アフターコロナの精神世界(1)人類精神史 | 須藤峻のブログ

須藤峻のブログ

すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

 アフターコロナの精神世界についてまとめて欲しいという依頼を受け、ざっくりとまとめてみました。

 人々の、近々の意識の変化、暮らし方の変化・・・的なモノについてはわりと、色々な人が論じているので、そちらを参考頂くこととし、精神世界の大きな変化の流れを僕なりにまとめています。

 人々の精神世界は、とても長いスパンで動いているので、どうしても、抽象的な話になってしまうのですが、これからの時代の方向性の分析としては間違っていないと思います。

 

* * *

 

 コロナウィルスの流行で、世界が揺れている。それまで当たり前にそこにあった日常は一変し、コロナ以前の世界が戻ってくるのか、戻ってくるのならそれはいつになるのか、それとも全く違う世界が待っているのか、答えを探しながら、人々は不安な日々を過ごしている。

 

 アフターコロナの世界を占う際、鍵になるのが、この「不安」という感情ではないだろうか。不安な状態というのは、人類にとって最も不快で、ストレスの高まる状態である。故に人々は不安を解消しようと様々な試みを行うわけだ。そして、その様々な試みが、集まり一つになった時、大きな潮流となり、社会を変えてゆくのだ。

そのように考えると人類の歴史とは、不安な状態に置かれた人々の回避行動によって作られてきた

「不安解消の歴史」に他ならないことがわかる。

 

というわけで本稿では、「不安」をキーワードに人類史をひも解くことで、コロナの後の世界を推察していくことにする。まず、その始発点、人類史がはじまった原始の地球、人類の「不安」との共生がスタートした地点へと遡りたい。

 

|人類精神史概観

 

1.   流動的知性の発生 ネアンデルタール人からホモサピエンスへ

本来、「不安」という感情について、ある程度定義をした上で論を進めることが必要であることは、重々承知しているが、本稿においては、シンプルに、「心が安定していない感覚」といったような曖昧な定義のまま進めるのをお許しいただきたい。

 さて、人類がその身に最初の「不安」を宿すことになったのは、いつだろうか?実は、原始の地球で起こった、ある大きな出来事が、その原因だと言われている。その出来事とは、「第一次形而上革命」と呼ばれる人類の脳構造の変化である。

・大脳新皮質の発達と流動的な知性
 アウストラロピテクスからネアンデルタール人の時代まで、人類の脳は、博物学的知能、言語的知能、技術的知能などの情報を、それぞれ別の脳領域で処理していたようだ。故に、扱う情報量が増えると、脳の容量も増やしていく必要があった。

脳容量は時代を追って大きくなり、アウストラロピテクスは400~500CC、原人と呼ばれるホモ・エレクトスは900~1100CC、ネアンデルタール人については1400~1600CCである。

 一方で現生人類であるホモサピエンスの脳は、1400CC程度とネアンデルタール人よりも小さいが、大脳新皮質を発達させることで、各部位をつなぐ回廊を作り、脳の各領域で行っていた情報処理を一元管理することに成功した。
この脳科学的な変化によって、飛躍的に情報処理能力が向上することになった。

 この情報処理能力というのは、すなわち、異なる複数のモノに共通する特徴を見出し、グルーピングする能力に他ならない。この事物のパターンを見つける力こそが、「知性(帰納と演繹)」であり、それを操るプログラムが「言語」である。
 

・言語による分断

人類は、言語を用いて、あらゆるものをパターン化することが可能になった。それは、すなわち「概念」を使って、世界を自由に構成する力を手に入れたということである。

 さて、この言語の発達は、人類の発展に巨大な貢献をすることになるが、実は、同時に、人類に同じだけ大きな問題を与えることになった。それは、言語の持つ「分節化(まとまりの範囲を決めること)」の機能の持つ不可避の側面なのだが、その問題がどのようにして発生するのかは、幼児期の言語獲得プロセスから明らかになる。

