須藤峻のブログ

須藤峻のブログ

すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

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不安や恐れというのは、ネガティブな感情だと思われているけれど、
実は、そうではない。
不安や恐れは、「自分が何を信じているか」を教えてくれるメッセンジャー
として、大変重要な機能を持っている。

不安や恐れを感じるというのは、
自分にとって望ましくないことが起こることを想定しているわけで、
①その想定(自分にとって望ましくない現象、恐れている状況)を自覚する
②それが、本当に恐れるにたるものかを点検する
というプロセスを通じて、自身の内なる限界、自分に課している制約から
自らを解き放っていくことができる。

すなわち、不安や恐れに対して、最も合理的な態度は、「歓待」だと言える。
それを自覚し、認めることからすべては始まる。

逆に、最も非合理かつ危険な態度が、「否定」。
不安や恐れがないように振舞うこと、それを打ち消すに足る刺激や物語を使って、
抑圧することは、破滅的な結果をもたらすことが多い。

不安や恐れが大きいほど、

それを否定し打ち消すために必要な刺激や物語は大きなモノになる。

その刺激や物語は、特別なモノというわけでないし、
何かが不安や恐れを打ち消すための道具だというわけでもない。
この世界にある、あらゆることは、そのために使えるというだけ。

時にそれは、アルコールでありドラッグだ。
時にそれは、仕事(ワーカホリック)であり、趣味であり、人間関係だ。
時にそれは、ヨガであり瞑想であり、占いであり、宗教であり、ヒーリングだ。

使われる文脈によって、それは「気づきの方法」にも「回避の方法」にもなる。
不安や恐れから逃げるために使われる時(=回避の方法として利用される時)、
あらゆる物事は、あらゆる方法論は、依存性・中毒性を持つ。
そして、実行するほどに自己分離へと進み、様々な破綻が訪れることになる。

イデオロギーや信じる世界観というものも、同じように、
自分の中の不安や恐れを見ないようにするための道具として受容される時、
人は、それを過剰に評価し、信望するようになる。
そして、それを否定する言説や、人に対して、攻撃的になる。

不安や恐れが大きいほど、その解消に必要な物語は大きなモノになる。
すべての不安や恐れ、懸念を「包括的・同時的」に
解決してくれる世界観が求められる。

自分に不安や恐れを与え、無力感を与える

この世のすべての問題には、「共通の原因」があり、

それを解決すれば、すべてがうまくいく。

といった物語だ。

この「共通の原因」というのは、問題が多ければ多いほど、
大きければ大きいほどに、
比例して、強大で凶悪な存在であることを、求められる。
これは論理の経済が導く必然だ。
(だって、ありとあらゆる問題を、引き起こせるだけのパワーがあると
前提しないと話が破綻してしまうから)

さて、現在という時代は、不安や恐れを感じやすい問題にあふれている。
環境問題、経済の問題、戦争、貧困・・・
このような時代には、それらを「一括で解決する話」への需要が高まる。

すると
・すべての問題に共通の原因=すべての問題を引き起こしている悪
が存在し、
・その悪を倒すための戦い
に馳せ参じようという言説の説得力が増す。

これは、人類がさんざんやってきたことだ。

ある日、諸悪の根源は、「資本家」だった。
ある日、諸悪の根源は、「信仰心を失った民」だった。
ある日、諸悪の根源は、「権力者」だった。

そして、その戦いの果てに、人類はようやく気が付いた。
「悪」などないのだと。
「悪」というのは、自らを善だと自認する思想が、
自らに不安や恐れを与える存在に与えた名でしかない。
善と悪の物語をつくり、その悪を打倒するという方法論では、
決して、求めた場所にたどり着けないのだと。

そして、ようやく、
・身の不安や恐れを外に投影して作った「悪敵」との闘いを辞め、
  自身の中にある不安や恐れそのものを解消することで、
  「悪」も「敵」も解消していくこと 
へと意識を向けるようになったわけだ。

 

もちろん、これは世界に目を向けないことでも、問題から目をそらすことでもない。

むしろ、積極的に世界との関係性を、リデザインする方法論だ。

わからないものや複雑なものを、

自分の不安や恐れのフィルターによって

自分の都合のよい物語へと「回収」する暴力的な方法論から、

わからないもの、複雑なものを、そのまま受け入れる方法論、

多様性を包括し、未知を可能性として感受する方法論へ。

 

それは、世界に友愛の橋を架けること。

 

自分の価値観や信念で作り出した防壁の中で

壁の外側=怖いモノ=悪・敵 と戦うことをやめ、

ゲートを開き、自分の世界に到来する未知を歓待すること。

 

そこへの道のりは、簡単ではない。

丁寧に、丁寧に、それぞれが、自分を見つめていくこと以外にないから、

とても地道で、時間がかかる。

 

すぐに世界の貧困がなくなることも、経済格差が解消することもない。

支配者や始祖を倒せば、すべてが解決することもない。


けれど、この幸せな人、自由な人、他者を受け入れ、肯定する人、
ありのままを許し、愛する人、

不安と恐れに、不安と恐れを持つ人にそっと寄り添うことができる人を、

増やしていくこのプロジェクトは、静かに世界を変えていくだろう。
僕らの歩調と共に、ゆっくりと、しかし、確実に。

 

思い出して欲しい。30年前、20年前、10年前。

ここに書かれているような話はごく一部の人のためのモノだったけれど、

今、多くの人が、それを理解している。

生まれてきた若い世代は、明らかに、競争から協奏へと舵を切り、

ありのままで生きることの大切を、理解している。

 

人類は、確かに、前に進んでいる。

 

今、僕らにできることは、危機を喧伝することでも、

真実を見極めることでも、敵を見つけて批判することでもなく、

まず、「自分といる」ことだ。

どれだけ世界と分かたれても、自分が自分と分かたれることはない。

その不安に、恐れに、怒りに、喜びに、悲しみに、

その命に、丁寧に触れること。

何が起きたかではなく、

その出来事に対して、自分の中に何が起こったのかに目を向けること。

騒がしい世界の中では聞き取れなかった、自分の声に、耳を澄ますこと。

 

僕ら一人一人が、自分の世界を変える時、世界との触れ方を変える時、

それが、ほんのわずかな変化であっても、

その小さな波紋は重なり合って、大きな波へと変わっていくだろう。

 

アフターコロナ、世界はきっと、少し優しく、少し暖かな場所になっているはずだ。

僕は、そう確信している。

光というのは存在している。

それが粒子だとしても、波だとしてもそこに「実体」がある。

けれど、闇というのは存在していない。

それは、光の「不在」に過ぎないから。

 

自分の心の中の、まだ光の当たっていない場所を、

シャドー(影、闇)と呼ぶのだけれど、

そこに実体があるわけではなく、

光が届いていない、まだ気づきが至っていない領域がある

ということに過ぎない。

 

この世界にある、あらゆる「闇」は、「影」は、

肯定の光がまだ届いていない新たな可能性領域のことだ。

 

故に、光と闇という二項対立は、幻想に過ぎない。

すなわち、光と闇の戦いなどというのは、存在しない。

 

この幻想に過ぎない「闇」なるものは、

しかし、時に、本当に力を持ち、人に多大な影響を与えることがある。

本来幻想に過ぎなかった「闇」を実体化し、力を与えるのモノ、

それは「闇」の存在を信じる心の動きそのものである。

 

幽霊を信じる度合いと、その恐怖心が比例するように、

ネガティブな現象、ネガティブな存在、

誰かを抑圧し、支配する力を持った人々が「存在する」と信じるほどに、

僕らは、自らの力を抑圧し、本当に支配する人々を作り出すことになる。

ネガティブなモノに力を与えるのは、

それをネガティブであると判定し、それを恐れる心の動きなのだ。

 

光と闇という分離した物語そのものが、「闇」を実体化する。

そうやって自分が作り出した、巨大な闇、強大な敵に、

自分が打ち負かされてしまうのは、なかなかに笑えない状況だ。

 

では、この喜劇の舞台から出るために、何が必要だろう?

まず、大切なのは自分の「欲望」を計算に入れる習慣を持つことだ。

 

僕らの脳(エゴと呼んでも良いけれど)というのは、

自分にとって都合の良い情報のみを、選択的に取得するようにできている。

 

この世界の無限に近い情報量を処理することはできないので、

1%にも満たない領域だけを、五感を通じて掬い取り、

フィルタリングをして、そのさらに、1%くらいを認識するわけだ。

 

僕らの認識は、大変にご都合主義、手前勝手なものに過ぎないというわけ。

であるなら、この「ご都合主義」をそもそも前提にしておこう。

 

自分は、信じたいモノを、信じている。

自分にとって、都合の良い認識を作り出し、

そこから、「利益」を得ている。

 

そこから、話を始めること。

 

今回で言えば、光と闇の物語を語ることによって、

自分がいかなる利益を得ているのかに思いを向けること。

その物語を、自分が必要としていることに気がつくこと。

その物語によって、自分が何から目を逸らしているのかに向き合うこと。

 

(もちろん、その逆だって言えるよね、

「光と闇の物語」の代わりに信じている何か・・・

例えば、「すべては、統合に向けた流れ」的なモノも同じ。)

 

人は、物語から完全に自由になることはできない。

けれど、自分と自分の周りの世界を幸せにする物語を

選び取ることはできる。

そして、自分の信じる物語の、恣意性に自覚的であることはできる。

 

自分の認識は不完全であり、

自分の信じる正義も、不完全である。

故に、相手の言葉に耳を傾け、相手が信じる物語を肯定し、

異なる物語を選びながらも、共に生きることができる。

 

これは、長い長い歴史を通じて

人類が学んだ、共存条件とも言えるテーゼだ。

 

今、もう一度、それが問われている。

長々書いてきたけれど、アメリカ大統領選の話ね。

 

トランプ率いる共和党陣営は、「光と闇の物語」を利用し、

分断を顕在化し、さらに拡大することに成功した。

 

確かに、急速に階層化が進み、

一部の富裕層と貧困層に分かれつつあるアメリカの状況は

正常であるとは、言い難い。

 

しかし、それは、産業構造の問題を含めた複雑な原因によるものであって、

局所的な問題、つまり、一部の悪人たちが作り出した問題ではない。

けれども、そのような複雑系・・・インプットとアウトプットが

1対1で応答しない状況・・・を、

わかりやすい「悪」、「敵」、「闇」を作り出すことで、単純化したわけだ。

 

人は、自分の人生についての不安や苛立ちを

「誰かのせい」という形で、外部化したいという欲求を持っている。

そこに適切な「攻撃対象」が用意されれば、

人々は簡単に流されることになる。

不安や苛立ちが大きければ、大きいほどに。

 

「なんだか、うまくいかない人生」の原因を

「エスタブリッシュメントの支配」

「グローバル資本主義」

「ディープステート」

に委託することに、人々は熱狂した。

 

人々は「支配される被害者」という立場から、

闇の勢力を倒す戦士へと昇進したわけだ。

自分は「気がついている側」であり、「目覚めた側」であり、

闇と戦う戦士、人々を目覚めさせる戦士。

なんだかうまくいかない冴えない人生を送っていた自分が、

突如としてスターになる。そりゃ熱狂するよね。

 

