CH オーブリオン詳解 その1
シャトー・オー・ブリオン その1
Chateau Haut Brion
1級 PP1級
AOC Pessac Leognan
~ブリオンは小さな丘の頂点を意味する言葉であり、ラフィット
(小高い所)、ラ・モット (シャトー・マルゴーの12世紀の呼称も
ラ・モット・ド・マルゴー)と同義語で7世紀に当地を支配したガ
スコーニュ人のガスコーニュ語に由来。
セカンド ル・クラレンス・オー・ブリオン
Chateau Le Clarence de Hart Brion
年間生産量 6万本から8万8千本
畑 面 積 48.35ha(1級シャトー最少)
年間生産量 17万本
隣 接 畑 ラ・ミッション・オー・ブリオン
オーナー ドメーヌ・クラランス・ディロンSA (1935年取得)
作付割合 カベソー 43.9% メルロー45.4%
カベフラ 9.7%プティ・ヴェ 1%
平均樹齢 36年
植栽密度 8,000本/ha
収 量 35hl/ha~45hl/ha
土 質 等 砂礫、下層は砂混じりの粘土
小高い丘に所在し、ボルドー平均より27m
高い位置にある。
ボルドー平均気温プラス2℃
タ ン ク ステンレスタンク(225hl)
収 穫 手 摘。
新樽比率 35 %(100%から減らした。)
セカンドは25%新樽。
樽 熟 成 22ケ月から30ケ月(専用樽工場保有)
コラージュ しない。(卵白使用記述もあり)
濾 過 しない。
アッサンブラージュ
1996年 カベソー39% メルロー50% カベフラ11%
収穫量の60%
2000年 カベフラ42% メルロー51% カベフラ 7%
2001年 カベソー36% メルロー52% カベフラ 12%
2003年 カベソー31% メルロー58% カベフラ11%
収穫量の60% 収量36hl/ha
2007年 カベソー44% メルロー43% カベフラ13%
2008年 カベソー50% メルロー41% カベフラ 9%
2009年 カベソー40% メルロー46% カベフラ14%
2010年 カベソー57% メルロー23% カベフラ20%
2011年 カベソー46.3% メルロー34.8% カベフラ18.9%
2012年 カベソー32.5% メルロー65.5% カベフラ 2%
2013年 カベソー45.5% メルロー50% カベフラ 4.5%
2014年 カベソー39% メルロー50% カベフラ11%
2015年 カベソー42% メルロー50% カベフラ 8%
2016年 カベソー37.5% メルロー56% カベフラ 6.5%
2017年 カベソー40.7% メルロー53% カベフラ 6.3%
2018年 カベソー38.7% メルロー49.4% カベフラ11.9%
2019年 カベソー43.2% メルロー48.7% カベフラ 8.1%
2020年 カベソー39.7% メルロー42.8% カベフラ17.5%
2021年 カベソー38% メルロー50% カベフラ12%
特 徴 複雑な香り、きめ細かい質感、優雅な果実味
香 り 1級シャトーで一番、香り高い。
クランベリー、ミネラル、土、プラム、
イチジク、鉛筆、チェリー、
飲み頃の続く期間/ 収穫後10年から40年
セカンド、バアーン・オー・ブリオンは1975年以来高品質が維持
され 、レフォールド・ラトゥールと並び双壁を成している。
△1966年~1974年
軽く、やせた、穏やかな、いくらか単純なスタイル。1級シャトー
としては、豊かさと深みに欠ける。 パーカーちゃんの評価
ビッグ・ヴィンテージ 1989年伝説
1975年 1979年 1982年 1985年 1986年 1988年
№1 1989年 1990年 1993年 1994年 1995年
1996年 1998年 1999年 2000年 2001年 2002年
2003年 2005年 2009年 2010年 2015年 2016年
2018年
1533年ジャン・ド・ポンタックにより創設されたようです。1649年シャトーを引き継いだ、アルノー3世・ド・ポンタックは長期熟成型のワイン
を作るべく、目減りしたワイン樽の補充(ウィヤージュ)、樽を移し換えて澱引きをする方法を考え出したされていますが、12世紀から14世紀にかけて、秋に仕込んだワインを春先に澱引きのため別の樽に移し替えたとの記述もありますので、熟成の概念での澱引きのための樽の移し替えはジャンが初めてなのかも。