・言語による世界との分断

幼児は、自我が未発達であるため、自分と世界がひとつにつながっている状態=「主客未分」の状態を生きていることがわかっている。主客未分の世界を生きる幼児にとって、いつもいるはずの母親が不在になるという状況は自分の一部が欠損するような、耐え難い衝撃として感知されるそうだ。この衝撃を和らげるために、幼児が用いるのが「言葉」である。
 

幼児は、目の前の存在に「お母さん」と名づけ、自分と母親を切り分けることで、自分の一部が欠損するのではなく、母親がたまたま不在なだけだと状況理解を変えるのだ。

この「世界のある部分」に対し、名前を付けることで、「ひとまとまりの存在」として切り分けること。これが言葉の持つ「分節化」という機能である。人間は、言葉を用いて、自分と世界を切り分けていくことで世界を認識し、同時に、自我を確立していくのだ。
 

さて、この言葉による世界の分節化、そして世界から自己を確立するプロセスの中で、幼児は、母親とひとつながりだった世界から永久に追放されることになる(これをエディプスコンプレックスと呼ぶ。オイディプス王の物語における「父」=「言葉」のこと)。

それは、世界から切り離され、疎外され、分断され、その孤独と不安と共に生きることを余儀なくされることを意味している。
 

つまり人類は、言語を獲得することによって、世界を切り分け、操作する自在な知性を手に入れるのと同時に、世界から永久に分断され、その存在不安を持って生きるという宿命を背負ったということになる。

この「分離」こそが、人類の宿命的な「不安」の本質にあるのだ。人類史を牽引してきたのは、この「不安」を解消したいという根源的な「欲求」であるといっても良いかもしれない。


さて、ここから人類が、この根源的な存在不安をどうやって補完してきたのか概観していくことにしよう。

 

2.   神話とスピリットの時代

世界から切り離されてしまった不安な人類は、その不安を補完するために、創り出した最初の道具が「神話」である。神話は、自分たちのルーツと、説明できない現象(不安にさせる現象)を物語によって、説明してくれるシステムであり、また同時に、生きるための知恵(ここに近寄ってはならない、〇〇を食べてはならない)などの倫理を補完し、共同体を維持するための役割を担うものとして生まれた。

神話= 生きる意味と、セカイの存在意義と、倫理をつなげる物語

 

3.   宗教の時代

・原始宗教

各所で生まれた神話は、その後体系化され、説明できない現象を司る存在=「精霊(スピリット」を中心とした儀礼体系へと進化していく。自然界の存在が持つ力への憧れは、トーテミズムやシャーマニズムを創り出し、万物に宿る霊魂やスピリットを信じるアニミズム的な世界観が広がった。さらに、森羅万象を、司るモノ、形質や、力などの抽象的なコンセプトそのものが擬人化されていき、「神」が生まれる。

・多神教と一神教

世界各地で生まれた原始宗教は、体系化され、集約されながら、たくさんの神々を奉る多神教の時代が訪れる。その後、唯一神を奉ずる一神教が砂漠の民によって生み出される。

多神教の世界観には、様々なことを司る神々に祈り、奉納することで、恩恵(自然の恵み)を受け取るという循環にあるが、それは、人々にとって自然が、時に厳しくも衣食住を与えてくれる「母的」な存在だったからである。

一方で、一神教が生まれた砂漠という過酷な環境においては、自然は奪っていく存在であり、与えてくれる「母」的な存在ではない。より厳しい力を持つ「父なる神」が現れ、ここに唯一神の信仰が生まれていくことになった。
 

こうして神話によるぼんやりとした共同体的意識は、時代の流れと共に、明確な「神」を信じる「信徒」の自覚となり、より強い精神的支柱として機能することになった。

・中世的世界観

多神教にしても、一神教にしても「真善美の基準を決める」という機能は共通しており、この時代、その宗教文化圏に属する人々にとっては、万物が説明され、自分の存在理由も定義された、不安なき時代だったと言える。

ヨーロッパでは、5世紀から15世紀までの1000年間、このまま暗黒時代(よくわからないという意味)と呼ばれる中世が続く。その中でも様々な変化があったものの、キリスト教中心の世界観が継続。