この心の動きを、ニーチェはルサンチマンと看破したが、

この理論が「キリスト教」の心理装置の分析によって

もたらされたことは、偶然ではない。

今、アメリカで起きているのは

大変に「キリスト教的な事態」なのだ。

 

さて、しかし残念なことに、極めて残念なことに、

正義のヒーローたちによって作り出された「闇の勢力」は、

彼らが攻撃するほどに強大化することになる運命にあり、

彼らは結局敗北を喫することになったわけだ。

 

自分が作り出した、巨大な敵は、

その後も、彼らの人生に大きな困難をもたらすことになるだろう。

自分の恵まれない境遇、理想とは違う社会の状況、

宗教的・伝統的な世界観の変容は、

「闇の勢力」によってもたらされている・・・という物語を手放すその日まで。

 

さて、この人為的に極大化された分断を

人々は、どのように乗り越えていくのだろう。

その一つの鍵は、すでに、明かしてきた通り、物語にある。

 

すなわち「分断」という物語ではなく、

「統合」の物語を語るということだ。

 

分断を語るほどに、違いを語るほどに、

「分断」は実体化していく。

そこに、未来はない。

 

アメリカの統合。人々の統合。

バイデン民主党に託されたこの大仕事は

文字通り、世界の行く末を決めることになるかもしれない。

夢を叶えるということが、

美談としてよくよく語られますけれど、

ほとんどの人は、夢なんて叶わないですよね。

 

だから、夢はさっさと諦めた方がよいというのが、僕の意見です。

夢なんて、忘れてしまって、等身大の現実を、生きた方がよい。

その方が、よっぽど幸せになれるんじゃないかなーと思います。

 

身の丈にあった世界で、自分のコンフォートゾーンを生きる。

挑戦なんてしなくて良いし、難しいことをする必要もない。
自分にとって簡単な方、楽な方へ舵を切る。

 

自分を変えようとか、向上しようとか、成長しようとか、

そういう誘惑がやってきたら、youtubeかグノシーを見て、

さっさと忘れてしまうこと!

 

そして、今日も生きててラッキー、夜露をしのげる自分たちの家があるなんて

なんて幸運なんだ!と、満足していた方がいい。

(家がなかった頃も、楽しかったですけれど)

 

さて、実際に、僕は、そうやって生きてきましたので、

何が起こったか書いていきますね。

 

まず、「夢」や「目標」がないので、自分の生きている時間は、

「何かを実現するための過程=ゴールがあるから完結するもの」ではなく、

今、その瞬間に完結しているものへと変わります。

すると、「今、自分の目の前にあるモノ、自分がしている体験を、

ただ、思う存分体験すること」以外に、することは、ありません。

それは「その瞬間に、満足している」ということです。

 

例えば、画家になる!という夢を叶えるために、毎日絵を描いている場合、

その夢への最短距離(と自分が”決めた”ルート)以外の出来事は、

自分にとって、邪魔なモノ、できればやりたくないことになります。

子育てとか、生活費を稼ぐための仕事とかね。

 

けれど、画家になるという夢がないのなら、

子育ても、生活費を稼ぐ仕事も、自分の人生に与えられたもの、

絵を描くことと、同等の、価値を持つ体験になる。

 

「自分が他にやるべきことがあるのに、目の前の〇〇のせいで、できない」

この認識は、大変、精神を削ってきますよね。

イライラ待ったなし。

この前半部分、「他にやるべきことがある」というのが、なくなると、

「目の前のこと=自分の今、やること」というシンプルな設計になります。

 

(ここ重要なポイント、「構造的に実現する」というところ。

 尺度がなければ、比較できない。目的がなければ、手段は存在しない・・・

 という具合に、それが、そう起こる以外ない「仕組み」にする)

 

もちろん、顕在意識は相変わらず色々とガヤガヤ言うんですけれど、

潜在意識では、深く納得しているイメージですかね。

 

この時点で、かなり「人生」のモデリングが変わっています。

自分の意志で、上を目指して自力で上っていく「登山」から、

ボートに乗ってくだっていく「川下り」へ。

 

川の流れは、コントロールできませんので、

緩い時は景色を眺め、早い流れでは集中してバランスをとる。

そこに、身を任せていくだけ。

人生がくれるモノを、ただ、受け取っていくだけ。

 

ここからは、僕の経験則でしかないんですけれど、

実感は、人生は、自分のやりたいことなんてやる暇がないなーってことです。

自分の目の前に送り届けられるモノに、取り組んでいたらイベント盛りだくさん。

けっこう忙しい。

その取り組みを続けていると、不思議な場所にいます。

自分が、想像もしていなかったことをしている自分がいる。

 

僕は、自分が、吉祥寺で雑貨屋やるとは思ってなかったし、

インドでモノ作りするのも、自分のアパレルブランドはじめるのも、

子供の頃から、1ミリも考えたことがなかった。

 

座間味島で過ごしたひと夏のことも、

ウラジオストクのボルシチも、パリのアパルトマンも、

浅草の小さなワンルームで海外からのゲストをたくさん迎えたことも、

格安チケットで回った世界各国の展示会も、

灼熱のインド、ターバンの兄ちゃんとの交渉も、

スーツケースを抱えて、夫婦で転々と居候してた日々も、

アースバッグも、東北タイの山中をお坊さん達と120キロ歩いたタンマヤートラも、
友人たちとの出会いも、8年ぶりの会社員生活も、

どれもこれも想定外。
 

けれど、なんとなく、こんな人生を望んでいた気がするから

面白いところです。それは後付けなんですけれど、それでいい。

 

さて、1年先どころか、3ヵ月先すら
どこで何をしてるのかわからない人生が

最近、少し落ち着いちゃったなーと思っていたら

想定外にパートナーの妊娠が発覚しました。

友人の岸田氏いわく、出たとこ勝負の「すごろく人生」

ここに極まれりって感じです。

 

さて、天邪鬼なタイトルつけて書いてきましたけれど、

やっぱり思っちゃうんですよね。

自己実現も、目標達成も、退屈じゃない?

思った通りの現実なんて、夢見た通りの場所なんて、

退屈過ぎて死んじゃうな。

 

子供の頃から、夢とか目標とか、持ったことがないし、

何かに挑戦したり、何かを目指して頑張るということに

まったく興味がなかったのですけれど、

人生は、いつの日も面白かったので、

これからも面白いに違いないと思います。

https://ameblo.jp/sudoshun-blog/entry-12598289576.html

こちらの続きです。

 

|アフターコロナの精神世界

 

今、コロナで急減速する世界は、精神的な行き詰まりを露呈している。それは、「経済」によって作り上げた「自分らしい暮らし、自分らしい生き方」が行き詰まり、私たちは、自分が自分である、自分の世界観を生きるということが難しくなっているからだ。
 

ここに、アフターコロナの世界の主題となるテーマが見えてくる。コロナの流行が教えてくれたのは、私たちの生が、複雑なグローバル経済と接続され、その混乱の影響を直接的に受けるということ。  

しかし、実は、このグローバル経済を支えているのは「自分らしい暮らし、自分らしい生き方」への希求であり、それを求める限り、永久にこの危険な経済ゲームを続けるしかないことである。
 

アフターコロナの世界、私たちは、消費者として経済ゲームに戻るのか、それとも、新たな世界とつながる回路を持つのか、その大きな岐路に立っているのかもしれない。そして、そのひとつの解は、マズローによって与えられている。
 

実は、あまり知られていないが、マズローは、現在人の中心テーマである「自己実現」の先の世界について提示している。それは、「自己超越」というレベルである。そして、この「自己超越」こそが、今後の世界動勢を占う際の大変重要なコンセプトになるのだ。まず、自己超越というコンセプトを理解することから始めよう。

 

1.自己超越

自己超越とは、文字通り「自己を超えること」である。この時に使われている自己というコンセプトは、自意識、エゴ、マインドなどと名指される、「今、自分が、自分だと認識している主体意識」のこと、つまり「私」であり「あなた」だ。この文章を読んでいる「自分」。この自分を超えるというのは、どういうことなのだろう?
 

この自己超越というコンセプトについて理解を深めるには、古来より徹底してそこにフォーカスして探求を続けてきた東洋哲学の知見を借りるのが早い。自己超越についての東洋的な呼称とは、すなわち「悟り」である。
 

2.悟り:二元性の超克

悟りとは、二元性の超克である。それは、つまり第一次形而上革命によって生み出された、世界と私の分断、主客の分離という二元性を超克するという発想である。見てきたように、人間の実存的な不安の根源は、世界との分断によって、「自分の存在理由」や「生きる際の指針」が必要になってしまったことに由来する。であるなら、その分断を超えてしまえば、不安はなくなるに違いない。すなわち、苦しみも、恐れもない世界になるということだ。

そのために、「修行」があり、様々な方法論で、二元性を超克していくのが修行者である。

 

3.左脳の停止=言語による分節化の停止
 少し前に、実際に、この「分断」を超越してしまった人の話が話題となった。世界との分断は、「言語の習得」によって起こると書いたが、言語を扱っているのは、主に左脳となる。
 

ジル・ボルト・テイラーは、自身が左脳の脳卒中に見舞われるという稀有な体験をした脳科学者である。彼女はその体験をTEDで素晴らしいプレゼンテーションとして共有しているが、その体験は、「世界と一体化する至福の体験」だったという。東洋的な悟りの境地とは、この世界との合一体験、ワンネスの意識にあるとされる。
 

それは、「私」と「世界」の双方が消失する体験であり、すなわち、「自己」を超える瞬間を意味している。自己超越とは、つまり、「私」という自意識を超えて、「世界」と一体化することに他ならない。

 

4.私を超える

このようなスピリチュアルな世界観の話を最初にしたのは理由がある。このドラスティックな「悟り」体験とは異なるものの、自己超越のレベルに入ってくると、意識は、世界との一体感や、私(エゴ)の手放しへといった、悟り的な世界へと向かうとされているからだ。
 

自己実現というのは、あくまで、「私」の希望、「私」の欲求を、「私」が叶える という「私」主体の世界観だが、次の自己超越のレベルになると、この希望する「私」が消えていくことになる。それはつまり、自分の世界観、自分の常識、自分の信じる正義、自分の理想、自分の期待、自分の夢や目標や目 的「なりたい自分になる」、「ありたい自分である」という「自己実現」の欲求を超えるということに他ならない。

 

5.自己超越的世界

「自分の欲求」を超えた生き方とは、どういうものなのだろうか。それは、「自分が〇〇したい」という行動原理よりも、「自分の人生にもたらされるモノを受け入れる」という世界観だ。
それは、例えば
・期待しないということ
・何かを目指さないこと
・起こることを、受け入れるということ

というようなイメージになってくる。
 

しかし、それは人生への「諦め」ではないのだろうか?より良い社会を、より良い人生を、より良い自分を目指してきたからこそ、人類は、発展してきたのではないのだろうか?発展や成長の源泉を手放した時、そこにはただ諦観に満ちた、冷めて、停滞した生があるに過ぎないのではないか?

