メドック格付考 | ろくでなしチャンのブログ

メドック格付考

               メドック格付考

        Les Grands Crus classes en 1855

 

 

 

考1 1855年パリで開催された第1回万国博覧会に於いて、時の皇帝

    ナポレオン3世は、ボルドー・ワインの展示を命令したのか?

 

 

 ナポレオン3世はフランスに於ける産業の近代化と生産性の向上を図る必要性を説き、イギリスの産業革命を具に見聞した経験から近代産業国家建設を目指し、国内産業の回復と進歩の誇示、高品質製品のアピール、産業界へ刺激を与える等を目的として万国博覧会の開催を決意します。

 根底には1851年ロンドンで開催された万国博覧会やフランスに於ける1798年内国博覧会に刺激を受けたようです。

 

 展示品の目玉は新興産業機械の展示であり、付随的に農業、水産業、商業部門についても展示対象としました。


 万国博覧会の運営主体として1853年12月24付けデクレにより帝国万博委員会が設置され、1854年4月6日付けデクレにより万博組織に関する規則が発せられています。 

 下部組織として各県の万博委員会が設けられ、万博委員は各県知事が任命することとなります。

 

 ボルドー、つまりはジロンド県に於ける具体的手続きはどのようなものだったのでしょうか。

 

 1854年3月15日にジロンド県知事は県内各郡の農業会議所とボルドー商工会議所に対しジロンド県万博委員会の委員候補の推薦と委員数等について諮問します。

 

 1854年4月27日付け県知事アレテが発せられ、委員会の任務として管轄地域での万博関連の広報、出品者名簿の作成、出品物の厳格な選定、10名の県万博委員の選定が決定されます。

 

 選任された10名の殆どは商工会議所推薦(8名、他の2名不明)であったとされ、委員長にはボルドー市長が就任します。

 

 ジロンド県万博委員会は1854年5月1日を皮切りに全10回開催され第1回から第3回までに、各界に対して万博準備への協力要請と出品依頼がなされます。

 

 迎えた1854年11月7日第4回会議。

 

 出品応募が少ないことが報告されるとともに、コート・ドール県万博委員会はブルゴーニュとシャンパーニュのワインを出品する旨の情報がもたらされます。

 ここで初めて万博の出品候補としてボルドー・ワインが俎上に載せられた訳です。会議に於ける議論の末、県内の葡萄畑所有者らの意見を聴取し、crus classes のオーナー達には出品要請を行うこととします。

 

 結果的にワインに関しては優良銘柄を出品することとされます。万博の開催趣旨は優れた製品の展示ですから何でも展示すれば良いということにはならない筈です。

 

 各県レベルの委員会には出品物選定の全権限が付与されておりましたから選定しなければならなかった訳です。

 

 農業会議所は委員の推薦はしたものの、農業分野に於ける「進歩」に見るべきものが見当たらなかったのか、開催趣旨が理解されなかったのか出品物選定に積極的とは言えなかったようです。

 

 結論的にはナポレオン3世はボルドー・ワインの万博出展を具体的に指示してはおらず、商工会議所ではなくジロンド県万博委員会が出展を決定したようです。

 

 

 

考2. ボルドー・ワインが出展されることとなった理由は何か?

 

① ブルゴーニュとシャンパーニュが選び抜かれたワインを出品すること。

② 出品物がなかなか集まらなかったこと。

    因みに次の第5回会議では166名の出品者名簿が報告されてい 

   ますが、ジロンド県全産業の出品者名簿と思われます。

    出品者が集まらなかった背景には予算的措置が十分ではなく、輸

   送費等は自己負担を強いられ、農業部門では品質の保持に対する

   懸念が強かったようです。

③ ボルドーでは1851年にウドンコ病(Powdey Mildew)が蔓延し始めボ 

  ルドー経済が打撃を受けており経済再生策が強く求められていた。

 

 と言ったことであろうと思いますが、根底にはブルゴーニュやシャンパーニュに対する対抗意識があったのではないでしょうか。ベネルクス3国やイギリス、北欧に於いて、ボルドー・ワインは一定の評価を受けていたものの、フランス国内での名声はブルゴーニュやシャンパーニュにはとてもかなわなかったようです。

 

 

 

考3. 万博出展ワインの選考はあったのか?

