2月11日は
建 国 記 念 の 日
建国をしのび国を愛する心を養う日です
(国民の祝日に関する法律 第2条)

【建国理念、屈折の歴史
海原に囲まれた国土の中で幾多にも分かれていた民族・部族間の争いが絶
えなかった太古の日本に政(まつりごと)を広く行き渡らせ、【
民族が一つに
なった、一つの家のような国家を築く
】という神武天皇の建国理念、幾世紀に
も亘った御歴代天皇の
政(まつりごと)の理念、そして民主的・道徳的な近代
国家建設 【道徳国家の再生】 を目指された明治天皇が、その深厚な理念を
根源とされた道徳教育の規範 「教育に関する勅語」 等が後々の政府・軍部、
戦後に活動を強めた左翼組織によって
本来の理念を押し曲げられた思想普
に利用されたため、その深厚な理念が 「他国侵略思想」 と称され、建国を
偲び祝う心、天皇・御皇室を仰ぐ心が「戦前の(戦争につながる)危険な思想・
主義」等と称されるような
誤った認識を生み、他国の神話・歴史は信じながら
自国の神話・歴史を否定し、自国の建国を偲び祝わない国民を生みました。


架空の思想普及
明治政府は民主的・道徳的な近代国家建設 【道徳国家の再生】 を目指され
た明治天皇の詔 (みことのり:御言宣・命) に基づき、国家の近代化を進めな
がら、国威・国民の国家への忠誠心を高揚させるため、本来の神聖さから掛
け離れた
.「天皇はこの世に人間の姿で現れた神」であるという架空の現人神
(あらひとがみ)思想を普及するとともに、大日本帝国憲法で天皇を陸海軍の
最高指揮官である大元帥(だいげんすい)としました。

明治政府による御在位中の天皇の神格化、現人神(あらひとがみ)思想の
普及・国威高揚は、【日本民族の最高位の祭司という
本来の神聖
、御歴
代天皇が国家民族の繁栄・安泰を祈りながら国を治めてこられていた

(まつりごと)・祭祀の理念
から次第に掛け離れ、後々の政府・軍部による
戦意高揚は、古代国家建設の御世から関わりが深かった隣国.(下記)
.
始めとする.諸外国との和平を願われた御心と大きくかけ離れました。

建国理念の屈折
大正時代に国家体制研究者により「八紘一宇
(はっこういちう)」と縮約された
建国の基本理念は、近代国家建設時に 「諸外国と対等に外交できる国力を
つける」とされた明治天皇の詔と、道徳教育の規範「教育に関する勅語」とと
もに、後々の政府・軍部により本来の理念を押し曲げて戦意高揚に利用され
ました。

古代国家建設の御世から関わりが深かった隣国(下記)を始めとする諸外
国との対話外交による和平
を願われ続けた
.昭和天皇の御前会議におけ
御意に反した軍部の独走により、第2次世界大戦が開戦しました。

天皇には
.「国家国民、隣国のため」.「東アジア・東南アジアを欧米諸国の
植民地支配から解放する」とし、国民には
.「天皇陛下のため」.「東アジア・
東南アジアに日本を核心とする共存共栄の新たな道義国家を建設する」
とした
.”大東亜共栄圏構想”.が唱えられました。

その中で、「海原に囲まれた国土の中で部族・豪族間の争いが絶えなかっ
た太古の日本に
.政(まつりごと)を広く行き渡らせ、民族が一つになった
つの家のような国家を築く
」という建国・政祭の基本理念「八紘一宇(はっこ
ういちう)
」が、本来の理念が押し曲げられ、大東亜共栄圏建設構想・政策の
標語として掲げられ、国民の戦意高揚に利用されました。

そのため、第2次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領
領政策により、公文書への記載、建国の
歴史教育等が禁止されるとともに、
御皇室と国民が一体となって建国を奉祝していた「紀元祭」・「紀元節が廃止
されました。

併せて「思想・言論の自由」などが保障された中、御皇室制度の「打倒・廃止」、
日本の共産主義国化を目標としていた国際的な
共産主義組織(下記)の日本
支部が、過激派(後に分離)・左翼・左派組織の中核となって活動を強めました。


国民精神の喪失
国民が一体となって建国を奉祝していた「紀元節」は、「建国をしのび、国を愛
する心を養う日」として復活、「
建国記念の日」に制定されました。

しかし、
建国の基本理念と、その理念を根源とした道徳教育の規範本来の
理念を曲げて
戦意高揚に利用されたこと、GHQの占領領政策により、日本古
来の伝統・祭祀が否定・廃止されたことに加え、左翼・左派組織の共産主義思
想「天皇制
(※下記)不要論」 等の主張により、道徳を重んじる本来の理念
大きく掛け離れた「世界侵略思想」等と称される
誤った認識を生み、他国の神
話・歴史は信じながら、自国の神話・歴史を否定する国民、自国の建国をしの
び祝わない国民を生みました。
天皇制」とは、御皇室制度の「打倒・廃止」を目標としていた国際的な共産
主義組織「コミンテルン」(1919年設立~1943年廃止)と同組織の日本支部
が1923年(大正12年)に初めて使用したとされる
共産主義組織による造語
です。正式な呼称
.(宮内庁による呼称).は「皇室制度」です。