この問いに答えるためには、自己超越の「倫理」について語る必要がある。

 

 

6.自己超越の倫理

フランス現代哲学者のエマニュエル=レヴィナスは倫理の本質を、「自分の犯していない罪を、つぐなうこと」と表現した。このセンテンスを、自己実現のレベルの意識で理解するのは、難しい。というのは、自己実現のレベルにおいては、「私」は、私の選択によって生ずるものを享受する主体であり、その責任範囲は、あくまで、自分の行動の結果に限定されるからだ。
 

それは、特に「消費活動」に特徴的な心性である。消費活動を支えているのは、「等価交換」というコンセプトだ。それは、物々交換でも、金銭を媒介しても構わないが、相互に承認された「モノ」と「モノ」、「モノ」と「価格」の対応関係に基づき、交換を行うということである。

 自分が差し出したお金と、同等の価値があるモノが、与えられる。この1対1の対応関係が大前提となるから、消費、経済は、成立するわけだ。
 

この視座から眺めると「自分の犯していない罪を、つぐなうこと」というフレーズは、まったくナンセンスに映る。自分が選択したわけでもなく、自分が行動した結果でもなく、自分が望んでもいない何か=自分が購入していないモノに対する支払義務はないからだ。
 

しかしレヴィナスは、そこにしか倫理は生まれず、同時に、それこそが、人間が世界と本当の意味で「つながる」方法論だと解く。それは、どういう意味だろう。

 

7.自己実現の限界

実は、コロナの流行で揺れる今日の情勢は、この思想を理解するうえで、大変に理想的な状況だともいえる。
 

人生には、今回のコロナの流行のように、様々な厄災が訪れる。すなわち、自分が望んでいない何かが、突然訪れるわけだ。不愉快な隣人との出会い、思い通りにならない現実、自然災害、突然の病。これらは、自分の行動の結果ではない。
 

この時、自己実現のレベルでの解釈ではこれらの出来事は「降ってわいた不幸」であり、「自己実現の妨げ」である。自分の予定を変えねばならず、自分の理想をあきらめなくてはならない。すなわち、「人生の敵」であり、可能なら「打倒」されるべきモノだ。
 

しかし、考えてみてほしい。自分の思った通りであること、期待通りであることが、人生で最善なのだとしたら、自分の意志を妨げるモノすべて・・・例えば、自分が歩いている道の反対側からやってくる人すら、原理的には「敵」とせざるを得ないということを意味するのだ。
 

しかし大袈裟ではなく、私たちは、自己実現を妨げる「敵」に囲まれている。うるさい上司、期待外れの部下、イライラさせる配偶者。私たちは、期待外れの「彼ら」によるストレスに日々さいなまれているわけだ。
 

それらを除去することが、本当に、素晴らしい人生なのだろうか。それらを最小化することが、生きることを最も輝かせることなのだろうか?だとするなら、それは、永久に叶わない夢でしかない。自己実現というのは、必ず、どこかで破綻し、諦めざるを得ない夢だ。私たちは、決して、天気を変えられないし、空を飛べない。自己実現を目指す以上、私たちは、どこかで不安と不満を生きることになる。
 

この限界性、この行き詰まりこそが、人間を、自己実現から自己超越のレベルへとシフトするトリガーになる。

 

8.自己超越的な世界観

改めて、自己超越的な世界を眺めてみよう。自己超越のレベルにおいて、あらゆる出来事というのは「望まない現実」ではない。なぜなら「望む“私”」がいないからだ。
 つまり、そもそも「望み」がないから、「望まない現実」がないということ。「期待」がないから、「期待外れ」がないということ。これは、言葉遊びにしか聞こえないかもしれないが、実は、誰しも体感的に知っていることに過ぎない。
 

誰もが、人との出会いを通じて、自分が変化していく経験をしているはずだ。それは、その人との出会いを通じて、自分の中にある、「固定観念(その時代の社会常識)」や、自分の中にある感情や欲求に気がついていくプロセスであり、自分の中にあって、蓋をされていた可能性に気づいていくプロセスである。
 

例えば、イライラさせるパートナーについて想像してみてほしい。なぜ、その人はあなたをイライラさせるのだろう。それは、自分の期待通りにふるまわないからだ。わがままで、自己中心的?しかし、そのようにあなたが感じる背景には、
・「わがままにふるまうのは、悪いこと」という信念
・「自分を中心にしてほしい=私を見て、私を気遣って、私を愛してほしい」
という欲求が、(例えば)存在している。
 

自己実現のレベルで、この体験をするのなら、それは、「正すべき敵との出会い」でしかない。しかし、自己超越のレベルで、この体験をするのなら、それは、自分の中の固定観念や欲求に気づく機会であり、その出会いを通じて、自らを変容させていく契機である。
 

「自分の想いに素直に生きること」って素敵だな!と思っている人にとって、「わがまま」というコンセプトは存在していない。問題は問題だと見なす人にとってのみ、存在する。つまり、問題だと見なす意識から、問題だと見なさない意識へと「超越」する時、問題が文字通り解消されてしまうことになるのだ。

 

9.エゴの死

変化をもたらす契機は、自分の価値観が揺さぶられ、自分の信じていること、自分の望みが、裏切られるという体験になる。これは「エゴの死」と呼ばれる、なかなかタフな体験になることも多い。自分が長らく信じてきたこと、自分の生き方を壊すのは、誰にとっても、なかなかに、ハードな作業なのだ。
 

しかし、相手を変えるのではなく、それを問題だと見なした自分が変化していくというプロセスが起動した時、行き詰まりに出口が現れる。新たな自分へとシフトすることを通じて、目の前の問題を解消するのだ。
 

自己超越的な世界観とは、すべての体験を、自己変容の契機として生きるということに他ならない。自分の目の前に現れた、想定外の出来事、自分のせいではない厄災に対して、それを、自己変容の契機として使うために恭しく身を差し出す在り方である。

 

10.   倫理がつなぐもの

さて、先ほどの疑問、「自己超越的な世界観は、ただ、現状を肯定しているに過ぎず、何の変化ももたらさない諦めの方法論では?」に答えていこう。

自己実現というのは、「自分の望んだことを、自分の責任の範囲で、実行する」という世界観だ。自己超越というのは、「自分の望まないことを、自分の責任範囲で、実行する」という世界観となる。

ここに、レヴィナスがそれを「倫理」と呼んだ意味が見えてくる。

自己超越のレベルでは、目の前に現れたボールは、自分へのパスである。
自分はパスを要求した覚えはないけれど、パスが来たならば、それは自分が呼びこんだモノだとして、受けとる。それを自分へのパスだと思ったのなら、それは自分が要求したということ。届いたのなら、それは自分が注文したということ。そのような意識が働いている。
 

故に、自分が捨てたものではないゴミを拾い、自分が傷つけたのではない人を癒し、困っている人に手を差し伸べる。それを「やってあげる」ではなく、ただ「自分の仕事だから(自分へのパスだから)」という立ち位置からこなしていく。

「それは、私の仕事。」これが自己超越の世界を最も端的に表現する言葉だ。
 

これが、レヴィナスのいう「犯したことのない罪を、つぐなう」ことであり、それは、世界からの呼びかけに応答した責任を果たすということだ。自己超越の世界観が「諦観」と対極にあることが見えてきただろうと思う。
 

もう一つの疑問にも、答えておこう。自己超越がなぜ、世界とつながる方法論なのかということ。それは、
・世界の側が与えてくれるものを、まるで、自分が望んでいたかのように生きること
だからだ。
 

つまり、与える側と受け取る側が、自分の中で統合されているのである。それはすなわち、主体と客体、世界と自分が、ひとつになるということに他ならない。

パスを出したのは、自分。パスを受けたのも自分。自分にこの体験を与えたのは自分。この体験をしているのも自分。

ここに、言語習得から始まった、世界との分断という大問題を解消する可能性が開かれてくるのである。

欲求する自己、期待する自己、表現する自己を手放した時、人は、世界とのつながりを取り戻すことになる。
 

11.   自己超越へと進むプロセス

さて、この自己実現から自己超越へのシフトは、一足飛びに進むわけではない。自分の中の、価値観が徹底的に相対化されていくというプロセスが始まる。それは「何が良い・悪い」ということが、どんどんなくなっていくということ。

 個人のレベルで言えば、自分の世界観、自分の常識、自分の信じる正義、自分の理想が消えていくことであり、社会のレベルで言えば、それまでの時代に当たり前だった、常識や固定観念が消えていくということ。
 

男なら、女なら、大人なら、子供なら 〇〇すべきといった通念や、〇〇は悪いこと、〇〇は良いこと という観念が消えていくと、自然に、「良いこと」も「悪いこと」もラベリングしなくなる。すると「望む現実」も「望まない現実」も、作り出されることがなくなり、すべてが、ただ「起こったこと」でしかなくなっていく。

良いことも悪いこともないので、目指すべき状態や、目標に向かって努力するという世界観は薄れていくことになり、逆に、世界から与えられたパスを受けていたら結果、想定外の場所にたどり着いたというような「達成の物語」が語られる世界へと変わっていくことになる。
 

この価値観の相対化、社会通念の解消が現在進行形で進んでいることは言うまでもない。世界は、10年前、5年前よりずっと柔らかく、より自然なモノへと開かれているのだから。

 

12.   世界を救うもの

駆け足で、自己超越とは何か、自己超越的な世界観、そして、そこへ至る道筋をまとめてみたが、今後、人類が自己超越的な生き方へとシフトできるかどうかは、世界の行く末を大いに左右することになるだろう。
 

「消費を通じた、自己実現」というマインドセットは、人類にとって、大いなる発展をもたらした。しかし、同時に消費者マインドは「私の責任じゃない」という人を大量に生み出すことにもなった。
 この、現代社会を包む「自分が求めたものにしか、支払わない」という「自己責任論」的な態度は、環境問題や社会問題など、問題の所在地がわからない問題、誰の責任なのか、明確には指し示せない問題についての対処を難題化している。
 

これからの地球に必要なのは、自分が壊した記憶のない地球環境を、責任のない社会問題を自分の仕事として、引き受けていく人々だからだ。

 

13.   これからの世界
現代の人類は、承認欲求-自己実現欲求の間を生きている。それらを満たした人から、次の欲求レベルへと向かっていくだろう。それは、自己実現と自己超越の間を生きるということだ。
 

承認欲求と自己実現が、ちょうど対照的になっているように(承認欲求=他者軸⇔自己実現欲求=自分軸)自己実現欲求と自己超越欲求も、対照的になっている。(自己実現欲求=自分軸⇔自己超越欲求=世界軸)
 

そのシフトを自然に終える人も、ドラスティックな変化として体験する人もいるだろう。しかし、いずれにせよ注意しなくてはならないのは、マズローの指摘の通り、自己超越的な世界観は、自己実現までの各階層の欲求を満たしてから入る必要があるということ。さもないと、ただ、自分の欲求に蓋をすることにならざるを得ないからだ。
 

これからの人類は、すでに自己実現的な欲求を満たし終え、自己超越へと向かう層=欲求ベースの生き方を卒業していく層と、自己へと固執していく層へと、大きく分かれていく可能性が高い。
 

後者にとっては、困難な時代が来ることが予想される。というのは、繰り返しになるが、これからの時代は、経済的には冬の時代がやってくる可能性が高く、これまでのような経済成長と並行した「自己実現」ができなくなっていく可能性が高いからである。

それは、より大きく、豊かになること、成長すること、成功することをゴールとして生きると、それが叶わない可能性が高い社会がやってくるということだ。結果、恐れやネガティブなモノ、不安を、強く感じていく層も出てくるだろう。

 

