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須藤峻のブログ

すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

私、愛されてない。
愛があったら、こんなことしない。
愛してたら、こんな扱い受けるはずない、、、
だって、本当に愛してたら、
〇〇してくれるはずだし、
✕✕なんてしないはずだもの。

愛してたら、傷つけたりしない
愛してたら、待たせたりしない
愛してたら、放っておかない
愛してたら、必要なときに側にいてくれる
愛してたら、親身になってくれる
愛してたら、肯定してくれる

なのに、あの人は!!!

よく聞く話よね。
ところで、ここで語られている「愛」ってなんだろう?

大切にすること?
敬意を持つこと?
肯定すること?

実は「期待に応える」ってことなんだよね。

大切にしてほしい。
肯定してほしい。
頼らせてほしい。
助けてほしい。
必要な時に、必要なことをしてほしい。

ね。

何か、してほしいことがある。
そして、それを叶えてくれることを期待する。

愛=自分の期待に応えてくれること
逆から見れば
愛=相手の期待に応えること

これ、すごく難しいよね。
期待に応えてくれる人、つまり欲求を叶えてくれる人と出会って、
愛されてる!と思うのだけど、
そのうち、どこかで期待通りにならないことが起こる。
そう、裏切られる体験をする。
すると、どうしても、愛されてないと認識せざるを得ないわけ。

逆も然り。
初めは調子よく、相手の期待に応えていても、だんだん負担になってきて、
気がつけば、本当にこの人のこと好きなのか?なんて始まる。

そして、これは本当の愛じゃない、真実の愛を探さなくては!
というあてどない捜索の旅がはじまってしまう。

そしてもちろんこの旅では
真実の愛!運命の人!ソウルメイト!、、やっぱり違った(=期待はずれ)。
の繰り返しが待っているわけ。

これね、面白いんだ。本当に学び深き旅。
けれど、その旅は何処かで終わる。
この旅は、何処かで進めなくなる。苦しくてね。

そうして、僕らは旅を終えることになる。
 旅を終える時、僕らはようやく愛に出会う。

どうやって?

それは、「期待」を諦めることによって。
期待というのは、「思い通りにしたい」という欲望だ。
相手をコントロールしたい。自分をコントロールしたい。

愛というのは、この「思い通り」を解体する作業のこと。
愛を探す旅の中で、僕らは出会う。
思い通りにしたいのに、できない人。
自分の欲求を叶えてくれない、
思い通りにならない、
自分を逆なでし、イライラさせ、傷つける相手。

決して、期待に応えてくれない人。
それなのに、自分の命よりも大切に思える相手。

僕らは、突きつけられる。
相手を変えるのか、自分が変わるのか。
相手を殺すのか、自分を殺すのか。

そして、殺すんだ。
「こうあるべきだ!」と叫ぶエゴ、「思い」そのものをね。

自分の正義、自分らしさ、自分の理想、
自分の信念、善悪、真偽、美醜、
これだけは譲れないと頑なに握りしめていた「自分らしさ」という幻想。

そこで、嫌っていうほど、理想と違う自分に出会い、
おどろくほどに期待はずれな相手に出会い、
自分の中の、「こだわり」を解体していく。

それらが解体され、消えていったその先に、残っているモノ。
それは、ただ、あるということ。
あなたが、いる。わたしが、いる。

ただ、そのことしか、残らない。
そのままで、ただ、そのままで完璧で、何も変える必要がない。
深い深い肯定の感覚。

それは、存在への祝福としか言いようにないものだ。


そして気がつく。
この無条件なる祝福が、いつの日も自分の中にあったこと。
そして、自分に注がれていたこと。

この無条件の祝福のバイブレーションを覚えておこう。
大丈夫、いつの日も、そこにある。
 怒り、憤り、悲しみ、不安にさいなまれる夜でさへ
許せない裏切りに打ちひしがれ、後悔に暮れる日にも、
祝福はあなたと共にある。

いつも、いつの日も、あなたと共に。
こやみなく打ち続ける、あなたの鼓動と共に。

傷ついたり、傷つけたり、許せない人がいる世界は、

なかなかに辛いものだよね。

なぜそのような状況が起こるのか、

そして、そこからどうやって抜け出すかを書いてみよう。

 

イメージしてほしい。

許せない人、許せない体験。

それを思い出して、その人に言いたいことを言ってみる。

飾らずに、思いっきり、本音を出してみよう。

けっこうひどい言葉が出てくるかもしれないね。

 

大切なのは、まず、言いたくても言えなかったことがあることに気がつくこと。

それから、自分が書いたものをじっくり眺めて見てほしい。

すると気がつくはず。

 

それらは、

「〜するべきなのに、しなかった」

「〜してはいけないのに、した」

の2つのパターンになっているはず。

 

つまり、色々書いているけど、

「相手が自分の期待を裏切った」ということに、

あなたは怒ったり、傷ついたりしているということ。

 

実は、僕らが怒ったり、傷ついたりする時、必ず相手への「期待」がある。

期待があり、それがはずれた時、僕らは裏切られたと感じ、傷つく。

そして、怒りや悲しみという感情体験が生まれる。

 

では、僕らは相手に、いったい何を期待しているのだろう?


