〇..さようなら、、シュウ。

 17年間、私と、私の家族と共に、家族の一員として生きてくれたシュウベルト。
  君のおだやかな性格は、みんなに和みを与えてくれました。
 その君が、昨日、逝きました。いつものように私のベッドの枕元に丸くなって、少し笑っているような顔は、おだやかな、いつものシュウの顔でしたから、私も、いつものように、ねぼすけシュウを起こさぬように寝床を抜け出して、静かに部屋を出ました。
 夜になり、会社の仕事を終えて帰宅しましたが、いつものように、私の車の気配で家を出て、にゃあ、にゃあ、と、賑やかに、駐車場まで出迎いてくれるシュウが見えず。
「ねこの気まぐれだろう」くらいに、気にとめていなかったのですが、家に入り、植物の土間の部屋で、新しい練炭に火を着け、猫たちの餌の缶詰を切り、食器に夕食の準備をしましたが、兄弟たちのベエトウベンもバッハも食べているのに、シュウの姿が見えません。妻と一緒に台所にでもいるのだろうと、たいして気にもとめずにおりました。
 台所に手伝いに行くと、妻は、
「今日は、シュウベイが見えないの。どうしたのかしら、あなた、見ました?」と、私に問いかけますので、
「そう云えば、ちょっと変だな、?」と、私の部屋を覗いて見ますと、何のことは無い。いつものように、私の枕元に丸くなって、朝、出かける時と変わらない格好だたので、
「なんだ。まだ、寝ていたのか、腹へってんだろう。さあ!もう起きて!」と、シュウベイを揺すって、始めて死んでいるのが分かったのです。
 少し硬直が始まっているようでしたが、まだ、体温が残っていて温かみがありました。 シュウを抱いて廊下に出ると、妻も台所から出て来て
「シュウが居たのですか?」
「うん、シュウベイ、死んだ。」
「えっ?。死んでるの?」
「笑っているような機嫌のいい顔してるから、死んでるようには見えないね」
「でも、苦しんだ様子もなくて良かったですね」
「歳とっているから老衰死かも、だから眠っている内に自分でも気が付かないうちに逝ったかも知れないね。おれもこんな死に方したいもんだなあ」
死んでから気がつくのも変だけど、あらためてみてシュウは美しい猫だと気がついた。
妻は涙ぐみながら

「あなた。今日はシュウベイのお通夜ですね。新しいバスタオルに包んで上げましょうね。あなたは、お経を上げて下さいね」
「うん。ねんごろに弔ってあげるよ」
 私は暫くぶりに、法華経寿量品第十六を訓読でゆっくりと読経し、お題目を唱え、回向して、シュウの冥福を祈った。そして17年間、家族に慈しみと癒やしを呉れた感謝を述べて、シュウの供養とした。
 その夜、仏間に明かりが点いて居るので、そっと覗いて見ると息子が香を焚き、仏壇の前に安置しているシュウの棺に手を合わせ長い時間、瞑想していた。息子もいつの間にか少しづつ成長してきているのだ。

  翌日は裏の山を眺める桧葉の木の近くで、古代の英雄のように楢の槇を積み荼毘に付した。シュウは長い時間を掛けて一握りの白い骨になった。

 シュウベルトは、法華寺で大事に孫代わりに育てられた母猫が、私の家に貰われてきて、我が家で生まれた4匹の仔猫の内の1匹である。可愛い仔猫ばかりで、欲しいという人が居たが、兄弟を引き離すのが哀れで、結果、5匹全部の猫を自家で飼育する事になったのである。
  以来、5匹の猫は我が家の家族の主役になり、それぞれに、妻にはベエトウベンと女の子のウインク、私にはシュウベルト、息子には母猫のサラ、妹にはバッハ、と、それぞれ得意先が決まっていて、夜にはそれぞれの寝床に泊まりに行く習慣である。

 私たちが毎晩食事をするのは我が家の台所である。台所の半分は炉端の間になっており、みんなで炉端を囲んで食事をするのが習慣である。猫たちは、それぞれに自分の得意先の人間のそばに座り、人間たちの間にきちんと陣取り、一人前に仲間になったつもりで居る。

 猫たちの食事の時は、猫たちがみんな一緒に土間に集まって仲良く食事をした。食事では一切奪い合いは起こらなかった。大好物のカワハギが出ても、食べれない猫が居ても席を譲り合って交互に食べるなどして、実に猫らしくない、互譲の精神を備えた猫たちである。
  その兄弟たちにも、たとえツメにかけても絶対譲らないものがある。それは家の中の縄張りである。これだけは、いくら兄弟でも譲れないものらしい。

  シュウには、特別に仕込まれた芸というものは特には無いが、シュウが小さい頃から私が教え続けた言葉がある。
「お前は犬だ。だからワンと啼け。ワン!ワン!」と、教え続けているうちに、犬とは違い、こちらのワン!といって欲しい時には云わずに、自分がなにか欲しい時、機嫌がいい時、甘えたいときにはワン!と吠えるというより、アン!と聞こえるような啼き方をするようになった。それは、動物の条件反射というよりは「人間は、猫が犬の鳴き声を出せば嬉しがる。だから、嬉しがらせてやろう。」と、思われているようである。
「お前のワンには、まだまだ猫なまりがあるな」

私はシュウを、けなしながら褒めて上げた。
  ベンが妻のそばを着いて回るように、シュウは、私のそばを離れない。何をしてても、何処にいても、家に居る間はそばについていて離れない。しかし、朝、会社に行くときだけは着いては来ない。玄関前で見送るだけである。きちんと見極めがついているらしい。それでいてゴミを出すに行く時は、収集所まで80mの道のりをニャン、ニャン、云いながら後になり、先になりして着いてくる。
 こうして、毎日、毎日、17年間、私たちの家族になって楽しさと癒やしを与え続けてくれたシュウの冥福を祈りたい。

 シュウちゃん。先に行っててね。冥土までは49日の道のりです。道中長いですがゆっくり、ゆっくり歩いてね。私も間もなくそちらに行きます。待っていて下さいね。
 私が冥土に着いたら、また、私のそばに来て、一緒にそばに居て下さい。
 それでは、しばしの別れです。
  シュウちゃん、さようなら。

 

新●娘さん。あなたは男の選び方を知ってますか?(改訂版)

 男の価値は、男から見ての評価と、女から見ての評価には大きな差があるようである。
 男を知り尽くしていると云われる老練な女史でさえ、男が将来どのように変わっていくかを予見できても、それを許せる許容までは備えていない。
 その許せぬ男の本性を、納得しているのは「身に覚えのある男」だけである。老練な女史が、当然起こりうる男の背任行為を予見できるのは、長く生きているから分かる状況判断もあるだろう。または、男に繰り返し裏切られてきたから学習出来たという場合もあり、それらの仕組みを詳しく書いた学術専門書を読んで「男」を理解したという女性もいるだろう。しかし、一生男に騙され続けても、最後まで「おんな」には「男」を理解することが出来ない部分があることは確かである。
 それを解き明かし、理解出来たとしても、尚、「おんな」には、「男」を許すことが不可能な部分が残る。

 まず、一般的な話から始めよう。
 相思相愛のカップルが、友人、知人、親類、神仏の祝福を受けて、誓いを立て、共に普遍の愛を誓い合って家庭を築いたのに、その舌の根も乾かぬうちに、なぜ、最愛の愛人の信頼を裏切り心を切り裂くことが出来るのか?。
 しかも、ばれたら一生の不作ともなりかねない程の大きなリスクを伴う大博打である。それでも尚、世には「愛の裏切り事件」が後を絶たないのは、一体、何故なんだろう。 人間たちが、長い長い時間を掛けて作り上げ、完成度を高めてきた歴史と法治国家。社会制度と道徳。完成されていると思われていたこの社会が、上から下まで、ほんの身近な個々の生活単位の家庭の中にまで、あってはならない裏切りやそれに伴う小社会の崩壊。それが原因で連鎖する耐えがたい憎悪と破壊。
 この大きな人の世に、まるで学習出来ない下等動物のように、法律でも、戒律でも、道徳でも、制御が効かない身近に起こる大罪は、これから人生の伴侶を探し、信頼と愛情に包まれた家族を作ろうとする若い純真な女性にとっては、とても理解が出来ない深い謎であるに違いない。
 しかし、考えてみれば、人間は、それぞれが暮らす小社会の中で、成長する過程で、仲間の裏切りに遭い、平和な期待が大人の思惑に裏切られ、総てを捧げた恋の相手に裏切られ、実に人間は、まるで秩序も道徳も無い裏切りの海の中で生育されている、と云っても過言ではないのではあるまいか。

