ネットで調べ物をするにあたって・追加~ネット情報の注意点~
ずっと更新をしておりませんでしたが、先日福島県在住の小児科医の方のブログのコメントに私の記事の一つがリンクされていたようなので、そのブログを拝見させて頂きました。
福島で暮らすということ~小児科医として思うこと
私は原発事故からしばらく原発関連の記事を書いておりましたが、1週間ほど過ぎたあと、これ以上爆発等によって放射性物質が更に飛散しない限り、冷静に対応されると思っていました。ところが飛散した放射性物質が増えたわけでもないのに、状況はどんどん大騒ぎになっていくばかりで、ネット上で福島県がまるで死の土地であるかのように言われてしまっています。
このブログではそう騒ぎ立てることがどういうことなのか、実際に福島県に在住している、しかも医療従事者の方の率直な思い、本当に現在の福島県が子供たちが皆避難しなければいけないような危機的な状況なのかが丁寧に述べられています。
本文だけでなく、コメントにも現在の20ミリシーベルト/年という暫定基準値について、他の専門家の方たちからの丁寧な説明があります。少々大変ですが、本文・コメント共に読まれることを是非オススメしたいと思います。
この記事のコメントで紹介されている私の記事は、3月に書いていた原発事故自体の記事ではありません。その1年前に書いた、「ネットで調べ物をするにあたって」の記事です。
この記事は、ジャンルを問わず調べ物をするときに気をつけることとして書いてありますので、今回の原発事故に関して調べるにも有効なものです。
今回はこれにもう2点注意点を付け加えようと思います。
・ネットで手に入る情報は別に特殊な情報ではない
ネットだとマスコミや政府が隠している情報が手に入るようなというイメージがあるようですが、まずそんなことはありません。自分の知らない情報が多数に見えるのは、単に様々な人間が好きなことを書けるのがネットであり、それゆえにたくさんのデマも含めて、普段聞いたことのない話が出やすいからに過ぎません。
よく読んでいけば分かりますが、ショッキングな内容のようで、ほとんどは強引に推論を組み立てて確定的に断言しているか、その道の主流派でもない、ごく少数の誰かの書き写しに過ぎません。これらのソースを見ても、元を辿ればネットのどこかに書いてあったとかテレビ等マスコミからの話を元にしているだけがほとんどです。それも感情的になって、データの解釈の妥当性というものを考えたものというのは少ないです。
政府やマスコミの数値が信用できないという論調もありますが、ではその人はどこかから信用できる数値やデータを手に入れているのでしょうか?公表されたデータに対抗できるだけのデータを示して「信用できない」という主張ができないのなら、その主張は単なる感情的反発に発しているだけとみなすしかありません。
「政府やマスコミ・学会が信用できないから」というのは、この際切り分けなければいけません。その辺りの気持ちは理解できないこともないですが、それと数値・データ・解説が間違っているというのはイコールではないです。公表が信用できないからデータが間違っているというのなら、そもそもデータが存在しないことになりますから、評価自体が不可能です。つまり、その人にはその情報について、「信頼できない」という感情的反発しかないことになります。いくら難しい言葉を使おうが長い説明をしようが、根本的理由が感情的反発しかないのなら、その情報の信頼性は自ずから明らかです。
なぜ、そのようなあやふやな情報に人が食いついてしまうのでしょうか?それは、「その情報がその人の主観に沿うもの」だからです。以前シオン賢者の議定書の記事で
願望を満たすものを真実と勘違いする危険性を書きましたが、それは決して特殊例ではありません。願望だけでなく、いくら拭おうとしても拭えない不安・心配・苛立ちといった自分の感情に対して、それを真っ向から否定する科学的な解説より同じ感情を共有する人間の話に同調してしまったり、この世の中で何か自分に出来ることをしたい、何か意味があることをしているという思いが暴走して、一見単純で分かりやすい解答が出ているように見える、安易なネットの世論に加担してしまったりします。ネットで何かを書くというのは余りにも安易であるため、それがどのような影響を及ぼすのか、正確な情報の発信でなく自分の感情の同調者を募っているだけではないのか?と、一歩止まって考えることを忘れてしまいます。