僕らが期待しているもの、それは「返礼」だ。

ギブアンドテイクの、テイク。

つまり、私はこれだけやってあげてるのだから、

あなたは、これくらいは返してね

ということ。

 

わたしは、こんなに尽くしたのだから、

あなたも、同じだけ尽くしてね。

 

わたしは、こんなに我慢してるから、

あなたも、我慢してね。

 

わたしは、頑張ったんだから、

あなたも、頑張ってね。

 

わたしが、あげたのだから、

あなたも、わたしに返してね。

 

わたしは、サービスしたのだから、

あなたは、ちゃんと支払ってね。

 

そう、実は、これは、ビジネス。

怒りとは、サービスに見合った対価が支払われていないという抗議なんだよね。

 

だから、

「わたしは、こんなに〇〇してあげたのに、☓☓された」

というのが、怒ったり傷ついたりという体験の底の方に眠っている。

 

自分が、人間関係で何かネガティブな感覚を感じたら、

相手に対して自分が何を期待しているのか見てみよう。

相手が、「何を裏切った」のか、見てみよう。

 

例えば、恋人が浮気した!

ということに傷ついたとするなら、

それは「相手が、自分だけを愛してくれるはず」という期待が

裏切られたということ。

 

さらには

・恋人同士は、一途に相手を想うべき

とか

・1対1の恋愛関係を続けるべき

とか

・相手を傷つける行為は、避けるべき

とか

いろんな「してはいけないこと・しなくてはいけないこと」リストも

くっついてるよね。

 

実は、ここで期待=ギブアンドテイクという視点眺めると、

面白いことが見えてくる。

 

自分は、何をギブしていた?ということ。

 

・一途であること

・恋愛のルールを守ること

・相手を傷つけないようにすること

 

を、ギブしていた・・・・そう、とても努力してね。

実は、ここで見えてくるのは「自分が自分に期待していること」。

つまり「自分に、強いていること」なんだよね。

 

自分は、頑張って、浮気しなかったのに、

あなたは、浮気するなんて、ずるい!

ギブアンドテイクが、成立していない!

という怒りが、隠れているわけ。

 

でも不思議じゃない?

なぜ、僕らは、自分に何かを強いてまで、

頑張ってまで、ギブするのだろう?

自己犠牲に苦しんでなおギブすることで、
何をそんなにテイクしたいのだろう?

 

それは、「愛」なんだよね。

 

僕らは、愛が欲しくて、堪らない。

例えば「ありがとう」や「ごめんね」、

そんな言葉の向こうにある、「自分へのフォーカス」。

 

だから、先んじてサービスに身を投じる。

色々やってあげて、身を捧げて、努力して、我慢して、、、、

 

こうして、主従関係が生まれてくる。

足元を見られるってこと。

「あなた、愛が欲しいのでしょう?

だったら、もっとサービスしてよ」ってわけ。

だから、愛に飢えている人は、誰かから愛をもらおうとして、

この無限ループにはまってしまう。

 

愛をもらえることを期待して誰かに接近し、自分を差し出す。

愛が返ってこないから、もっともっとと差し出して、

今度は、「いらないよ」・・・と言われて、傷つく。

だからもっと、自分を捧げ、自己犠牲的になっていく・・・

そして、裏切られた!という思いが募っていく。

 

けれど、相手からしたら、

「押し売り」に困惑しているって話なんだよね。

サービスを一方的にどんどんされて、

お金払って!お金払ってよ!と言われてるってこと。

 

私こんなに頑張りました!こんなに一生懸命でした!

こんなに我慢しました!こんなに捧げました!

だから、100万円ください!

え?くれないの?こんなにやってあげたのに!!!

 

これは、誰もが通る道。

幼少期に「親の愛をもらう」というチャレンジからスタートしているからね。

 

けれど、これは人類の宿命というわけではない。

そこから自由になっていくことができる。

自分と相手に、何かを強いて生きること、

我慢比べをして生きるのを、やめることはできる。

 

どうやって?

 

愛を自足することで。

自分で自分に愛を手渡す時、僕らは、誰かに愛をもらう必要がない。 

自分が自分を受けいれているのなら、

誰かに、受け入れてもらう必要がない。

 

その時ギブアンドテイクはなくなる。

与えることで、すでに、受け取っているのだから、

テイクアンドテイクになる。

 

どうやって?それができたら、苦労しないよ!

 

という声が聞こえてくる気がする。

僕も、どうやったらそこに行きつけるのか、色々とトライしてみた。

そして、ちょっとした勘違いに気が付いた。

 

それは、自分を愛するというのは、完成形があるわけではないってこと。

この状態になったら、自分を愛していると言える・・・というものではない。

 

「自分を愛していく」というプロセスにいる

ということでしかない。

 

そのスタート地点は「眼差しを自分に向ける」ということだ。

 

「誰がどうした」という認識から、

「私は、どう感じた」「私は、こう思った」という

「私」に居ることをはじめてみる。

傷ついたのなら、

「傷つけた誰か」ではなく「傷ついた私」と共にあること。

許せないのなら

「許せないあいつ」ではなく「私の中の怒り」と共にあること。

 

誰かのことを、世界のことを、どれだけ考えても、

どれだけ自分の正しさと、相手の過ちを主張しても、

その時、僕らは自分を置き去りにしている。

 

