アフターコロナの精神世界(2)自己実現から自己超越の世界へ | 須藤峻のブログ

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すどうしゅんによる、心の探究日誌。
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こちらの続きです。

 

|アフターコロナの精神世界

 

今、コロナで急減速する世界は、精神的な行き詰まりを露呈している。それは、「経済」によって作り上げた「自分らしい暮らし、自分らしい生き方」が行き詰まり、私たちは、自分が自分である、自分の世界観を生きるということが難しくなっているからだ。
 

ここに、アフターコロナの世界の主題となるテーマが見えてくる。コロナの流行が教えてくれたのは、私たちの生が、複雑なグローバル経済と接続され、その混乱の影響を直接的に受けるということ。  

しかし、実は、このグローバル経済を支えているのは「自分らしい暮らし、自分らしい生き方」への希求であり、それを求める限り、永久にこの危険な経済ゲームを続けるしかないことである。
 

アフターコロナの世界、私たちは、消費者として経済ゲームに戻るのか、それとも、新たな世界とつながる回路を持つのか、その大きな岐路に立っているのかもしれない。そして、そのひとつの解は、マズローによって与えられている。
 

実は、あまり知られていないが、マズローは、現在人の中心テーマである「自己実現」の先の世界について提示している。それは、「自己超越」というレベルである。そして、この「自己超越」こそが、今後の世界動勢を占う際の大変重要なコンセプトになるのだ。まず、自己超越というコンセプトを理解することから始めよう。

 

1.自己超越

自己超越とは、文字通り「自己を超えること」である。この時に使われている自己というコンセプトは、自意識、エゴ、マインドなどと名指される、「今、自分が、自分だと認識している主体意識」のこと、つまり「私」であり「あなた」だ。この文章を読んでいる「自分」。この自分を超えるというのは、どういうことなのだろう?
 

この自己超越というコンセプトについて理解を深めるには、古来より徹底してそこにフォーカスして探求を続けてきた東洋哲学の知見を借りるのが早い。自己超越についての東洋的な呼称とは、すなわち「悟り」である。
 

2.悟り:二元性の超克

悟りとは、二元性の超克である。それは、つまり第一次形而上革命によって生み出された、世界と私の分断、主客の分離という二元性を超克するという発想である。見てきたように、人間の実存的な不安の根源は、世界との分断によって、「自分の存在理由」や「生きる際の指針」が必要になってしまったことに由来する。であるなら、その分断を超えてしまえば、不安はなくなるに違いない。すなわち、苦しみも、恐れもない世界になるということだ。

そのために、「修行」があり、様々な方法論で、二元性を超克していくのが修行者である。

 

3.左脳の停止=言語による分節化の停止
 少し前に、実際に、この「分断」を超越してしまった人の話が話題となった。世界との分断は、「言語の習得」によって起こると書いたが、言語を扱っているのは、主に左脳となる。
 

ジル・ボルト・テイラーは、自身が左脳の脳卒中に見舞われるという稀有な体験をした脳科学者である。彼女はその体験をTEDで素晴らしいプレゼンテーションとして共有しているが、その体験は、「世界と一体化する至福の体験」だったという。東洋的な悟りの境地とは、この世界との合一体験、ワンネスの意識にあるとされる。
 

それは、「私」と「世界」の双方が消失する体験であり、すなわち、「自己」を超える瞬間を意味している。自己超越とは、つまり、「私」という自意識を超えて、「世界」と一体化することに他ならない。

 

4.私を超える

このようなスピリチュアルな世界観の話を最初にしたのは理由がある。このドラスティックな「悟り」体験とは異なるものの、自己超越のレベルに入ってくると、意識は、世界との一体感や、私(エゴ)の手放しへといった、悟り的な世界へと向かうとされているからだ。
 

自己実現というのは、あくまで、「私」の希望、「私」の欲求を、「私」が叶える という「私」主体の世界観だが、次の自己超越のレベルになると、この希望する「私」が消えていくことになる。それはつまり、自分の世界観、自分の常識、自分の信じる正義、自分の理想、自分の期待、自分の夢や目標や目 的「なりたい自分になる」、「ありたい自分である」という「自己実現」の欲求を超えるということに他ならない。