 しかし、どんなに貧しい生活であっても、裏切りや破綻と関係ない生活を維持している小家族がいる。家族が助け合い、友達同志が助け合い、仲間や社会に裏切られた経験を持たない人がいるものである。そのまま成人し、誠実な人と出会い、結婚し、平和な人生を生き抜いてしまう幸運な人もいる。
 今回は、この人たちをこの幸福探求会から除外しましょう。なぜならば、この幸せな世界に住む人たちにとっては、この話題そのものが不毛な世界であるから、この先の話には参加しない方がよろしいのです。知らずに済めば、それはそれで幸せな事だからです。また、次の機会にご参加ください。お待ちしております。ではまた!。

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〇第二話(厳しい世界に生きる人たちのための頁)
  男女の世界にも、所謂、「面食い」と云われる人たちがいる。恋愛の対象に選ぶのは「顔」が「第一」、それに付帯する体型も重要であるが、「顔」が悪ければ後の条件は検討の余地も無い。という贅沢な(その人等にとっては当たり前のこと)人たちの話である。
 この人たちの事を男女を代表して、仮に「面食いさん」と呼ぶことに致しましょう。
 もし、「面食いさん」が、一歩譲って「顔」がイマイチの相手と家庭を持ったと致しましょう。
 この、顔がイマイチの相手とは、ウマが合っている内は平和が保てますが、一緒に生活を続ける内に、単純に小さな諍いが起きたとします。どなり遭わないまでも、ふくれ面した相手の顔を見て、だんだん相手に対して不快感が増幅していくのが一般的です。 最初は小さな諍いでも、イスカレートしていった先にあるのは、「ああ、もういやだ!」の制御不能な感情だけになって行きます。

 ところが、お気に入りの「顔」のいい容姿端麗の相手と一緒にいれば、だだをこねられても、ふくれっ面されても可愛いいし、「しょうがないねえ」で、つまり何をされても被害者意識にはならない。これが惚れた弱みというものである。
 また、相手もその弱みを突いて、欲しいものをしっかり要求してくるものである。惚れた「面食い」の方も、それを承知の上で「贅沢税は高くつく」的感覚で、それはそれで自己満足しているものである。

  だが、しかし、しかし、です!!。
 「面食い」のひとに掛かる「贅沢税」は、それだけではありません。
 金品では購いない「苦悩」という代償が着いてきます。言うまでもなく、「面食いのあなた」の愛する人が「顔」が好いばかりで、異性に持てる雰囲気も無く、情緒も無く、異性には不器用な人であれば、問題が無いのですが、異性にもてる遊び上手な相手であれば、やがて、「面食いさんのあなた」の心はささくれ立ち、クマザサのように生えてくる無数の刃先が感情を切り刻んで、全身の血は火炎と変わる阿修羅の世界に耐えて行かねばならなくなります。
 平和なはずの愛の世界が、何故に、ある日から地獄に変わって行くのでしょう。
 人間というものは、人の心を踏みにじらずには、生きて行けないものなのでしょうか?

(男の生理と、その罪についての検証)
  「男」の身体には、性欲エキス製造工場と、出来たエキスを貯蔵して置くエキス貯蔵タンクが備えられている。製造工場の方では、需要の有る無しに関わらず、年中無休でエキスの製造が急ピッチで進められていて、製品は出来次第。貯蔵タンクに詰め込まれていく、年齢、肉体の健康状態や栄養摂取の違いによって差があるが、若い男なら通常の製造工程で行けば72時間(約3日)で貯蔵タンクが満杯になる。
 貯蔵タンクが満杯になっても製造工場では生産調整はしない仕組みになっている。つまり、エキス製造工場では、誰の指令も受けず単独でエキスの安定生産を続けているのである。
 過剰生産されたエキスは、タンクに無理矢理詰め込まれて行くだけである。当然、タンクはパンパンに膨れて行く。男同士が隠語のようにいう「おまえ、溜まってるんじゃねえか?」の言葉の意味は、まさに現実描写そのものズバリ、貯蔵タンクが貯蔵能力の限界点に近づいたという意味のことを云っているのである。
 エキス製造工場は、脳司令部の支配下には属していないのに、貯蔵容量に応じて貯蔵タンクの方から脳に対して、早急にエキスを排出するよう指令が発せられる。
 しかし、諸般の事情もあり、エキス処理を受け入れてくれる相手が決まらない場合も多々あり、エキス放出処理先の確定に時間が掛かってしまうとエキスがどんどん溜まっていく。そして、貯蔵タンクが満杯になろうものなら、脳司令部に対して発せられる指令はかなり強烈になり、それは指令と云うよりも号令に近くなって行く。
 「おまえ、何やってんだ。早くしろ!!。早く!早く!!。早く、やっちまえ!!。格好付けていないで早くしろ!!。やれー!!。やれー!!」と、けしかける。
 この、男の頭の中で、ガンガン鳴り響く性欲本能という強い悪魔の号令と、良心という性欲抑制力との闘争とが行われている。この強い性欲本能の前には、男のどんな良識も太刀打ち出来るものはない。それだけ本能の持つパワーは強烈なのである。
 そこには、どれほど高度な良識があっても、宗教の戒律が立ちふさがっても、人間の精神力で性欲パワーを克服することは極めて難しいと考えるのが賢明である。
 かって、一宗を開いた程の鎌倉時代の高僧ですら、本能の存在力を否定せず、当時の厳しい仏教界の禁断を破って妻帯したと聞く。まして、我々は俗人である。この男を苦しめる悪魔の本能に打ち勝つのは、至難である

 性欲の強い男の性欲がピークに達してくると、視覚感覚にまでも狂いが生じ始めて来る。異性に対しては、例えそれが未成年であろうが、人妻であろうが、女性には信じがたいであろうが、平時には想像すら出来ない一回り二回り年上の女性にさえ欲情してしまうという異常な現象さえ起こりうるのである。男が、自分のあまり好みでも無い女性に、言葉巧みに性行為を強く求め、性交を成就させた直後、態度が行為の前とは打って変わり、急に冷ややかな態度に変わる、あの不可解な女性には信じがたい男の変わりようは、全てみな、エキス貯蔵タンクの充填内圧によって変化してくる生理現象そのものを表している。
 このエキス貯蔵タンクの内圧の上昇によって変動する男の性欲が、ピークに達した時、深刻で突発的な性犯罪が発生する。
 普段真面目で勤勉な、常識ある地位にある男が、ひと気の無い場所で若い女性に遭遇した時など、突然、衝動的に起こした行為が深刻な犯罪になってしまうという。これが男の持つ生理現象の怖さである。
  この怖い本能が爆発するタイミングは、男のエキスが貯蔵タンクに満杯になる時期に合致している。
 人間が繁殖のために身体に備えられた生理現象は、女性の方は月に一度やって来るが、男の危険な生理は、月に何度も巡って来る。いずれにしても、外目には格好よく綺麗に見えていても、人間の生理現象は、生々しい現実に支配されているのです。
 年頃の男の子を持つお母さん方、あなたのお子さんの自慰による性処理などを確認しても、決してとがめ立てしないで頂きたい。それが精一杯の男性の暴発を抑えるささやかで最低の暴発抑止の手段であるのですから。
 確かに、オナニーは、正常の性交とはまったく違う手段で、異性の体内とは大違いの空気中への射精であるから、真の満足感は得られないが、それでもエキス貯蔵タンクの内圧が下がる分、当面の暴発危機を先送り出来るので、これはこれで大きな役割を果たしいると言えるのである。

 年頃を迎えた娘さんを持った昔の母親たちは、こうした男の肉体の生理構造を知っていたためか、「白馬の王子様の姿をしていても、男の中身はみんな狼なのよ。気を付けてね。決して二人きりにはならないで。人目の少ない場所にはついて行ってはなりません」と、口を酸っぱくして言い聞かせていた。その親の気持ち、子の親になって始めて、よく分かる。

 この、いま申し上げた論理も、私が自分の肉体を通じて長年の経験と、同姓の親しい友人知人とのあからさまな情報交換によって得た私論である。故に、幾分の感覚的個人差があるかも知れないが、男の体の中に潜む悪魔のごとき性欲の暴発は、現実に存在する事実なので、心に留めておかれたいと願っている。