出来事は、自分の外側ではなく、内側に生起している。

 

あなたの悲しみは、あなたのもの。

わたしの悲しみは、わたしのもの。

あなたの怒りは、あなたのもの。

わたしの怒りは、わたしのもの。

 

この「自分と共にある」という感覚がわかってくると、

それが一つの「回路」になっていく。

一度それができてしまえば、その回路を使うたびに、回路が太くなっていく。

向き合うほどに深く、よりシンプルに、自分と共にいられるようになる。

 

これは、特殊なヒーリングや心理メソッドによって実現するものではない。

もちろん、「回路」に電気を流して活性化するというメソッドもあるけれど、

それよりは、日々の積み重ねが大切。

 

そして、自分と共にいるようになると、

自分の中の深い悲しみや、深い痛みに触れていけるようになる。

多くの場合、子供の頃の体験。人によっては、もっと古い体験の記憶。

 

自分の中で隔離されていた悲しみが癒されていくと

いつの間にか、あなたは誰かに何かを求めなくなる。

どうしてそんなに他人に要求していたのか、不思議に思うだろう。

 

もちろん、旅は終わらない。

 

せわしない日常は変わらないかもしれないし、

人生は、色々なことを僕らに送り届けてくれるから、

出会いも別れも、不破も誤解も理不尽な出来事も、これからたっぷり訪れる。

清水の舞台から飛び降りなくてはならない日も来るだろうし、

大切な人と分かり合えない日もやってくるだろう。

 

けれど、あなたがあなたと共にあるのなら

それらの出来事は、あなたを磨き、あなたを鍛え、

あなたの可能性を拓いていくだろう。

 

自分が自分と共にあることを、選択しよう。

僕らをそこに連れていくのは、選択する意思。

ただそれだけ。

色々話をしていて、面白いなあと感じてることがあります。

それは、「自分が変わる」=「負け」=「損」という感覚についてです。

普段から、目の前の出来事を通じて、自分が変わっていく

という話をしているのですけれど、

そこで、時折、このような反応に出会います。

 

相手は変わらないのに、

自分だけが変わらなくてはいけないなんて不公平だ。

ずるい。相手も、変わるべきだ。

 

僕は、自分が変化する=ひとつ自分が成長する=自由&幸せに近づく

という発想でしか見ていなかったので、

なるほど・・・と思いました。

同じく、相手を許す、認める、受け入れる

というのも、敗北や屈服を意味することもあるようなのです。

 

つまり、「自分が変わる」というのが、

自分が折れる、自分が我慢する、自分が譲る・・・

というイメージで意識されている。

 

何が、そうさせているのかな?

どうして、そう感じてしまうのかな?

と考えますと原因は「変わる対象」についての意識の違い

だということが見えてきました。

 

「自分が変わる」というのは、主体意識が変容するということです。

我慢するとか譲るという行為を行っている本人そのものが変容し、

それまでの自分、その体験をする前の自分とは、別人になる

というプロセスです。

 

けれど、この自分が変わるという感覚を、

「意見を変える」と捉えていると、確かに、なかなか辛いものがあります。

それは「自分を変えないまま、意見を変える」ということだから。

つまり、自分の本心<相手の都合

という図式になりますので、確かに、敗北ですよね。

自分は、我慢するのだから、相手だって我慢すべきだってわけ。

 

繰り返しになりますが「自分が変わる」という体験は、

「意見の変化」ではなく、「世界観の変化」です。

世界観が変わるとは、今、見ている世界が別のモノとして見える

ということです。

 

それまで価値がないと思ってたものが、大切なものに、

今まで大切だと思ってたものが、取るに足らないことに、

怖いと思ってたものが、ワクワクの対象に、変わる。

生きることの意味、出会うことの意味、死ぬことの意味が、変わる。

つまり、より自由でハッピーな世界線にシフトする、
パラレルワールドにシフトする体験ということです。

 

そのために、信念の変容が不可欠です。

意見ではなく、信念が変わる。

これは、ものすごく大切。

 

例えば

「自分勝手なあの人が、許せない」というシチュエーション。

意見を変えるというのは、

「自分勝手なあの人を、頑張って許そう」という試みです。

 

 自分勝手だけれど、あの人だって、悪気があるわけじゃないんだ。

 自分が少し寛容になれば、問題はないんだ。

 だから、自分が大人になろう、自分が許せる人間になろう。

 

この試みは、100%破綻します 笑

なんの苦行やってんの~ 無理無理~ です。

必ず

 

 私は、こんなに我慢しているのに!

 ムキ―!! 怒 怒 怒

 

となります。

 

違うのです。信念・世界観を変えるというのは

「自分勝手」ってなんだっけ?
ということです。

自分勝手とラベリングする自分そのものがいなくなるので、

許すも、許さないもない。

自由気ままで素敵だな~ 面白いなー くらいなものです。

自分の人生から、「自分勝手」という言葉がなくなる。

自由気ままで素敵なあの人、自由気ままで生きる自分。

愉しいね♪ 以上。

 

そして本当に、自分勝手という感覚を忘れてしまいます。

なんだっけそれ・・・という感じです。

自分勝手が存在する世界線 → 存在しない世界線へとシフトしています。

それまで問題に見えていたものが、まったく問題ではなくなる。

だから、許すことも、認めることも、受け入れることも不要です。

 

この2つのプロセスには、大きな差がありますよね。

自分を変えるということに苦しさを覚えている人は、

この2つの変容のプロセスを混同している可能性が高いと思います。

だから、許せないし、変われないんです。

 

さて、では自分を変容させていくために、どうすればよいのか?

