〇「郷愁」のエネルギー

無知なわたしが、
無意識にたぐり寄せようと懸命に、
そして夢中になって求めてきたもの、
わたしのなかで、わたしの生きる目的までも支配してきたもの、
それが「郷愁」であることに気が付いたのは、
生まれて70年の人生を消化したある年の、
晩秋の孤独な朝のことである。
多くの人々の、心の中にある生きるための大きな目的の影に、
ひっそりとしがみついているそのひとりひとりの「郷愁」が、
ある日。
静かに、唐突にその人に語りかける。
早春の朝に、夏祭りのお囃子が風にのって聞こえてきた時に、
秋の日の夕暮れに、赤く染まった雲を見た時も、
年賀状に懐かしい名を見た時にも、
「郷愁」は、人を動かす。
汽車に、路線バスに、故郷に縁をたぐり寄せてくれる渡し船に、
時間と人とに、身を預け心を委ねる。
訪ねても、そこには、昔のままの自分はいないのも分かっている。
大切な、大切な、自分を育ててくれた「ふるさと」は、もう、そこには無くなっている。
子どもの頃に、一緒に遊んだ仲間たちも、そこにはいない。
日暮れまで遊んだ神社の森も、
こんなに小さなスペースだったのかと、すこし、寂しくなったりする。
自分が生まれ、自分が育った自分の家。
「ただいま!」と、何のこだわりも無く入れた玄関も、
今は、姿を変えて他人の家。
そんな不思議で、もの哀しい思いをしても、
人はやはり「故郷」に帰りたくなることがある。
それだけ強力なエネルギーを潜めている「郷愁」とは、
ひとが、老いていくほど強くなる「望郷」の念とは、
そんな、はかなく、哀しい、大切な「郷愁」を、
それでも、わたしはわたしの人生のなかで、
もっとも、大事な人生の財産としておきたいのです。
                         2013,9,24.     津島ぜんじん。