時々、ネットで、1999年のノストラダムス騒動を忘れたかのようにアセンションだなんだと2012年の終末論を唱え、自分は人を救うために運動しているのだと悦に入り、そのおかしさを指摘する人を逆に見下すような人を見かけます。そして私は、何か道徳的に立派なことを言っているように見えるその人間とやりとりをして感じたのは自分を特別扱いしたがる愚かな選民思想とそれに同調してくれる人間を増やしたいという欲求だけであって、人格的に優れていたなどと感じたことは一度もありません。寧ろその正反対の印象しかありません。はっきり言えば、感情的な同調者・信奉者を増やしたいだけというのは、この手の人間とベクトルは同じなのです。
そういう例を特殊例と思わず、実はごく一般例であり、自分もそうなりうるという自省・自制を常に心がけなければ、ネット上でのそういういい加減な情報に巻き込まれてしまい、自分がおかしな情報の発信者になってしまう、ネットで情報を得るにはリスクもあるということを肝に銘じておかなければいけません。被害者になるだけでなく、中途半端に感情的に同じ話を広めてしまうと、自分が加害者になってしまいます。
・ネットでの情報発信は自分と同じく他者にも安易な行動である
ネットは匿名で情報発信が可能な上、ブログやツイッターなど以前よりさらに情報を発信するための敷居が低くなったように見えます。そのため、つい大胆になってしまって、日記感覚・身近な友達感覚でとんでもないこと、普通人に言えないことを堂々と言ってしまうことがあります。最近、mixiの日記や、特にツイッターで、身元が分かる情報がネットで公開されているにも関わらず、飲酒運転やカンニングといった、普通でも人に言えないことを自分で告白した挙句に身元を特定されて自分の人生まで狂わせてしまう人がいますが、自分の交友関係くらいでしかネットを把握していない、普段匿名でいるために、自分が全世界に発信していることを忘れてしまうのでしょう。
匿名というのは、私も含めて、普段言えないことを堂々と言えるという利点があります。ただ、それを勘違いすると、単に自分の好き嫌いで中傷やヘイトスピーチを発したり、それが誰かの願望に沿う内容であった場合、簡単にそれに同調する意見を表明してしまったりします。
本当はネットで情報発信・意見表明することは、全世界に向けて言っているのであり、匿名だろうとなかろうと発信された情報が知らないところでリアクションを引き起こしてしまうという点では、情報発信者の役割はマスコミと何ら変わりがないのです。個人ならマスコミのように利益に結びつきにくいから信用できるというわけではありません。個人で考え、個人で自由に発信できるということは、それを第三者がチェック・セーブできる機能が欠けている、ということです。ですから、どんないい加減なことでも発信できるし、その結果、その発信された情報が誰かの願望に沿っていたり、リテラシーがない人がその情報に触れてしまった場合、思わぬ形で拡大されていってしまったりします。
それゆえ、ネットで情報を当たるときも発信するときも、その情報の取り扱いは慎重に、また、自分の良識というものにすら頼らず、まず正しいかどうか、という冷静な調査・思考が必要です。
以上の2点は調べるだけでなく、自分が情報発信者である場合にも気をつけることです。自分は別だと特別扱いはできませんし、してはいけません。
こんなに難しく考える必要があるのかと思う人はいるでしょう。しかし、何度でも繰り返しますが、ネットという世界は「誰でも匿名で好き勝手言える世界」です。そういう世界で情報を得るにはそれ相応のリスクがあります。常に自分でそのリスクを意識していないと、誰かの感情の奔流、周りがやっていると流されてしまい、とんでもない行動の片棒を担いでしまいます。この世界は気づかずに暴走しても誰かが止めてくれる世界ではなく、全て自己責任なのです。そして少なくとも日本のネットでは発信者においても、情報リテラシーの能力が高い人は少数派でしょう。普段ネットの情報に無関心な人がいざ情報をネットから得ようとすると、何が正しいのか分からずに相反する情報の渦に溺れるだけなのです。そのような情報判別のスキルを持っていない人は、まず自分の主観に流されてしまいます。これは私も常に自戒していることです。ネットで情報は得やすいですが、その分高い情報リテラシー能力が要求されるのです。どんな分野でも好きな情報が簡単に得られるものではない、好きな情報・ほしい情報が正しいとは限らないという、ごく当然の事はネットでも当てはまるのです。
