(de)scribe | 独航録 ~ N予備校講師 中久喜 匠太郎

独航録 ~ N予備校講師 中久喜 匠太郎

N予備校英文読解講師中久喜のちょっと真面目なブログです。
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ヒトをヒトたらしめる一番の属性は言葉ではない。断じてない。見えないものを想う力だ。言葉にしようとするればするだけ、現実は歪められる。


シェアだとかリツイートだとかって、極めて日本人的な作業だと思う。


誰かの言葉を自分の言葉であると偽装しつつも、発言者としての責任は回避できる。発言の主がどんな人でどんな意図でそれを言ったか、いや、書いたか、そんなことを顧みることなんて、きっとない。


昨日の夕食とかむかつく上司とかのレベルならばまあいい。多くの人の生活や誇りが関わることとなると、まことにタチが悪い。原発だとか放射性物質だとか嫌韓だとか嫌中だとか。いや、そういう重大なことだからみんな誰かを隠れ蓑にして、モノを言っているような、かしこぶった体をつくりたいのかな。


受け手を想定しない、投げっぱなしの言葉。自己浄化のためだけの言葉。言葉はほんらい、人に伝えるためのものだ。その役割から遊離した言葉は、寝つけない夜中の冷蔵庫のノイズよりタチが悪い。シェアだとかつぶやきだとかなんて名前でロンダリングされてはいけない。ノイズ以下だ。


結論ありきでそれを肉づけする事実をつまみ喰いしてつぎはぎされた、浅慮な言葉たち。それに気づかない受け手の側にも、いや、受け手の側にこそ問題はある。


言葉が無力になる瞬間はきっとあると思う。beyond description。言葉では伝わらないことはきっとあると思う。どんな言葉に翻訳することもあたわない、喜びとか悲しみとか怒りとか絶望とか。


そういうものは、感じるしかない。想うしかない。ヒトをヒトたらしめる一番の属性は言葉ではない。見えないものを想う力だ。


私は本を読むのも音楽を聴くのも写真を見るのも好きだけど、趣味は?と聞かれたら「音楽」「写真」とは答えるが「読書」とは答えない。というか、答えたことは一度もない。ごらんの通り書くのは大好きだ。読むのはどうも勝手が違う。たぶん私の奥底に、言葉に対する不信感、それも、人が「手で記した」言葉に対する拭うことのできない不信感があるからだと思う。


口から出る言葉はごまかすことができない。心にないことは口からは出ない。出たとしても、表情だとか語調だとかに必ずその人が現れる。心の中にあることはどんなに隠そうとしても必ず唇からこぼれ落ちる。それを拾い集めて飲み込んでしまおうとする表情の狼狽から、それが隠しておきたかったことなのだと伝わる。話し言葉は、嘘をつかない。


口から出る言葉と手で記した言葉は根本から異なるものだ。


だから「つぶやき」という言葉が大嫌いだ。耳触りの良い四文字のひらがなで、手と頭と作為が造り出したものを口から零れ落ちたその人の言霊であると偽装するその狡猾さは唾棄すべきものだ。


詩を読むようになったのと写真を好きになったのがほぼ同時期なのは偶然ではないのかもしれない。どちらもセンシティヴィティを働かせて、想うことができる。


キャパの1944年フランス・シャルトルの写真を初めて見た時の衝撃は今でも忘れられない。長方形を埋め尽くすあらゆる人の目になってみたり、目で見られてみたり、ちょっと距離を置いたところに自分を置いてみたり。今見ても右脳が痛くなる。それぐらいの衝撃だった。


想うきっかけを、私はどれぐらい紡ぎだせているだろうか。


講義でごくごくたまに吐く、講義とは関係のない言葉がどれくらい若者の心のアンテナを刺激できているのだろうか。いたのだろうか。


まだ始めたばかりの写真が見た人のセンシティヴィティに触れることは当分なさそうだ。私の歌が聴いた人の心を動かすに至っては天文学的な未来になりそうな気がする。太陽が爆発した時に断末魔のシャウトでもすれば火星人の何匹かは泣いてくれるだろう。長生きせねば。


こうやって並べている冗長な言葉達がここまで読んでくれた人の想うきっかけにどれくらいなれているのだろうか。そのためには、私自身のセンシティヴィテイをもっともっと、高く高く。