ーーーこれから先はーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
〇これから恋人が出来る「娘さん」だけが読めるブログ
(もう、既に、もてる男を手に入れてしまった女性は、この先を読んではなりません)

 人間、本来多数の異性にもてたいという本能がある。この本能が、他人を不幸にし、自分までも不幸にする要因になっている。
 もしそれが、繁殖の相手を探す手立てとしてだけの本能ならば、相手が決まり、繁殖にも成功し、子孫を残した既婚の奥様たちには、今更、外出の時の念入りなお化粧などは、必要無い筈である。しかるに、夫に会うことがあり得ない外出の時、尚更、念入りにお化粧などする女性が多い。女性にしてこうであるから、まして、雄の生体構造上、種蒔き器械の本性を遺伝子に持つ男性に「多くの女性にもてたい」という潜在意識があるのは当然のことである。

 問題は、これからである。一旦、相手を決めて結婚までした男は、他の女性に手を出すのは犯罪である。浮気のチャンスがあったとしても理性をもって抑えるべきだ。自分の意志で我慢すべきだ。結婚するとき、神様の前で誓ったではないか、生涯、女は貴女一人と!
 それなのに、裏切った。許せない!と、わめき立てる女性に分かって頂きたい。
 理想の彼女と結婚しても、もてる男はもてるのである。もてれば男は浮気する。隠れてもする。危険を冒してわざわざ危ない橋を渡るのである。
 どんな、理想の女を妻にしても、3年たてば恋愛感情をかき立てるホルモンの分泌が少なくなる。勘違いしてはならない。それは知り尽くしてしまった妻の体にに対してであり、女性全般に対してではない。というところに無限の危険性が潜んでいる。
 相変わらず、自分の好きなタイプには恋愛感情が湧いて出てくる。ましてや、妻より若い女性に、誘われるような視線を向けられれば、男の目には、もはや、「妻に悪い」も、「結婚式での愛の誓い」も、新しい恋の障害にはならなくなる。もう、これでは、男のよそ見、道草を止める有効な手立てなどあるわけはない。
 「鬼も十八、番茶も出端(でばな)」    
 昔からある人間の繁殖に最も適した成長の好適期の状況を表した言葉であろう。故に、この頃の女性はまさに、満開の花に相当する。辺りにフェロモンの薫りをまき散らし、雄のホルモン分泌を促進させる。その危険な花が、自分の男に近づいてくるのを妻にはそれを止める術はない。
 男にしてみれば、男性の欲望を満足させる若い女の蜜を目の前にして、断るのは、あまりにもったいない。「まあ、バレないように上手くやろう」と、性欲本能に翻弄される結果となる。
 前にも言ったが、この男の理性というものは、性欲の本能とぶつかった時は、太刀打ち出来ずにコロリと負けてしまう羽目になる。その弱さというものは、本人の性格ではなく神様が決めた体質であるから本人にはどうすることも出来ない本能である
 まして、奥様は盛りを過ぎて、肌も胸も、些か反発力が落ちてきているのに対して、敵は「十八、番茶も出端」の真っ盛り、肌はつるつる、弾力抜群、とても、身体の比較では奥様のかなう相手ではない。
 しかし、そんな危険な若いお相手が、もてる男が一歩外に出れば、とたんに「七人位は寄って来る」のは、男に格好良さがあるためである。
 それなのに、男には、異性の誘惑を断るほどの拒絶力が存在しない。相変わらず、自分の好きなタイプには性欲がムラムラと湧いてくる。
 ましてや、自分の妻は子供が生まれてからは、夫は他人だけれど子供は血を分けた親子だとばかり、夫に向けられていた愛情は、愛しい我が子に注がれるようになってくる。つまり、夫の身の上に、重大な変化が起きてきているのにも、妻はまったく気づかずにいる。また、男も気づかせないためにも、妻に対する性のサービスも滞りなく済ませるようになる。これでは妻も、外の恋愛に気が付く筈はない。男は少し余分に疲れるが、妻とのトラブルを起こさないために、疑われないためにも、最大限、努力している夫の姿がそこにある。
 もはや、これでは男のよそ見を止める有効な手立てなど世の中にあるわけはない。

 このように、女性が、男の普遍の愛を手に入れることがいかに難しいことなのかを、お気づきになれましたか?
 言葉の誓いなど、何の縛りにもなりません。書類に書いて残してもそれはただの紙きれに過ぎません。縛り付ければ縛り付けるほど、男の心が冷めていく過程に拍車を掛けてしまいます。つまりは、男は籠の鳥にはなれないのです。
 
 しかし、男はみんなこんなひどい不誠実な人間ばかりではありません。
 男の中の多くには、自分とまじめに付き合ってくれる可愛い女性がいるならば、自分は、何をおいてもその一人の女性を大事にしていこう。という男たちです。
 そんな男が、身の周りに沢山います。むしろ、そちらの方が一般的です。その貴重な男たちの存在が、あなたの目にとまらないだけなのです。
 なぜなら、そんな男は「顔」がイマイチだったり、格好があなたの気に入らなかったりするためです。
 でも、美人のあなたに、生涯、のどかな生活を保証出来るのは、この人たちしか居ない。と、わたしは思います。

 「面食い」の女性が選ぶ相手は、「女性にもてる男」すなわち「必ず女性トラブルが起こる男」を選んでいたのです。美人ゆえ、もてる男が手に入り、美人ゆえ、孤独になる条件が調っているなんて、寂しい話ですね。古語にある「美人薄幸」とは、こんな事でもあるのかも知れません。
 ウチの亭主はイケメンだけど大丈夫!!。それもありです。(勿論、浮気は、ばれるまでは潔白。ですので)

 今回、純情な娘さんたちのために、男の裏の「秘密本性」を暴いて見せました。
 まだ若くメルヘンの世界から抜けきらずにいて、男に対して純真な心のまま向き合っている「娘さんたち」のために書きました。
 純情な乙女たちのロマンを壊すような、少し、残酷な男の生理の話も敢えて語ってしまったが、白馬の王子様が豹変して「自己中」な狼に豹変し、いきなり嚙みついてくる。その場面で、自分はどうするのか、男の持つ、男自身が制御不能な厄介な本能をも受け入れていくのか、考えて、身構えて、状況を判断出来るようにと考えました。
 しかし、一旦欲情に火が着いてしまうと、男は拒絶されれば凶暴化する。大変危険な状況になる。という事もお知らせしたつもりです。
 また、男には、複数の男同士、共謀して牙をむいてくる事だってありうる生き物であることも、忘れていてはなりません。つまりは、二人きりにさえならなければ安全だ。という思い違いは、それは女性が持っている男をロマンチックに誤解している大きな間違いです。
 つまり、男にとって、若い純情な女の子は「狩りの獲物」なのです。行きずりの男に、「愛」などありません。あるのは「性欲」と、女の子を「まな板」に乗せるテクニックを、いかに、ロマンチックに演出するか、女の子が勝手に「愛」だと勘違いするように仕向けるか、の、知恵と技術を駆使するか、という「狩人の努力」だけだと思います。

 あなたは、今日、ここで知り得た「男学」の知識で、男の評価が変わりましたか?
 いや、あまり、変わっていないと思います。それはあなたが、まだ、男に対して持っているロマンを捨てきれずにいることなのです、