本稿で述べてきたような意識への変化は、まず、アーリーアダプター・クラスから始まる。最初は、ごく一部の人々の変化に過ぎないと思われるかもしれないし、絵空事のように映るかもしれない。しかし、そのような意識の人々は、世界的につながりはじめ、いずれ、大きな潮流へと変わっていくだろう。
 

重要な視点は、この二つの層を外的な分断としてだけではなく、内的な分断としてみることだ。すなわち、私たちそれぞれの内側にある、二つの側面、「自己実現的な私」と「自己超越的な私」を、共に認めていくこと。

 

今、この変化の時代を、混乱と困難として生きるのか、変容の契機として「嬉々として」生きるのか、その選択の機会は私たち一人一人に与えられている。

 

 

 

 

|アフターコロナの世界(メモにつき参考まで)

 

l  不況と経済縮小社会

消費社会というのは、「欲求」をガソリンにして、等価交換(取引)という機構を、可能な限りたくさん、可能な限り大きくすることで、成立している仕組みである。ゆえに、人々の欲求がなくなっていくと、消費社会は縮小するしかない。

そして、それはもう既定路線になりつつある。地球上には、これから高度成長期に入り、人々が承認欲求、自己実現欲求を叶えていく場所も、たくさんあるが、多くの先進国は、そのフェーズを既に終えている。
 経済を「縮小」すること、規模を「縮小」することに本格的に取り組む時代が来る。
もちろん、既に、それははじまっていて、シェアリングエコノミーや、サブスクリプションサービスなど、所有しないことで効率化する仕組みは、さらに広がっていくだろう。

 

l  環境問題への意識の高まり

今多くの人が、環境問題・社会問題への意識を高めているが、実はその背景には、自己実現のレベルで最大化する「自我」の融解がある。書いてきたとおり、自己実現のレベルにあると、「自分」がどうしても中心になり、その顕在化としての「消費者的アイデンティティ」が最大化される。

しかし、自己超越のレベルに入っていくと、自分と世界、すなわち主客が同化していくため自然や環境を、自分とつながった世界だと認識する人が増えていくことになるのだ。既に世界的な潮流となっているが、ヴィーガンやローフードの運動はさらに広がっていくことになるだろう。 
 

l  東洋的メソッドの本格的なブーム

すでに世界的なブームが続くヨガは、ますます盛んに行われるようになる。心と体の統合は、自分(主体)と世界(客体)の統合へと向かい、ヨガ的な世界観=悟りの世界観=自己超越の世界観は、より浸透していくことになる。
 

また、ニューエイジの思想を根底に持つカリフォルニア発のIT企業群では既に当たり前のように取り入れられているマインドフルネスや瞑想も、より一般的になっていく。

 

l  都市から田舎へ

人類の歴史は、都市化の歴史である。集住によって経済圏を作り、合理的な生産・消費活動を行うために最適化されてきたわけだ。しかし、今回のコロナウィルスの流行により、

・都市の脆弱さが明らかになったこと

・テレワークで仕事が回ることがわかったこと
などから、都市での集住を必ずしもしなくて良いことが明らかに。
 

これから、都市部から郊外へと人の流れが変化する。その中で、第1次産業への人材の流入や、半農半X的な生き方が再度注目を浴びることになるだろう。

 

 

l  働き方の変化

 テレワークの導入に加え、VR・AR等の技術革新、5Gのスタートなど、通信インフラの整備も進むため非対面型ビジネスへと本格的なシフトが始まる。
 非正規雇用者への社会的補助が問題となり、業務委託についても事業者側が雇用保険の負担を行うようになるなど、ある程度の整備が進むと同時に、技術専門職のフリーランスはさらに進む。

 正社員についても、働き方の見直しが進み、個別の雇用契約書をベースに、労働時間や賃金を決めていく西欧型のスタイルへの移行が始まるかもしれない。
 また、オフィス勤務の必要性がなくなるため、通勤が大幅に減少。郊外への居住シフトを後押しする。
 これまでの、自宅:プライベート⇔職場:パブリック という二項対立がなくなり、「職」と「住」が近接していく。暮らし方と働き方は同じ意味を持つようになる。子育てや家事についても、性による役割分担がなくなり、相互に関わる形へと変化。改めて、家族を問われる家庭も増える。


 

l  商売の形

今後、「〇〇な自分になりたい」といった形の、承認欲求を刺激するもの、自己実現を謳うもの(あなたの欲望を叶えよう)は、少しずつ集客力を失っていくだろう。

丁寧な暮らし、自分自身を見つめる、変容していく自然を守る、環境と調和する、といったテーマでの商品、サービスが主流となる。
 

日本をはじめとした先進国については、人々は、物質的には十分豊かになっており、これ以上、新しい〇〇を欲してはいない。

購入動機として「誰が作ったのか」が重要になり、顔の見える人同士がつながり、商品の売買を行う、コミュニティ型のビジネス=小商いの時代が来る。

 

l  メディア
 インターネット、SNSの発達で、誰もが自己表現できる時代になり、予想に反し、「クリエイティブ」の質が低下し、表現の世界においてもポピュリズムが蔓延。「優れた知」、「良質な情報」、「価値ある芸術」は、有料媒体、有料の体験を通じて得るものに。

 メディアは再編成を余儀なくされる。書店の減少は続き、出版業界は方向転換を迫られる。現在の多品種少量生産型を続けるのならプリントオンデマンド型か電子書籍に集約。

 マスメディアは、再編。現在のバラエティー番組主体のマスメディア放送は、地上波からネットに移り、サブスクリプション型に移行。
 地域紙・地方紙は廃刊が相次ぐ。地域ジャーナリズムは「みんなの経済新聞」のような、地域の事業者による情報発信プラットフォーム形に変化。
 ニュースメディアは、速報型のネットニュースと、時間をかけてじっくり論考するスローニュース(スローメディア)へと分化。
 

l  世界動静

コロナ後の世界は、中国の力が強まると同時に、インドが人口トップに立ち、経済発展のけん引役に。インド投資が進むと同時に、インド企業による日系企業の買収もスタート。

 

l  分断される人々

現在、国家という枠を必要とせず、地球のどこでも生きられる人たち=anywhere(どこでも)な人たちと、地域や国家に縛られ、そこ(somewhere)でしか生きられない人たちが生まれ、その階層的な分断は、国家間の文化ギャップよりも大きい。(香港、北京、上海、東京、ソウル、シンガポール のanywhereな人たちは、同じような世界観を持っており、むしろ、各国のローカルな共同体に生きる

somewhereな人々よりも近似値が高い)

 

・anywhere な人々の意識

総じて彼らは自己実現的な充足を満たされている可能性が高く、徐々に、自己超越的な世界観へと向かう可能性が高い。クリエイティブクラスを形成する高所得者層に加え、アーティストや社会的起業家、自給自足的生活や、エコビレッジの居住など、暮らしにおける文化的な豊かさを志向するクラスターとなっている。

 

・somewhereな人々の意識

「国家」や「地域共同体」でのリアル経済を担う中、グローバリズム(第三国への工場移転、

物価の安い国からの輸入品、低賃金の労働者の流入)によって、暮らしや仕事を脅かされていると

感じている層も多い。

自己実現的な欲求が満たされない中で、イデオロギーや宗教によって不安を払拭しようとするため、

かつての国民国家への回帰を志向することになる。当然、反グローバリズム運動へと向かい、ヨーロッパではネオナチをはじめとするナショナリスト政党の躍進、イギリスのEU離脱、アメリカでは、白人労働者層を取り込んだトランプの当選などが次々と起こった。

今後も、この世界の二極化は、進んでいくことが想定される。

 アフターコロナの精神世界についてまとめて欲しいという依頼を受け、ざっくりとまとめてみました。

 人々の、近々の意識の変化、暮らし方の変化・・・的なモノについてはわりと、色々な人が論じているので、そちらを参考頂くこととし、精神世界の大きな変化の流れを僕なりにまとめています。

 人々の精神世界は、とても長いスパンで動いているので、どうしても、抽象的な話になってしまうのですが、これからの時代の方向性の分析としては間違っていないと思います。

 

* * *

 

 コロナウィルスの流行で、世界が揺れている。それまで当たり前にそこにあった日常は一変し、コロナ以前の世界が戻ってくるのか、戻ってくるのならそれはいつになるのか、それとも全く違う世界が待っているのか、答えを探しながら、人々は不安な日々を過ごしている。

 

 アフターコロナの世界を占う際、鍵になるのが、この「不安」という感情ではないだろうか。不安な状態というのは、人類にとって最も不快で、ストレスの高まる状態である。故に人々は不安を解消しようと様々な試みを行うわけだ。そして、その様々な試みが、集まり一つになった時、大きな潮流となり、社会を変えてゆくのだ。

そのように考えると人類の歴史とは、不安な状態に置かれた人々の回避行動によって作られてきた

「不安解消の歴史」に他ならないことがわかる。

 

というわけで本稿では、「不安」をキーワードに人類史をひも解くことで、コロナの後の世界を推察していくことにする。まず、その始発点、人類史がはじまった原始の地球、人類の「不安」との共生がスタートした地点へと遡りたい。

 

|人類精神史概観

 

1.   流動的知性の発生 ネアンデルタール人からホモサピエンスへ

本来、「不安」という感情について、ある程度定義をした上で論を進めることが必要であることは、重々承知しているが、本稿においては、シンプルに、「心が安定していない感覚」といったような曖昧な定義のまま進めるのをお許しいただきたい。

 さて、人類がその身に最初の「不安」を宿すことになったのは、いつだろうか?実は、原始の地球で起こった、ある大きな出来事が、その原因だと言われている。その出来事とは、「第一次形而上革命」と呼ばれる人類の脳構造の変化である。

・大脳新皮質の発達と流動的な知性
 アウストラロピテクスからネアンデルタール人の時代まで、人類の脳は、博物学的知能、言語的知能、技術的知能などの情報を、それぞれ別の脳領域で処理していたようだ。故に、扱う情報量が増えると、脳の容量も増やしていく必要があった。

脳容量は時代を追って大きくなり、アウストラロピテクスは400~500CC、原人と呼ばれるホモ・エレクトスは900~1100CC、ネアンデルタール人については1400~1600CCである。

 一方で現生人類であるホモサピエンスの脳は、1400CC程度とネアンデルタール人よりも小さいが、大脳新皮質を発達させることで、各部位をつなぐ回廊を作り、脳の各領域で行っていた情報処理を一元管理することに成功した。
この脳科学的な変化によって、飛躍的に情報処理能力が向上することになった。

 この情報処理能力というのは、すなわち、異なる複数のモノに共通する特徴を見出し、グルーピングする能力に他ならない。この事物のパターンを見つける力こそが、「知性(帰納と演繹)」であり、それを操るプログラムが「言語」である。
 

・言語による分断

人類は、言語を用いて、あらゆるものをパターン化することが可能になった。それは、すなわち「概念」を使って、世界を自由に構成する力を手に入れたということである。

 さて、この言語の発達は、人類の発展に巨大な貢献をすることになるが、実は、同時に、人類に同じだけ大きな問題を与えることになった。それは、言語の持つ「分節化(まとまりの範囲を決めること)」の機能の持つ不可避の側面なのだが、その問題がどのようにして発生するのかは、幼児期の言語獲得プロセスから明らかになる。