福島で暮らすということ~小児科医として思うこと
私は原発事故からしばらく原発関連の記事を書いておりましたが、1週間ほど過ぎたあと、これ以上爆発等によって放射性物質が更に飛散しない限り、冷静に対応されると思っていました。ところが飛散した放射性物質が増えたわけでもないのに、状況はどんどん大騒ぎになっていくばかりで、ネット上で福島県がまるで死の土地であるかのように言われてしまっています。
このブログではそう騒ぎ立てることがどういうことなのか、実際に福島県に在住している、しかも医療従事者の方の率直な思い、本当に現在の福島県が子供たちが皆避難しなければいけないような危機的な状況なのかが丁寧に述べられています。
本文だけでなく、コメントにも現在の20ミリシーベルト/年という暫定基準値について、他の専門家の方たちからの丁寧な説明があります。少々大変ですが、本文・コメント共に読まれることを是非オススメしたいと思います。
この記事のコメントで紹介されている私の記事は、3月に書いていた原発事故自体の記事ではありません。その1年前に書いた、「ネットで調べ物をするにあたって」の記事です。
この記事は、ジャンルを問わず調べ物をするときに気をつけることとして書いてありますので、今回の原発事故に関して調べるにも有効なものです。
今回はこれにもう2点注意点を付け加えようと思います。
・ネットで手に入る情報は別に特殊な情報ではない
ネットだとマスコミや政府が隠している情報が手に入るようなというイメージがあるようですが、まずそんなことはありません。自分の知らない情報が多数に見えるのは、単に様々な人間が好きなことを書けるのがネットであり、それゆえにたくさんのデマも含めて、普段聞いたことのない話が出やすいからに過ぎません。
よく読んでいけば分かりますが、ショッキングな内容のようで、ほとんどは強引に推論を組み立てて確定的に断言しているか、その道の主流派でもない、ごく少数の誰かの書き写しに過ぎません。これらのソースを見ても、元を辿ればネットのどこかに書いてあったとかテレビ等マスコミからの話を元にしているだけがほとんどです。それも感情的になって、データの解釈の妥当性というものを考えたものというのは少ないです。
政府やマスコミの数値が信用できないという論調もありますが、ではその人はどこかから信用できる数値やデータを手に入れているのでしょうか?公表されたデータに対抗できるだけのデータを示して「信用できない」という主張ができないのなら、その主張は単なる感情的反発に発しているだけとみなすしかありません。
「政府やマスコミ・学会が信用できないから」というのは、この際切り分けなければいけません。その辺りの気持ちは理解できないこともないですが、それと数値・データ・解説が間違っているというのはイコールではないです。公表が信用できないからデータが間違っているというのなら、そもそもデータが存在しないことになりますから、評価自体が不可能です。つまり、その人にはその情報について、「信頼できない」という感情的反発しかないことになります。いくら難しい言葉を使おうが長い説明をしようが、根本的理由が感情的反発しかないのなら、その情報の信頼性は自ずから明らかです。
なぜ、そのようなあやふやな情報に人が食いついてしまうのでしょうか?それは、「その情報がその人の主観に沿うもの」だからです。以前シオン賢者の議定書の記事で
願望を満たすものを真実と勘違いする危険性を書きましたが、それは決して特殊例ではありません。願望だけでなく、いくら拭おうとしても拭えない不安・心配・苛立ちといった自分の感情に対して、それを真っ向から否定する科学的な解説より同じ感情を共有する人間の話に同調してしまったり、この世の中で何か自分に出来ることをしたい、何か意味があることをしているという思いが暴走して、一見単純で分かりやすい解答が出ているように見える、安易なネットの世論に加担してしまったりします。ネットで何かを書くというのは余りにも安易であるため、それがどのような影響を及ぼすのか、正確な情報の発信でなく自分の感情の同調者を募っているだけではないのか?と、一歩止まって考えることを忘れてしまいます。
