●「地下アイドルシステム」はこうして作られた#7 | たかみゆきひさオフィシャルブログ「shadowcube」Powered by Ameba

●「地下アイドルシステム」はこうして作られた#7

さて、前回までで

CoCoをはじめとするメジャーアイドルからアイドルの卵たちまで出演する一大イベントに成長していきました。

ってところまで来ましたよ。


クラブチッタ川崎にて行われる公演と毎月(殆ど隔週)小規模なライブハウスで行われる公演、合わせて年間70~80くらいのライブをやり、それなりに認知度も影響力も出てきたわけですよ。
オーディションもやり、アイドル雑誌に連載コーナーも持ってました。

さてさて、当初のコンセプトは
不況、冬の時代でライブができないアイドルが立てるステージを!
というなんともステキなことでした。
自分もそれに賛同して参加した訳だし、厳しいスケジュールのも耐え、企画を考え突っ走ってきた訳なんですが、悲しいかな、こう、規模が大きくなるといろいろ変わっちゃうもんなんだね。

いろいろあって(これ書くと長いので割愛)この企画から生まれた(育った)アイドルということ超期待されていた水野あおいが離脱。
他にも様々な内部的事件があり(これも書くと長いので割愛^^;)、信条的に一緒にやっていくことは不可能と判断。
その結果 自分もこの企画から離脱することになります。

その時に、自分の声かけで集まって協力してくれたスタッフ(って実は殆どのスタッフなんだけど)が全員一緒にごっそり抜けちゃったんですね。

システムと企画の根幹の殆どを構築してそこから未来をどう作っていくかというビジョンを持っていたのは自分だったので、スタッフごとそれを失った一大プロジェクトはその後衰退の一途でしたが、ま、いたしかたありません。


さて、一緒に辞めて自分についてきたスタッフ。
仲間って素晴らしい! と涙しつつも自分についてきてくれる以上、次のことを考えねばなりません。

そして我々はそのまま水野あおいのサポートにまわったのでした。
培ったノウハウをフル活用して水野あおいはライブアイドルの代表とまで言われる存在になった。


さぁ、いわゆる「地下アイドル」誕生はここからだよん!


つづく


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●それはまさに「輝きの描写(スケッチ)」だった!
●かくしてデジタル技術革新とともに「地下アイドルシステム」の第一歩は始まった
●それは総デジタル化時代の幕開けでもあった
●地下アイドル?

※「地下アイドル」という表現は個人的にはなんともしっくり来なくて好きでは無いが、わかりやすいので使ってます。