松濤美術館で「ガランスの悦楽 没後90年 村山槐多」展を観た!
青木繁28歳、中村彝37歳、岸田劉生38歳、古賀春江38歳、村山槐多22歳、前田寛治33歳、佐伯祐三30歳、関根正二20歳、三岸好太郎31歳、靉光38歳、野田英夫30歳、松本俊介36歳・・・、日本の近代洋画の画家たちは多くが短命であったのに驚いたと、酒井忠康はその著書「早世の天才画家」の中で述べています。関根正二や村山槐多は、20歳代半ばにも達せずに、彗星の如くこの世を去っています。もちろん、早世した画家だからすべてが素晴らしいというわけではありませんが、上に挙げた画家たちは僕にも気になる存在でした。ほかにも菱田春草37歳、速水御舟41歳、外国ではモディリアーニ36歳、エゴン・シーレ28歳といったように短命の画家は枚挙にいとまがありませんが。
僕が村山槐多について詳しく知ったのは先に挙げた酒井忠康の「早世の天才画家」の中の「宿命の十字路―村山槐多」でした。信濃デッサン館の館主・窪島誠一郎の著作にも取り上げられていたと思うのですが、意識するようになったのは酒井の書いた「宿命の十字路―村山槐多」でした。そんなこともあって、先日、信州・上田の塩田平にある「信濃デッサン館」を訪れ、村山槐多や関根正二の作品を観てきました。今回の「ガランスの悦楽 没後90年 村山槐多」展には、詩や手紙、葉書なども含めて、前期・後期合わせて142の作品が出されていますが、そのうち信濃デッサン館からは31の作品が出されています。
松濤美術館で「ガランスの悦楽 没後90年 村山槐多」展を観てきました。村山槐多の作品を纏まって観るのは僕は初めてのことです。松濤美術館へは「江戸の幟旗」展へ8月に行って以来かな。タイトルにある「ガランス」とは、槐多の好きだった色のことで仏語です。和名では茜色にあたります。多年草であるアカネソウの根から採取した天然色素をもとに作られた染料系の色のことです。槐多は「やはりガランスを文房堂へ行ってかふ事にしよう」、「このガランスは一本二円ちかくした。だがこれをぎゅつとしぼり出す事は、何たる快楽だろう」と書いています。今回のポスターやチラシ、また図録のもこのガランスが使われています。
驚いたのは槐多が書いたという「ピンクのラブレター」(制作年不詳)でした。この件に関しては僕は今回初めて知りました。一級年下の美少年Yに恋心を抱き、執拗に追いかけ回したようです。稲生澯へのラブレターは「美しいあなたに、こんな手紙を書けるかと思ふと嬉しくて耐らない。どうぞ読んで下さい。白状しますれば僕は君が慕はしくて耐らない。確に僕は君に恋して居ます。少々滑稽だけど僕は君の事を考へるときっと真赤になります。ひとりではづかしくなる」と書いています。
奇怪な仮面をつけたりオカリナを吹きながら徘徊したり、またモデルの「お玉さん」や三味線の師匠である「おばさん」への強烈な恋慕と失恋は、恋愛のための恋愛の一方的なものだったらしい。「紙風船をかぶれる自画像」(1914年)は、「ピンクのラブレター」を書いた頃に制作されたものと思われます。不遜さを見せるほどの精悍な面持ち、いかにも自意識過剰な青年の像です。
「尿する裸僧」は、槐多の作品の中でもっとも異彩を放つ作品、槐多19歳の作です。「合掌する裸僧が托鉢する鉢にむかってショウベンをしている。裸僧はもちろん槐多だ。一種の変身願望といってもいいだろう。仏教の須弥山を思わせる遠景の山水は、男根女陰のデフォルメともいわれるが、ほとばしる尿はまるで射精のようである」と、窪島誠一郎は述べています。図録の解説には「ガランスをこれでもかというばかりに塗りたくったこの作品は、聖性と豪奢を感じさせる。生命とデカダンスが絶えず混じり合ってこそ、生きる事の、描く事の原動力となっている槐多の奇怪なる一点である」とあります。
酒井忠康は「絵画史における前代未聞の、この金色に輝く立派な『男性自身』に面食らったが、わたしは尿を受ける皿を手にとって、それを一気に飲み干す度量がなければ、この絵の奥には踏み込めない―そんな木がしたこともまた事実である」と述べて、「それはまた、一種の原始主義=アニマリズムを謳歌してやまなかった槐多の、まさに宿命の画像といえるものである」としています。