販路開拓 ポンタックのワイン
シャトー・オーブリオンのワインは古くからイギリスに販売されていたようであり、1660年にはイングランド王チャールズ2世のワインセラーに「Hobrriono」のワインが保管されていたとの記述があり、 1663年4月10日には、ロンドンのロイヤル・オーク・タバーンという店で、「Ho Bryean~ホー・ブライアン」を飲んだとの記述もあります。
1666年ロンドン大火(1600ha焼失)の後、アルノー3世・ド・ポンタックの息子であるフランソワ・オーギュスト・ド・ポンタックがロンドンのテムズ河沿いに「L´Eseigne de Pontac~ポンタックの看板」、別説では「ポンタックの首領又は頭(ヘッド)」という居酒屋兼旅籠店を出したと言われております。当時イギリスは王政復古によりチャールズ2世の御代となり、フランス、ルイ14世のヴェルサイユを凌ぐ活気があったそうであり、目の付けどころが良かったのでしょう。
この店は現在のレストランの原型とも言われ高級料理と酒を提供していたらしく、料理人はポンタック家から派遣され、オー・ブリオンは他の高級ワインの3.5倍の値段にもかかわらず好評を得、「ロンドンでただ一つの小粋な店」との評価を受けたと言われます。
その後、1679年にイングランド政府のフランス・ワイン全面輸入禁止措置(抜け道があった。)を経て1780年に取り壊されるまで110年以上の長きに渡り営業されたと言います。現代的にはアンテナ・ショップだったのかも。
当時のワインは一般にPontac又はPontack、ポンタックのワインとして親しまれたようですが、特定の畑名で販売された最初のボルドー・ワインと言われています。ちなみに、オーブリオンの名前以外では、ニュー・フレンチ・クラレットと呼ばれ、他のボルドー・ワインと区別されていたようです。いずれにせよ、オー・ブリオンはイギリスにおいて揺るぎない地位を築きあげたのでした。
フランスの救世主
ナポレオン・ボナパルトがヨーロッパ全土の殆どを手中に収め、絶頂期を迎えた1806年、最大のライバル、イギリスとの貿易を禁止する大陸封鎖令を発したあたりから、各国との軋轢が深まりだしました。
オーストリア、プロイセン、イギリス、ロシア、スウェーデンが第6次対仏大同盟を結成し、ついにナポレオンを打ち砕きます。ナポレオンはエルバ島に流され、1814年にウイーン会議が開催されます。敗戦国の処理に関し、90の王国、53の公国代表が集まりました。
フランスは、ベネヴァン(ベネヴェント)公爵、シャルル・モーリス・ドゥ・タレーラン外務大臣が交渉に当たり、オーストリアの宰相メッテルニッヒと対峙しました。タレーランは交渉を有利に導こうと、毎夜美酒・美食でもてなしました。料理人は全ヨーロッパに名が知れ渡ったカレーム。
出されたワインはシャトー・オー・ブリオン。やがて会議はタレーランのペースとなり、フランスは領土を殆ど失うことなく会議は終結しました。会議出席者はシャトー・オー・ブリオンの旨さに酔いしれ、会議の本分を見失ったのです。おー!!シャトー・オー・ブリオンよ。お前はフランスの救世主だ!!ってか。そんな馬鹿な話がある訳ないでしょう。
タレーランは策略家(ナポレオン傘下にあったにも関わらず、ロシアのアレクサンドル1世にナポレオン攻略を薦めたこともある位。)でもあり、各国との密約を締結し、裏取引を行っていました。目論見は各国との利害関係を一層錯綜させ、戦勝国の国土割譲や賠償金の支払いといった合意形成の遅延でした。「会議は踊る。されど進まず。」の言葉のどおりです。その内ナポレオンにエルバ島を脱出され、参加者達も自国の問題を抱えていたので、会議は多くの議題が議決出来たとはいえ、時間切れ終結となった。というのが真実だと思います。結果的にはフランスにとって最悪のシナリオが防げたとはなりますが、オー・ブリオンがフランスを救ったは大げさでは。
ちなみに、フランス革命により政府に没収されたオー・ブリオンは1801年に競落され、その後タレーランが取得しており、丁度ウイーン会議の時は彼が所有していました。取得3年後には手放していますが。
買 収
幾多の変遷を受け、1922年に当時の所有者アンドレ・ジベールは1929年の経済恐慌に耐えきれず、ボルドー市に対し寄付を申し入れるが、なんとボルドー市はこれを拒否・・・・・・・!!理由は維持費の捻出が出来ないでした。