 

日本では、土着信仰である神道(八百万の神々、アニミズム的世界観)がなだらかに広がっていた土壌に、6世紀、仏教が伝来し混交。地縁血縁共同体の維持を目的とした神道に、善行による魂の救済を目的とした仏教的思想が混入し、平安時代から鎌倉時代、室町時代と為政者が変わりながらも、人々の意識については大きな変化のない時代が続く。

しかし、ヨーロッパやイスラム圏のように、一神教が取り入れられなかったため、明確な「教義」に基づく正義や真理を生きるという世界観がそもそも成立しなかった。

かわって、仏教的な正邪の概念や、自然への畏怖心などが入り混じった無形の「道徳」や「世間体」や「生活道徳(罰当たり など)」などが、生活規範として機能することとなる。

 

 

4.   ルネッサンスと科学革命

・ペストの大流行

ヨーロッパでは、中世を終わらせる大事件が起こる。シルクロードを通って中国からやってきたペストである。ヨーロッパの人口の1/3が死亡したと言われるこの事態に、どれだけ祈っても救ってくれない神と、その代理者である教会の権威が地に落ちる。さらに、人口減少によって、空前の労働者不足が起き、農奴が解放されることで、封建制が解体していくことになる。

・ルネッサンスと科学革命

さらに、時代はニュートン、ガリレオ、コペルニクスらを召喚し、科学革命が勃発すると、教会が説明してきたことが、真実でないことが、わかってくる。地球はセカイの中心ではない。全ての現象は、神の意志ではなく物理法則によって、動いているに過ぎない。
 

すると、人々は教会によって担保されてきた「生きる理由」や「世界の存在理由」への疑念を持つようになり、人間を中心とした新たな世界観を模索し始める。それは、ルネッサンスと呼ばれる人間復興運動として花開いた半面、人々は、これまでの安定した世界から、突然、何もかもが不確かな世界へと足を踏み入れることになるのだった。

・日本のルネッサンス

日本では、一神教が取り入れられなかったため、むしろ、ヨーロッパ的な「宗教的な世界観の崩壊」が起きるのは、明治以降の国家神道の敷衍による人為的な天皇信仰が終わった「終戦」のタイミングになる。

局所的には、戦国時代の下克上的な世界観や、織田信長による比叡山焼き討ちなど、宗教的・封建的世界観が解体していく契機が訪れている。しかし、民衆レベルの精神性が大きな変化を迎えるタイミングは、大政奉還から開国、「文明開化」の訪れまで待つ必要があった。

 

5.   国家とイデオロギーの時代
 教会の権力、宗教による共同体意識が減退する中で、変わって力を持つことになったのが、近代国家である。「よりよく生きる」ということを軸として、一体感を持って生きていた世界(=宗教的な意味での、倫理によって、支えられていた時代)は、「産業革命」を経て、資源めぐる争いの時代へと変わる。
 物質的な豊かさ=個人の欲望を最善とする世界へと変わると、万人の万人に対する戦争、弱肉強食の世界が幕を開ける。集落から地域、地域から地方政府と、より強い大きなグループを作り、自衛する動きが加速し、「国家」へと集約されていくことになった。 
 

宗教的なアイデンティティを失いつつあった人々にとって、「国家」というアイデア、〇〇人というアイデンティティは、新たな依り代となり、「国民国家」というコンセプトが広く共有されることになった。この国民国家に生きる人々の新たなアイデンティティとなったのが「イデオロギー」である

・イデオロギー

資本主義と共産主義、リベラルと保守などの対立軸は人々にとって、正義と悪、敵と味方、自分たちと彼らを分離し、自分の正当性や行動事由を与えてくれる新たな拠り所として機能した。それはナチズムや全体主義、国粋主義的なイデオロギーが蔓延した時代から、戦後の、反戦運動、ヒッピームーブメントといった政治運動まで、共通した動勢である。