女性像では「湖水と女」1917年が挙げられます。この「湖水と女」は槐多がモナリザと呼んでいた「おばさん」のイメージが投影されているといわれている作品で、「槐多の作品の中でもとりわけ評判の高い作品」と、酒井忠康は評しています。「カンナと少女」は、小杉未醒邸の庭、花や樹木が生い茂った夏の日の午後です。モデルは隣にいた彫刻家の娘で当時5、6歳だった雅子(まさちゃん)です。少女の頬や手の赤色は背景のカンナの色と呼応しています。また青い線が全体を引き締めています。「バラと少女」のモデルは小杉未醒夫人の妹・相楽キミです。キミさんは当時14歳前後で絵画の勉強をしていました。槐多が未醒を通してモデルを希望し、小杉邸で5日間ほどで描いたという。背景は駒込動坂町にあった「ばら新」というバラ園で写生したものです。
「裸婦」1917年と「裸婦習作」1917年は、同じ時期に描かれたもので、ともに信濃デッサン館所蔵のもので、「裸婦」は信濃デッサン館のチケットにもなっているものですが、残念ながらやや傷みが眼につきます。ほかに「老婆像」1915年や「山本たけ像」1915年もよかったが、「風船をつく女(A)」1918年は、木炭で描いた素描習作ですが、素晴らしい作品でした。
槐多は自身のことを、「悪相」とか「悪者」「怪物」というふうに呼んでいたという。とくに額の眉間に縦に刻まれた深い皺を「鬼の線」と名付けて嫌いました。1916年に描かれた油彩画の「自画像」は、とくに「鬼の線」が目立っています。この作品は岸田劉生の影響が強いと指摘されています。槐多の自画像は、生涯の制作数から刷れば多い方です。素描および水彩画は7点が現存していますが、油彩画は僅かに2点だそうです。酒井忠康は「槐多の自画像に接して、短命のうちに燃焼しつくした画家の予兆をみたように思った。画面の中に封印されている青春の疼きは、ありきたりの虚無にしばられているものではなく、運命の苦さを噛んでいるもののそれであった」と述べています。
「村山槐多は強迫の画家である」と、酒井忠康はいう。「槐多が強迫の画家であるといったが、骨太い力で画像を出現せしめる槐多の気迫に、第三者の眼は押さえ込まれてしまうためである。いいかえれば、柔な眼ではとらえられない作品ということになろうか。わたしは槐多の多くのデッサンに接して、その凶暴なまでに強迫的な線の力強さと躍動に震えた。・・・槐多は対象を合理化することを本能として知っていながら、自己の内部からあふれるばかりに噴出する詩魂を、その合理の犠牲にできなかった―ここに槐多の詩と絵画の宿命があったというのが、わたしの考えである」と評しています。
「ガランスの悦楽 没後90年 村山槐多」展
22歳5ヶ月で逝った夭折の画家、村山槐多(1896-1919)の回顧展です。早熟で多感な青年であった槐多は、絵画と文藝に独特の感性を発揮した、大正が生んだ異色の才能でした。浪漫性をたたえた表現、対象把握の凄みは、ほかの何ものでもない槐多の絵としか言いようがないものです。それは古代への憧憬と現実の恋情とが、絵画の源泉でした。京都、信州、田端、代々木と彼が見つめていた風景はさまざまですが、その眼差しの向こうにあるのは、一貫して精神の高みではなかったでしょうか。高村光太郎に「火だるま槐多」と呼ばれ、みなぎる生命力をもてあましながらも死に向かうデカダンスをまとった槐多は、貧困と宿痾のうちに烈しく短い生涯を駆け抜けました。彼の生き方は、近代が生み出した「夭折」という魅力的な姿を遺しました。美を具現化する方法として、槐多は個人的感情の発露と表現とを融合して、あらたな絵画の姿を私たちに見せてくれたのです。日本近代美術の青春期とも言えるこの時期、その存在は象徴的でさえあります。今年は槐多が代々木の「鐘下山房」で没してからちょうど90年にあたります。この機会にいまいちど、ガランスを愛した、この魅力あふれる圧倒的な才能を振り返り、たいとおもいます。油彩、水彩、素描、詩歌原稿のほか<ピンクのラブレター>などの書簡類もふくめて約140点で構成した本展覧会によって、この画家の実像を感じていただけるのではないでしょうか。(チラシの裏より引用)
著者:窪島誠一郎
1999年12月初版発行
「信濃デッサン館」
入場券
村山槐多
「裸婦」1917年
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