 

5.自己超越的世界

「自分の欲求」を超えた生き方とは、どういうものなのだろうか。それは、「自分が〇〇したい」という行動原理よりも、「自分の人生にもたらされるモノを受け入れる」という世界観だ。
それは、例えば
・期待しないということ
・何かを目指さないこと
・起こることを、受け入れるということ

というようなイメージになってくる。
 

しかし、それは人生への「諦め」ではないのだろうか?より良い社会を、より良い人生を、より良い自分を目指してきたからこそ、人類は、発展してきたのではないのだろうか?発展や成長の源泉を手放した時、そこにはただ諦観に満ちた、冷めて、停滞した生があるに過ぎないのではないか?

この問いに答えるためには、自己超越の「倫理」について語る必要がある。

 

 

6.自己超越の倫理

フランス現代哲学者のエマニュエル=レヴィナスは倫理の本質を、「自分の犯していない罪を、つぐなうこと」と表現した。このセンテンスを、自己実現のレベルの意識で理解するのは、難しい。というのは、自己実現のレベルにおいては、「私」は、私の選択によって生ずるものを享受する主体であり、その責任範囲は、あくまで、自分の行動の結果に限定されるからだ。
 

それは、特に「消費活動」に特徴的な心性である。消費活動を支えているのは、「等価交換」というコンセプトだ。それは、物々交換でも、金銭を媒介しても構わないが、相互に承認された「モノ」と「モノ」、「モノ」と「価格」の対応関係に基づき、交換を行うということである。

 自分が差し出したお金と、同等の価値があるモノが、与えられる。この1対1の対応関係が大前提となるから、消費、経済は、成立するわけだ。
 

この視座から眺めると「自分の犯していない罪を、つぐなうこと」というフレーズは、まったくナンセンスに映る。自分が選択したわけでもなく、自分が行動した結果でもなく、自分が望んでもいない何か=自分が購入していないモノに対する支払義務はないからだ。
 

しかしレヴィナスは、そこにしか倫理は生まれず、同時に、それこそが、人間が世界と本当の意味で「つながる」方法論だと解く。それは、どういう意味だろう。

 

7.自己実現の限界

実は、コロナの流行で揺れる今日の情勢は、この思想を理解するうえで、大変に理想的な状況だともいえる。
 

人生には、今回のコロナの流行のように、様々な厄災が訪れる。すなわち、自分が望んでいない何かが、突然訪れるわけだ。不愉快な隣人との出会い、思い通りにならない現実、自然災害、突然の病。これらは、自分の行動の結果ではない。
 

この時、自己実現のレベルでの解釈ではこれらの出来事は「降ってわいた不幸」であり、「自己実現の妨げ」である。自分の予定を変えねばならず、自分の理想をあきらめなくてはならない。すなわち、「人生の敵」であり、可能なら「打倒」されるべきモノだ。
 

しかし、考えてみてほしい。自分の思った通りであること、期待通りであることが、人生で最善なのだとしたら、自分の意志を妨げるモノすべて・・・例えば、自分が歩いている道の反対側からやってくる人すら、原理的には「敵」とせざるを得ないということを意味するのだ。
 

しかし大袈裟ではなく、私たちは、自己実現を妨げる「敵」に囲まれている。うるさい上司、期待外れの部下、イライラさせる配偶者。私たちは、期待外れの「彼ら」によるストレスに日々さいなまれているわけだ。
 

それらを除去することが、本当に、素晴らしい人生なのだろうか。それらを最小化することが、生きることを最も輝かせることなのだろうか?だとするなら、それは、永久に叶わない夢でしかない。自己実現というのは、必ず、どこかで破綻し、諦めざるを得ない夢だ。私たちは、決して、天気を変えられないし、空を飛べない。自己実現を目指す以上、私たちは、どこかで不安と不満を生きることになる。
 

この限界性、この行き詰まりこそが、人間を、自己実現から自己超越のレベルへとシフトするトリガーになる。

 