日本においても、文明開化以降に人々の意識は大きく変化し、戦時中の国粋主義的なイデオロギーへの傾倒、敗戦から60年代の安保闘争への傾倒と、「イデオロギー」の時代が続くことになる。

・反戦活動とニューエイジ

泥沼化するベトナム戦争の反戦活動は、アメリカ西海岸でオルタナティブな生き方への探求としてひとつムーブメントとなった。ヨガ的な世界観、自己探求、悟り、内的な平和、女性性の解放など、様々な領域で、新しい時代を探求するニューエイジ・ムーブメントである。

 しかし、ニューエイジは思想や学問、アートの領域においては、優れた功績を残す一方で社会全体を変えていくには至らず、ブームは収束へと向かった。これらの動きは、既存の宗教的な安定でも、政治的イデオロギーといった外的な規範への同一化ではなく、自分の内的な充足を目指す動きとして、今後の、世界を占う上で、改めて、理解しておく必要がある。

 

6.   経済の時代

冷戦が終わり、社会主義の失敗が明らかになっていくにつれ資本主義的な豊かさを謳歌する中流階級が生まれてくる。

・消費者というアイデンティティ

消費活動は、それまで、生活に必要なモノを購入する活動であったが、文明の発達と共に、中産階級が生まれてくると、消費を自己表現、自己実現として見なす、新しい世界が誕生する。宗教やイデオロギーに代わって、消費行動(何を、買うのか)が、人の本質的なアイデンティティとなった社会が、現在の「消費社会」である。
 

人は長い間、「生活に必要なモノ」を購入してきた。故に、モノの価値は「機能性」を元に測られていた。しかし、所有物=その人のアイデンティティを表現するモノ(=記号)という思想が生まれると、モノの価値の源泉は、機能から「象徴性(=自己表現にどれだけ資するか)」へとシフトしていった。
 

消費が、世界と自分をつなぐ機会、象徴を用いて自己を確認する機会となった時、経済は、国家も民族も神をも超越する力を持つことになったのである。
 

消費活動という行為は、本質的に宗教にもイデオロギー階級等の文化装置にも制約を受けない。それは即ち、宗教文明圏(キリスト教圏 等)や国家を超克する契機をその本質に持っていることを意味し、それはインターネットの出現によって、実際に国家という枠組みを無効化していくことになる。それを牽引したのが、カリフォルニア発のグローバルIT企業群であった。

・グローバル企業とグローバルな消費者

カリフォルニアのシリコンバレーを中心に起こったIT企業、特にGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)等によるグローバル展開は、「国家」という枠組みを、無効化した。 彼らによる国家や宗教を超越したビジネススキームは、グローバル・サプライ・チェーンというテーマで語られることが多いが、実は、その企業理念、企業の精神性に、すでに「国家やイデオロギーの超越」が含まれていることは、見逃せない。

アップルの創始者スティーブ=ジョブスの愛読書が、ニューエイジ・ムーブメントの先駆けとなった書籍「あるヨギの自叙伝」であったことは有名だが、その他のカリフォルニアのIT企業群についても、その精神性は共通している。
 

それは、かつてヒッピームーブメントという政治活動によって乗り越えられなかった「壁」、すなわち、国家、文化、風習、階級的不均衡を、経済の持つ「平等性(誰もが、お金を払えば、買える)」によって、乗り越えようという思想だともいえるわけだ。
 

今、世界は、経済がすべての中心にある。人の行動の中心であり、政治の中心であり、世界とつながる手段である。お金の流れは、血流のように、社会と私たちの生殺与奪を握っている。新型コロナウィルスによって、経済が止まった今、はじめて、私たちはその事実、自分たちの暮らしが、複雑なグローバル経済の一つの歯車となり、経済の停止が、自分たちの生を脅かすものなのだと体感的に理解したのである。
 

今、私たちが直面しているのは、複雑に絡み合ったグローバルな経済システムの中で、自分の生を、暮らしを、どう位置付けていくのか。そして、これから、どう生きていくのかという、根源的な疑問である。
 

アフターコロナの世界、私たちは何を問われ、何を決断する必要があるのだろうか。

 