とっても簡単です。

人生に起きるすべての出来事が、変容の契機です。

すべての出来事は、自分の持っている信念、

自分の持っているラベリングのコピーです。

故に、そこにネガティブなモノを感じたのなら、

即座に、自分の内側、自分の信念にアプローチしていきます。

 

ネガティブな体験がやってきたら、ガッツポーズです。

 

ルール違反している人がいて、ムッとした。

自分の中に、「ルールを守ることは正しい」という信念がありますよね。

これを解除していきます。

なるほど、自分はそれにこだわってたのか・・・

それがわかると、もう信念が変わり始めています。

 

自分が、いかに、正義の側でありたかったのか、

正しい存在でありたかったのか、がわかってきます。

そして、なぜそうありたかったのか?も見えてくるでしょう。

正しく良い子である必要があった理由、

それによって、何を獲得したかったのか・・・

もちろん、それは、愛ですよね。

 

ルールを守る正しい子を演じることによって、

誰かの「愛(だとその時に理解していたもの)」を得たかった。

それは、誰?

・・・例えば、こんな風に自分と対話していきます。

ね、とてもシンプル。

語りかけ、問いかけるのなら、自分は必ず答えてくれます。

 

今日は変容のプロセスについて、少し整理してみました。

何か参考になることがあれば幸いです。

それでは皆さん、素敵な1日を。

「世界は自分の投影である」と知ることが、
人生のほとんどの問題を解決する鍵だと思います。

・・・というと、少し、謙虚すぎる表現ですよね、

「世界=自分の投影」として生きる時、人生に、問題は起こらない。
これくらい言っていいと思います。

私たちは、自分が知っている知識や、自分の思い込み、信念をベースにして、
出来事に意味を与え、その与えた意味の通りに現実を体験します。

「気遣いできるのは、良いことだ」という信念があれば、
人を、気遣いできるorできない という尺度で判断することになります。
それは、すなわち、気遣いできない「ダメな」人との出会いが
生み出されるということです。
気遣い・・・・にまつわる信念を持っていなければ、
そのような人と出会うことがありません。
とても簡単な話です。
例えば、「足のサイズが大きい方が良い」という信念を持っているとします。
足のサイズという尺度で世界を見るわけですね。
すると、「足の大きな人」や「小さな人」との出会い」が人生に起こります。

皆さんは、今日、足の大きな人と出会いましたか?
足の小さな人に囲まれていますか?

答えはNOです。
足のサイズにまつわる尺度、信念を持っていない人にとって、
足の大きな人と小さな人は、存在しません。
その人の人生に、そういう出会いは、ありません。

ここは重要ですよね。
足の大きな人も、小さな人も、存在していますけれど、
そこにフォーカスして眺めていなければ、存在していないのと同じ。

話を戻しましょう。
「気遣いができるのが良い」という信念がなければ
気遣いができる人・できない人、双方との出会いがなくなります。
文字通り、人生から消えます。

逆に、その信念を固く握りしめているのなら、
必ず、「気遣いができない”ひどい”人」との出会いが待っています。
同じように、
・感情的になってはいけない
・未熟であってはいけない
・女性的であってはならない
・男性的でなければならない・・・・
という信念を持っている限り、感情的で、未熟で、性的な人間と出会います。
自分が、そのように相手をジャッジメントし、そのような存在として
構成するからです。
すると、即座に信念システムが反応します。

怒り、悲しみ、恐れが生み出されます。
ストレス体験、イライラ体験、許せない体験。
そして、「傷つく」という体験をします。

傷つくというのは、自分の信じる世界観=信じている世界感=信念の殻に、
ひびが入る、という体験です。
信念にひびが入ると、僕らは大慌てで、犯人を糾弾します。
あなたは、なんてひどい人だ!私は、傷つけられた!
自作自演の壮大なファンタジーが始まります。
それを生きる本人からすると、確固たる現実です。
けれど、それは影でしかありません。
自分の影にどれだけ働きかけても、影はいつでもそこにあります。
自分の投影以外を、僕らは触ることも、生きることもできません。
世界は、自分の信念の投影体である。
世界とは、自分の鏡である。
そのことを本当に自覚したとき、本当に理解したとき、
自分で悪を作り出し、自分を傷つける
というマッチポンプからの出口が開きます。

ひどい人、悪い人、だめな人と出会い、
恐れ、傷つき、イライラする人生を卒業し、
素敵な人、愛しき人、面白い人と出会い、
愛し、慈しみ、ワクワクする人生へと入っていきます。