 女性には、「好きなタイプの人ならば噛みついてくれてもいいよ。」という人も多いから、あまり立ち入らずに、この辺でやめておく事にいたしましょう。

                                        2018.1.11.改訂   津島ぜんじん
                                         、

〇人間の尊さと生きる価値

 夕餉の席で、息子が唐突に話しかけてきた。
「ねえ、お父さん。天皇なんて、居なくてもいいって云う人、居るんだけど。」
「ん?」
「ただ居るだけで、お金が沢山掛かってるんでしょう?それがもったいないって。税金の無駄遣いだから、日本には要らないって云うんだけど、それってどうなの?」
「うーん。どうかな? 世の中には、いろいろな役割の人が居て、家を作る人。魚を穫る人、お米を作る人、歌を歌って人を楽しませる人、それぞれの人が、何か人のためになることをして、お金を貰い、生活をしている。その役割にも大きさがあり、大勢の人を楽しませたり、満足させたり出来る人ほど、貰えるお金が多かったりする。また、お金を取らずに、人々のためになることをしている人も居る」
「うん。それは分かる」
「日本の天皇は、国民みんなのために平和を願い、国民みんなの幸せを祈り、国民みんなが、そんな天皇を敬愛し、誇りに思う。そんな、国民のみんなから愛され慕われ、みんなの心を和やかにしてくれる。そんな人は、日本には天皇しか居ない。日本人には、天皇が生きていれば、お金が掛かるから、居なくてもよいと、云う人が一部には居ても、それ以上に、日本人にとっては掛け替えの無い天皇の存在を大事に思う人が多いから、国の象徴になっているんじゃないのかな。国のお金が掛かっても、国民の多くが天皇を慕い、そして大切に思っている。多くの外国人からも日本人は良い天皇を持っていて羨ましい、と云われているよ」  
「そうか、分かった!。オレ達と人間の重さが違うのか!」
「その通り!。天皇も、お前も、一人の人間として生きる権利は同じでも、日本国民として、世界に生きる人間としての重さが違うんだよなあ。」
「うん。」
「世の中に、要らない人は生まれて来ない。と、お釈迦様が言われたと言う。いくらお金が掛からない人だと云っても、一年12ヶ月、生き延びるために掛かるお金は最低でも百万円近くのお金が必要だろう。もし、本当に日本に要らない人が居るとしたら、たとえ、数十万円のお金でも「勿体ない」と云われるだろう。「日本には天皇が要らない」と云ってる人自体が、他人から秤に掛けられ、「日本国には要らない人」と、云われないように気を付けなければならないのかも知れないね。」
「そうだね」
「さあ、食事を先にして」
の、妻のかけ声に、食事の箸を止めて私の話を聞いてた息子が、すき焼きの鍋の中に肉を取りに行く。
秋も一層深まった。夜は冷える。鍋は旨い。

                                       平成29年、朝霜の降りそうな晩秋の夜。

〇黒にんにくという、不老長寿の妙薬を作る

 

 黒にんにく{当社商品名、プレミアム、ウルトラナッツ。及び、ウルトラ、スーパーナッツ}の開発にご協力頂き誠にありがとうございます。

 元々、私たち夫婦、戦前の昭和初期時代に生まれた前世紀人が、終戦のどん底からバブルの繁栄衰退の波を乗り越え、波瀾万丈の経験を経て半分魔物化しながらも、現代まで生き残りました。
 その豊富な経験記憶と次世代の人々に託す夢を乗せて、若い学芸員さんたちの専門知識を骨子に、おもしろい出し物やアイデアを具現化し、平和な現代の子育て世代の親子たちに、夢やチャレンジの刺激を与え続けることに生きがいを感じて、夢中で生きて来ました。 が、気付かずにいる内に、いつの間にか、本人の生体が老化しており、身体のあちこちから不調和音が聞こえて来始め、ぎしぎしと油ぎれを起こしている各所の関節ベアリング。
本人の許しも許可も得ずに勝手に出てくる咳くしゃみ、
「いやっ!。このくそ忙しい時にっ。!」おっと、これは、はしたないことを、ホホホ

 威力も気力も衰えてくる現象に、ついに、薬嫌いな我々夫婦も、一計を案じ、
「この時間の無いときに、暇な年寄りのまねをして病院通いなどしている余裕は無い。第一、我々には、年取っている暇なぞある訳はない。こうなれば、仕方がない。歳をとらない事を考えよう」
 一見、途方も無い無謀な発想に聞こえるかも知れないが、本人たちは一向に真面目である。国立大学の研究室から発表された研究報告をインターネットで発見するや
「山葡萄はアントシアニン、ポルフェノールが多くて、目が若返り滋養強壮の効果が抜群。 黒にんにくはあらゆる病気を予防し、一日一片で一日寿命が延びると聞いた。」 それならば、一日一片を食べ続ければ、永久に寿命が無くならない事になる。まして、一日2片ならば、逆に若返って行くはずである。(我ながら、この説には、かなり眉唾の感がある。大学の先生方もそこまでは保証していない。)
 日本の片隅で、おかしな年寄りが二人、意見と利害が一致し、夫婦、手分けしてこの事業に永遠の命を賭けて取り込むことになったのである。

  手始めに、青森県が、自慢して世に送り出している地場特産のにんにく「ホワイト六片種」。これを用いて特上質の黒にんにくを作ろうと云うのである。
 しかし、青森県は、既に、特産物として、黒にんにくの生産を大々的に行っている。薬効成分の高い「ホワイト六片種」で作ったサプリメントとしての「黒にんにく」は、大変好評で、数十社に及ぶ安定したメーカーが競って「黒にんにく」の生産販売を事業としている。青森県の特産物だけあって、購買額も巨大である。
 そんな世界に、体力も寿命も使い果たしてくたびれた年寄りが二人、超零細な家内工業パワーを以て、一体、何に挑戦しようと云うのだろう。
 大きな力を持つ「黒にんにく業界」に、殴り込みをかけようと言うのだろうか。馬鹿な!!。
 いやいや、勿論、同じものを作るつもりは無い。
 たまたま、自分の疲労回復のために、優れた薬効成分をもつサプリメントとして「黒にんにく」を買い求めて食したところ、食べずらい味や、にんにくの臭いが気になり、毎日は続かなかったのである。
 もし、これが、スナックやナッツのようだったら、ドライフルーツのようだったら。
どんなにいいだろうと考え、そして、思い立ったのである。
「黒にんにく」で、子供たちでも食べたがる、美味しいナッツのようなサプリを作ろう!。

 それから、試行錯誤の実験が始まった。
 目的は、こだわりの「ホワイト六片種」を原料とする。にんにくは熟成が進むと、辛さも酸味も、あの強い臭いまでもが、本来無かった甘味に置き換えられていく、しかし、そう簡単に完全熟成には至らないことが分かってきた。
 しつこく熟成を押し進めたら、苦みが出た。適度のところで加熱を止めれば嫌な味がや臭いが残る。
 手を変え品を変え、試行錯誤の2年半。しかして、ようやっと、出口が見えて来た。臭いも大分抑えられた。辛みはほとんど消えた。酸味も低い。えぐみも苦みも出てくる直前に温度を下げる。あとの課題は甘味を強くすることである。
 食べやすくする為にでも、甘味料や糖類を加える事はしたくない。あくまでも、原料本来の成分だけで、甘く、美味しいナッツに到達させたいと努力を重ねている。 

  試作品のモニタリングをしてくれている皆さんは、「市販のものとはまったく違う次元のものだ。これを食べたら、もう、市販の黒にんにくは食べる気にならない」と、評価してくれている。
 完成までは、後一歩。この、あと一歩が長い距離に感じている。
 この理想の、サプリ、
「プレミアム、ドライ、フルーツ」
「プレミアム、スーパーナッツ」の製造レスピが完成すれば、量産のための設備投資も必要となる。
  さらに、独自の販売ルートも確立しなければならなくなるだろうし、まだまだ、わたしの苦手な分野の開拓が控えている。営業、販売。この苦手の分野、誰かに助けて欲しいものだ。
                                              2017.3.8
                                                             fax:0178-67-2001
                                                                tsushima
 

〇ねこ家族日記。

今日もお出迎いごくろうさん。

  大寒を過ぎても、日が落ちると急にしばれがきつくなりだす。
それでも、ズブズブと雪をこいで、強引に車を駐車場に乗り入れると、
掻き揚げた道ばたの小さな雪山の影から、
聞き慣れたベンとシュウの合唱が聞こえてくる。
にゃあ、にゃあ、 にゃあ、にゃあ、にゃあ、と、叫びながら駈けてくる。
いつもの「おかえりにゃあさい!」のお出迎いだ。
わたしが、家に向かって歩き出すと、
2匹のねこが、わたしを先導するように先に立ち、
小走りに並んで前を進んで行く。
まるで、2頭立ての馬車に乗って帰る旦那様になった気分を味わえる。
ねこが、馬車を引く馬のように小走りにリズム軽に駈けるのは、
人間の歩く歩幅に早さを合わせるからであろう。
車から玄関までの30mは、わたしの貴族街道である。
                                                         '17.03.06.