戦後から現代へ】
昭和天皇の御心 (詳細:下記リンク)
第2次世界大戦(太平洋戦争)終戦に際して昭和天皇は、御前会議の御意
(対話外交による和平維持)に反した開戦
にも関わらず、終戦直後に通訳1名
だけを伴われ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)を訪ねられ、最高司令
官ダグラス・マッカーサーへ
国民の戦争遂行にあたり、日本の名のもとに行われた政治、軍事全ての
■「決定と行動に対し、私が直接に責任を負います。・・・(略)
■「自分自身の運命については、閣下の判断が如何様のものであろうとも構
■「わず、私は全責任を負います。
と申されました。

マッカーサーは、この時の感動を1964年(昭和39年)朝日新聞社発行

「マッカーサー回想録」へ
「私は大きい感動に揺すぶられた。。死を伴うほどの責任、私の知り尽して
■「いる諸事実に照らしても明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受け
■「ようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。
■「(略).自らの命と引き換えに自国民を救おうとした君主が世界の歴史上
■「いただろうか。(略)
日本の天皇は命乞いをしなかった唯一の君主」と綴
■「っています。  

また、陛下の 「
国民に多数の飢餓者を出すようなことは耐え難い。これ(御皇
室の財産目録)を代償としてアメリカに渡し、食糧にかえて国民の飢餓を一日
でもしのぐようにしたい
」とのお言葉により、幣原首相(当時)が.罪なき8000
万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において
.(略)
国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますよう との陛下のお言葉とともに
ダグラス・マッカーサーへ、御皇室の財産目録を差し出しました。

国民を第一に案じる陛下の御心に感激したマッカーサーは
.「断じて日本国民
の中に餓死者を出すようなことはさせない。 陛下に御安心されるように・・・」
と首相へ伝え、アメリカ本国から調達した食糧を飢えに苦しんでいた国民に届
け、その後もアメリカ本国から食糧が調達され続け、戦後の食糧危機を脱しま
した。

その後、宮内府次長に
(略)全国を隈なく歩いて、 国民を慰め、励まし、復興の
ために勇気を与えることが私の責任と思う。(略)
.私の健康などは全く考えるこ
となく、全力を挙げて計画して欲しい。
と指示され、1946年(昭和21年)から19
54年(昭和29年)までの8年半に亘り、約33,000㎞に及ぶ
全国御巡幸を敢行
れました。

戦後のお住まい
皇居では御座所
.(天皇、皇后のお住まい).を建て直して住まわれることなく、
戦争中の1944年(昭和19年)に作られた防空壕に戦後も住まわれ続けました。

屋根には土砂が盛られ、湿っぽく、居住性の極めて悪い施設(元侍従長、入江
相政氏談) で幾度か御座所の建て直しが進言されましたが
、「国民にまだ住居
が行き渡っていない
」と断られ続け、国民の生活水準が戦前をはるかに上回っ
1961年(昭和36年)に創建された現在の吹上御所へ同年11月に移られ、食糧
.国民を優先するように.と、優先配給を断られ続けました。

共産主義組織が主張した「天皇制(※下記)不要論」は国民の多くに受け入れ
られることなく、全国御巡幸以後、戦災の苦しみ、悲しみを共にされた昭和天皇
の慈愛深い御心、御姿に触れた国民により、めざましい戦後復興を遂げました。
 (下記リンク【昭和天皇と戦後日本より抜粋)

今上陛下の御心
戦災の苦しみ、悲しみを共にされ、国民に寄り添われた昭和天皇の御心を受け
継がれた今上陛下(きんじょうへいか)は皇后陛下、御皇族とともに常に国民を
案じ、国民に寄り添い頂き、諸外国との恒久和平を願われながら国家国民の
安泰をお祈り下さっています。
 

日々多忙を極める御公務・国事行為など様々な公的ご活動とともに、神武天皇
御即位から世々御歴代天皇が 【
日本民族の最高位の祭司】 として執り行われ
てこられた祭祀(親祭)を大切に継承され、元日未明から大晦日まで幾多にも
及ぶ宮中祭祀、伊勢神宮への御親拝等におかれ、天地の神々へ国家国民の繁
栄安泰をお祈り下さっています。