繰り返しますが、とてもとても簡単な仕組みです。
ひどい人を作らないから、出会わない、
悪い人を作らないから、出会わないという、
単純明快な物理法則の結果です。
故に、この法則から、
自分の持っている信念、尺度、正義、常識、道徳、モラル、マナー、ルールの量と
それに反する人、それを裏切る人と出会う確率が比例することがわかると思います。
ルールが10個の人と、ルールが100個の人、
ルール違反に遭遇する確率は10倍です。
だから、ただただ捨てる。
何が正しく、何が間違っているのか。
何が善く、何が悪いのか。
何が美しく、何が醜いのか。
自分が信じてきたもの、自分が教わってきたもの、
そのすべてを、ひとつひとつ、丁寧に手放していく。

感情が揺れたなら、自分に出会うチャンス。
自分のまだ気が付いていない信念を見つける最大の機会です。
そうか、自分の中にこんなこだわりがあったのか・・・
そんな風に、出来事と出会っていく。

この作業の先にあるのは、
みんな懸命に、美しく、精一杯その人を生きているという感覚です。
良いも悪いもなく、美しいも醜いもなく、未熟も成熟もなく、
ただ、それぞれが、その生を全うしている。

それは「足りている」という感覚です。

そして、いつの間にか、自分の周りに、素敵な人ばかりが、
愛しい人ばかりが集っていることに気が付きます。
そして、愉しいことばかりが、やってきます。
もちろん、目の前にやってくる出来事、仕事を「苦役」とか
「押し付けられたこと」とか「めいわく」とラベリングしないので、
ただ、淡々と、愉しく、懸命にやる→結果、愉しい! 
ということですけれどね。

さて、長くなりましたけれど、もう一度、
世界は投影である、世界は自分である、全ての出会いは自分との出会い、
許せない相手とは、許せていない自分との出会いだ、
ということを、書いておきたいと思いました。

そろそろ本気でそれが問われそうです。

何かに傷ついてなかなか、立ち直れない。

そんな時に、思い出してほしいこと。

 

「傷つく」というのは、あなたが、わたしを傷つける

という形では、起こらないということ。

そうではなく、わたしが、わたしを傷つける

という形で起こるんだ。

 

自分の中に、

・傷つけた自分

・傷つけられた自分

の二人がいる。

自分の「中」の争いだからこそ、

僕らは内側に苦しさを感じるんだ。

 

だからね、その苦しさを溶かしていくためには、

傷つけた側の自分と、傷つけられた側の自分を

うまいこと架橋し、仲直りさせるしかない。

 

自分の中の「自分を傷つける自分」を放置する限り、

いつだって、「傷つけられる自分」が生まれるからね。

 

こうして見て見ると

なかなか立ち直れない・・・時間が経っても
なんだかすっきりしない理由は、簡単だ。


誰かとの間に起こった過去の出来事ではなく、

今、その瞬間に、事件が起きているということなんだ。
その瞬間、自分の中で、戦いが生まれている。

 

いつの日か、誰かに「君には価値がない」と言われた傷が痛むのだとしたら、

それは、今、この瞬間に、自分が自身に向けて

「あなたには価値がない」と言ってるってことだ。

 

それは、幸運なことだ。

なぜなら、過去に戻る必要も、その人を連れてくる必要もないから。

問題は、過去ではなく「今」、そして、誰かではなく「自分」、

どこか、ではなく「ここ」で発生しているということ。

 

「今、ここ、自分」。

目の前に、解決のためのすべての鍵が揃っている。

 

二人の対話を始めよう。

どちらにも、言い分があり、どちらにも正義がある。

丁寧に、丁寧に、自分の内なる対話を進めていく。

それを眺めている自分もいるから、三者協議だ。

 

感情を感じる。思いっきり感じきる。

押し込めてきたものを、解放する。

そして、何が許せないのか、何に腹が立つのか、

何を正しいと信じ、何を悪だと信じているのか、

自分の持っている信念に気が付いていく。

そして、それを手放していく。

 

気が付けば、

自分を責め、自分を叱咤し、自分を傷つける自分が

小さくなっていく。

同時に、あなたは、世界を裁かなくなるだろう。

 

裁かないでいる。

世界がそこに、そうあることを、自分がそこに、そうあることに足りている。

その自由と開放感は、筆舌に尽くしがたいものだ。

 

・・・と言いつつ、また誰かを説得したり、責めたりするのだけど・・・

けれどそのたびに、戻ってくればいい。

自分の中心から、世界を眺める時、

誰もが、必要な形で、必要なタイミングで

必要な体験をしていることが、はっきりと見えてくる。

 

何も変える必要などない。

そこにあるのは、明晰で、シンプルな世界。

5月の風のように、透明で、軽やかで、ワクワクに満ちている。

まず、自分を縮小する。
それは自分と他人を分離していく作業。
自分は自分、相手は相手。
自分の見ている世界と、相手が見ている世界が違うということを知る。
互いに相手の期待に応えるために生きているのではないことを知る。
自分の思ったとおりに相手を変えること、世界を変えることの
不可能性を知る。
 
そして世界が青いのは、自分のサングラスが青いからだと知る。
鏡に映ったモノ(=世界)を変えるのではなく、
自分が微笑むことで、世界を変えることを学ぶ。
 
これを続けると、自分の内世界で、
自分が縮減していく。
自分と呼んでいたものが、なくなっていく。
自分の意見、自分の気持ち、自分の価値観、
なんてものが、自分のものではないことを知る。
それは、残響のようなもの。
それは、やまびこのようなもの。
音を立てたのは、自分ではない誰か。
それらを聴き取り、受け入れていく。
すると残響は、消えていく。
 