 

|人類史×マズローの欲求5段階仮説

 

さて、現代に至る人類の歴史を、存在不安の解消というテーマから振り返ることで、人類が、その時々で、神話、神、国家、イデオロギー、消費と形を変えながら、しかし常に、自分と世界をつないでくれる物語と共に生きてきたことを見てきた。

 さて、ここで、ひとつの疑問が湧いてくる。神話から消費まで、人類は、ただ姿を変えた「母の幻影」を追ってきただけなのだろうか?人類は、これからも、何か拠り所をなる物語、世界と自分をつなぐ赤い糸を探して、生きていくのだろうか?
 

この問いはすなわち、人類は進化の過程にあるのか、それとも何も変わっていないのか?

という問いである。
 

かつてサルトルは、人類の歴史を、精神の進化と共に「未開→文明」へと成熟していく歴史であると説き、西欧文明中心主義として痛烈な批判を浴びた。そして、その批判は、大変に正しい。

実存主義・マルクス主義的な理想論的進歩史観や、宗教的な世界観における単純な意識の進化論(霊性を向上させ天国へと至る)は、とても魅力的だが、それは、新たな「精神安定剤」の投与に他ならない。

 

しかし、そういった批判があることを承知で人類が時代と共に成熟していくという歴史観を改めて検討してみたいと思う。その補助線として、エイブラハム・マズローの「欲求の5段階仮説」を使ってみたい。つまり、人類の精神性の変遷を、人間の誕生から成熟までのプロセスと重ねてみようというのだ。

 

1.マズローの欲求5段階仮説



有名なマズローのアイデアの中心思想は、
・人間の欲求は階層化している
・下位の欲求を満たすことで、上位の欲求へと意識が遷移する
というところにある。まず、基本的なイメージを理解するために、二人の人間が出会うという場面を想定してみよう。

そもそも、それぞれが、生死をさまよう状態であるなら、互いに興味を持つという現象すら起こらない。すなわち、最初の「生存の欲求」が満たされているというわけだ。

続いて、まず重要になるのが、相手が危険ではない、自分に害をもたらす存在ではないという部分が満たされる必要がある。つまり「安心・安全の欲求」が満たされる。
 

すると、続いて互いに興味を持ち、関係性を深めたい=仲間になろうという機運が生まれてくる。これが「社会的欲求」。人とひととしてのつながりが生まれるわけだ。
 

関係性が深まるにつれ、相手からどう思われているかが気になりだす。相手から、評価されたい、尊敬されたい、素敵!と思われたいという欲求が出てくる。また、そう思われるような自分になりたいという欲求も高まる。この段階が「承認欲求」のレベル。
 

しかし、このように「相手」や「社会」からの視点を軸にして、自身を変えていくという試みは、多くの場合どこかで無理がくる。故に、「自分は、本当は、どうなりたいのだろう?」という場所へ意識が向かう。ここからが「自己実現欲求」のレベル。
 

本来の自分、自分の人生観や世界観に基づいて、自分を見つめ直し、自分のやりたいこと、自分らしい在り方を探していくわけだ。それは、主語を「誰か」から「自分」へと取り戻していくプロセスになる。
 

さて、このようなプロセスが、二人の出会いだけでなく、複数の人間が介在する組織内でも起こることは、容易に想像できるだろう。では、国家、社会、文明圏といった場所においても、それは起こりうるだろうか?そして、それは千年というような長大な時間単位においても、成立し得るだろうか?
 