 

 ボルドー・ワインは主として地勢的関係からイギリスと貿易が行われ、明確な記録としては1206年にイギリスに輸出した記録が残されているとされます。

 

      ボルドー、ワインの歴史 その1 こちらへ
      ボルドー、ワインの歴史 その2 こららへ

      ボルドー、ワインの歴史 その3 こちらへ
 

 

 14世紀には内陸のアジャン、ガヤック、モアサック、カオールから、コクのある色の濃い赤ワインがボルドーに運ばれボルドーの港から輸出され、現在のようにボルドー・ワインの主体がメドックのワインだった訳ではないようです。
 

 ボルドーで葡萄栽培が先行したのはグラーヴ地区、アントゥル・ドゥ・メール地区、ブライ地区と言われています。

 

 グラーヴの代表とも言えるシャトー・オー・ブリオンは1509年にジャン・ド・セギュール~Jean de Segurが葡萄畑を購入した記録が残されておりワイン造りが行われていたようです。

 

 メドック地区についてみると、1572年に於けるシャトー・ラフィットの地所は60程の小作地に分割され、主として小麦が作られていたと言われます。オーナーは周辺の葡萄畑を買収や交換といった手法で一か所に取りまとめ、醸造も一か所で行うというワイナリー(シャトー)経営を始めています。やがて1670年代から1680年代にかけて、ジャック・ド・セギュールが葡萄畑を広げ、ワインの生産を本格化させています。

 

 シャトー・マルゴーは1572年から1582年にかけて、ピエール・ド・レストナック~Pierre de Lestonnacがラモット・マルゴー周辺の小さな地所を買い集めています。

 

        1級シャトー所有者の変遷 1 こちらへ
        1級シャトー所有者の変遷 2 こちらへ

 

 つまりは現在の1級シャトー達が、1600年当初から始まったオランダ人によるメドックの干拓をみて初めてワイン造りを本格化させており、時代的には1600年前半といったところでしょう。

 

        オランダ人の干拓による葡萄畑の生成 こちらへ

 

 メドックに於けるワイン造りの本格化は直ぐにイギリスの人気銘柄に反映されました。1600年当初はグラーヴ地区のワインが好まれ、1640年代にはグラーヴのワイン中でもペサックのワインが名声を得ていたようです。このような下地があってかポンタックのワインの登場となるようです。

 

       ポンタックワイン物語 その1 こちらへ

       ポンタックワイン物語 その2 こちらへ

       ポンタックワイン物語 その3 こちらへ

 

 17世紀後半にはイギリスに於いてシャトー・ラフィット、シャトー・マルゴー、シャトー・オー・ブリオン、シャトー・ラトゥールは不動の地位を確立しておりました。

 

 18世紀半ばには現在の格付け2級シャトー達が名声を得、18世紀後半には3級シャトー達が登場。

 1820年頃に4級シャトーが登場し、1850年代前半には5級シャトー達が登場し、イギリスでは明確な60シャトー程のヒエラルキーが確立されており、当然価格面でも序列が出来上がっていたとされます。
 1855年のパリ万博を迎える前に既にメドックの人気銘柄ランキングは出来上がっていようです。

 

 1800年代初めから数々のワイン本も出版されていましたがボルドー・ワインの「ランキング表」が殆どの本に掲載されていたとされますからワイン愛好家にまでメドックの「ランキング」は浸透していたようです。
 

 ジロンド県万博委員会の議事録をみると「Cru」「classification」「grand cru」「grand vin」などの語句が登場しており、明確に優良シャトーの存在を認識していたことは明らかです。

 問題は前述の県万博委員会の全10回の議事録の内、肝心の9回及び10回の議事録が紛失しており選考の結果が明らかではないのです。


 

 

考4. クルティエに依頼したのは何か?