自分を律していた声、すべきこと、しなくてはいけないこと、
恥ずかしい自分、駄目な自分が消えていく。
こだわっていた生き方や、価値観、許せなかったものから、
自然と離れていく。
 
このあたりに来ると、自分というのが、
スクリーンであることがわかってくる。
 
自分という場に、何かが起こる。
感情が起こり、思考が起こり、出会いが起こり、別れが起こる。
それをただ体験している。
体験の媒体として自意識があることを体感的に知る。
 
ここから、自分が拡大していく。
 
自分の内側に生起する物事、自分の外側に生起する出来事、
その双方が、ただ、自分に起こることを理解したとき、
この世界の出来事全てに、自分は関与し、また、責任を持つことになる。
 
自分と相手が統合されていく。
誰かのため、という意識がなくなっていく。
ただ、与えられた機会があり、それを行う。
それだけのことになる。
 
期待する自我がないとき、
与えられたものは常に、適切で相応しく、完璧であることが理解される。
故に、いつも、その瞬間、最適なことをしているので、
イマココを至福に生きることになる。
 
あらゆる自分に降りかかる出来事を、
祝福とともに行うことになる。
 

常識というのは、すごいものです。
いつも、常識なんてさ・・・という話をすることが多いのだけれど、
常識ってのは、すごい仕組みですよね。
「型」だからさ、ともかく、型通りにやっていると、

そこまで失敗しないわけです。
ちゃんと勉強して、いい学校に行って、いい会社に入って、安定した生活を育む。
これってね、けっこうちゃんとやれば、素敵な生活だと思います。

仕事にしたって、ビジネスマナー、戦略スキーム、社内ルールと、
「型」を前提に動かすから、相当に効率化できている。
社会にしたって、相手が常識に基づいた行動をするだろうと想定するから
計算ができて、予測に基づいて色々動ける。
契約書を結べば、お金を払えば、サービスが提供される。
本当に、良くできているよね。すんばらしい仕組み。

だから、僕は、きわめて常識的に生きたらよいと思っているわけです。

もちろん、この「型」は、強力な圧力となって
「型破り」を排斥するという特徴を持っていますから、
自分の自然を押し殺し、窮屈な型の中で息も絶え絶え・・・ということにもなります。
そして、ルサンチマンにも書きましたけれど、
「型」の中で生きることが、素晴らしいことだ!という幻想を生み出し、
常識的であることに価値があるという倒錯が生まれてきます。
あくまで、生き延びるために有用な知恵だったのに、
その知恵が、人間性を奪っていくわけです。

さて、なので、常識の素晴らしい機能を利用し、
常識の副作用の部分を、無害化してしまえばいいわけです。

それは、常識を捨て去り、常識を生きるということです。
きわめて常識的に、まったく自由に生きるということです。
何のことやら?となりますので、解説します。

常識というのは、儀礼の体系です。
合理性の高低はありますけれども、ともかく、そういうルールで世界は動いている
というところは、否定しようがありません。
いうなれば、飛車は前と横しか進めないよ、斜めはダメってこと。
理由を求めても仕方ない。
そんで、それが不条理なモノかもしれないけれど、今、ともかく世界は
そう動いているってことですね。

そして、ここが重要なところなのですけれど、
そのような常識があるということと、自分がその常識に支配されているか、
というのは、まったく別のことなのです。

常識というルールに支配されているというのは、
自分がそのルールを自分の気持ちや、自分の考え方だと信じている状況です。
社会常識、良識、道徳といった被造物を、
まるで、自分の内側から出てきたものだと勘違いしている状態。
これが、常識に隷属している状態です。

そもそも思考というもの、意見というものは、
すべて、自分の外側からやってきたものです。
誰かに教えてもらったもの、どこかで耳にしたもの、それの寄せ集め。
だから、自分の意見というのは、そもそもないんです。
僕らは作者ではなく、編集者なのです。

常識が僕らに入り込むのは、言葉を覚える時です。
言葉というのは、その社会の常識やルール、価値観の体系です。
だから、僕らが「考える」という行為をする時点で、または、「認識する」とか、
「感じる」という行為をしている時点で、既に、常識の内側にいるんです。

つまり、僕らの意識、僕らのマインドというのは、
そもそも、「常識」を使って動いているってことなのです。
だから、常識から自由になるというのは、
自分自身から自由になる・・・ということになります。

そんなことできるのでしょうか?

