神は乗り越えられる試練しか与えない? | 須藤峻のブログ

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すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

神は乗り越えられる試練しか与えない

って時々聴くけどさ、

乗り越えようとするから、それは試練に見えるけれど、

乗り越えなくて良いから、それは試練ではない

っていうのが正解じゃない?

 

そもそも、

なぜ乗り越えようとするのかというと、

それが「楽」だから。

 

自分が頑張れば、自分が成長すれば、

自分が乗り越えられるだけの力をつければ、良い!

 

良い?

良いって何?問題ないってこと?

そう、「問題を見なくて良い」ってことさ。

 

実は、自分が成長して乗り越えるという解決法は、

「問題」に直面するのを避けるための方法論なんだ。

 

僕らにとって「問題」というのはいつだって、

「自分の中の見たくない自分との出会い」のこと。

 

問題を通じて現われてしまう、嫌な自分。

未熟で、浅はかで、失敗ばかりで、ダメダメな自分。

狭量で、嫉妬深く、攻撃的で、わがままで、ずぼらな自分。

 

それを、人に見られたら、知られたら・・・!

それは、絶対ダメ!!それだけは、ダメ!

 

だから「成長」に舵を切ってしまう。

成熟し、暖かで、慈悲深くすべてを受け入れられる、

優れた自分を目指してしまう。

 

こうして「目の前の出来事」は、「神に与えられた試練」に変わる。

「成長」することで、クリアすると、また「試練」がやってきて、

「成長」してクリアすると、また「試練」がやってくる。

 

これは、成長した分だけ逃げられるという鬼ごっこ。

けれど、どれだけ逃げても、逃げられないのだよね、自分の「影」からは。

だから、いつか必ず、乗り越えられない試練を前に、

茫然自失する日が来る。

 

成長したと思ったのに、あんなに頑張ったのに、

影から離れられたと思ったのに、それは、変わらずに足元にある・・・

 

ギブアップするしかない。

 

それが、自分。その影こそが、自分。

絶対に嫌、そういう人間でありたくない、

大嫌いな人、許せない人・・・そう思っていた人こそが、自分。

逃げても逃げても逃れられない、自分。

 

等身大を生きるしかない。

ありのままの自分を表現していくしかない。

格好つけるのを、あきらめるしかない。

 

そうやって生き始めると、見えてくる。

 

自分の中にあるすべての要素、すべての資質が、

生まれた時からそこにあること。

僕らは、残酷で慈悲深く、狭量で寛大で、醜く、美しい。

実は、それらの資質は、人間が人間である限り、存在しているもの。

最初からそこにあり、最後までそこにある。

 

成長する必要なんてなかった。

変えようとする必要なんてなかった。

なぜなら、あなたは、はじめから完璧なんだから。

あなたは、今の、あなたのままで、なにひとつ欠けていない。

すべての資質が、あなたを構成する、不可欠の要素だ。

 

そのことに気が付くとき、

すべての試練は、試練ではなかったのだとわかる。

神は、試練を与えないよ。

 

ただ、指し示すだけ。

あなたが隠している、あなたの強さ、美しさ、豊かさを

指し示すだけ。