時々、ネットで、1999年のノストラダムス騒動を忘れたかのようにアセンションだなんだと2012年の終末論を唱え、自分は人を救うために運動しているのだと悦に入り、そのおかしさを指摘する人を逆に見下すような人を見かけます。そして私は、何か道徳的に立派なことを言っているように見えるその人間とやりとりをして感じたのは自分を特別扱いしたがる愚かな選民思想とそれに同調してくれる人間を増やしたいという欲求だけであって、人格的に優れていたなどと感じたことは一度もありません。寧ろその正反対の印象しかありません。はっきり言えば、感情的な同調者・信奉者を増やしたいだけというのは、この手の人間とベクトルは同じなのです。
そういう例を特殊例と思わず、実はごく一般例であり、自分もそうなりうるという自省・自制を常に心がけなければ、ネット上でのそういういい加減な情報に巻き込まれてしまい、自分がおかしな情報の発信者になってしまう、ネットで情報を得るにはリスクもあるということを肝に銘じておかなければいけません。被害者になるだけでなく、中途半端に感情的に同じ話を広めてしまうと、自分が加害者になってしまいます。
・ネットでの情報発信は自分と同じく他者にも安易な行動である
ネットは匿名で情報発信が可能な上、ブログやツイッターなど以前よりさらに情報を発信するための敷居が低くなったように見えます。そのため、つい大胆になってしまって、日記感覚・身近な友達感覚でとんでもないこと、普通人に言えないことを堂々と言ってしまうことがあります。最近、mixiの日記や、特にツイッターで、身元が分かる情報がネットで公開されているにも関わらず、飲酒運転やカンニングといった、普通でも人に言えないことを自分で告白した挙句に身元を特定されて自分の人生まで狂わせてしまう人がいますが、自分の交友関係くらいでしかネットを把握していない、普段匿名でいるために、自分が全世界に発信していることを忘れてしまうのでしょう。
匿名というのは、私も含めて、普段言えないことを堂々と言えるという利点があります。ただ、それを勘違いすると、単に自分の好き嫌いで中傷やヘイトスピーチを発したり、それが誰かの願望に沿う内容であった場合、簡単にそれに同調する意見を表明してしまったりします。
本当はネットで情報発信・意見表明することは、全世界に向けて言っているのであり、匿名だろうとなかろうと発信された情報が知らないところでリアクションを引き起こしてしまうという点では、情報発信者の役割はマスコミと何ら変わりがないのです。個人ならマスコミのように利益に結びつきにくいから信用できるというわけではありません。個人で考え、個人で自由に発信できるということは、それを第三者がチェック・セーブできる機能が欠けている、ということです。ですから、どんないい加減なことでも発信できるし、その結果、その発信された情報が誰かの願望に沿っていたり、リテラシーがない人がその情報に触れてしまった場合、思わぬ形で拡大されていってしまったりします。
それゆえ、ネットで情報を当たるときも発信するときも、その情報の取り扱いは慎重に、また、自分の良識というものにすら頼らず、まず正しいかどうか、という冷静な調査・思考が必要です。
以上の2点は調べるだけでなく、自分が情報発信者である場合にも気をつけることです。自分は別だと特別扱いはできませんし、してはいけません。
こんなに難しく考える必要があるのかと思う人はいるでしょう。しかし、何度でも繰り返しますが、ネットという世界は「誰でも匿名で好き勝手言える世界」です。そういう世界で情報を得るにはそれ相応のリスクがあります。常に自分でそのリスクを意識していないと、誰かの感情の奔流、周りがやっていると流されてしまい、とんでもない行動の片棒を担いでしまいます。この世界は気づかずに暴走しても誰かが止めてくれる世界ではなく、全て自己責任なのです。そして少なくとも日本のネットでは発信者においても、情報リテラシーの能力が高い人は少数派でしょう。普段ネットの情報に無関心な人がいざ情報をネットから得ようとすると、何が正しいのか分からずに相反する情報の渦に溺れるだけなのです。そのような情報判別のスキルを持っていない人は、まず自分の主観に流されてしまいます。これは私も常に自戒していることです。ネットで情報は得やすいですが、その分高い情報リテラシー能力が要求されるのです。どんな分野でも好きな情報が簡単に得られるものではない、好きな情報・ほしい情報が正しいとは限らないという、ごく当然の事はネットでも当てはまるのです。