草 
○政治家には「保護観察」が着いている 160424 .txt
人間には、いま持っている既得権を手放さないで、新たに欲しいものを見付けたとき、それも同時に所持したくなる事がある。例えば、良妻が居て、愛児が居て、平和で温かい家庭を持っている幸せな夫が、街で出会った若い女性の魅力に負けて、つい、関係を持ってしまったとする。その夫が彼女の恋の虜になり、そのまま家庭の平和を守りながらも、彼女との情念に溺れ、別れることも諦めることも出来ず、大きな荷物を二つ同時に必死に抱えて、その日、その日を取り繕って生きている。しかし、破綻の日は必ずやって来る。
大きな荷物と重い荷物は両手両腕で持ち腰を入れて全身で支えなければならない。もしバランスを崩せば、荷物が落下し、持ち主に怪我を負わせるか、荷物が壊れるか、いずれにしても持ち主は大切なものを犠牲にする。大きな荷物、重い荷物は、片手では持ちきれない。つまり、人間は、大きな荷物は一つしか持てない、という現実を表わしている。軽く小さな荷物なら片手で持てる。二つの荷物を両手に同時に持てる。大きな荷物を両手に持つという「いいとこ取り」 は許されないのがこの社会の摂理である。新たに大きな荷物を抱えたくなったときは、いま持っている荷物を手放す事が条件になる。どちらを諦めるかは本人の意思に任されている。しかし、どちらも同時に所持したい。諦められない。その願望を満たされない悩みも、人には耐えられない程の苦痛を与える。所謂、仏法で云う四苦八苦の煩悩の内の「求不得苦」と云われる大苦である。
最近、国会議員の不倫が大きく新聞に取り上げられ大ニュースになった。妻の出産時に、若い女性と不倫し、それがマスコミに知られて、本人はおろか、所属の政党にまでダメージを与えて、本人は貴重な代議士の座まで失ってしまったのである。これなどは、本人にとって、代議士の座と家庭の崩壊と、折角努力して積み上げた社会の信頼、そして潤沢な固定収入までも、その総てを一瞬にして失ってしまったのである。彼にとって、この不倫が、これほど大きな代償を払うほどの価値があろう筈はない。では何故、彼はこれほど大きな冒険を成したのであろうか?賢明な人たちには理解が出来ない愚行としか見えない筈である。つまり、彼は、自分が座っている 「座」 の窮屈さが分かっていなかったのである。彼が自ら望み、人々の信認によって座ったその代議士という名の「座」は、大寺院の高僧のように、学院の校長のように、「高潔」という器の呼び名でもあった。その「高潔の座」に座する者は、人々にとっては、到底出来ないであろう禁欲の世界、所謂、高潔な人間でなければ許さないという厳しい地位である。人々の代表となる政治家となれば、良識のある人間の見本とならなければならないのである。町内会長から市町村議員、それなりの人格と品位が求められ、市町村長、県会議員ともなれば、それはもはや、権威を伴った高潔な人品骨柄を要求される。もはや、金銭賭博を楽しむ事や、娼(水商売の女性)等と私的な交際をすることなど、庶民と同じ行動をとる自由は認められない。当然、疑念を持たれるような反社会的風体の者達との接触も回避する努力が必要である。職業政治家に選ばれた瞬間から、彼らは、四六時中、一挙手一投足あらゆる庶民から監視される。「壁に耳あり障子に目あり」、いわゆる「保護観察」付きとなるのである。いま問題を起こした代議士には、そのような基本的な認識が欠けていた。自ら望んで「高潔の座」に着いた者は、「私だって人間だから」とかの、自己弁護の言葉を発して庶民の譲歩を求める発言は、許されないことを知るべきである。
〇 私は、無知なる者故に得をしている。

 たまに、無知な人間が思いきった事に迷いなく突き進むのを見ることがある。 大抵の場合は失敗している。これに懲りて挑戦をやめてしまう者が多いが、また、性懲りもなく挑戦を繰り返す者もいる。 無知は無知なりに、失敗の原因を思い当たり、次の挑戦にはその原因を回避して再挑戦するが、また別の障害が発生して、やはりまた失敗を繰り返す。

 慎重な性格の持ち主は、最初から未知の分野に挑戦をしたがらない。もし、するとしても綿密な調査と用意周到な計画の元に実行するのだが、それでも、成功率に100%という数字は当てられない。 もし、成功率100%でなければやれないというのであれば、挑戦という言葉すら存在しない事になる。
 自慢じゃないが、私は無知なるが故に挑戦に向かって暴走するタイプである。挑戦しようとするものについて、あまり深く研究したり、ねほりはほり調べたりすることもしない。理由はめんどくさいのと、成功までの時間を短縮したい焦りのためである。 挑戦して成功するための下準備を始める事が、遠回りの道に踏み込むような気がして、挑戦の目的を思いつくと、矢も盾もたまらず最短距離を成功に向かって突進するという無謀な手段を実行する。 この挑戦法によるメリットは、結果がすぐに出るという事である。成功率が低くはなるが、失敗した時の精神的な落胆も小さい。それなりに資力も労力も少なく済んでいるからであろう。ダメージが小ぶりであるが故に、再挑戦の意欲も残存しているとも考えられる。 この性格は私の基本的生き方になっており、小さな事から人生航路のロングコースまで、「単純な思いつき」と、「挑戦」と「運」に左右されて生き続けて居る。

 ここに、初めて「運」という単語が割り込んで来る。 私の実感によると、人生の3分の1は自分の進みたい方向へ向かう意志と、それを決断して行動していくアクションが3分の1であり、残る3分の1は、その行動を阻害する事象に遭遇しないという「運」で構成されている。 「運」は自分の意志で決められるものではないと思われるが、一説には、普段の生活のなかで善行を積み重ねて行けば、凶運が幸運に変わっていくとも云われている。 このことは科学的な根拠などはないが、私は凶が幸に変わる道理を信じたい。 資本力や、学識に裏打ちされた才能もない者にとっては、「直感」と「挑戦意欲」だけで、成功ゲームに参加する事が出来る勇気と、希望が持てるのも、「運」の存在を信んじているから出来る事である。

 俗人の我々の心の弱さは、「運」を支配できない点にある。「運」を変える力はもっぱら神の司る領域にあるからだ。 中国に「人間万事塞翁が馬」という古い諺がある。北の国境近くに住む老人の飼い馬が、敵の領土に逃げていき、不運に見舞われたと思いきや、敵国から良い馬をつれて還ってきて、逆に良い結果になったと喜んでいたが、息子がその馬に乗り、落馬して足を折り、馬がいたのが不幸の種だと嘆いたが、敵が攻めてきたので、若者たちは皆、戦いに行き死んでしまったが、足を怪我した息子だけが戦いに行けずに助かった。というあらすじの話で、人の「運」は、「幸い」が「不幸」の原因だったり、「不幸」な事象が「幸い」を呼び込む原因だったりする。「運」は人智の及ばぬ領域にあるという事を示している話である。 しかし、神は、自らが持つ神通力に変わる能力を人に与えた。それが思考による自己暗示という能力である。人は不運に遭遇した時に、この能力を使い、幸運を呼び込む手法を効率よく用いて運を切り開いてきたのである。

  たとえば、一生を左右するほどの大事な約束があり、緊張しすぎて睡眠不足になり、よりによって朝寝坊をしてしまい、バスの時間に遅れそうになり、慌てて玄関で履き物に足を取られ転び、足首を捻挫してしまった男がいる。 それでも男は、気を取り直し、必死に足を引きずりながらバス停まで駆けつけたが、後、一歩のところ、目の前でバスの自動ドアが無情に閉まり、バスは男を振り切るように走り去って行った。 男は、足の痛さと、取り返しのつかない失敗と、自分の運の悪さに落胆する。 しかし、そのバスは、その先で、大きな事故に巻き込まれ、暴走トラックと衝突、横転しながら火だるまとなり、谷に落ちて乗客乗員全員死亡の事故に遭ったりする。 つまり、男は、足が捻挫し、将来の希望を失ったが、「運」が、失う命を取り戻したのである。いわゆる「大難、転じて小難となる」といわれる偶然が「不幸中の幸い」を生んだのである。 このように、何も良いことが巡って来ない低調な人生でも、「自分には運がついている。今日も一日、無事に過ごせた。ありがたいなあ」と思えれば、まんざらでもない人生に変わる事があるものである。

