〇 私は、無知なる者故に得をしている。

 たまに、無知な人間が思いきった事に迷いなく突き進むのを見ることがある。 大抵の場合は失敗している。これに懲りて挑戦をやめてしまう者が多いが、また、性懲りもなく挑戦を繰り返す者もいる。 無知は無知なりに、失敗の原因を思い当たり、次の挑戦にはその原因を回避して再挑戦するが、また別の障害が発生して、やはりまた失敗を繰り返す。

 慎重な性格の持ち主は、最初から未知の分野に挑戦をしたがらない。もし、するとしても綿密な調査と用意周到な計画の元に実行するのだが、それでも、成功率に100%という数字は当てられない。 もし、成功率100%でなければやれないというのであれば、挑戦という言葉すら存在しない事になる。
 自慢じゃないが、私は無知なるが故に挑戦に向かって暴走するタイプである。挑戦しようとするものについて、あまり深く研究したり、ねほりはほり調べたりすることもしない。理由はめんどくさいのと、成功までの時間を短縮したい焦りのためである。 挑戦して成功するための下準備を始める事が、遠回りの道に踏み込むような気がして、挑戦の目的を思いつくと、矢も盾もたまらず最短距離を成功に向かって突進するという無謀な手段を実行する。 この挑戦法によるメリットは、結果がすぐに出るという事である。成功率が低くはなるが、失敗した時の精神的な落胆も小さい。それなりに資力も労力も少なく済んでいるからであろう。ダメージが小ぶりであるが故に、再挑戦の意欲も残存しているとも考えられる。 この性格は私の基本的生き方になっており、小さな事から人生航路のロングコースまで、「単純な思いつき」と、「挑戦」と「運」に左右されて生き続けて居る。

 ここに、初めて「運」という単語が割り込んで来る。 私の実感によると、人生の3分の1は自分の進みたい方向へ向かう意志と、それを決断して行動していくアクションが3分の1であり、残る3分の1は、その行動を阻害する事象に遭遇しないという「運」で構成されている。 「運」は自分の意志で決められるものではないと思われるが、一説には、普段の生活のなかで善行を積み重ねて行けば、凶運が幸運に変わっていくとも云われている。 このことは科学的な根拠などはないが、私は凶が幸に変わる道理を信じたい。 資本力や、学識に裏打ちされた才能もない者にとっては、「直感」と「挑戦意欲」だけで、成功ゲームに参加する事が出来る勇気と、希望が持てるのも、「運」の存在を信んじているから出来る事である。

 俗人の我々の心の弱さは、「運」を支配できない点にある。「運」を変える力はもっぱら神の司る領域にあるからだ。 中国に「人間万事塞翁が馬」という古い諺がある。北の国境近くに住む老人の飼い馬が、敵の領土に逃げていき、不運に見舞われたと思いきや、敵国から良い馬をつれて還ってきて、逆に良い結果になったと喜んでいたが、息子がその馬に乗り、落馬して足を折り、馬がいたのが不幸の種だと嘆いたが、敵が攻めてきたので、若者たちは皆、戦いに行き死んでしまったが、足を怪我した息子だけが戦いに行けずに助かった。というあらすじの話で、人の「運」は、「幸い」が「不幸」の原因だったり、「不幸」な事象が「幸い」を呼び込む原因だったりする。「運」は人智の及ばぬ領域にあるという事を示している話である。 しかし、神は、自らが持つ神通力に変わる能力を人に与えた。それが思考による自己暗示という能力である。人は不運に遭遇した時に、この能力を使い、幸運を呼び込む手法を効率よく用いて運を切り開いてきたのである。

  たとえば、一生を左右するほどの大事な約束があり、緊張しすぎて睡眠不足になり、よりによって朝寝坊をしてしまい、バスの時間に遅れそうになり、慌てて玄関で履き物に足を取られ転び、足首を捻挫してしまった男がいる。 それでも男は、気を取り直し、必死に足を引きずりながらバス停まで駆けつけたが、後、一歩のところ、目の前でバスの自動ドアが無情に閉まり、バスは男を振り切るように走り去って行った。 男は、足の痛さと、取り返しのつかない失敗と、自分の運の悪さに落胆する。 しかし、そのバスは、その先で、大きな事故に巻き込まれ、暴走トラックと衝突、横転しながら火だるまとなり、谷に落ちて乗客乗員全員死亡の事故に遭ったりする。 つまり、男は、足が捻挫し、将来の希望を失ったが、「運」が、失う命を取り戻したのである。いわゆる「大難、転じて小難となる」といわれる偶然が「不幸中の幸い」を生んだのである。 このように、何も良いことが巡って来ない低調な人生でも、「自分には運がついている。今日も一日、無事に過ごせた。ありがたいなあ」と思えれば、まんざらでもない人生に変わる事があるものである。

  隣り近所を見渡せば、一般的に、明るい人も、ネガテブな人も、そんなポジテブな性格の人を好んでいるようである。今日一日だけでも、自分に暗示をかけ、ポジテブになってみよう。 そして明日も一日、また一日と、陰気を陽気に代える努力をしている内に、そのうち、瓢箪から駒が、嘘から誠 が生まれるように、自分では気づかないでいる内に、心地良いことが、静かに近づいてきていて、「幸運」が、後ろから急に声をかけて来るかも、知れません。 知らず知らずの内に、ネガテブな人が、ポジテブな性格に変わっていく、その生き方を教えてくれる人がいることを、近くにある天理教の、教会での講話で知りました。 すぐ身近に、こんなにおだやかに、悲痛な苦しみを和らげてくれる人たちが住んでいたのです。                                                 2016.3.9.