8.自己超越的な世界観

改めて、自己超越的な世界を眺めてみよう。自己超越のレベルにおいて、あらゆる出来事というのは「望まない現実」ではない。なぜなら「望む“私”」がいないからだ。
 つまり、そもそも「望み」がないから、「望まない現実」がないということ。「期待」がないから、「期待外れ」がないということ。これは、言葉遊びにしか聞こえないかもしれないが、実は、誰しも体感的に知っていることに過ぎない。
 

誰もが、人との出会いを通じて、自分が変化していく経験をしているはずだ。それは、その人との出会いを通じて、自分の中にある、「固定観念(その時代の社会常識)」や、自分の中にある感情や欲求に気がついていくプロセスであり、自分の中にあって、蓋をされていた可能性に気づいていくプロセスである。
 

例えば、イライラさせるパートナーについて想像してみてほしい。なぜ、その人はあなたをイライラさせるのだろう。それは、自分の期待通りにふるまわないからだ。わがままで、自己中心的?しかし、そのようにあなたが感じる背景には、
・「わがままにふるまうのは、悪いこと」という信念
・「自分を中心にしてほしい=私を見て、私を気遣って、私を愛してほしい」
という欲求が、(例えば)存在している。
 

自己実現のレベルで、この体験をするのなら、それは、「正すべき敵との出会い」でしかない。しかし、自己超越のレベルで、この体験をするのなら、それは、自分の中の固定観念や欲求に気づく機会であり、その出会いを通じて、自らを変容させていく契機である。
 

「自分の想いに素直に生きること」って素敵だな!と思っている人にとって、「わがまま」というコンセプトは存在していない。問題は問題だと見なす人にとってのみ、存在する。つまり、問題だと見なす意識から、問題だと見なさない意識へと「超越」する時、問題が文字通り解消されてしまうことになるのだ。

 

9.エゴの死

変化をもたらす契機は、自分の価値観が揺さぶられ、自分の信じていること、自分の望みが、裏切られるという体験になる。これは「エゴの死」と呼ばれる、なかなかタフな体験になることも多い。自分が長らく信じてきたこと、自分の生き方を壊すのは、誰にとっても、なかなかに、ハードな作業なのだ。
 

しかし、相手を変えるのではなく、それを問題だと見なした自分が変化していくというプロセスが起動した時、行き詰まりに出口が現れる。新たな自分へとシフトすることを通じて、目の前の問題を解消するのだ。
 

自己超越的な世界観とは、すべての体験を、自己変容の契機として生きるということに他ならない。自分の目の前に現れた、想定外の出来事、自分のせいではない厄災に対して、それを、自己変容の契機として使うために恭しく身を差し出す在り方である。

 

10.   倫理がつなぐもの

さて、先ほどの疑問、「自己超越的な世界観は、ただ、現状を肯定しているに過ぎず、何の変化ももたらさない諦めの方法論では?」に答えていこう。

自己実現というのは、「自分の望んだことを、自分の責任の範囲で、実行する」という世界観だ。自己超越というのは、「自分の望まないことを、自分の責任範囲で、実行する」という世界観となる。

ここに、レヴィナスがそれを「倫理」と呼んだ意味が見えてくる。

自己超越のレベルでは、目の前に現れたボールは、自分へのパスである。
自分はパスを要求した覚えはないけれど、パスが来たならば、それは自分が呼びこんだモノだとして、受けとる。それを自分へのパスだと思ったのなら、それは自分が要求したということ。届いたのなら、それは自分が注文したということ。そのような意識が働いている。
 

故に、自分が捨てたものではないゴミを拾い、自分が傷つけたのではない人を癒し、困っている人に手を差し伸べる。それを「やってあげる」ではなく、ただ「自分の仕事だから(自分へのパスだから)」という立ち位置からこなしていく。

「それは、私の仕事。」これが自己超越の世界を最も端的に表現する言葉だ。
 

これが、レヴィナスのいう「犯したことのない罪を、つぐなう」ことであり、それは、世界からの呼びかけに応答した責任を果たすということだ。自己超越の世界観が「諦観」と対極にあることが見えてきただろうと思う。
 

