ポンタックのワイン物語 その1 | ろくでなしチャンのブログ

ポンタックのワイン物語 その1

            ポンタックのワイン物語 その1

 

 

 ワイン本には必ずと言っていいほど登場するポンタックのワイン。ポンタックのワインはどのようにして歴史に登場したのでしょうか。

 

 シャトー・オーブリオンに関する記録文書が明らかにしているのは1423年の耕作記録とされています。畑は1509年にジャン・ド・セギュール~Jean de Segur が取得したとされています。

 ところが1525年以降の所有に関しては、


 

● 1525年に、海軍大将であったフィリッパ・ド・シャボー~ Philippe de

  Chabot に売り渡された。

● 1525年から1528年までボルドー市長ダミラル・ド・ブリオンが所有

  し、同氏の名前ドーブリオン~D´Obrionまたはドブリオン~Daubrionが

  後のシャトー・オー・・ブリオンの由来である。

● ジャン・ド・ポンタック~Jean de Pontacが結婚した妻の婚資としてもたらされた。


 とする記述が見受けられます。ジャン・ド・ポンタック取得については1529年説もあるようですが、次のような説が一般的と思われます。


 オーブリオン~Aubrionと呼ばれる地所の領主であり、リブルヌ市長でもあったベロンの娘ジャンヌ・ド・ベロンは1525年4月23日華やかな挙式を行います。ジャンヌの婚資にはオーブリオンの地所が含まれていました。

 オーブリオンの地所を取得した結婚相手は、ボルドー高等法院に勤める(市議会の記録係説も)ジャン・ド・ポンタック~Jean de Pontac(1488年~1589年)であり、結婚当時は37歳とされています。

 ジャン・ド・ポンタックの本業は裁判所職員と言うより、実業家(商人)であったようであり、織物貿易とワイン輸出で財を成したとされています。おそらく社会的地位を得るため、財力がボルドー高等法院職員の身分を取得させたものと思われます。 


 ジャンは3度結婚し15人の子供をもうけ101歳まで生きました。ジャンの4男で、バザスの司教であったアルノー・ド・ポンタック2世がオーブリオンの地所の大部分を相続し、1649年にアルノー・ド・ポンタック3世に引き継がれます。


シャトー・オー・ブリオンの誕生については、

 

 1529年ポンタック侯爵が取得・創設。

 1533年ドメーヌ創設。

 1550年ワイン醸造設備を作る。


 等の記述があるものの我々の想定するシャトーの概念では1550年創設が正しいように思われます。

さて、本題であるポンタックのワイン。 

 1666年ロンドン大火の後、アルノー3世・ド・ポンタックの息子であるフランソワ・オーギュスト・ド・ポンタックがロンドンのテムズ河沿いに「L´Eseigne de Pontac~ポンタックの看板」、別説では「ポンタックの首領又は頭(ヘッド)」という居酒屋兼旅籠店を出し有名になったポンタックのワイン。



 この当時のポンタックのワインがどのようなものであったかを探るには、歴史的背景を探る必要があるように思われます。


 ポンタック一族は、土地の取得を積極的に行い、畑の開墾も積極的に行った結果、17世紀末の地所は264haに及ぶものの、葡萄畑は38haでしかありません。

 シャトー・オー・ブリオンの現在の葡萄畑は48.35haと言われていますから、かなりの規模に思われるかもしれませんが現在とは事情が大きく異なっていたものと思われます。



 ジャン・ド・ポンタックが取得したオーブリオン~Aubrionと呼ばれる地所は領主の土地であったはず。当時の領主は領地から収穫された葡萄を全量自分のものに出来たかというとそうではないようです。

 1789年のフランス革命後に宣言された「封建制の廃止」を見ると、領主の特権~賦役・狩猟権・裁判権が放棄されており、この年代まで領主が領民に対して賦役を与えていたことが判ります。

 古くは、葡萄畑で働く農民は農奴であり、一方的に領主に対し労働を提供させられていたものの、徐々に農民が力を得て領主に対し労役を提供する見返りに収穫物を得ることとなります。つまりは賦役を与える権限が縮小し、役務の対価が支払わることとなっていきます。


 ジャン・ド・ポンタックが1525年に領地を取得し、アルノー・ド・ポンタック2世、アルノー・ド・ポンタック3世、フランソワ・オーギュスト・ド・ポンタックへと引き継がれていった時代を考えると、葡萄畑の多くは折半小作地であったと思われます。

 当時のポンタック家のワインビジネスの実態は、自己所有地でワインを生産するものの、収穫された葡萄は小作人と折半され、他はグラーヴを中心とするワインを買い集め輸出販売をするネゴシアンであったものと思われます。 


 当時の葡萄栽培の中心地はグラーヴであり、メドックは未だワインの歴史に登場していません。メドックがワイン史に登場し始めるのは16世紀後半のオランダ人によるメドックの沼地干拓を待たなければなりません。メドックが有名になるのは18世紀になってからなのです。

 ポンタック家が取り扱っていたワインは、グラーヴのワインと呼ばれ、グラーヴ一帯で生産されたワインであり、基本的に他のネゴシアンが取り扱うワインとの品質の差はなく、質より量が求めらた時代のワインとされています。

 

 1660年には、アルノー・ド・ポンタック3世はボルドー、アキテーヌ全域の議会議長に就きます。ボルドー高等法院初代院長にもなり、ボルドー市長にもなり、法服貴族の地位も得ます。まさに富と名声を得、生活は一国の王をも凌ぐとさえ云われたほどです。

 

ポンタックワイン物語 その2 こちらへ

ポンタックワイン物語 その3 こちらへ  

 

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