  隣り近所を見渡せば、一般的に、明るい人も、ネガテブな人も、そんなポジテブな性格の人を好んでいるようである。今日一日だけでも、自分に暗示をかけ、ポジテブになってみよう。 そして明日も一日、また一日と、陰気を陽気に代える努力をしている内に、そのうち、瓢箪から駒が、嘘から誠 が生まれるように、自分では気づかないでいる内に、心地良いことが、静かに近づいてきていて、「幸運」が、後ろから急に声をかけて来るかも、知れません。 知らず知らずの内に、ネガテブな人が、ポジテブな性格に変わっていく、その生き方を教えてくれる人がいることを、近くにある天理教の、教会での講話で知りました。 すぐ身近に、こんなにおだやかに、悲痛な苦しみを和らげてくれる人たちが住んでいたのです。                                                 2016.3.9.
〇「郷愁」のエネルギー

無知なわたしが、
無意識にたぐり寄せようと懸命に、
そして夢中になって求めてきたもの、
わたしのなかで、わたしの生きる目的までも支配してきたもの、
それが「郷愁」であることに気が付いたのは、
生まれて70年の人生を消化したある年の、
晩秋の孤独な朝のことである。
多くの人々の、心の中にある生きるための大きな目的の影に、
ひっそりとしがみついているそのひとりひとりの「郷愁」が、
ある日。
静かに、唐突にその人に語りかける。
早春の朝に、夏祭りのお囃子が風にのって聞こえてきた時に、
秋の日の夕暮れに、赤く染まった雲を見た時も、
年賀状に懐かしい名を見た時にも、
「郷愁」は、人を動かす。
汽車に、路線バスに、故郷に縁をたぐり寄せてくれる渡し船に、
時間と人とに、身を預け心を委ねる。
訪ねても、そこには、昔のままの自分はいないのも分かっている。
大切な、大切な、自分を育ててくれた「ふるさと」は、もう、そこには無くなっている。
子どもの頃に、一緒に遊んだ仲間たちも、そこにはいない。
日暮れまで遊んだ神社の森も、
こんなに小さなスペースだったのかと、すこし、寂しくなったりする。
自分が生まれ、自分が育った自分の家。
「ただいま!」と、何のこだわりも無く入れた玄関も、
今は、姿を変えて他人の家。
そんな不思議で、もの哀しい思いをしても、
人はやはり「故郷」に帰りたくなることがある。
それだけ強力なエネルギーを潜めている「郷愁」とは、
ひとが、老いていくほど強くなる「望郷」の念とは、
そんな、はかなく、哀しい、大切な「郷愁」を、
それでも、わたしはわたしの人生のなかで、
もっとも、大事な人生の財産としておきたいのです。
                         2013,9,24.     津島ぜんじん。


○あなたの恋、その恋、危ないですよ!。160223
 1,恋人入門純情編                               津島ぜんじん
  好きな人が出来たら、周りの皆に祝福されて結婚するのが最上の幸せなのは分かっている。しかし、男女の縁と言うものは、そんな理想的な組み合わせになるとは限らない。むしろ、人に迷惑を掛けたり、苦しませたり、悲しませたりしなければ当事者の願望が叶えられない場合が多いものである。  「恋の成就」が即、人に迷惑が及ぶケースの場合、それでも当人が幸せになるためには、敢えてそれを強行するかどうかの二者択一の判断は、すべて当人たちの「決断」にかかっている。 大抵、他人の不幸の上に成り立つ幸せの構図は、それを得たときの有頂天な到達感の持続時間が、犠牲の大きさには比例せず、その幸福感が短命で終えるパターンが多いものである。それでも、このケースに嵌まったカップルの選択が「破滅の道」と云われている道を選ぶ事例が圧倒的に多いのは、やはり「恋は魔物」という事なのだろう。    高度な知性を得た人間が、文明の始めに手に入れた知識は、ものを比べて価値を判断する知恵である。即ち、物と物とを天秤に掛けて量を知り、質を知り、価値を知る。所謂、比べて計る天秤(てんびんはかり)の出現である。 しかし、この人間の英知が生み出した計量技術を以てしても、「本物の恋」は、どんな秤でも計れない。分銅となる比重物に「金」を使おうが「ダイヤ」を載せようが、比較して「対」を成す物が存在しないのである。
  因みに、「偽物の恋」は、簡単に秤(はかり)に掛けられる。  たとえば、ダイヤモンドならば何カラット、黄金ならば何キログラム。「成婚」の条件としての財産や資金の有無、「愛」を有価物と天秤に掛けて重さを計り、価値を判定して商談成立する。これを「商品化」と呼んでいる。
  本物の恋は、「値」という概念は通用しない。相手の「真心」意外に「対価物」が無いのである。故に、真実の恋は「商品化」出来ないのである。そこに、他を壊しても、人を傷つけても、結ばれざるを得ない「はた迷惑な真実の恋」が、誕生する所以がある。                                                     
ここで、筆者の個人的な都合により、この先の文を読む読者を限定する事に致しましょう。読んで欲しい人は、 〇現在、誰かに本当の恋をしている。  それが基本条件で、
 〇恋をしている故に、他のことに集中出来ず苦しんでいる。
 〇自分の恋には障害になる人がいる。
 〇自分の立場では現在の恋が許されない。
 〇恋を成就させたいが、お金がないのでこの先進めない。
 〇職業や環境が障害になっている。
 〇容姿に自信が持てないから、自分の気持ちを押し出せない。
 〇自分の恋を実らせる為の、その手法が分からない。
 〇勇気を出して思い切って肉体関係に進めない。
 ◎相手の気持ちが「本当なのかどうか」分からない。
上記各項のいずれかにも該当しない人はここでお別れです。
「長々とお付き合いを頂き、誠にありがとうございました。では、おやすみなさい。」
それから、ここでお別れしたい人は、まだいます。
 ◎容姿、風貌が優れ、異性にモテモテの人は、わたし達の同類項に入っていないので、ごめんなさい。お別れです。
 〇教養が高く、こんな低級な文章を読む必要がない人。
 〇人の文章を読めば批判したくなる人。そんな方も、この先の文章を読み進める事はご遠慮下さい。

 さてと、これでトラブルの原因が無くなったことでもあるし、そろそろ、 これから、世の中に混乱を起こし兼ねない危ない「真実の言葉」を云うことにいたし ましょう。 これから、読者は、誰も語ってくれない「真実の言葉」を聞くことになる。 筆者は、誰をも不幸にしたい目論見で言葉を語ることはない。 現在、自ら陥った「真実の恋」に翻弄されて、迷い、悩み、苦しんでいる老若男女の悪夢に「一滴の解毒剤」を進上して、「少しでも苦痛からの脱却の道筋が見えてくれたら」との、思いからの提言であることをご理解して頂きたい。 筆者の語る言葉が、聞いた者を、必ず幸せにしてくれるという事はない。むしろ「真実」を知る事によって、自分の姿を客観視し、尚さら不幸な自分と向き合う事になることもある。その現実をも受け入れて自分の進む道を見付けて欲しいと願っている。 これから私の言葉を聞く者は、その後は、自己責任において善後策を判じて頂きたい。故に、自己責任を持てない読者はこの先の文を読むことを禁ずる。