もちろん、社会が「文明化」していくプロセスの中で、生存、安全といったレベルの課題がクリアされていき、社会的な欲求のレベルへと入っていくというのは、大方納得できる部分だろうと思う。
 

しかし、ポイントとなるのは、社会的な欲求・承認欲求・自己実現の欲求についてである。この領域については、「プラットフォーム」という視点が重要になってくる。

 

2.プラットフォーム

欲求の充足を実現する社会的なプラットフォームの登場によって、その同時代性、世代性を作り、人類史的なスパンで、人々の欲求レベルをドライブするということが、起こる。
 

プラットフォームというのは、宗教共同体、国民国家、一億総中流社会、スマートフォン、SNS・・・など、
・人々が作り出し、同時に、そこから影響を受ける欲求の「器」
のようなイメージだ。

 これらのプラットフォームは、我々の階層的な欲求を満たすために創られ、また同時に、その欲求の充足に人々が夢中になるように機能する。
 

例えば、snsの登場は、「つながりたい」、「承認されたい」という欲求から作られ、同時に、その社会に所属する人々に対して、その欲求を最大化する機能を持つということだ。このようにして、人々は、自ら作り出した契機を用いて、階層的な欲求を満たしながら、暮らしを営んできたわけである。
 

故に、先に挙げた二つの問いについては
・国家、社会、文明圏といった場所においても、それは起こり得る
・千年というような長大な時間単位においても、成立し得る
と(強引ではあるが)結論し、これを前提として、前半に論じてきた人類史を、マズローの階層的欲求の上に載せてみることにしよう。

 

3.人類史と欲求階層
では、さっそく世界との接続手段の変遷を、マズローの欲求階層に重ねてみよう。

 

 <フェーズ> <主たる生のテーマ>      <満たしたいもの>

・神話の時代 =主客未分の世界を生きる:生存の不安:生理的(生存)の欲求の充足

・宗教の時代 =与えられた真実を生きる:安全・安定・安心の欲求の充足

>ルネッサンス< 

・国家の時代(前期)=社会の中で役割を生きる:所属の欲求の充足(役割を担うことで認められる)

・国家の時代(後期)=社会の中で個人を生きる:承認の欲求の充足(個性を、誰かに認めてもらう)

・経済の時代    =自己表現を生きる  :自己実現の欲求の充足(自分がなりたいものになる)
 

少々ご都合主義的ではあるが、もう一度、各階層を順番に振り返ってみよう。

 

 

4.階層別概論
 人類は、言葉を獲得することで、世界と分断され、その意識の根底に、「分離の不安」を抱え込むことになった。この「分離の不安」を解消し、世界と「再接続」したいという「欲求」の元に、まず人類が作り出したのは、世界との関係性を物語化した「神話」であった。
 

|神話の時代:主客未分の世界:生存の不安:生理的(生存)の欲求の充足

神話の時代が、どのようなモノであったのか、正確に知ることは難しい。しかし、古代の研究に加え、神話的世界に近い生活を続けている各地の部族の研究等から、その世界観が、「世界と自分を直接的につなぐもの」であったことが、わかっている。
 

その特徴は、シャーマニズムの世界観に顕著に現れている。シャーマンは、スピリット(精霊)とつながり様々な呪術を行い、治療や天候への働きかけを行う。この時、シャーマンはトランス状態へと入り、スピリットの世界へと足を踏み入れる。人間と世界は、「半分」切り離され、「半分」つながっているわけだ。
 

人は、自然によって生かされ、時に、奪われるが、それは、自然のサイクルの一部であり、それは「存在する」ということそのものが、母なる大地に許容されているとも言える世界観である。
 

この段階の社会は、人間の成長段階でいう「幼児期」にあたる。幼児は言葉を覚え、自分と世界を分離させていく、さなかにある。その時「対象α」と呼ばれる、自分と世界の中間的な存在を作り出すことが知られている。ピーナッツの登場人物ライナスが持つ「毛布」のような、中間存在(お人形だったり、お気に入りのタオルだったり、人によって色々)。

それはすなわち、世界と自分をつなぐ「神話」があり、スピリットと共にある世界である。
(ゆえに、トトロは、「子供の頃に“だけ”あなたに会いに来る」のだ)

|宗教の時代 =神が与えた真実を生きる :安全・安定・安心の欲求の充足
 その後、神話の世界は、神々を祀る「宗教」へと体系化されていく。すると、人々と世界をつなぐ”安全帯”は、「信仰」へと変わっていくのだが、その最も重要な変化は、自分と世界(神)との直接的なつながりは失われ、媒介者=宗教者が介入したことにあった。
 