1935年5月13日、ニューヨーク最大の財閥クラレンス・デュロンが230万フランでシャトーを買収しました。この買収に関して様々な逸話が残されており、シャトー・マルゴーの大部分や、35㎞先のシャトー・オーゾンヌ、シュヴァル・ブランを買いに行ったつもりが、当日は霧の深い寒い日だったので、リムジンから降りるのが面倒で、たまたま通りすがりのオー・ブリオンを買ったと言われています。金持ちの話の誇張として作られたものと思いますが、オー・ブリオンはボルドー市街に隣接しており、交通の便や乗馬施設の充実した地区であり、狩猟も楽しめるといった点が選定の理由のようです。
醸造の伝承
ジョルジュ・デルマは1921年から支配人兼責任者を務めており、、シャトー・コス・デストゥルネルの農場責任者も務めていた。彼ジョルジュは50年にも及ぶオー・ブリオンでの仕事を、1961年に息子ジャン・ベルナール・デルマに引き継ぐこととなる。ジャン・ベルナールの肩書は総支配人であり、彼もまた2003年を最後に息子ジャン・ピエール・デルマに引き継がれ、親子3代支配人を続けている。
もっとも、2代目ジャン・ベルナール・デルマは、かってコンサルタントになるべく、オー・ブリオン退職を試みたがオーナーの同意が得られず、退職には、息子に引き継ぎを行う条件を付けられたと言うから、条件をクリアーしたのでしょう。
ジャン・ピエールは現在モンローズの支配人となっています。これら、デルマ家に対するオーナーの信頼とデルマ家の献身が、オー・ブリオンをオー・ブリオンたらしめているのでしょう。
3代目ジャン・ピエールは醸造学を学んだが、学生たちとワイン・ティーステングを行うと、皆は旨いというのに彼1人だけは旨いと感じなかったという。だって、3代目の自宅の食卓には常にオー・ブリオンがあったから・・・。
特異なボトル
1958年ヴィンテージ(リリースは1960年)から古いディキャンターの形を模したボトルとの説や、18世紀の初期のクラレットのボトルを踏襲しているとの説があります。いずれにせよ、ボトル形状が特異なので判別がしやすい形です。また、ボトル形状の特異性から偽物ワインになりにくいとか。エチケットのシャトーの画は、1920年に変更され、1974年ヴィンテージから元に戻ったとされています。
ブレイク・タイム
シャトー・オー・ブリオンは「グラーヴの王」とも呼ばれているそうです。この王様の隣接土地の買収価格は1ha 900万ユーロだそうです。
ちなみに平成22年5月3日23時09分現在の為替レートは125.1円。換算すると11億2,590万円。1haは100m×100mで、昔流に言うと3,025坪。1坪(畳2枚)のお値段は37万2198円。
サンテミリオン地区の買い取り価格は1ha、1億円とされていますので・・・・・。想像がつきません。
1974年から元に戻ったエチケット(中央)。シャトーの画が大きくなっています。その後エチケットの色合いが変更され、現在色合いが金色ぽくなっています。
オー・ブリオンの赤と白(シャトー・オー・ブリオン・ブラン)。
ワインが入っていると判りやすいのですが、空瓶はご覧の通り、どっち?
赤。ヴィンテージの下に、クリュ・クラッセ・ド・グラーブ。白。ヴィンテージ表記の下に、グラン・ヴァン・ド・グラーヴ。
シャトー・オー・ブリオン詳解 その1 詳解はこちら
シャトー・オー・ブリオン詳解 その2 1975年~1999年 詳解はこちら
シャトー・オー・ブリオン詳解 その3 2000年~2004年 詳解はこちら
シャトー・オー・ブリオン詳解 その4 2005年~2012年 詳解はこちら
シャトー・オー・ブリオン詳解 その5 2009年~ 詳解はこちら
シャトー・オー・ブリオン詳解 その6 こちらへ
シャトー・オー・ブリオン詳解 その7
Le Clarence de Haut Brion 1998年~2019年 こちらへ
シャトー・オー・ブリオン詳解 その8
Le Clarence de Haut Brion 2020年~ こちらへ
改・ブログ総索引-1 こちらへ
改・ブログ総索引-2 こちらへ
改・ブログ総索引-3 こちらへ
改・ブログ総索引-4 こちらへ
改・ブログ総索引-1 こちらへ
改・ブログ総索引-2 こちらへ
改・ブログ総索引-3 こちらへ
改・ブログ総索引-4 こちらへ