(第一のテスト)
 それでは、はじめに、その恋が成就するためには、大きな障害がある場合のコースから始める事にしよう。 まず、あなたのその「恋」が、本当に純粋な「恋」なのかどうかを知りたい。 もしかすると、あなただけが純粋の恋をしていて、相手がそうでなかった場合は、話の進む方向はまったく違ってくる。その場合は、スタートラインから出直さなければならなくなる。が、今は兎も角、相思相愛の純粋な恋愛であるとして話を進めたい。 もし、あなたの「恋」が、所謂、許されざる環境にあって、尚も、相思相愛の「本当の恋」であったならば、行き着く先には、愛を振り切り、孤独を道連れにした悲しい結末が待っている。 或いは、他の総てのしがらみを振り切って得た社会的には絶望的な、孤立した幸福絶頂の姿が見えてくる。即ち、ここで、愛し合う二人が辿り着くその先は、大海の荒波を乗り越えて絶海の孤島に辿り着いたと表現出来る。つまり、この恋の行く末には絶望的な孤独か、総てを捨てた恋の成就か、この二者択一の道しか無いと言える。 しかし、この例は、あなたにとっては最高に恵まれた条件下に置かれた場合を想定している。なぜならば、あなたが恋の成就を諦めた場合、失うものは大変貴重ではあるが、「時間」だけである。 または、恋の成就のために総てを捨てても、最高の幸福感が手に入る。そう考えると、この件に関しては「大損」はない。それは、相思相愛の条件を満たしているからである。 しかし、人の世というものは、そんなに甘いものではない。これから行う「恋愛テスト」に依って、あなたの心は奈落の底まで落ちて行く可能性が残っている。 まず、あなたのその「恋」が、あなたが思い込んでいるように「相思相愛」かどうか、それを知りたい。
 本当に愛し合ってしまった恋人同士ならば、一刻(いっとき)たりとも離れていたくない心境になるものである。時間が経てば必ず一緒にいられるようになるという保証があったとしても、それで安心して、長時間、恋人に会わずにいられるというものではない。それが恋に落ちた二人に襲いかかる本能慾である。「愛別離苦」という。仏教の経文にある四苦三十六、八苦七十二、合わせて百八つの煩悩の内に示される人間には耐えがたい苦しみを表す八大煩悩の一つで、生身の人間にはとても耐えきれない苦しみである。出家して仏門に入った僧が、煩悩を断ち切り、少しでも仏の境地に近づくために行う厳しい「修行」の内の一つに数えられる。 後に仏教の一宗派を打ち立てた程の高僧でさえ、恋する異性の魅力を振り切る力を得られず苦しんだという話を、聞いたこともあるだろう。 菩提樹の木の下で、「悟り」を開いた釈迦でさえ、死ぬ程に苦しみ抜いた「煩悩」との戦いの話は有名である。
 話が横道にそれたが本題に戻ろう。 自分の「いのち」が、誰のためにあるのかさえ分からなくなりかけている「あなた」の深刻な「恋ごころ」。 いま、この時間まで何時間、恋人に会えずにいましたか?。 会いたいでしょう。まだ、大丈夫ですか?。 苦しいでしょう。そうでしょう。 そうです。それはあなたの「恋」が、純粋な「本当の恋」だからそうなんです。 きっと、相思相愛のあなたの恋人も、今頃、あなたに会いたくて、会いたくて、何も手に着かなくなっているに違いありません。その現象を「相思相愛」と云うのです。 「相思相愛」は、人々から、自由奔放な行動の権利を奪う様々な制約が重なり合っていた封建時代と違い、現代では、環境が昔とは違ったせいか、純真な恋愛は、かなり発生しづらい状況になってきている感じがする。 そんな世の中でも、あなたが本当の恋をしてしまったから、あなたの「こころ」は、まっすぐ恋のゴールに向かって走り続けているのです。 しかし、いま、あなたの肉体は固まった溶岩のように動きません。その願望と現実との狭間に閉じ込められたあなたの「恋ごころ」は、苦しみもがき喘いでいます。 きっと、あなたの恋人も、いまのあなたと同じ苦しみの渦中にいます。
 わたしは、純粋な恋、本当の恋に見合う代価は、相手の相思相愛の「真心(まごころ)」だけだと云いました。 物事(ものごと)総てが手に着かなくなったあなたに、「気を紛らわすために、他のものに目を向けるように」とか、「そのことは早く忘れてしまいなさい」と、いう人がおりますが、その人は、自分が「本当の恋」を体験したことが無い人か、或いは、経験があっても当時の純粋な人間だった自分の姿を忘れてしまった人なのでしょう。 そうです。あなたの、その相手を思う純粋な心を、他の何かとか、別の言葉に置き換える事なんて出来る筈など無いのです。 あなたの真剣な「こころ」だけは、脇目も振らずにあなたの思い続ける相手の元に、真っ直ぐに駈けて行きます。しかし、想いだけでは、駈けても駈けても、恋の道の終着点には着きません。 でも、あなたは期待をしています。「相手も、自分と同じ気持ちでいるならば、あの人は、必ず、二人の間にある障害を打ち壊し、わたしに会うために、わたしと堅く結ばれるために、わたしの元へ走って来るに違いない。必ず、わたしを迎いにくるだろう。」と、
 これまでは、あなたの心が真剣な「真心の恋」であることの検証でした。 あらためて、あなたの立場から、今度は、あなたの思い続ける「相思相愛」の相手を、少し他人の目から客観的に見てみることにいたしましょう。  すこし、怖い気がするでしょう。 いや、少しばかりか、もし、相手の心が、自分と違う比重の恋であったら、 もし、この自分の深刻な愛が、相手にとっては「秤(はかり)」に掛けられる程度の余裕をもった「恋」だと判ったらどうしょう。 もし、この自分のいのちを賭けたこの愛が、自分の一方的な「片想い」だと判ったら、どうしよう。そんな不安があなたのこころを襲います。「いや、絶対に、そんな結果はあり得ない」だから、「そんな相手を勘ぐるような失礼な思考はするべきではないのだ。」という結論が出てきます。 しかし、自分の心に一抹の不安をも残さぬように、この際、徹底的に確かめて置いて、微塵も疑惑が湧かないようにしておくべきだ。とも考えています。 確かに、心の片隅には、「相手の真の姿も知っておきたい」という怖い願望が潜んでいて、それでいて、その願望の存在感はかなり強い筈である。 しかして、あなたは、迷い悩んだ末に、次のテストの扉を開くでしょう。
  いままでも、繰り返し申し述べてきた通り、この章のわたしの「恋の助言」は、「相思相愛の真実の恋」の場合が助言の条件になっています。 もし、いまのあなたの恋愛が、あなたの一方的な気持ちだけが先行しており、相手には心に余裕があり、あなたの「純粋な恋」に対応する「純粋な愛」には達していないと判った時、それに対する対応の手法は、次の機会、そのケースの「合理恋愛の章」に申し述べることに致しましょう。