できるんですね~
思い出してください。僕らの目的は、「自由に生きること」ではなく、
常識に隷属しないことでした。故に、それが可能だと言えるのです。

どう実現するのか。
それは、「自分自身の見ている世界が、体験している世界が、
常に、自分の常識によって作り出されている世界だと認識して、生きる」
ということによって、実現されるのです。

僕らは、完全にフラットに、ありのままを見る、聞く、体験する
ということを、実現できません。
永久に。

けれど、自分自身の見ている世界が、自分の作り出したリアリティであること、
自分が、自分の常識や正義、期待や欲望を使ってつくった
ひとつのファンタジーであることを、理解していることはできます。
そして、自分自身の意見や、正義や、世界観
こだわりや、アイデアが、自分の内側からやってきたものではなく、
自分という「場」に流れてきたものに過ぎないことを理解していることはできます。

それは、自分の目の前の世界に起きてくる出来事、
自分の内側に起きてくる出来事(思考・感情)、
その双方を、観想しているということです。
起きてくることを、ただ、起きてくるに任せている。

もちろん、起きてくる時点で、常識による色付けがされています。
例えば、「ひどい人に攻撃された」という体験があったとしたら、
その時点で、ファンタジーがはじまっていますよね。
これは、コントロールできません。
けれど、そういう体験が自分の世界で起こったということを
100%体験しながら、かつ、その体験を100%ファンタジーだと知っているということ。

その意識にいるとき、僕らは起こることを許している。
起こることを、許す。
実は、ここに自由があります。

そして、この意識にいるとき、僕らは、自分が常識的であることも、
常識の体系の中で生きることも、ゲームになります。
面白い「型」、誰かが作ってくれた「仕組み」を使って、
加速することが可能になる。

書いていたら、あんまりまとまりませんでしたけれども、
今日はこのくらいに!

 

ではでは
 

さて、ジプシー生活を終えて、会社勤めを始めたことを前回書いた。

> https://ameblo.jp/sudoshun-blog/entry-12413434590.html

 

その後、半年ほど経って色々と感じたことを綴ってみよう。

「ジプシー、にっぽんの会社に勤めてみる!」ってな感じのルポですね・・・

 

その1:同僚という体験

 

会社には「仲間」とか「同僚」とか「後輩」とか「上司」がいる。

これが、なかなか新鮮だった。

卒業後に入社した会社で、すぐにお客さん先に常駐になってしまって

回りはみんなクライアントだったし、

その後は独立して、ほとんど一人でやってきたので、

「自分の会社の仕事を、自分の会社の人たちとやる」って経験は新しい感覚。

 なかなかイイものだ!


仕事帰りに飲みに行って(僕は飲まないけど)、

業界のことや会社のことを話したりなんて、

ドラマの中でしか見たことない世界。

おお!サラリーマンだ!みたいなね。

 

もちろん人それぞれなのだけれど、

「会社に勤める」という在り方(生活リズム、社員という身分や肩書、

営利を追求する、指示と命令で動く などなど)は、

ある種の共通した価値観を創り出すように思う。

 

だから、彼らの世界を隣で眺めてみるのは、新鮮な体験だった。

ビジネスの世界を動かす論理と倫理を、

僕は今日もなるほどねーっと眺めている。

 

 

その2:出会いはビジネスのために。

 

会社というのは、ともかく不思議なルールに満ちているのだけれど、

特に、人間関係については、衝撃だった。

 

例えば、仕事の中で出会った人は、

「お客さん」とか「取引先」と呼ばれる人なので、

友達になってはいけないわけ。

 

今、どんな風に生きているの?何を体験しているの?

どんなことに気が付き、何を学んでいるの?

 

そんな会話はNG(みんな、知ってた?)

ビジネスの世界では、人と人が出会うのは、「ビジネスのため」なんだ。

 

相手の人生に触れること、分かり合うこと、
互いを通じて自らを発見していくこと・・・

 

そういうことは、求められていない。

これ、皮肉で書いてるわけじゃなくて、

僕にとって人との出会いって、常に、そういうことのためだったから

みんながそれを求めていないことが分かったときは、

なかなか衝撃だったわけ。

 

まぢか!・・・まぢか!・・・まぢか!

ってな感じになりましたよ。

 

そうそう、最初の頃、それが良くわかっていなくて、

仕事関係で出会った人にそういう話をしたら、

ドン引きされたのは良い思い出。

 

 

その3:儀式がたくさん

 

会社では、初めて会う人とは、名刺交換というのをする。

●●社の須藤です!と名乗り、名刺を交換する。

そして、しばし当たり障りのない会話をしてからビジネスの話に入る。

 

この催しは、恭しく行われる必要があり、

渡す順番も大切だ。

 

こちらも、そちらも、偉い人から順に渡さなくてはならない。

これは厳密に行われる必要がある。

なぜかというと、これは、「交換の儀式」だからだ。

 

構造主義哲学の始祖、文化人類学者のレヴィ=ストロースが論じたように、

人は3つの交換を通じて社会を創り出した。

・言葉の交換=コミュニケーション

・モノの交換=経済

・女性の交換=親族システム
(※敢えて書いとくけれど、なぜ「女性」かというと、

  種の維持という観点で男性の交換は全く意味がないからです)

 

交換というのは、人類にとってものすごく重要な機会なのだ。

そう、人類が人類であるために、不可欠なこと。

 

ビジネスの現場に「交換の儀礼」が残っており、

そこから関係を開始するというのは、

大変に人類学的興味をそそる。

 

けれど、そんな長い長い人類史に思いを馳せながら

名刺交換をしている人は、僕の周りにはいなさそうだ。

 

 

その4:常識的であることは何より尊い。

 

これも、儀式の話なのだけれど、

ビジネスというのは、半分くらい「儀式」でできている。

 