・言語による世界との分断

幼児は、自我が未発達であるため、自分と世界がひとつにつながっている状態=「主客未分」の状態を生きていることがわかっている。主客未分の世界を生きる幼児にとって、いつもいるはずの母親が不在になるという状況は自分の一部が欠損するような、耐え難い衝撃として感知されるそうだ。この衝撃を和らげるために、幼児が用いるのが「言葉」である。
 

幼児は、目の前の存在に「お母さん」と名づけ、自分と母親を切り分けることで、自分の一部が欠損するのではなく、母親がたまたま不在なだけだと状況理解を変えるのだ。

この「世界のある部分」に対し、名前を付けることで、「ひとまとまりの存在」として切り分けること。これが言葉の持つ「分節化」という機能である。人間は、言葉を用いて、自分と世界を切り分けていくことで世界を認識し、同時に、自我を確立していくのだ。
 

さて、この言葉による世界の分節化、そして世界から自己を確立するプロセスの中で、幼児は、母親とひとつながりだった世界から永久に追放されることになる(これをエディプスコンプレックスと呼ぶ。オイディプス王の物語における「父」=「言葉」のこと)。

それは、世界から切り離され、疎外され、分断され、その孤独と不安と共に生きることを余儀なくされることを意味している。
 

つまり人類は、言語を獲得することによって、世界を切り分け、操作する自在な知性を手に入れるのと同時に、世界から永久に分断され、その存在不安を持って生きるという宿命を背負ったということになる。

この「分離」こそが、人類の宿命的な「不安」の本質にあるのだ。人類史を牽引してきたのは、この「不安」を解消したいという根源的な「欲求」であるといっても良いかもしれない。


さて、ここから人類が、この根源的な存在不安をどうやって補完してきたのか概観していくことにしよう。

 

2.   神話とスピリットの時代

世界から切り離されてしまった不安な人類は、その不安を補完するために、創り出した最初の道具が「神話」である。神話は、自分たちのルーツと、説明できない現象(不安にさせる現象)を物語によって、説明してくれるシステムであり、また同時に、生きるための知恵(ここに近寄ってはならない、〇〇を食べてはならない)などの倫理を補完し、共同体を維持するための役割を担うものとして生まれた。

神話= 生きる意味と、セカイの存在意義と、倫理をつなげる物語

 

3.   宗教の時代

・原始宗教

各所で生まれた神話は、その後体系化され、説明できない現象を司る存在=「精霊(スピリット」を中心とした儀礼体系へと進化していく。自然界の存在が持つ力への憧れは、トーテミズムやシャーマニズムを創り出し、万物に宿る霊魂やスピリットを信じるアニミズム的な世界観が広がった。さらに、森羅万象を、司るモノ、形質や、力などの抽象的なコンセプトそのものが擬人化されていき、「神」が生まれる。

・多神教と一神教

世界各地で生まれた原始宗教は、体系化され、集約されながら、たくさんの神々を奉る多神教の時代が訪れる。その後、唯一神を奉ずる一神教が砂漠の民によって生み出される。

多神教の世界観には、様々なことを司る神々に祈り、奉納することで、恩恵(自然の恵み)を受け取るという循環にあるが、それは、人々にとって自然が、時に厳しくも衣食住を与えてくれる「母的」な存在だったからである。

一方で、一神教が生まれた砂漠という過酷な環境においては、自然は奪っていく存在であり、与えてくれる「母」的な存在ではない。より厳しい力を持つ「父なる神」が現れ、ここに唯一神の信仰が生まれていくことになった。
 

こうして神話によるぼんやりとした共同体的意識は、時代の流れと共に、明確な「神」を信じる「信徒」の自覚となり、より強い精神的支柱として機能することになった。

・中世的世界観

多神教にしても、一神教にしても「真善美の基準を決める」という機能は共通しており、この時代、その宗教文化圏に属する人々にとっては、万物が説明され、自分の存在理由も定義された、不安なき時代だったと言える。

ヨーロッパでは、5世紀から15世紀までの1000年間、このまま暗黒時代(よくわからないという意味)と呼ばれる中世が続く。その中でも様々な変化があったものの、キリスト教中心の世界観が継続。

 

日本では、土着信仰である神道(八百万の神々、アニミズム的世界観)がなだらかに広がっていた土壌に、6世紀、仏教が伝来し混交。地縁血縁共同体の維持を目的とした神道に、善行による魂の救済を目的とした仏教的思想が混入し、平安時代から鎌倉時代、室町時代と為政者が変わりながらも、人々の意識については大きな変化のない時代が続く。

しかし、ヨーロッパやイスラム圏のように、一神教が取り入れられなかったため、明確な「教義」に基づく正義や真理を生きるという世界観がそもそも成立しなかった。

かわって、仏教的な正邪の概念や、自然への畏怖心などが入り混じった無形の「道徳」や「世間体」や「生活道徳(罰当たり など)」などが、生活規範として機能することとなる。

 

 

4.   ルネッサンスと科学革命

・ペストの大流行

ヨーロッパでは、中世を終わらせる大事件が起こる。シルクロードを通って中国からやってきたペストである。ヨーロッパの人口の1/3が死亡したと言われるこの事態に、どれだけ祈っても救ってくれない神と、その代理者である教会の権威が地に落ちる。さらに、人口減少によって、空前の労働者不足が起き、農奴が解放されることで、封建制が解体していくことになる。

・ルネッサンスと科学革命

さらに、時代はニュートン、ガリレオ、コペルニクスらを召喚し、科学革命が勃発すると、教会が説明してきたことが、真実でないことが、わかってくる。地球はセカイの中心ではない。全ての現象は、神の意志ではなく物理法則によって、動いているに過ぎない。
 

すると、人々は教会によって担保されてきた「生きる理由」や「世界の存在理由」への疑念を持つようになり、人間を中心とした新たな世界観を模索し始める。それは、ルネッサンスと呼ばれる人間復興運動として花開いた半面、人々は、これまでの安定した世界から、突然、何もかもが不確かな世界へと足を踏み入れることになるのだった。

・日本のルネッサンス

日本では、一神教が取り入れられなかったため、むしろ、ヨーロッパ的な「宗教的な世界観の崩壊」が起きるのは、明治以降の国家神道の敷衍による人為的な天皇信仰が終わった「終戦」のタイミングになる。

局所的には、戦国時代の下克上的な世界観や、織田信長による比叡山焼き討ちなど、宗教的・封建的世界観が解体していく契機が訪れている。しかし、民衆レベルの精神性が大きな変化を迎えるタイミングは、大政奉還から開国、「文明開化」の訪れまで待つ必要があった。

 

5.   国家とイデオロギーの時代
 教会の権力、宗教による共同体意識が減退する中で、変わって力を持つことになったのが、近代国家である。「よりよく生きる」ということを軸として、一体感を持って生きていた世界(=宗教的な意味での、倫理によって、支えられていた時代)は、「産業革命」を経て、資源めぐる争いの時代へと変わる。
 物質的な豊かさ=個人の欲望を最善とする世界へと変わると、万人の万人に対する戦争、弱肉強食の世界が幕を開ける。集落から地域、地域から地方政府と、より強い大きなグループを作り、自衛する動きが加速し、「国家」へと集約されていくことになった。 
 

宗教的なアイデンティティを失いつつあった人々にとって、「国家」というアイデア、〇〇人というアイデンティティは、新たな依り代となり、「国民国家」というコンセプトが広く共有されることになった。この国民国家に生きる人々の新たなアイデンティティとなったのが「イデオロギー」である

・イデオロギー

資本主義と共産主義、リベラルと保守などの対立軸は人々にとって、正義と悪、敵と味方、自分たちと彼らを分離し、自分の正当性や行動事由を与えてくれる新たな拠り所として機能した。それはナチズムや全体主義、国粋主義的なイデオロギーが蔓延した時代から、戦後の、反戦運動、ヒッピームーブメントといった政治運動まで、共通した動勢である。

日本においても、文明開化以降に人々の意識は大きく変化し、戦時中の国粋主義的なイデオロギーへの傾倒、敗戦から60年代の安保闘争への傾倒と、「イデオロギー」の時代が続くことになる。

・反戦活動とニューエイジ

泥沼化するベトナム戦争の反戦活動は、アメリカ西海岸でオルタナティブな生き方への探求としてひとつムーブメントとなった。ヨガ的な世界観、自己探求、悟り、内的な平和、女性性の解放など、様々な領域で、新しい時代を探求するニューエイジ・ムーブメントである。

 しかし、ニューエイジは思想や学問、アートの領域においては、優れた功績を残す一方で社会全体を変えていくには至らず、ブームは収束へと向かった。これらの動きは、既存の宗教的な安定でも、政治的イデオロギーといった外的な規範への同一化ではなく、自分の内的な充足を目指す動きとして、今後の、世界を占う上で、改めて、理解しておく必要がある。

 

6.   経済の時代

冷戦が終わり、社会主義の失敗が明らかになっていくにつれ資本主義的な豊かさを謳歌する中流階級が生まれてくる。

・消費者というアイデンティティ

消費活動は、それまで、生活に必要なモノを購入する活動であったが、文明の発達と共に、中産階級が生まれてくると、消費を自己表現、自己実現として見なす、新しい世界が誕生する。宗教やイデオロギーに代わって、消費行動(何を、買うのか)が、人の本質的なアイデンティティとなった社会が、現在の「消費社会」である。
 

人は長い間、「生活に必要なモノ」を購入してきた。故に、モノの価値は「機能性」を元に測られていた。しかし、所有物=その人のアイデンティティを表現するモノ(=記号)という思想が生まれると、モノの価値の源泉は、機能から「象徴性(=自己表現にどれだけ資するか)」へとシフトしていった。
 

消費が、世界と自分をつなぐ機会、象徴を用いて自己を確認する機会となった時、経済は、国家も民族も神をも超越する力を持つことになったのである。
 

消費活動という行為は、本質的に宗教にもイデオロギー階級等の文化装置にも制約を受けない。それは即ち、宗教文明圏(キリスト教圏 等)や国家を超克する契機をその本質に持っていることを意味し、それはインターネットの出現によって、実際に国家という枠組みを無効化していくことになる。それを牽引したのが、カリフォルニア発のグローバルIT企業群であった。

・グローバル企業とグローバルな消費者

カリフォルニアのシリコンバレーを中心に起こったIT企業、特にGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)等によるグローバル展開は、「国家」という枠組みを、無効化した。 彼らによる国家や宗教を超越したビジネススキームは、グローバル・サプライ・チェーンというテーマで語られることが多いが、実は、その企業理念、企業の精神性に、すでに「国家やイデオロギーの超越」が含まれていることは、見逃せない。

アップルの創始者スティーブ=ジョブスの愛読書が、ニューエイジ・ムーブメントの先駆けとなった書籍「あるヨギの自叙伝」であったことは有名だが、その他のカリフォルニアのIT企業群についても、その精神性は共通している。
 

それは、かつてヒッピームーブメントという政治活動によって乗り越えられなかった「壁」、すなわち、国家、文化、風習、階級的不均衡を、経済の持つ「平等性(誰もが、お金を払えば、買える)」によって、乗り越えようという思想だともいえるわけだ。
 

今、世界は、経済がすべての中心にある。人の行動の中心であり、政治の中心であり、世界とつながる手段である。お金の流れは、血流のように、社会と私たちの生殺与奪を握っている。新型コロナウィルスによって、経済が止まった今、はじめて、私たちはその事実、自分たちの暮らしが、複雑なグローバル経済の一つの歯車となり、経済の停止が、自分たちの生を脅かすものなのだと体感的に理解したのである。
 

今、私たちが直面しているのは、複雑に絡み合ったグローバルな経済システムの中で、自分の生を、暮らしを、どう位置付けていくのか。そして、これから、どう生きていくのかという、根源的な疑問である。
 

アフターコロナの世界、私たちは何を問われ、何を決断する必要があるのだろうか。

 

 

|人類史×マズローの欲求5段階仮説

 

さて、現代に至る人類の歴史を、存在不安の解消というテーマから振り返ることで、人類が、その時々で、神話、神、国家、イデオロギー、消費と形を変えながら、しかし常に、自分と世界をつないでくれる物語と共に生きてきたことを見てきた。

 さて、ここで、ひとつの疑問が湧いてくる。神話から消費まで、人類は、ただ姿を変えた「母の幻影」を追ってきただけなのだろうか?人類は、これからも、何か拠り所をなる物語、世界と自分をつなぐ赤い糸を探して、生きていくのだろうか?
 

