ジャッジメントを超える | 須藤峻のブログ

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すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

とても、良い質問をもらったので、

公開で返答をしてみます。

直接の返答にはなりませんし、

一気に書き上げるので、まとまってないけれど、よろしく。

 

相談内容は、ざくっというと、

 

自分にとって被害をもたらす人がいて、

その人に、やめてほしい と言っても、やめてくれない。

そして、その相手を許せないこと、

その相手を「ダメ・悪」だとジャッジメントしている自分が、

すごくひっかかる・・・

 

という状況。

今回は、鍵となる「ジャッジメント」について書こうと思うけれど、

その前に、基本となる考え方を、伝えておくね。

 

僕らは、自分をコントロールすることなんてできません。

喜怒哀楽の感情も、興奮も恐怖も思考も、自分の中に「勝手に」出てくるもの。

それらは、神様の管轄範囲ってこと。

自分で、なんとかできるものじゃないし、するべきものでもない。

 

湧き上がってくるモノそのままに表現しているのが赤ちゃん。

自分のことも、誰かのことも、赤ちゃんだと思っておいたほうがいい。

自分の中に、相手の中に、赤ちゃんがいる。

 

だから、状況に対して何かしらの感情を感じるというのは、

「赤ちゃんが泣いた」と同じくらい、自然であり、ランダム。

そこに大人の論理、合理性も条理も、ない。

脈絡なんてないし、矛盾している。

「そんなのおかしい!」といくら言っても、起こるものは起こる。

 

だから、自分の感情や思考に、責任を持つ必要なんてない。

それをコントロールする必要もない。

そんな風に、「自分」を背負わなくてもいい。

 

自分の中に起こるすべてのこと、

自分の中を通り過ぎていくすべての風景、

それをとどめずに、想起するに任せる。

それを、表現したかったらすればいいし、したくなければしなくていい。

 

まず、自分の外側の世界をコントロールできないと同じように

僕らは、自分の内側の世界をコントロールできないってことを、理解する。

ギブアップ、あきらめよう。

 

怒りたければ、怒ろう。あなたのせいじゃない。

憎みたければ、憎もう。それも、あなたのせいじゃない。

 

自分というスペースに、何かが、やってきた。

それだけのこと。

 

「自分の感情に、自分の思考に、自分の人生に責任を持つ」
という荷物を降ろすと、

相当に楽。そして、誰かに対して「責任持て!」
と思わなくなる自分に気が付く。

 

さて、ここまでが第1ステップの話。

その先の話があってね、

 

じゃあ、なんで、怒りが出てきたの?って話ね。

怒りが出てくる=自分の期待に沿わない体験をしている
=期待(~すべき)がある。

 

自分は、相手に、何を期待しているのだろう?

自分は、どんな期待(~すべき)を持っているのだろう?

ってことを、見つめていくのだけれど、ここ、注意してほしい。

 

これは、自分の中にある「期待」を見つける、宝探しとしてやってほしい。

「自分の中にある期待」というのも、自分のモノじゃないからね、

これも、神様の管轄範囲のモノだから、なんの責任もないってこと。

 

繰り返しになるけれど、

自分の中の期待、自分の中の感情、自分の思考、自分の言葉、

自分の才能、そのすべては、自分のものじゃないからね。

それをどうにかする責任なんてないわけ。

 

じゃあ、なぜ、やるの?

 

それはね、面白いからだよ!

宝探しが、何より、面白いから、やる。

だから、つまらなかったら、やらなくたっていい。

 

意識的な自己探求って究極の娯楽だからさ、

未知との遭遇へのスリリングな道程を、愉しもう。

(神様に与えられる自己探求は、なかなかハードだからさ、

自分でやる方は、たのしもうよ・・笑)

 

さて、誰かに対して、怒りを感じたのなら、

そこには確かに、期待があり、ジャッジメントがあるというサイン。

サインがあるから、旅をスタートできる。

 

さて、まずジャッジメントの話を先にしておこう。

 

ジャッジメントというのは、何かを「悪」だと決めることではない。

ジャッジメントというのは、「現実を固定する」ということ。

 

例えば、「こちらを見て女性が笑っている」という状況を

「笑われている」と取るのか、「微笑まれている」と取るのか?

(いや、そもそも「女性」というジャッジがあるよね。)

 

そこには、良い悪い、ポジティブ・ネガティブという

色付けが乗っていることも多い。

なので、ネガティブな体験を創造(ジャッジメントによって色付け)した時は、

自分の中に埋蔵されている期待(=正しい人間像、正しい在り方)を探しに行く

とても良いチャンスなわけだね。

 

ジャッジメントをしなくなるというのは、現実を緩めるってこと。

それは、すなわち「事実」を捨てるってこと。

自分の体験から、出るということ。

 

「あの人に、こんなにひどいことを言われた!」

という体験から外に出るのは、

「ひどいことを言われた傷を癒すこと」でも

「ひどいことを言った人を許すこと」でもなくて、

「ひどいことなんて、言ってなかった」なわけね。

 

確かに言われたもん!と思うけれど、それは嘘。

「言葉」というのは、好き勝手互いに解釈しているもので、

永久に、相手の発話意図なんて、わからない。

 

それは、自分が、作り出したファンタジーだ。

体験は、ファンタジー。すべての体験は、幻想。

・自分が今日体験したことは、事実ではない。

ここに立てるかどうかは、けっこう大きいんだな。

 

だから、ジャッジメントしない というのは、

自分の握りしめている現実から、離れるということ。

 

ここで話しているのは、あくまで、仕組みの話ね、

それを、どう進めるのか・・・・っていうのは、また別の話。

ジャッジメントに気が付いた → エイヤ!

という形で、パラレルリアリティにシフトするには、

ある程度、トレーニングが必要な気がする・・・・(どうだろう?)

 

けれど、このイメージを「下書き」にしておくのは有用だと思うな。

現実は幻想、この共通認識があれば、

コミュニケーションを開始できる。

 

幻想は解除できるけれど、現実はお手上げだ。

だから、ぜひ、現実ではなく、幻想を生きておいてほしい。

 

さてさて、直接の回答になってはいないのだけれど、

書いてきた2つのこと、

 

・自分の中に生まれるものは、自分の責任じゃないし、

 自分の行動も、自分の責任じゃないし、

 相手の中に生まれるものは、相手の責任じゃないし、

 相手の行動も、相手の責任じゃない。

 

・ジャッジメントとは、自分の体験を「事実」として固定すること、

 ジャッジメントする時、自分を「そこ」から動けなくしてしまう。

 状況を変えるには、「現実認識」をシフトする必要がある。

 

は、わりと有用性が高い知見だと思う。

少なくとも、僕にとっては、道しるべになっているので、

シェアしてみました。

 

以上