 

 ワイン本に登場する格付け表の説明は概ね「パリに送るワインが1銘柄につき6本の制約があつたため、事前に審査団が個人的に試飲するのなら足りるが、来場者にとっては展示ケースに似たようなボトルが並んでいるだけであり、ボルドー最上のワインが持っている優れた特質を鮮明に伝える為、展示品に添えるワイン地図を作り、合わせてワイン・リストを作ることとなった。1855年4月5日に、仲買人(クルティエ)組合に依頼状を送り、ボルドーの高級赤ワインを出来るだけ正確で完璧なリスト作りの提出を依頼した。」となっています。

 

 前記の説明では「ワイン・リスト」となっており、「格付け表」とはなっていません。後年「格付け表」と呼ばれるこのワイン・リストはクルティエのロートン家3代目のエドワード・ロートンの取引価格に基づいたもので3枚の紙片からなっております。

 このワイン・リスト、実は過去の取引価格をベースに高価格順に作成されているものです。
 

 ワイン本を読み漁った方は特に「格付け表」が作成されたとの思い込みがあるのではないでしょうか。

 

 私の勝手な推論ですが、県万博委員会は出展対象とすべき優良ワインの選定は行わなければなりませんが、「格付け」を行うなどと言うのは職責外のことです。

 仮に「格付け」までしなければならないのなら、同様に出展されたブルゴーニュの「格付け」は何故行われなかったのか。

 

 パリ万博に於けるランキングに関しては、優れた製品に対してメダルを授与しており、最高ランクはグランプリで112個、次に金賞の252個となっています。

 出展したワインでは「シャトー・ラフィット・ロートシルト」、「シャトー・マルゴー」、「シャトー・ラトゥール」の3シャトーが金賞を受け、「シャトー・オー・ブリオン」は銅賞であり、かのロマネ・コンティエも金賞受賞とされます。

 

 これらの点を考え合わせるとパリ万博に出展する「ワイン・リスト」が作成されたと考えるべきではないでしょうか。



 

考5. 出展ワインの選考は難航したのか?


 ワイン本では、選考しきれずギリギリになつて専門家であるクルティエに依頼したとか、ネゴシアンの利害が絡み結果が出せなかったとされます。

 

 これらは事実どおりなのかもしれません。

 

 ところで当時の選考対象シャトーはどの位存在したのでしょうか。ある書籍では800シャトー程あったとの記述も見受けられるのですが、実数はずっと少ないように思われるのです。

 

 当時はネゴシアン全盛期でしたし、1804年のナポレオン法典により農地の開放が進み自営農園が拡大したとはいえ、殆どのワインはネゴシアンがネーミングしたワイン名で販売されていたものと思われます。

 

 シャトー元詰の法制化は100年以上経った1972年ですから、特に優れたワイン以外は葡萄栽培者達のシャトー名を冠してネゴシアンが販売していたとは思われません。

 

 特定のシャトー名を名乗る優良シャトーがどれ位なのか資料を見い出せていませんが、1858年のクリュ・ブルジョワに関する記録として

 

  bouregeois superiurs       34シャトー
  bons Bourgeois          64シャトー 

  bourgeois ordinairescrus   150シャトー 計 248シャトー

 

 が明らかとなっています。

 

 とすると、個別のワイン名を名乗るシャトーはせいぜい300強といったところではないでしょうか。

 さらに「ワイン・リスト」に掲載された58シャトーと実力で伍すると言えるようなシャトーはどんなに頑張っても bouregeois superiurs の34シャトーの一部が入るか入らないかといったところではないでしょうか。

 

 つまりは選考対象シャトー数さえ決めてしまえば選考に苦労することは無かったのではないでしょうか。

 選考に難航したと言ったところで1854年11月7日の第4回会議で遡上に上げられ1855年4月5日にクルティエに対して依頼状が発せられていますから、実質5ケ月間に6回の会議が開かれ決定していないだけの話ですし、ワインの問題だけが会議の議題ではなかったようです。

 

 

考6. 県万博委員会がクルティエに「ワイン・リスト」作成を依頼した理由

    は?

 

 ろくでなしチャンが考えたワイン物語は。

 

 県万博委員会はボルドー・ワイン出展にあたり、葡萄栽培者に意見を求め各郡の農業会議所にも意見を求めたものの反応は冷ややかであった。

 結果的にメドックのワインを対象とすることとし、ワイン本に掲載されたシャトーに対して出展要請を行う方向で話が進んだ。

 

 併せてワイン・リストのシャトーに対しては公的「格付け」を認めさせるためのロビイ活動(ワイロの提供)も話し合われた。

 ここで機を見るに敏な委員の1人であったネゴシアンが自己の取り扱いシャトーの選定を強く主張し議会は紛糾した。

 

 解決策として専門家であるクルティエに価格順のワイン・リストを提出させ公平性の「アリバイ作り」を行った。ワイロ議案が記述された第9回及び第10回議事録は後年廃棄された。

   

 

考7. メドックのシャトー・オーナー達はパリ万博出展の意義を理解してい

    たのか?

