふて寝してしまった。


翌日、6限の講義を終えて帰宅して、ビール片手にベランダに出た私の目の前、南東方向45度くらいの角度に、煌々と輝く月があった。まだかすかに残っていた雲が、月から溢れる光を浴びて影絵のように夜空に不思議な浮遊感をたたえて浮かび上がっていた。


あまりの美しさに私は、写真を撮るのも忘れて、風呂上りの体がちょっとつめたい夜風で冷えることも意に介さず、何十分も月に見惚れていた。


昔ママがまだ若くて 小さなあたしを抱いてた 月がもっと遠くにあった頃
工場は黒い煙を吐き出して 街は激しくこの子が大きくなるのを祈ってた


"moon"が頭の中で音声つきの字幕で流れ始めた。


いつもよりちょっと大きく、細かなとこまで見える地球を見て、月はどう思っているのだろうか、なんて酔っ払いの戯言みたいなことを想像し始めた。せっかく近くまで来てくれたんだ。どうせなら感想を聞いてみたい。


かたや変わらない小さな分身

かたや変わりすぎた大きな分身


とびきり大きな海の左側にあるちっぽけな島国の、右側の海岸の一部の色が違うのには気づいただろうか。
とびきり大きな海の右側にあるでかい国から昇る怪気炎には気づいただろうか。
一番上にあるでかい氷がどんどん溶けているのには気づいただろうか。
それを「新しい航路ができた」と喜ぶ愚かな人間がいることまではさすがに気づかないだろうか。
一号機の建屋を覆うカバーには気づいただろうか。
水と緑の星を覆いつくす核兵器には気づいただろうか。
ちっぽけな島国の住民がさらにちっぽけなスマホの画面ばかり見ていることには気づいただろうか。


壊してしまうのは 一瞬でできるから
大切に生きてと 彼女は泣いた


「彼女」は、実はママではなくて月なんじゃないかな。夜風に吹かれても一向に醒める気配のない酔っ払いの頭が、そんなことを紡ぎ出した。


moon あなたは知ってるの
moon あなたは何もかも
初めて歩いた日のことも





【2014年8月11日・EOS-M 200mm 1/250秒 F4.0 -3EV ISO100 10000K】

歴史は事実の集積ではなく、後の世の人間が断片的な事実を都合よくかき集めて、想像とかいう身勝手な唾液をたっぷり混ぜて練り上げたものだ。


想像の唾液が発する臭気には政治のハエがすぐに群がる。


8月6日と8月9日にタイミングを合わせるかのように掲載されたある新聞の従軍慰安婦報道の検証記事を読んで、なおさらそう思った。


1945年8月6日と8月9日は、いつまでも歴史にしてはいけない。いつまでも事実でなければならない。


後の世の人間の想像だとか政治だとか思惑だとか打算だとかによって弄られることの決してない、事実であってほしい。


300年後、愚劣な政治家が「原爆投下は捏造だった」と言い出し、蒙昧な人々がそれを信じてしまう。こういう唖然とするような可能性を、残念ながら私は否定できない。従軍慰安婦の問題をめぐる人間、国家の思惑や観念の渦を見ていると、なおさらそう思う。


広島と長崎を否定させてはいけない。捻じ曲げさせてもいけない。事実の隙間を無責任な想像で埋めさせてはいけない。


子供の頃から一度見たいと思っていた元安川の灯篭流しを、今年初めて見ることができた。全国から送られた千羽鶴の折り紙を使って作られた色とりどりの灯篭が、海からの潮にやや行く手をはばまれながら、その汽水域をゆっくりと、ゆっくりと流れてきた。


69年前の同じ時間、私の目の前を流れていたのは灯篭ではなく、死体だ。この事実は、事実のまま未来永劫受け継がれなければならない。




アブソリュートのロックが好きだなんて人はアル中ですよ、と心もとない滑舌で断言する彼のグラスには、聞いたことのない名前の蒸留酒がゆらゆらと揺れている。


彼はこのバーのマスターだ。


私がこの店を訪れるのはこれが2回目だった。最初に来たのは昨年の12月。友人達と訪れた街で痛飲して、それでもなお呑みたりなかった私が一人で街をぶらついて嗅ぎ当てた店だ。


彼は心もとない滑舌で陽気に私に語りかけてくる。たった半年でずいぶんやつれた気がする。店も彼も。12月には1匹だったちゃばねごきぶりが2匹になっていた。


お体しんどそうですね、と何の気なしに問うた私に真顔で彼は、いや、今日は仕事の波が全然なくて、スイッチ入ってなかったんですよ、全然元気ですよ、と、ぎこちない足取りでカウンターの裏に向かう。


足取りがぎこちないのは聞いたことのない蒸留酒のせいよりも、彼を襲った不幸のせいだ。


彼は数年前に自動車事故をもらって、左半身の自由がない。その自由のきかない体と舌で、彼はたった一人で19年続けてきた店を守りづつけている。


食事はない。シェイカーも振れない。棚に並ぶ酒を注いで、サービスでクラッカーをくれる。機嫌が良ければ一杯一緒にやりませんか、とおごってくれる。それだけだ。


それでも、彼の店は続いている。


私は彼の誘いに乗って、アブソリュートをもう一杯、今度はストレートで所望した。彼は嬉しそうに自分の分と私の分を注いだ。


そして、楽しそうにいろいろな話をし始めた。その笑顔には形容しがたい安心感と儚さがある。それが見たくて、その持ち主に会いたくて私はまたここに来たようなものだ。たぶんこれを見たくてこの店に何度も来ている人がいっぱいいるんじゃないだろうか。


店の掃除もままならないほど体の自由は奪われている。きっと事故前に比べれば売上も低いだろうし、自分がやりたい店づくりもできていないはずだ。


だけど、彼からはへこむだ落ち込むだ諦めるだやっかむだといった腐臭がしない。そういう腐臭はすぐに人に伝わる。長い客商売から得た経験なのか、彼の先天的な性質なのかはわからないけれど、いつでも嬉しそうにまっすぐに目を見て、自由のきかない滑舌でまっすぐに話をしてくれる。


アブソリュートを舐め終えてそろそろ帰ろうかという私に彼は、入り口の上の電球を交換してくれないかとおねだりした。4つ灯いているはずの白熱電球が、確かに3つしか灯いていない。なるほど、だから半年前より暗い気がしたんだ。私はかなり怪しい足元でテーブルによじのぼり、電球を右に右に回した。不意に明るくなった店内で、ありがとうございます、これでかわいい女の子がいっぱい来るようになりますと、彼は3分の1倍明るくなった笑顔で嬉しそうにはしゃいでいた。


日本中をぶらつくのが大好きな私はどうしても一期一会の店が多いのだけれど、そんな中でも数少ない、また来たい、来なければ、という店の話でした。