この問いはすなわち、人類は進化の過程にあるのか、それとも何も変わっていないのか?

という問いである。
 

かつてサルトルは、人類の歴史を、精神の進化と共に「未開→文明」へと成熟していく歴史であると説き、西欧文明中心主義として痛烈な批判を浴びた。そして、その批判は、大変に正しい。

実存主義・マルクス主義的な理想論的進歩史観や、宗教的な世界観における単純な意識の進化論(霊性を向上させ天国へと至る)は、とても魅力的だが、それは、新たな「精神安定剤」の投与に他ならない。

 

しかし、そういった批判があることを承知で人類が時代と共に成熟していくという歴史観を改めて検討してみたいと思う。その補助線として、エイブラハム・マズローの「欲求の5段階仮説」を使ってみたい。つまり、人類の精神性の変遷を、人間の誕生から成熟までのプロセスと重ねてみようというのだ。

 

1.マズローの欲求5段階仮説



有名なマズローのアイデアの中心思想は、
・人間の欲求は階層化している
・下位の欲求を満たすことで、上位の欲求へと意識が遷移する
というところにある。まず、基本的なイメージを理解するために、二人の人間が出会うという場面を想定してみよう。

そもそも、それぞれが、生死をさまよう状態であるなら、互いに興味を持つという現象すら起こらない。すなわち、最初の「生存の欲求」が満たされているというわけだ。

続いて、まず重要になるのが、相手が危険ではない、自分に害をもたらす存在ではないという部分が満たされる必要がある。つまり「安心・安全の欲求」が満たされる。
 

すると、続いて互いに興味を持ち、関係性を深めたい=仲間になろうという機運が生まれてくる。これが「社会的欲求」。人とひととしてのつながりが生まれるわけだ。
 

関係性が深まるにつれ、相手からどう思われているかが気になりだす。相手から、評価されたい、尊敬されたい、素敵!と思われたいという欲求が出てくる。また、そう思われるような自分になりたいという欲求も高まる。この段階が「承認欲求」のレベル。
 

しかし、このように「相手」や「社会」からの視点を軸にして、自身を変えていくという試みは、多くの場合どこかで無理がくる。故に、「自分は、本当は、どうなりたいのだろう?」という場所へ意識が向かう。ここからが「自己実現欲求」のレベル。
 

本来の自分、自分の人生観や世界観に基づいて、自分を見つめ直し、自分のやりたいこと、自分らしい在り方を探していくわけだ。それは、主語を「誰か」から「自分」へと取り戻していくプロセスになる。
 

さて、このようなプロセスが、二人の出会いだけでなく、複数の人間が介在する組織内でも起こることは、容易に想像できるだろう。では、国家、社会、文明圏といった場所においても、それは起こりうるだろうか?そして、それは千年というような長大な時間単位においても、成立し得るだろうか?
 

もちろん、社会が「文明化」していくプロセスの中で、生存、安全といったレベルの課題がクリアされていき、社会的な欲求のレベルへと入っていくというのは、大方納得できる部分だろうと思う。
 

しかし、ポイントとなるのは、社会的な欲求・承認欲求・自己実現の欲求についてである。この領域については、「プラットフォーム」という視点が重要になってくる。

 

2.プラットフォーム

欲求の充足を実現する社会的なプラットフォームの登場によって、その同時代性、世代性を作り、人類史的なスパンで、人々の欲求レベルをドライブするということが、起こる。
 

プラットフォームというのは、宗教共同体、国民国家、一億総中流社会、スマートフォン、SNS・・・など、
・人々が作り出し、同時に、そこから影響を受ける欲求の「器」
のようなイメージだ。

 これらのプラットフォームは、我々の階層的な欲求を満たすために創られ、また同時に、その欲求の充足に人々が夢中になるように機能する。
 

例えば、snsの登場は、「つながりたい」、「承認されたい」という欲求から作られ、同時に、その社会に所属する人々に対して、その欲求を最大化する機能を持つということだ。このようにして、人々は、自ら作り出した契機を用いて、階層的な欲求を満たしながら、暮らしを営んできたわけである。
 

故に、先に挙げた二つの問いについては
・国家、社会、文明圏といった場所においても、それは起こり得る
・千年というような長大な時間単位においても、成立し得る
と(強引ではあるが)結論し、これを前提として、前半に論じてきた人類史を、マズローの階層的欲求の上に載せてみることにしよう。

 

3.人類史と欲求階層
では、さっそく世界との接続手段の変遷を、マズローの欲求階層に重ねてみよう。

 

 <フェーズ> <主たる生のテーマ>      <満たしたいもの>

・神話の時代 =主客未分の世界を生きる:生存の不安:生理的(生存)の欲求の充足

・宗教の時代 =与えられた真実を生きる:安全・安定・安心の欲求の充足

>ルネッサンス< 

・国家の時代(前期)=社会の中で役割を生きる:所属の欲求の充足(役割を担うことで認められる)

・国家の時代(後期)=社会の中で個人を生きる:承認の欲求の充足(個性を、誰かに認めてもらう)

・経済の時代    =自己表現を生きる  :自己実現の欲求の充足(自分がなりたいものになる)
 

少々ご都合主義的ではあるが、もう一度、各階層を順番に振り返ってみよう。

 

 

4.階層別概論
 人類は、言葉を獲得することで、世界と分断され、その意識の根底に、「分離の不安」を抱え込むことになった。この「分離の不安」を解消し、世界と「再接続」したいという「欲求」の元に、まず人類が作り出したのは、世界との関係性を物語化した「神話」であった。
 

|神話の時代:主客未分の世界:生存の不安:生理的(生存)の欲求の充足

神話の時代が、どのようなモノであったのか、正確に知ることは難しい。しかし、古代の研究に加え、神話的世界に近い生活を続けている各地の部族の研究等から、その世界観が、「世界と自分を直接的につなぐもの」であったことが、わかっている。
 

その特徴は、シャーマニズムの世界観に顕著に現れている。シャーマンは、スピリット(精霊)とつながり様々な呪術を行い、治療や天候への働きかけを行う。この時、シャーマンはトランス状態へと入り、スピリットの世界へと足を踏み入れる。人間と世界は、「半分」切り離され、「半分」つながっているわけだ。
 

人は、自然によって生かされ、時に、奪われるが、それは、自然のサイクルの一部であり、それは「存在する」ということそのものが、母なる大地に許容されているとも言える世界観である。
 

この段階の社会は、人間の成長段階でいう「幼児期」にあたる。幼児は言葉を覚え、自分と世界を分離させていく、さなかにある。その時「対象α」と呼ばれる、自分と世界の中間的な存在を作り出すことが知られている。ピーナッツの登場人物ライナスが持つ「毛布」のような、中間存在(お人形だったり、お気に入りのタオルだったり、人によって色々)。

それはすなわち、世界と自分をつなぐ「神話」があり、スピリットと共にある世界である。
(ゆえに、トトロは、「子供の頃に“だけ”あなたに会いに来る」のだ)

|宗教の時代 =神が与えた真実を生きる :安全・安定・安心の欲求の充足
 その後、神話の世界は、神々を祀る「宗教」へと体系化されていく。すると、人々と世界をつなぐ”安全帯”は、「信仰」へと変わっていくのだが、その最も重要な変化は、自分と世界(神)との直接的なつながりは失われ、媒介者=宗教者が介入したことにあった。
 

スピリットを通じて開かれていた人と世界の間の回路は絶たれ、その方法を知るとされた一部の人々(西洋では教会)が、その媒介役として現れる。彼らは、一律の真善美を定め、正しい生き方、悪い生き方を定め、生きる目的を提示し、「切り離された人々」の指導者となる。人々は、統一的な教義と、善悪を教授する指導者の元で、心理的な安全性を担保されることになる。
 

この段階を人の一生に当てはめるのなら、神話的世界に住んでいた幼児が、子供へと成長していくプロセスにあたる。子供たちは、自分のもつ世界観や世界とのつながり方を、大人によって「正しいつながり方」へと強制される。お化けはいないし、妖精もいない。自分のモノと、他人のモノは別だし、嘘はついてはいけない。食事は決まった時間にしか出てこないし、赤信号はわたってはいけない。
 子供たちは「正しい行い」を受け入れる代わりに、安全・安定・安心を手にすることを学ぶ。それは、「大人」のいうことを聞くことで、面倒を見てもらえるというトレードにサインすることに他ならない。

|ルネッサンス
 長く続く中世の時代は、疫病の流行や、科学の発達に伴い、急速に終わっていくことになった。宗教を司った「教会(的な存在)」はその権威を失っていき、代わって、人間中心主義の思想が広がっていく。
 

これは、幼少期に両親や学校で習った「強制された正しさ」を、もう一度、再考していく期間にあたる。人は年齢を重ねるにつれ、親や先生などの大人が完璧な存在じゃないことを知り、それまで与えられてきた真実への追従から、自分にとっての正しさの探求へと向かう。それは思春期、特に反抗期にあたる期間と言える。

|国民国家とイデオロギー

宗教の力が衰えると、国民国家(国民というアイデア・国民が作る国家というアイデア)というコンセプトが立ち上がってくる。この時代に、宗教に代わって人々と世界をつないだのは「イデオロギー」であり、自分が、その社会を構成しているという、政治意識が広く共有されることになった。
 

帝国主義から近代まで続く国家間の争い、世界大戦から植民地の独立戦争まで、人々は 民族意識や政治体制(資本主義・社会主義)など、「〇〇主義者としての自分」という物語をつかって、世界とつながろうとした。社会の一員であるということ、自分がその中でひとつの役割を演じ、世界を作る側であるという意識により、人々は「社会的欲求」を充足することになった。
 

学校やチーム、会社などの組織に入り、その中で仲間と共に何らかの社会的役割を担うことは、この社会で、「子供」から「大人」へとシフトする契機である。共同体に所属し、その一員であるという意識を持つことで、人は自分と世界を、新たな形で接続することを学んでいくのである。

|経済と消費者

民主主義の成熟と共に、世界は人口爆発を迎え、高度経済成長期を迎える。人々の生活はより豊かになり、中流階級が生まれてくると、人々は、消費を通じて世界とつながり、自分を表現することを学び、ここに新たな「消費者」というアイデンティティが成立する。
 