 

 全く理解していなかったものと思われます。シャトー・オーナー達の取引相手はクルティエでありネゴシアンとの直接取引すらありませんでしたから、消費者に対するワインの宣伝などと言うのは考えられなかったようです。

 一般商店ですら店頭に商品を陳列するなどという商法は無かったのです。

 お客様の注文によって店の奥から商品を取り出してくるといった慣習が一般的だったようです。 

 

 クルティエが提出した「ワイン・リスト」原本には出展に応じなかった31のシャトーに「ポワン~Point」と記入されています。

 つまり、出展に応じたのは全58シャトーのうち僅かに27シャトーのみ。4級、5級のシャトーは殆ど出展されていないのです。

 

   

 

 

考8. 1855年万博の結果「格付けが」が決定したのか?

 格付けがいつ決定したのか資料を見つけることが出来ていません。

 

 1973年6月21日フランス農業大臣がシャトー・ムートン・ロートシルトの1級昇格に関し省令に署名したとの記録から、1855年メドック格付けも省令により公的格付けがなされているものと思われます。

 

        メドック格付け詳解(格付け変更) その2 こちらへ

 

 後にパリ万博で掲示されたワイン・リストが格付けとして省令で施行されたということではないでしょうか。パリ万博ではメダル受賞者しか決定していませんから。 

 

 直接と言えるのか間接的と言うべきなのか不明ですが、パリ万博がメドック格付けを「決定付けた」とは言えるでしょう。


 

 考7.でシャトー・オーナー達はパリ万博出展の意義を理解していなかったと述べましたが、例外的なシャトー・カントメルルの存在を考える必要があるでしょう。カントメルルは敢えてリスト掲載を望み1855年9月にリストへの追加が行われています。

 カントメルルは「格付け」が新設される情報を入手し、リスト掲載を申し出たのではないでしょうか?

 


 

考9. メドックの格付けは何に対して与えられたのか?

 格付けの対象はワインなのか、ワイナリーなのか明瞭ではないようです。

 メドックの格付けはシャトーに対して与えられており、ブルゴーニュでは畑に与えられている。とする説が多いようです。

 格付けシャトーが新たに畑を取得し、同地で造られたワインも格付けを名乗ることが出来ると解されているからです。

 

 シャトー(ワイナリー)に対して与えられたとするとセカンドやサードも格付けを得ることとなってしまいます。

 そもそも格付け表原本にはシャトー名とコミューン名とオーナー名のみが記載されており、後年AOCが施行されていることも考え合わせると、特定のアペラシオン内の葡萄畑で採れた葡萄を使って造られた特定のワインに対して与えられた格付けと理解すべきなのでしょう。


 このような曖昧さが残る格付け表は、省令とするには余りに不正確なものであり法的要件を満たしていないと思われます。

 格付け表は万博で掲示したワイン・リストに過ぎなかったものが、反響や宣伝効果が大きかったため後に省令といった法的裏付けを得たのでは?

 

 少なくともナポレオン3世がイギリス亡命中にボルドー・ワインに嵌り、贔屓からメドックの格付けを命令したとする説は無理があるように思います。

 格付けを命令するなら万博の趣旨から考えてブルゴーニュ・ワインに対しても命令したはずです。ナポレオン3世格付け命令説は「ワイン物語」と思います。

 

 格付け表が権威を得た理由の1つはオーナー達の上流階級意識によるものであり、自分が造るワインは1流でなければならないとの意識の現れが高品質ワインの継続的供給となったものと思われます。

 反面経済的に逼迫してくるとシャトーに対する投資を怠り品質が低下します。品質の低下が格付けの批判へと向かわせているのでは?

 

 理由の2つ目は優れた土壌ということになるのでしょう。1855年当時の醸造技術は現代から考えると未熟なものでした。

 醸造技術が未熟でも優れたワインが造れたのは優れた土壌としか言いようがないと思います。

 様々なシャトーが近代的醸造技術を駆使しても殆どのシャトーが格付け上位シャトーのワインには対抗できていないのですから。

 

 

          
 

 

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