スピリットを通じて開かれていた人と世界の間の回路は絶たれ、その方法を知るとされた一部の人々(西洋では教会)が、その媒介役として現れる。彼らは、一律の真善美を定め、正しい生き方、悪い生き方を定め、生きる目的を提示し、「切り離された人々」の指導者となる。人々は、統一的な教義と、善悪を教授する指導者の元で、心理的な安全性を担保されることになる。
 

この段階を人の一生に当てはめるのなら、神話的世界に住んでいた幼児が、子供へと成長していくプロセスにあたる。子供たちは、自分のもつ世界観や世界とのつながり方を、大人によって「正しいつながり方」へと強制される。お化けはいないし、妖精もいない。自分のモノと、他人のモノは別だし、嘘はついてはいけない。食事は決まった時間にしか出てこないし、赤信号はわたってはいけない。
 子供たちは「正しい行い」を受け入れる代わりに、安全・安定・安心を手にすることを学ぶ。それは、「大人」のいうことを聞くことで、面倒を見てもらえるというトレードにサインすることに他ならない。

|ルネッサンス
 長く続く中世の時代は、疫病の流行や、科学の発達に伴い、急速に終わっていくことになった。宗教を司った「教会(的な存在)」はその権威を失っていき、代わって、人間中心主義の思想が広がっていく。
 

これは、幼少期に両親や学校で習った「強制された正しさ」を、もう一度、再考していく期間にあたる。人は年齢を重ねるにつれ、親や先生などの大人が完璧な存在じゃないことを知り、それまで与えられてきた真実への追従から、自分にとっての正しさの探求へと向かう。それは思春期、特に反抗期にあたる期間と言える。

|国民国家とイデオロギー

宗教の力が衰えると、国民国家(国民というアイデア・国民が作る国家というアイデア)というコンセプトが立ち上がってくる。この時代に、宗教に代わって人々と世界をつないだのは「イデオロギー」であり、自分が、その社会を構成しているという、政治意識が広く共有されることになった。
 

帝国主義から近代まで続く国家間の争い、世界大戦から植民地の独立戦争まで、人々は 民族意識や政治体制(資本主義・社会主義)など、「〇〇主義者としての自分」という物語をつかって、世界とつながろうとした。社会の一員であるということ、自分がその中でひとつの役割を演じ、世界を作る側であるという意識により、人々は「社会的欲求」を充足することになった。
 

学校やチーム、会社などの組織に入り、その中で仲間と共に何らかの社会的役割を担うことは、この社会で、「子供」から「大人」へとシフトする契機である。共同体に所属し、その一員であるという意識を持つことで、人は自分と世界を、新たな形で接続することを学んでいくのである。

|経済と消費者

民主主義の成熟と共に、世界は人口爆発を迎え、高度経済成長期を迎える。人々の生活はより豊かになり、中流階級が生まれてくると、人々は、消費を通じて世界とつながり、自分を表現することを学び、ここに新たな「消費者」というアイデンティティが成立する。
 

モノを保有するということがステータスになり、流行が生まれ、ブランド信仰が生まれ、人々は、自己表現を謳歌する。消費活動の目的は「他者にどう映るか」からはじまり、次第に自分らしさの表現へと変化する。「みんなと同じ」から「みんなと違う」へ、そして「みんなは関係ない」へ。
 

この頃の状態は、人の目線が気になり、誰かの特別な存在でありたいという思いが募る思春期、そして、本来の自分らしさを探していく青年期に相当する。繰り返しになるが、「誰かにどう思われるか、どう見られるか」が気になって仕方がない時期を通り過ぎ、人は、自分のありたい自分とのバランスを見つけていくことになる。

 

 

さて、ざっと人類史を改めて眺めてきたが、いかがだろう。人類の成長物語は、青年期までやってきた。そして、これから迎えるのが、成熟の時代。コロナの流行は、この人類の成長を加速するかもしれない。ここまでの議論を前提に、アフターコロナの世界についての考察をしてみたい。