ポンタックのワイン物語 その3
ポンタックのワイン物語 その3
ポンタックのワイン出現のエピソードが判ったところで、イギリスにポンタックのワインが売り出された1660年当時の時代を伺ってみると、
フランスは太陽王ルイ14世(1638年~1715年)の御世であり、絶対王政を確立したルイ14世はローマ教皇の力を削ぎ、貴族をヴェルサイユ宮殿に常駐させ監視、統制を強めたようです。
江戸時代の参勤交代よりも厳しいヴェルサイユ宮殿常駐策は反面これら貴族に対する『おもてなし』も必要となり、贅沢な宴会や遊興が3日に1度の頻度で行わることとなります。
1665年に財務総監に就任したのは、かのコルベールであり重商主義を貫きますのでフランスの産業は発達し、商人達が力を蓄えた時代でもあります。
イギリスに於いては1660年、ピュリタン革命が終焉を迎え、王党派の支持を得て王政復古を果たしたチャールズ2世(1630年~1685年、1660年イングランド王即位)や弟のジェームズ2世の時代であり、絶対王政を目指すものの内政的には宗教紛争の嵐の中といった状態でしたが、宮廷には、ルイ十四世のヴェルサイユをはるかに凌ぐ活気があり、商業が盛んな時代でもありました。
オランダはスペインとの戦争状態が続くものの、1万隻とも言われる大海軍力をバックに、世界中から様々な酒を買い漁っていました。、
このような情勢の中、フランソワは自分が造りだした新たなワインは、「 Hobriono のワイン」としてジェームズ2世のセラーに1660年~1661年の間に169本が納入(瓶詰されていたことが判る。)されています。品質に絶対の自信を持ったものの、その販売手法の選定に戸惑ったようです。
従前のクラレットとは対照的にアルコール度は高く、深紅色のワインは受け入れられるだろうか。
この点に関しては、当時高値で取引されていた甘口白ワイン、ソーテルヌの貴腐ワインに次ぐものは、新参のアントゥル・ドゥ・メール地区で造られ始めた、プティ・ヴェルド種で造られた濃い赤色をしたパリュス・ワイン~Palius Vinだったことから、受け入れられるワインであり、販売が順調にいけば高収益が見込まれワインと判断したようです。
次に検討されたのは販売先です。当然ワイン商としてノルウェー等の北方圏やベネルクス三国にも輸出していましたが、これらの国ではアルコール度数の高いシェリー酒やブランデーが好まれており、オランダ商人と渡り合うには力不足です。
そこで、新しいワインの販売先はイギリスをターゲットとして選定されました。
イギリスに於いてはパブ~Pub (Public House )と呼ばれる飲み屋が酒を飲む場として有名ですが、17世紀に於けるパブがどのようなものであったかはっきりとした資料は見つかりませんが、その後の資料から伺うと、
元々はパブリックに表れているように公共的な施設に併設された、地域の人々用の大衆飲み屋であったものと思われます。
安い料金で酒が飲めた場のようであり、椅子席は数が少なく立ち飲みが主流だったようです。食べ物はポテトチップス(イギリスではCrips) 程度のものが主流だったとされており『立ち飲み屋』といった感覚なのかも知れません。
ワイン本では居酒屋とか居酒屋兼旅籠店として紹介されている『ポンタックの首領』。レストランのハシリとの表現も見られます。
どうやら我々が想像する居酒屋とはかけ離れたものであったようです。記録によれば提供された高級ワインは1本2シリング、オー・プリオンは1本7シリングと高価です。提供される料理(ディナー)は2ギニー(42シリング相当) とされていますので、まさに高級レストランといった感覚になるのでしょう。
パブに関する記述の中には、フランス同様、階級社会であったイギリスでは、パブの内部は区分けされることが多く、労働者階級用のスペース(パブリック・バー)と中流階級以上の客用のスペース(サルーン・バー)があり、入り口も別の場合があったとされていますので、中産階級以上をターゲットにした戦略であったものと思われます。
また、料理人はポンタック家から派遣されたと言われます。その1で触れましたが、当時は専門の料理人は殆ど存在していなかったようです。1789年フランス革命により、宮殿に勤めていた料理人が職を失い、市中でレストランを開業し始めたと言われていますので、中流階級の人々にとっては高級な食事と高級なワインを飲める絶好のスポットが登場したことになるのでしょう。
このように、イギリス進出に関しては高級路線と直接販売?路線(従前の樽売り~問屋的販売から瓶売り~小売り)を展開したようです。
ワインに自分のブドウ園の名を付けて最初に販売されたワイン。
栽培地所の名のもとに売られた最初のボルドーワインはシャトー・オー・
ブリオンである。
ワインに自己の名を冠したワインを売り出した。
等の記述が見受けられますが、ワイン名はシャトー・オー・ブリオンとポンタックワインの2種類があったようです。現在のペサックにあった地所、オーブリオン~Aubrion又はブリオン~brionにHaut(偉大)を冠してシャトー・オー・ブリオンとしたワイン。その他の地所で造られたワインはポンタックワイン。
ポンタックに関してはポンタック家が取得した最初の当主がジャン・ド・ポンタック~Jean de Pontacであることから、ポンタック公とでも訳すのでしょうか?ポンタックの領主であるジャンちゃん。つまりは地名ポンタックのワインであり、セカンド的なワインであったのではないかと思うのですが。
いずれにしても、十把一絡げのボルドー・ワインではなく、特定の生産地のワインを売り出した訳でブランド戦略と言えるものなのでしょう。
ポンタックのワインは、一躍名を馳せることに成功したものの、1689年に
オレンジ公ウイリアム3世とメアリー2世がボルドー・ワインの輸入を禁止(密貿易があったものの)し、1703年にはポルトガル・ワインに対する関税をフランスワインの3分の1に下げたことにより、イギリスにおけるボルドー・ワインのシェアは大幅に縮小されたようです。
ポンタックのワインは、シャトー・ワインの誕生、ウィヤージュ、スティラージュの採用、瓶詰販売の先鞭を付けたと言った点がボルドー・ワインの歴史に刻まれるべき事項ではないでしょうか。
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