モノを保有するということがステータスになり、流行が生まれ、ブランド信仰が生まれ、人々は、自己表現を謳歌する。消費活動の目的は「他者にどう映るか」からはじまり、次第に自分らしさの表現へと変化する。「みんなと同じ」から「みんなと違う」へ、そして「みんなは関係ない」へ。
 

この頃の状態は、人の目線が気になり、誰かの特別な存在でありたいという思いが募る思春期、そして、本来の自分らしさを探していく青年期に相当する。繰り返しになるが、「誰かにどう思われるか、どう見られるか」が気になって仕方がない時期を通り過ぎ、人は、自分のありたい自分とのバランスを見つけていくことになる。

 

 

さて、ざっと人類史を改めて眺めてきたが、いかがだろう。人類の成長物語は、青年期までやってきた。そして、これから迎えるのが、成熟の時代。コロナの流行は、この人類の成長を加速するかもしれない。ここまでの議論を前提に、アフターコロナの世界についての考察をしてみたい。

 

昨日の続き。

 

現実は幻想だって話を書いたので、さらに話を進めておきましょうね。

 

僕らは、幻想の住人。

幻想というのは、何かというと、「意味」のことなんだな。

先日、こんな素晴らしいやり取りがあったので、ご紹介。

 

会社の上長が、金曜日の夜に電話をしてきたのだけれど、

色々忙しく、着信に気がつかなかったわけ。

何回か着信があったのだけれど、気がついたら深夜。

深夜になっちゃったし、明日から土日だから月曜日でよいかなー

と思ってたらラインに、

「君はコールバックを大至急する立場にある、

もし緊急連絡だったら?という想像力と自覚が足らないのでは?」

と入っていたわけです。

 

かっちーん!と来るわけですよね。

そこから、僕は長文の返信するわけですよ 笑

 

・そもそも大至急って何?人でも死んだ?

・土日だろうと夜だろうとコールバックって何?社畜なの?

・電話に出ないだけで、想像力と自覚が・・・って話までいく?

・そもそも、人間は対等ってことわかってる?

・やってくれて当然という意識って不幸のはじまりだから

 やめたほうがいいよ

 

すると、これまた長い返信がある。

要点は

・上から目線で言っているわけではない(確かに)

・急なZOOM会議のセッティングの問題があった(←あ、須藤の担当じゃん)

・「想像力と自覚」と書いたけれど、「優しさ」の問題、

 つまり、相手が何度も電話して、留守電も入れていて、

 困っているのに、無視するってのはどうなの?(←留守電聞いてない)

 

なるほど、なるほど、と見えてくるわけですよ。

 

これ、長い長い、言葉を交わしてるのだけれど、簡単に言えば、

「思いやりがなくない?」「ひどくない?」

って、互いに言っているだけなんだよね。

 

ここ、ポイント。超ポイント。

このズレを生み出したのは、「優しさ=〇〇」という定義(信念)の違いなわけ。

 

僕らは、子供の頃に、親の立ち居振る舞いを見て、

行為と、その行為の持つ意味 をつないでいく。

例えば、自分をケアしてくれることを自分への愛情なのだと翻訳し、
・愛=ケアされること(してくれること)

というデータベースをインプットする。

 

けれども、ここが大事でね、このルールは、

そのファミリー独自のルールなんだ。

 

さて、見えてきたと思うけれど、このすれ違いの原因は、

このルールブックの定義が違っていたことに、起因する。

 

上長は、

・思い遣り=困っている相手を助けてあげること

というルール(定義)を持っていた。

そして、僕は、

・思い遣り=相手の事情を尊重し、相手に求めないこと

というルール(定義)を持っていた。

 

これが見事に対照的なわけ。

 

・思い遣り、やさしさ=自分の都合を聞いてくれること(応えてくれること)

・思い遣り、やさしさ=自分の都合を押し付けないこと(応えさせないこと)

 

これは、どちらが正しいという話ではなく、

人間の持っている、他者との関係をつくるための、

2つのチャンネルがあるっていうだけだよね。

 

だけど、その一方を、無意識にルールとして持っていると、

互いの行動が、「思い遣りがない、やさしさがない」様に映るわけ。

それで、かっちーん!と来るわけ。

 

さてさて、長くなったけれど、体験というのは、

いかに自己都合で、一面的なモノかがわかったかと思う。

 

現実に起きていたのは、

・連絡がとれなかった

という、シンプルな出来事だったけれど、

それが互いにとって「やさしさの不在」という意味をもった体験として

幻想化されたわけ。

 

この体験を通じて、僕らは、「思い遣り=〇〇」という

自分の中にある信念に気が付く。

すると何が起きる?

 

「思いやりのない人に出会う」という体験がなくなるわけ。

 

仕組みは簡単。

「思いやりがない人」と自分が断じてきたのは、

自分の知っている「思いやり」以外の「思いやり」を

持っている人だったってこと。

 

思いやり=〇〇というプログラムを見つけ、ディスコードする。

すると、世界が、シフトする。

面白いくらいに、簡単な仕組み。

 

さて、こんな風に自分の中の「定義」を超えていくのだけれど、

すると、目の前の出来事を、意味化する率が下がっていく。

 

・やさしさ=〇〇

という定義(コード)を解除すれば、世界から「やさしくない人」がいなくなるし、

・愛=〇〇

という定義(コード)を解除すれば、世界は愛に満ち溢れる。

 

自分の持っている、言葉の定義が、その人の出会いを決める。

その人の人生を決める。

解除と呼んでもいいし、定義をもっと普遍的なモノへとアップデートするイメージでもいい。

その場合は、異なる二つの定義(テーゼ×アンチテーゼ)が出会って止揚し、
新しい定義(ジンテーゼ)ができるという、弁証法的なイメージになる。

 

いずれにせよ、同じことだね。

なので、言葉って何?意味って何?価値って何?

という部分を理解しておくのは、有用。大変に有用。

 

この分野を最もわかりやすく分析したのが、構造主義哲学の記号論。

ロラン・バルトは、神。

 

最も深く探求しながら、さらに探求者を変容させるところまで持っていくのが

文学ね。本当に本当に困ったときに救ってくれたのは、いつも文学だった。

 

さて、まとめ。

 

自分の解釈は、違うのではないか?

自分の読み方は、何か、誤解しているのではないか?

という可能性を持った時にだけ、人は幻想から自由になれる。

 

それは、ありのままの現実を生きる

ということではなく、

幻想を生きながら、それを幻想だと自覚しているということ。

 

世界と自分を揺らぎの中に置いておこう。

自分と世界に訪れるものに、自分を拓いていよう。

その柔らかさは、あなたの、強さになる。

そして、それは、あなたと世界を開放する。

さて、一緒に、世界をディスコードしようじゃないか。

とても、良い質問をもらったので、

公開で返答をしてみます。

直接の返答にはなりませんし、

一気に書き上げるので、まとまってないけれど、よろしく。

 

相談内容は、ざくっというと、

 

自分にとって被害をもたらす人がいて、

その人に、やめてほしい と言っても、やめてくれない。

そして、その相手を許せないこと、

その相手を「ダメ・悪」だとジャッジメントしている自分が、

すごくひっかかる・・・

 

という状況。

今回は、鍵となる「ジャッジメント」について書こうと思うけれど、

その前に、基本となる考え方を、伝えておくね。

 

僕らは、自分をコントロールすることなんてできません。

喜怒哀楽の感情も、興奮も恐怖も思考も、自分の中に「勝手に」出てくるもの。

それらは、神様の管轄範囲ってこと。

自分で、なんとかできるものじゃないし、するべきものでもない。

 

湧き上がってくるモノそのままに表現しているのが赤ちゃん。

自分のことも、誰かのことも、赤ちゃんだと思っておいたほうがいい。

自分の中に、相手の中に、赤ちゃんがいる。

 

だから、状況に対して何かしらの感情を感じるというのは、

「赤ちゃんが泣いた」と同じくらい、自然であり、ランダム。

そこに大人の論理、合理性も条理も、ない。

脈絡なんてないし、矛盾している。

「そんなのおかしい!」といくら言っても、起こるものは起こる。

 

だから、自分の感情や思考に、責任を持つ必要なんてない。

それをコントロールする必要もない。

そんな風に、「自分」を背負わなくてもいい。

 

自分の中に起こるすべてのこと、

自分の中を通り過ぎていくすべての風景、

それをとどめずに、想起するに任せる。

それを、表現したかったらすればいいし、したくなければしなくていい。

 

まず、自分の外側の世界をコントロールできないと同じように

僕らは、自分の内側の世界をコントロールできないってことを、理解する。

ギブアップ、あきらめよう。

 

怒りたければ、怒ろう。あなたのせいじゃない。

憎みたければ、憎もう。それも、あなたのせいじゃない。

 

自分というスペースに、何かが、やってきた。

それだけのこと。

 

「自分の感情に、自分の思考に、自分の人生に責任を持つ」
という荷物を降ろすと、

相当に楽。そして、誰かに対して「責任持て!」
と思わなくなる自分に気が付く。

 

さて、ここまでが第1ステップの話。

その先の話があってね、

 

じゃあ、なんで、怒りが出てきたの?って話ね。

怒りが出てくる=自分の期待に沿わない体験をしている
=期待(~すべき)がある。

 

自分は、相手に、何を期待しているのだろう?

自分は、どんな期待(~すべき)を持っているのだろう?

ってことを、見つめていくのだけれど、ここ、注意してほしい。

 

これは、自分の中にある「期待」を見つける、宝探しとしてやってほしい。

「自分の中にある期待」というのも、自分のモノじゃないからね、

これも、神様の管轄範囲のモノだから、なんの責任もないってこと。

 

繰り返しになるけれど、

自分の中の期待、自分の中の感情、自分の思考、自分の言葉、

自分の才能、そのすべては、自分のものじゃないからね。

それをどうにかする責任なんてないわけ。

 

じゃあ、なぜ、やるの?

 

それはね、面白いからだよ!

宝探しが、何より、面白いから、やる。

だから、つまらなかったら、やらなくたっていい。

 

意識的な自己探求って究極の娯楽だからさ、

未知との遭遇へのスリリングな道程を、愉しもう。

(神様に与えられる自己探求は、なかなかハードだからさ、

自分でやる方は、たのしもうよ・・笑)

 

さて、誰かに対して、怒りを感じたのなら、

そこには確かに、期待があり、ジャッジメントがあるというサイン。

サインがあるから、旅をスタートできる。

 

さて、まずジャッジメントの話を先にしておこう。

 

ジャッジメントというのは、何かを「悪」だと決めることではない。

ジャッジメントというのは、「現実を固定する」ということ。

 

例えば、「こちらを見て女性が笑っている」という状況を

「笑われている」と取るのか、「微笑まれている」と取るのか?