例えば、何か頂いたりご馳走になったら、

翌日には、すぐにお礼の電話なりメールなりをする必要がある。

手紙を出すこともある。

 

感謝の気持ちが溢れてしまって思わず電話をしてしまう・・・という人は、

正直、少数だろう。なのに、多くの人がそれをする理由は、

「そう決まっている」からだ。

ビジネスでは、それがルールなのだ。

 

これは、面白い仕組みだ。

 

翌日に「お礼メールを出す人」は、「ルールを知っている人」。

つまり、自分と同じルールを共有していて、

かつルールを守る安全な人間だというわけ。

 

このように、「ルールに従ってみせること」に価値が生まれると

それ自体が目的化してくる。

つまり、ルールを生きること、ルールに従順であることが、

「美徳」と見なされるようになるわけだ。

 

そして、ルールに則って生きていること、

常識人であるということが、まるで、素晴らしいことのように思えてくる。

(実際は、無害な人というだけだけども)

 

そして、逆に、ルールに従わない人、おかしな動きをする人、

儀式につきあわない人は、「悪」とされ、厳しく排除される。

 

常識人を生きるのも、ひとつのチョイスだ。

誰もが生きたいように、生きる権利を持っているからね。

 

けれどそれは、なかなかに大変な道だ。

ルールを守る常識人であるために、

常に、自分を律し、他人も律し(←ただのお節介ね)

いつも、ルール違反に怒ってなくてはならない。

期待外れに憤慨していなくてはならない。

これはね、はっきり言って、百害あって一利なしだ。

 

別の道を選ぶこともできる。

それは、ありのままの自分、自然な自分へと向かう道だ。

そこには、軽やかで自在な生が待っている。

 

そこに向かうには、ルールから離れるしかない。

自分の信じる、硬く信じる常識を、正義を、人としての正しい在り方から
離れるしかないんだ。

 

「離れる」というのがポイント。

ルールを全部無視しようというんじゃない。

ルールを、あくまで儀式だと、ひとつのゲームなのだと

気が付いていようねってこと。

 

すべてはゲーム。

 

それに気がついたとき、

なんで自分がそんなことに深刻になってたのか、

笑ってしまうよ。

 

ゲームは深刻にやるものじゃない。

楽しむためにやるものなんだからさ。

 

 

 

さ~て、そんなわけで、人間社会の縮図の中で、色んな発見をしながら

過ごした1年間が終わり、来年はどうしようかな~というタイミング。

 

なかなか愉しかったけれど、少々窮屈に感じているのも事実。

そろそろ自由が呼んでいるな~ふふふ

 

さてさて、そんなわけで

僕の人生が僕をどこに運んでいくのか

誰より楽しみに眺めております。

 

それでは

自分が自分であることを、受け入れることに尽きる。

自分を許し、自分を生きること。

その時に、誰かを所有する必要がなくなる。

 

自分の期待に応えてくれない彼、

自分の気持ちを汲んでくれない彼女、

救わなくてはいけないあの子、変わらなくてはいけないあいつ。

 

そんな存在を、自分が勝手に作り出していたことがわかる。

そして、もうそれは自分に必要ないということが。

 

誰も変える必要がなく、変わる必要もない。

それぞれのペースで生きていて、
それぞれのテーマを生きている。

 

あなたがそうであったように、
それぞれの人が、自分にとって必要な体験を、自らにギフトしている。

 

それが、あまりに困難に見えたとしても、

本人がそれに苦しんでいたとしても、

そのチャレンジはその人の、トライアルだ。

 

いかなる体験も、その人にとって、

それ以外にない形、完璧な形で与えられている。

そのギフトを生きる権利はその人にある。

 

あなたは、良くやっているよ!
あなたは、今、人生を生きている。


その一つ一つの体験が、

あなたを磨き、あなたを拡げ、あなたを拓いていく。

今、あなたが見ている世界は、
そう遠くない未来に、形を変えていく。


今あなたの元にやってきた体験は、

今のあなたにしか味わえないものだ。

それを存分に味わえばいい。
それ以外にやることは、ないのだから。

傷つく経験をしたのなら、
傷つくってなんのことかを考えてみるんだ。

 

傷つく という現象は、
僕らの心の中で起きること。
すなわち、科学的な作用だってこと。

 

傷つくとは、どういう現象なのか?
傷つく という体験のメカニズムは?
傷つくって、本当は何のこと?

 

もったいぶったけど、
簡単に言えば、僕らが傷つくのは、人を裁いた時なんだよね。

 

人を裁くと、自分が傷つく

 

だから、相手を責めるほどに
自分が損なわれていく。
自分の正しさを証明しようとするほどに、
自分を見失っていく。
何かを取り返そうとするほどに、
自分から離れていく。

 

傷ついたのなら、
許すときが来たということだ。
 

自分の正しさを、手放す。
その時、僕らは、裁くことをしなくなる。

 

これがわかると、
傷つくという体験は、
全く違う意味を持ち始める。

 

あなたは、傷つけられることはできない。
自分を、傷つけることができるだけだ。
 

だから、それをやめる選択もできる。

 

決める。
 

それだけのこと。
たったそれだけのことで、
世界は全く異なるものとして、
僕らの前に現れてくる。