それでは、第2のテストに入ります。
〇あなたの恋人は、
 ―「愛してる」、「会いたい」と、云いながら、メール、電話だけで一ヶ月もあなたと会わずにいられる。
 ―「あなたを信じているから、大丈夫!」と、二、三日連絡しなくても怒らない。
 ―「自分にも仕事の付き合いや、打ち合わせがあるから、あなたの行動も理解出来る」と、他の異性と二人だけで会ったりしていてもお互い気にしないことにしようと云う。
 ―「自分にはまったくその気は無いけれど、相手は結構自分にご執心。でも、怒らせられないお客さんだし、仕方がないから、気を付けながら付き合っている。自分はまったく大丈夫。」と言う。
 ― 聞きもしていないのに、自分の環境での異性の接触について「無責任な噂にまでなっていて、困っている。」などと、先手を打って釈明してくる。
  ― 恋人の接触している異性について、気になる事を聞くと、明解に説明する事ができない。又は、辻褄の合い過ぎる話を妙に軽快に話す。或いは、話題を逸らす。若しくは、イライラとして怒り出す。
 ― 親しくしている異性について、しつこく問い正すと「その人は、身内の人間だ。」または「恋とか愛に、関係ない親しい家族か身内のような人間だ。」と言う。
 ― 外泊の理由は、「同窓会のグループ旅行だ。」又は「職場の慰安旅行だ。」「自分は幹事だから、旅行先の下見があった」又は「仕事のための出張だから仕方がなく行っている」と言う。
 ―「理解ある恋人を持った自分は幸せ者だ。」と言う。
 ― 恋人は、不思議なことに、あなたが他の異性と二人きりで食事しても嫉妬しない。
  ―「仕事だから」と、再三、遅い時間まで待たされる事が多い。
 ― 今回も「出張だ。」は、何か、ある。と、感じる事もある。
 ― 自分と居るときに掛かってきた電話には出ない。もし、出るときは、必ず席を外して会話をしている。または、メールでの短いやりとりが多い。そしてそのメールは「即」消去される。
 ― 恋人に電話かメールが入ったあと、恋人はトイレに入ることが多い。
 ― デートの時のトイレタイムが普段より長い時は、出てきた後、二人の心が溶け合っていないのを感じ取れる。
  ― 〇あなたの恋人は、「あなたに毎日会いたい」との意思表示はありますよね? その意思は、直接あなたに「直」に伝えておりますよね?二人で会って、
         *********
 いま読んだ箇条書きにした項目の中に、「そう言えば?」と、気になる箇所が複数箇所ありますか?
前項の、箇条書きに、気になる条文が無かった人は、本当に果報な人です。
その方は、次の --------    -  の場所まで飛ばして、その後を読んでください。その他の人は、そのまま読み続け進んで下さい。
 ― の質問条文に「こころ当たり」が数カ所もあるなら、あなたの恋人には、肉体関係を伴う経済支援者、若しくは、恋人が居ます!。   あなたが、恋人から、本当に愛されているとしても、あなたの恋人には深い仲の交際相手がいます。純情なあなたには理解出来ないでしょうが、人間は、複数の相手を同時に深く愛することが出来る能力を備えています。そして、複数の相手と交わりながらでも、本当の恋人を特定できるものなのです。ですから、複数の恋人がいても不思議な現象とは言えないのです。 また、もしかしたら、恋人にとって、熱く湧き出た感情の泡が、消えていく過程に入っているのかもしれません。ですが、あなたの心を気遣い、敢えて二人の中を壊しまいとしてくれているのかも知れないのです。 わたしの、こんな、冷たい言葉を、あなたの心が、受け入れられない事は分かります。 あなたは、信じていたいのです。無二の「愛」を、永遠の「愛」を、恋人のあの時の「永遠の誓い」を、「幻の愛」を、信じていたいのです。いまのあなたにとって、「恋人」はあなたの「いのち」そのものなのですから、 いまここで、恋人を失えば、あなたは生きても行けません。だから、失うことができないんです。
  しかし、あなたの純粋な「本当の恋愛」は、あなた一人を置き去りにして、消えました。あなたはそれを受け入れることなど、出来るわけなど、あるわけ、ないでしょう!!。
   でも、現実の人間の世界なんて、それが本当の姿なんです。分かって下さい。人の世に、本当の愛は確かにあります。あなたが手に入れた「本当の愛」も、「真実」でした。
   ですが、分かってください。人の世の真実を、人の心の中に湧き出る「純粋な真実の気持ち」と言う永遠に続きそうな「恋」も「愛」も、実は、人間の創った、浮き世の深い沼の水面に湧き出た「一沫の泡」なのです。
   だから、時が経てば、跡形も無く消えて無くなるのです。そのあとに、その時吐き出してしまった「永遠の愛の誓いの言葉」だけ、空しく残ってしまうのです。
   しかし、人の心に焼き付いた耳に心地よい「愛の言葉」が、一抹の泡として消えて行くその時間には、人それぞれの性格に依って時間差があります。その時間差が大きな悲劇を生んでしまうのです。
  もし、一度、友人知人、親戚、神様の前で、声高らかに永遠の愛を誓いの言葉を宣言した人間が、一生、その言葉通りに、愛を信念に代えて一生守り通せるものならば、世の中に離婚騒動など起こりません。
  愛の感情の泡の消えて行く時間に、差が出来るのも、問題が起きる原因になっています。一人は関係を終わらせたい。だが、その時、相手は、まだ、終わらせたくない。一生愛すると言った。あの約束はどこへ行った??。
  人間の持って生まれた「デタラメさ」。神妙な顔をして、真剣に約束したことをあたかも無かったことにしたい。その「いい加減さ」。それが人間なのです。
  一つの真剣な恋愛が終わるたびに、人は、人間学の一つの単位を修得します。でも、こうも考えられるんです。 一時でも、愛されたことがある。純粋な愛を受け止めたことがある。それを大事にしまっておこう。それだけでも、人生では、輝ける宝石のような経験なのです。見なさい。それすら、気づかないで通り過ぎて行く「いい性格の人たち」がおります。 それに比べれば、あなたは今回、つらい目には遭いましたが、一回り大きな人間になれました。 では、次の経験学習のコ―スに進むことに致しましょう。次回また;会いましょう。
--------------------------------------
あなたは、「純愛」を得た珍しく幸せな方です。また、一歩進んで「合理的恋愛」のお話をすることに致しましょう。
では又。次回お目に掛かりましょう。  津島ぜんじん

〇醍道寺彩子の思い出日記

 もう、あれから20年も経ちましたね、 人間の事を、真剣に語り合った時代もありましたねえ。お互いに若い頃でしたわ。 二人の間には、なにか一つ足りないものがあるらしく、恋人になるでもなく、それでいて互いが必要で、毎日会って語り合わなければ、一日を終えられない仲の二人でもありましたねえ。 懐かしくて、今でも時々、思い出してあの頃の心の中のアルバムをめくって、青春時代の情景の世界を徘徊しています。 卒業間近の学園近くの喫茶店、洋風の窓際のテーブルを挟んで、時々は淀んだ川面に目を落としながら、冷めたコーヒーを間をおいて一口づつ大事に啜りながら、少し大人になってから気が付いた人生の一大事を、生まれたての知識人のような口調で語り合った事を、昨日のように覚えています。 高校生活、最後の秋が一日一日過ぎて
行きます。  晴れた日は、神社の銀杏の黄色い葉を二枚拾って、日時を書いて文庫本のしおりにしました。時雨の降る日は、雨傘の柄を二人で握って駆け込んだいつもの喫茶店。あなたは右の肩、わたしは左肩、秋の名残が冷たく浸みてきても、哀しみに包まれたかけがいのない幸せがわたしの胸の中の小さな空気袋を、なおもキュウと押さえつけてくるのでした。

10月30日
 日の落ちるのが早く、晩秋の川面に広葉樹の葉がまばらに浮かぶ黄昏時。 「人間失格」を読んで気が付いた恐ろしいことを論じるあなたの目に、怖れと怒りを含んだ感情が満ち溢れておりました。 あなたを苦しめている、人間がその高い知性で作り出した重くて暗い幻想の世界は、若いわたし達には、おいそれとは解答が見つからない闇のなかに生きておりました。

11月7日
 人間が自ら作り出した生きるための意義づけをして、「人間の生きる目的は、性行為を以て繁殖することが目的である。」というのも、ただのかっこつけっぽく、それにも無理がある。 しかし、「人類に与えられた使命は、アンドロメダにピラミッドを建てなければならぬ」とかいう絶対的な宿命が生きる目的になっているとかならば、分かる。それほどでもなくても、「立派な家を建てるンだ。自分はそのために生まれてきたんだ!」とか、「金の洋服を着れれば死んでもよい。人生の目的は果たし終えた。」と、欲深い人間達が、そんなことを人類の意義として受け止められるはずもない。    人間が生まれ、生きている意義と目的は 何か、
                                                                                 
11月10日
 生まれたのは偶然。生まれた目的は死ぬこと。生きている意義など存在しない。 その頃の若者の間で良く語られた俗語。「先生とは、先に生まれただけの人」、 或いは、「まず、生きているだけ」。生徒は、「いたづらに生きているだけ」などと言葉遊びの材料になりました。 人間の持つ絶対的な本能、「食欲」を人間の生きる意義に即位させれば、「人間がこの世に存在する意義は、食べる為である」となり、人類の存在意義はあまりにも情けない価値と目的になりますよね。 なんとしてもその答えを知りたいあなた。

11月12日
 果てしない思考の果てに行き着く闇の中の絶望的な結論しか、ないのだろうか?。  その答えを探しあてないかぎり、哀しみに覆われ、光の無いうつろな瞳に、若者の生気が還ってこないあなた。

11月16日
 そのとき、あたしは、わたしには無くてはならないものを知ったの!。「そうよ!。わたしにとって、何ものにも代え難いかけがいのないもの。今のわたしにとって、人類の存在意義よりもっと大切なものを知ったのよ!。」 そのとき、わたしには聞こえたの。「わたしという、一人の人間にとって、いのちを賭けても守らなければならないほど、かけがいのないものは、わたしにとっては、わたしの愛する人間なんだ!」 わたしは生きよう!。人間、ひとり一人の大切なものがみな違うでしょうけど、自 分の愛する人間のいのちを守る事こそ、わたしの魂が最も活きる時なのかもしれない。

11月20日
 そう言えば、巷でよく聞く大人達の言葉。「自分の命が一番大事だ。それこそ、かけがいのないものだ。自分の命を脅かす者達のそばに寄るな!人とは決して争うな!」と、大きな声で人に言う。 しかし、人の世では、武器を手にしない弱い者にも、欲しい物を奪う為には平気で人を殺せる悪人はいる。それでも良心を持たない強い者には何をされても逆らえない。「それでは、お前の子どもを殺してもよいのか?。」と云われたとき、自分の身を投げ出すか、それとも、愛する人を見捨てられるか?「命を賭けてもお前と戦い、この子を守る!」と、云えるだろうか?。

11月21日
 果たしてわたしは、誰かにとって、人間として存在価値のある人なんだろうか?  わたしには、まだ、地位もお金も無いけれど、その割に、悩みや迷いはあるけれど、幸せな事にとても愛する人がいる。それだけで充分です、
 神様!。わたしに愛をありがとうございます。
 ほんとに、ほんとに、ありがとう。