もう一つの疑問にも、答えておこう。自己超越がなぜ、世界とつながる方法論なのかということ。それは、
・世界の側が与えてくれるものを、まるで、自分が望んでいたかのように生きること
だからだ。
 

つまり、与える側と受け取る側が、自分の中で統合されているのである。それはすなわち、主体と客体、世界と自分が、ひとつになるということに他ならない。

パスを出したのは、自分。パスを受けたのも自分。自分にこの体験を与えたのは自分。この体験をしているのも自分。

ここに、言語習得から始まった、世界との分断という大問題を解消する可能性が開かれてくるのである。

欲求する自己、期待する自己、表現する自己を手放した時、人は、世界とのつながりを取り戻すことになる。
 

11.   自己超越へと進むプロセス

さて、この自己実現から自己超越へのシフトは、一足飛びに進むわけではない。自分の中の、価値観が徹底的に相対化されていくというプロセスが始まる。それは「何が良い・悪い」ということが、どんどんなくなっていくということ。

 個人のレベルで言えば、自分の世界観、自分の常識、自分の信じる正義、自分の理想が消えていくことであり、社会のレベルで言えば、それまでの時代に当たり前だった、常識や固定観念が消えていくということ。
 

男なら、女なら、大人なら、子供なら 〇〇すべきといった通念や、〇〇は悪いこと、〇〇は良いこと という観念が消えていくと、自然に、「良いこと」も「悪いこと」もラベリングしなくなる。すると「望む現実」も「望まない現実」も、作り出されることがなくなり、すべてが、ただ「起こったこと」でしかなくなっていく。

良いことも悪いこともないので、目指すべき状態や、目標に向かって努力するという世界観は薄れていくことになり、逆に、世界から与えられたパスを受けていたら結果、想定外の場所にたどり着いたというような「達成の物語」が語られる世界へと変わっていくことになる。
 

この価値観の相対化、社会通念の解消が現在進行形で進んでいることは言うまでもない。世界は、10年前、5年前よりずっと柔らかく、より自然なモノへと開かれているのだから。

 

12.   世界を救うもの

駆け足で、自己超越とは何か、自己超越的な世界観、そして、そこへ至る道筋をまとめてみたが、今後、人類が自己超越的な生き方へとシフトできるかどうかは、世界の行く末を大いに左右することになるだろう。
 

「消費を通じた、自己実現」というマインドセットは、人類にとって、大いなる発展をもたらした。しかし、同時に消費者マインドは「私の責任じゃない」という人を大量に生み出すことにもなった。
 この、現代社会を包む「自分が求めたものにしか、支払わない」という「自己責任論」的な態度は、環境問題や社会問題など、問題の所在地がわからない問題、誰の責任なのか、明確には指し示せない問題についての対処を難題化している。
 

これからの地球に必要なのは、自分が壊した記憶のない地球環境を、責任のない社会問題を自分の仕事として、引き受けていく人々だからだ。

 

13.   これからの世界
現代の人類は、承認欲求-自己実現欲求の間を生きている。それらを満たした人から、次の欲求レベルへと向かっていくだろう。それは、自己実現と自己超越の間を生きるということだ。
 

承認欲求と自己実現が、ちょうど対照的になっているように(承認欲求=他者軸⇔自己実現欲求=自分軸)自己実現欲求と自己超越欲求も、対照的になっている。(自己実現欲求=自分軸⇔自己超越欲求=世界軸)
 

そのシフトを自然に終える人も、ドラスティックな変化として体験する人もいるだろう。しかし、いずれにせよ注意しなくてはならないのは、マズローの指摘の通り、自己超越的な世界観は、自己実現までの各階層の欲求を満たしてから入る必要があるということ。さもないと、ただ、自分の欲求に蓋をすることにならざるを得ないからだ。
 

これからの人類は、すでに自己実現的な欲求を満たし終え、自己超越へと向かう層=欲求ベースの生き方を卒業していく層と、自己へと固執していく層へと、大きく分かれていく可能性が高い。
 