(いや、そもそも「女性」というジャッジがあるよね。)

 

そこには、良い悪い、ポジティブ・ネガティブという

色付けが乗っていることも多い。

なので、ネガティブな体験を創造(ジャッジメントによって色付け)した時は、

自分の中に埋蔵されている期待(=正しい人間像、正しい在り方)を探しに行く

とても良いチャンスなわけだね。

 

ジャッジメントをしなくなるというのは、現実を緩めるってこと。

それは、すなわち「事実」を捨てるってこと。

自分の体験から、出るということ。

 

「あの人に、こんなにひどいことを言われた!」

という体験から外に出るのは、

「ひどいことを言われた傷を癒すこと」でも

「ひどいことを言った人を許すこと」でもなくて、

「ひどいことなんて、言ってなかった」なわけね。

 

確かに言われたもん!と思うけれど、それは嘘。

「言葉」というのは、好き勝手互いに解釈しているもので、

永久に、相手の発話意図なんて、わからない。

 

それは、自分が、作り出したファンタジーだ。

体験は、ファンタジー。すべての体験は、幻想。

・自分が今日体験したことは、事実ではない。

ここに立てるかどうかは、けっこう大きいんだな。

 

だから、ジャッジメントしない というのは、

自分の握りしめている現実から、離れるということ。

 

ここで話しているのは、あくまで、仕組みの話ね、

それを、どう進めるのか・・・・っていうのは、また別の話。

ジャッジメントに気が付いた → エイヤ!

という形で、パラレルリアリティにシフトするには、

ある程度、トレーニングが必要な気がする・・・・(どうだろう?)

 

けれど、このイメージを「下書き」にしておくのは有用だと思うな。

現実は幻想、この共通認識があれば、

コミュニケーションを開始できる。

 

幻想は解除できるけれど、現実はお手上げだ。

だから、ぜひ、現実ではなく、幻想を生きておいてほしい。

 

さてさて、直接の回答になってはいないのだけれど、

書いてきた2つのこと、

 

・自分の中に生まれるものは、自分の責任じゃないし、

 自分の行動も、自分の責任じゃないし、

 相手の中に生まれるものは、相手の責任じゃないし、

 相手の行動も、相手の責任じゃない。

 

・ジャッジメントとは、自分の体験を「事実」として固定すること、

 ジャッジメントする時、自分を「そこ」から動けなくしてしまう。

 状況を変えるには、「現実認識」をシフトする必要がある。

 

は、わりと有用性が高い知見だと思う。

少なくとも、僕にとっては、道しるべになっているので、

シェアしてみました。

 

以上

アマゾンプライムにおススメされて、

ペンギン・ハイウェイというアニメ映画を見た。

控えめに言って、最高だった。

 

僕らは、いつのまに、「大人」なんてものに、

なってしまったのだろうねえ・・・

しばらく余韻に浸ってしまうし、原作も買ってしまうだろうな。

 

せっかくなので、少し、物語について書いてみる。

この物語は、「純朴な少年が、大人の女性との出会いを通じて

(少しだけ)大人になる」

という大変ポピュラーな物語類型の上に編み上げられている。

 

この「(純朴な)少年 ×(大人の)お姉さん」というのが、人類は大好き。

た~くさん、この脚本で物語が作られている。

それは、人間にとって「必要」な知恵が入っているからだろうねえ。

 

どんな知恵かというと、例えば

・自我がハイヤーセルフとの出会いを経て、変容していく

ということ

 

物語の登場人物は、心の中に存在する人格=アーキタイプとして

読み解くと、色々見えてきて面白いのですよ!

 

少年とお姉さんの場合、

・純朴な少年=自我、マインド、顕在意識。

・大人のお姉さん=潜在意識、ハイヤーセルフ+インナーチャイルド

だいたい、この読み方でOK。

 

「お姉さん」というのは、すべてを許してくれる大地母神であり、
同時に、守らなくてはならない純粋さの象徴。
エゴ(男性性)は、女性性による「許し」による救済を欲し、

同時に、その「女性性」を、守る役割を持っているから、

この2つの側面を叶える存在として、描かれるわけ。

 

ちなみに、ジブリは「少女」が主人公のことが多いけれど、

少女というのは、内部に既に女性性=救済(許し)を持っているので、

他者からの救済が必要ない。

故に、ジブリの物語には「許してくれる女性」と
「救わ(れ)なくてはならない女性」が描かれないんだ。

 

さて、この「すべてを許してくれて、かつ、守ってあげなくてはならない女性」は、「手に入らない」ことになっている。

「救済されること(許してもらう)」と「救済すること(守ってあげる)」は、

エゴがエゴである限り、決して叶わないからね・・・

 

では、エゴを持って生きる僕らは、

ハイヤーセルフやインナーチャイルドの投影体
(許してくれる存在・守りたい存在)とどう出会い、

その関係性の中で何を学ぶのか、そしてその結末はどうなるのか?

 

・・・というのは、映画を見てみてくださいね。

 

ではでは

神は乗り越えられる試練しか与えない

って時々聴くけどさ、

乗り越えようとするから、それは試練に見えるけれど、

乗り越えなくて良いから、それは試練ではない

っていうのが正解じゃない?

 

そもそも、

なぜ乗り越えようとするのかというと、

それが「楽」だから。

 

自分が頑張れば、自分が成長すれば、

自分が乗り越えられるだけの力をつければ、良い!

 

良い?

良いって何?問題ないってこと?

そう、「問題を見なくて良い」ってことさ。

 

実は、自分が成長して乗り越えるという解決法は、

「問題」に直面するのを避けるための方法論なんだ。

 

僕らにとって「問題」というのはいつだって、

「自分の中の見たくない自分との出会い」のこと。

 

問題を通じて現われてしまう、嫌な自分。

未熟で、浅はかで、失敗ばかりで、ダメダメな自分。

狭量で、嫉妬深く、攻撃的で、わがままで、ずぼらな自分。

 

それを、人に見られたら、知られたら・・・!

それは、絶対ダメ!!それだけは、ダメ!

 

だから「成長」に舵を切ってしまう。

成熟し、暖かで、慈悲深くすべてを受け入れられる、

優れた自分を目指してしまう。

 

こうして「目の前の出来事」は、「神に与えられた試練」に変わる。

「成長」することで、クリアすると、また「試練」がやってきて、

「成長」してクリアすると、また「試練」がやってくる。

 

これは、成長した分だけ逃げられるという鬼ごっこ。

けれど、どれだけ逃げても、逃げられないのだよね、自分の「影」からは。

だから、いつか必ず、乗り越えられない試練を前に、

茫然自失する日が来る。

 

成長したと思ったのに、あんなに頑張ったのに、

影から離れられたと思ったのに、それは、変わらずに足元にある・・・

 

ギブアップするしかない。

 

それが、自分。その影こそが、自分。

絶対に嫌、そういう人間でありたくない、

大嫌いな人、許せない人・・・そう思っていた人こそが、自分。

逃げても逃げても逃れられない、自分。

 

等身大を生きるしかない。

ありのままの自分を表現していくしかない。

格好つけるのを、あきらめるしかない。

 

そうやって生き始めると、見えてくる。

 

自分の中にあるすべての要素、すべての資質が、

生まれた時からそこにあること。

僕らは、残酷で慈悲深く、狭量で寛大で、醜く、美しい。

実は、それらの資質は、人間が人間である限り、存在しているもの。

最初からそこにあり、最後までそこにある。

 

成長する必要なんてなかった。

変えようとする必要なんてなかった。

なぜなら、あなたは、はじめから完璧なんだから。

あなたは、今の、あなたのままで、なにひとつ欠けていない。

すべての資質が、あなたを構成する、不可欠の要素だ。

 

そのことに気が付くとき、

すべての試練は、試練ではなかったのだとわかる。

神は、試練を与えないよ。

 

ただ、指し示すだけ。

あなたが隠している、あなたの強さ、美しさ、豊かさを

指し示すだけ。

 

幸せな恋愛するためには、
愛され力を高めよう。
幸せに生きるためには、自分を大事にしよう。

幸せになるための○○。
幸せな○○をするための、✕✕。
というのが、溢れていて、
みんな幸せになりたいのだなーっと思う。

幸せってなんだろ?

幸せな恋愛って何?
互いを尊重し、高め合う関係性?
互いに認めあい、愛にあふれる二人?

幸せな生活って何?
自分が自分らしくいられる生活?
朝起きて、幸せだなーって感じられること?

きっと
物質的な豊かさとか、人間関係とか、
自分の外側のことを条件にして、
○○が叶えば、幸せ
とか
○○がないから、不幸せ
というのは、違うんだろうな・・と多くの人が気がついている。

けれども、自分の幸せを自足する、
つまり、「幸せ」を自分で作り出すという方向性も
また、少しズレているのかもしれない。

幸せを、状況ではなく体感に依拠するものだとするのなら、
幸せ=「幸せ感」ってことになるよね。
幸せ感ってつまりは「気分」。

気分って、長続きしないんだよね。

多幸感やエネルギッシュな状態にいる感覚を「幸せ」と呼ぶとすると、
幸せは、あったりなかったりするとても不確かなものになる。
たまたまエネルギーに満ちた時には、幸せを感じるけれど、
そうでないときは、幸せな体感はない・・・・

この幸せ感を「幸せ」だと思って追い求めると、
どうしても、多幸感とか達成感とかが得られるような、
「自分をアッパーな状態にしてくれる愉しいこと」を自分に与え続ける必要が出てくる。
けれど、バイオリズムは常にバランスする性質を持っていて、上に引っ張れば、同じだけ下にもいくので、
山と谷=アッパータイムとダウナータイムが繰り返すことになるわけだ。

よくSNSで見る、
・幸せ満開!私、自分を愛します♪
からの、
・罪悪感が出てきてしまって泣きました、でもそんな、私も許します!
みたいな現象ね。

この幸せ探しのジェットコースターも楽しいけど、
そろそろ降りようかなって場合は、
まず、幸せってのを、忘れることだね。
幸せになるとか、幸せな〇〇とか、すべてね。

そして、「今、ここにいる」 ということ だけに、なってみる。
今、ここで、呼吸している。世界を眺めている。
そのひとつひとつ、自分の内側と外側に広がる世界を、丁寧に丁寧に、眺めてみる。
・・・その瞬間、あなたは、そこにいる。

自分がそこにいる、という体感。
そのじんわりとした、生の実感。
それは「至福」とでもいうような感覚。

この体感は「幸せ感」とは違う。

幸せ感は、あったりなかったりする。
悲しいことがあれば、さっさといなくなり、
落ち込むことがあれば、とたんに消え失せてしまう。

至福は、生きている限り、意識を向ければそこにある。
悲しみに涙しているとき、喪失に呆然としているとき、
怒っている時、憎んでいる時、愛している時、恐れている時、
それらを深々と味わうのなら、いつだって至福がある。

それは「生きている」という体感そのものだから。

生きている、ただ、その当たり前のことに
震えるほどの歓喜がある。

幸せを求めるという心の動きは、
どうしても、「今よりもっと幸せな場所」というストーリーを作りがちだ。
すると構造上、どうして「今、ここ」から、離れてしまうことになる。

つまり、幸せになろう!と思う限り、
今ここ を 深々と味わう=至福 から 遠ざかるというパラドクスがある。

幸せ感は、人生のスパイスみたいなものだ。
ラッキーな出来事、達成できた喜び、大いに楽しみたいよね。

けれど、それは神のみぞ知るセカイ。
僕らにできるのは、
与えられた今日を生きること。
好き勝手、好き放題生きること。
そして、そこに起こるすべてを味わい尽くすこと。
至福の中で。至福の中にくつろいで。