後者にとっては、困難な時代が来ることが予想される。というのは、繰り返しになるが、これからの時代は、経済的には冬の時代がやってくる可能性が高く、これまでのような経済成長と並行した「自己実現」ができなくなっていく可能性が高いからである。

それは、より大きく、豊かになること、成長すること、成功することをゴールとして生きると、それが叶わない可能性が高い社会がやってくるということだ。結果、恐れやネガティブなモノ、不安を、強く感じていく層も出てくるだろう。

 

本稿で述べてきたような意識への変化は、まず、アーリーアダプター・クラスから始まる。最初は、ごく一部の人々の変化に過ぎないと思われるかもしれないし、絵空事のように映るかもしれない。しかし、そのような意識の人々は、世界的につながりはじめ、いずれ、大きな潮流へと変わっていくだろう。
 

重要な視点は、この二つの層を外的な分断としてだけではなく、内的な分断としてみることだ。すなわち、私たちそれぞれの内側にある、二つの側面、「自己実現的な私」と「自己超越的な私」を、共に認めていくこと。

 

今、この変化の時代を、混乱と困難として生きるのか、変容の契機として「嬉々として」生きるのか、その選択の機会は私たち一人一人に与えられている。

 

 

 

 

|アフターコロナの世界(メモにつき参考まで)

 

l  不況と経済縮小社会

消費社会というのは、「欲求」をガソリンにして、等価交換(取引)という機構を、可能な限りたくさん、可能な限り大きくすることで、成立している仕組みである。ゆえに、人々の欲求がなくなっていくと、消費社会は縮小するしかない。

そして、それはもう既定路線になりつつある。地球上には、これから高度成長期に入り、人々が承認欲求、自己実現欲求を叶えていく場所も、たくさんあるが、多くの先進国は、そのフェーズを既に終えている。
 経済を「縮小」すること、規模を「縮小」することに本格的に取り組む時代が来る。
もちろん、既に、それははじまっていて、シェアリングエコノミーや、サブスクリプションサービスなど、所有しないことで効率化する仕組みは、さらに広がっていくだろう。

 

l  環境問題への意識の高まり

今多くの人が、環境問題・社会問題への意識を高めているが、実はその背景には、自己実現のレベルで最大化する「自我」の融解がある。書いてきたとおり、自己実現のレベルにあると、「自分」がどうしても中心になり、その顕在化としての「消費者的アイデンティティ」が最大化される。

しかし、自己超越のレベルに入っていくと、自分と世界、すなわち主客が同化していくため自然や環境を、自分とつながった世界だと認識する人が増えていくことになるのだ。既に世界的な潮流となっているが、ヴィーガンやローフードの運動はさらに広がっていくことになるだろう。 
 

l  東洋的メソッドの本格的なブーム

すでに世界的なブームが続くヨガは、ますます盛んに行われるようになる。心と体の統合は、自分(主体)と世界(客体)の統合へと向かい、ヨガ的な世界観=悟りの世界観=自己超越の世界観は、より浸透していくことになる。
 

また、ニューエイジの思想を根底に持つカリフォルニア発のIT企業群では既に当たり前のように取り入れられているマインドフルネスや瞑想も、より一般的になっていく。

 

l  都市から田舎へ

人類の歴史は、都市化の歴史である。集住によって経済圏を作り、合理的な生産・消費活動を行うために最適化されてきたわけだ。しかし、今回のコロナウィルスの流行により、

・都市の脆弱さが明らかになったこと

・テレワークで仕事が回ることがわかったこと
などから、都市での集住を必ずしもしなくて良いことが明らかに。
 

これから、都市部から郊外へと人の流れが変化する。その中で、第1次産業への人材の流入や、半農半X的な生き方が再度注目を浴びることになるだろう。

 

 

l  働き方の変化

 テレワークの導入に加え、VR・AR等の技術革新、5Gのスタートなど、通信インフラの整備も進むため非対面型ビジネスへと本格的なシフトが始まる。
 非正規雇用者への社会的補助が問題となり、業務委託についても事業者側が雇用保険の負担を行うようになるなど、ある程度の整備が進むと同時に、技術専門職のフリーランスはさらに進む。

 正社員についても、働き方の見直しが進み、個別の雇用契約書をベースに、労働時間や賃金を決めていく西欧型のスタイルへの移行が始まるかもしれない。
 また、オフィス勤務の必要性がなくなるため、通勤が大幅に減少。郊外への居住シフトを後押しする。
 これまでの、自宅:プライベート⇔職場:パブリック という二項対立がなくなり、「職」と「住」が近接していく。暮らし方と働き方は同じ意味を持つようになる。子育てや家事についても、性による役割分担がなくなり、相互に関わる形へと変化。改めて、家族を問われる家庭も増える。


 

l  商売の形

今後、「〇〇な自分になりたい」といった形の、承認欲求を刺激するもの、自己実現を謳うもの(あなたの欲望を叶えよう)は、少しずつ集客力を失っていくだろう。

丁寧な暮らし、自分自身を見つめる、変容していく自然を守る、環境と調和する、といったテーマでの商品、サービスが主流となる。
 

日本をはじめとした先進国については、人々は、物質的には十分豊かになっており、これ以上、新しい〇〇を欲してはいない。

購入動機として「誰が作ったのか」が重要になり、顔の見える人同士がつながり、商品の売買を行う、コミュニティ型のビジネス=小商いの時代が来る。

 

l  メディア
 インターネット、SNSの発達で、誰もが自己表現できる時代になり、予想に反し、「クリエイティブ」の質が低下し、表現の世界においてもポピュリズムが蔓延。「優れた知」、「良質な情報」、「価値ある芸術」は、有料媒体、有料の体験を通じて得るものに。

 メディアは再編成を余儀なくされる。書店の減少は続き、出版業界は方向転換を迫られる。現在の多品種少量生産型を続けるのならプリントオンデマンド型か電子書籍に集約。

 マスメディアは、再編。現在のバラエティー番組主体のマスメディア放送は、地上波からネットに移り、サブスクリプション型に移行。
 地域紙・地方紙は廃刊が相次ぐ。地域ジャーナリズムは「みんなの経済新聞」のような、地域の事業者による情報発信プラットフォーム形に変化。
 ニュースメディアは、速報型のネットニュースと、時間をかけてじっくり論考するスローニュース(スローメディア)へと分化。
 

l  世界動静

コロナ後の世界は、中国の力が強まると同時に、インドが人口トップに立ち、経済発展のけん引役に。インド投資が進むと同時に、インド企業による日系企業の買収もスタート。

 

l  分断される人々

現在、国家という枠を必要とせず、地球のどこでも生きられる人たち=anywhere(どこでも)な人たちと、地域や国家に縛られ、そこ(somewhere)でしか生きられない人たちが生まれ、その階層的な分断は、国家間の文化ギャップよりも大きい。(香港、北京、上海、東京、ソウル、シンガポール のanywhereな人たちは、同じような世界観を持っており、むしろ、各国のローカルな共同体に生きる

somewhereな人々よりも近似値が高い)

 

・anywhere な人々の意識

総じて彼らは自己実現的な充足を満たされている可能性が高く、徐々に、自己超越的な世界観へと向かう可能性が高い。クリエイティブクラスを形成する高所得者層に加え、アーティストや社会的起業家、自給自足的生活や、エコビレッジの居住など、暮らしにおける文化的な豊かさを志向するクラスターとなっている。

 

・somewhereな人々の意識

「国家」や「地域共同体」でのリアル経済を担う中、グローバリズム(第三国への工場移転、

物価の安い国からの輸入品、低賃金の労働者の流入)によって、暮らしや仕事を脅かされていると

感じている層も多い。

自己実現的な欲求が満たされない中で、イデオロギーや宗教によって不安を払拭しようとするため、

かつての国民国家への回帰を志向することになる。当然、反グローバリズム運動へと向かい、ヨーロッパではネオナチをはじめとするナショナリスト政党の躍進、イギリスのEU離脱、アメリカでは、白人労働者層を取り込んだトランプの当選などが次々と起こった。

今後も、この世界の二極化は、進んでいくことが想定される。