御即位以来、平素の御皇室活動、地方行啓などに関わる警衛警護に伴う国民
生活・地域生活への影響までも案じて下さりながら国民との隔たりを可能な限
り排されるなど、建国の御世から国家民族(国民)の繁栄安泰をお祈り頂いて
いる祭祀、古式の儀式・伝統を大切に継承されながら、
時代に即した御皇室
築かれておられます。


古代国家建設の御世から関わりが深かった隣国
弥生時代(古代国家・大和朝廷創設期)
西暦200年、第14代仲哀
(あいちゅう)天皇皇后、神功皇后(じんぐう
こうごう)により、三韓.(古代朝鮮に存在した韓族・国家=百済:くだら・
新羅:しらぎ・高句麗:こうくり)と
.国交.が結ばれました。
仏教伝来
百済(上記)第26代の王、聖王(せいおう) が当時の
国家間の公的交渉
として古代日本(552年)に使者を送り、第29代欽明天皇に金銅の釈迦
如来像・経典・仏具などを献上。日本における
仏教の始まりとされてい
ます。
天皇の漢風諡号(かんぷうしごう:御名)
飛鳥時代の674年以前は、神日本磐余彦皇尊(かむやまといわれひ
このすめらみこと)等、和風諡号(わふうしごう) で称されていました。
東アジア諸国との外交上の必要性から淡海三船(文人) が中心にな
り、古事記・日本書紀などを元に神武天皇等 「●●天皇」の漢風諡号
(かんぷうしごう)が奉呈され、奈良時代後期 (700年代後半)から称さ
れるようになりました。
弁才天信仰
「八百万の神」(
やおよろずのかみ:多くの神)として他国の神仏も祭祀
した日本古来の信仰の中で、古代(古墳時代以降)、海上交通の平安を
守護する玄界灘の神として大和朝廷に祭祀されるようになった宗像神
の一柱、
市杵嶋姫命(いちきしまひめ)へ、大陸から伝わってきたヒンズ
ー教の女神
「サラスヴァティー」が同化・習合され、弁天様.(神道:七福
神の一柱)・弁才天
.(仏教).として民衆信仰がひろまりました。
その他、百済・大陸から渡来した文化・宗教を取り入れ、渡来・帰化し
た民族、先住民族ともに古代国家が形成されました。


個人的な記述で専門的な考証・見解を主張するものではなく、リンクさせて
頂きましたサイト・団体等とは一切関係ありません。
いずれの団体、その他の政治・思想・宗教団体にも属していません。

左翼・左派組織の活動記述は、戦前・戦中の政府・軍部が戦意高揚に本来
の理念を曲げて
利用した「建国・政祭の基本理念」が戦後の共産主義思想・
御皇室制度の「打倒・廃止」思想の普及に利用された経緯として記述した
のもです。

また、「古代国家建設の御世から関わりが深かった隣国」の記述は、軋轢
(あつれき)が深まっている隣国との和平を脅かす相互の過激な.排他
思想
がなくなることを願い、古代から関わりが深かった史実(一部)を記述
したのもです。

<タイトル(大文字)をクリックして頂くと同一ウインドウで開きます。>
日本建国の歴史・理念
太古(縄文時代)の日本の平定をめざし、現在の橿原神宮(奈良県橿原
市)で、初代神武天皇が御即位された日本建国の歴史。
【民族が一つになった、一つの家のような国家を築く】 神武天皇の日本
建国の基本理念。
第122代 明治天皇による日本建国・政(まつりごと)の基本理念を根源
とされた近代国家建設(道徳国家の再生)
現代に息づく建国理念
神武天皇建国の御世から世々御歴代天皇が 【民族(国民)が一つにな
った、一つの家の ような国家】 という深厚な理念のもと 【
日本民族の最
高位の祭司
】として天地の神々に国家民族(国民)の繁栄安泰をお祈り
頂く祭祀を大切に継承されながら、
時代に即した御皇室を築かれ、国民
に寄り添い頂いている
今上陛下の御心
幾世紀を経た日本に息づく建国理念
現代にふさわしい御皇室を仰ぐ心
日本人の心に息づく現代の愛国精神

<参 照>
古事類苑全文データベース 日本書紀 全文検索
ひむか神話街道(著作:宮崎県)神武天皇東征 (アニメ)
和歌山県観光情報東征の道を行く:神武天皇
かしはら探訪ナビ(著作:橿原市)橿原神宮

<リンク>
昭和天皇と戦後日本
明治政府による神格化、太平洋戦争終戦と昭和天皇の御心、昭和天皇
の全国御巡幸と戦後復興、今上天皇の御心。
勤労感謝の日と新嘗祭
今上天皇、御皇族による宮中祭祀。
古代日本の民族信仰から発祥した新嘗祭。
建国神話.「吉備高嶋宮と古代児島」
建国神話.「古事記」、わが国最古の正史.「日本書紀」に記された吉備、
古代児島における国家建設の地盤づくりなど。
日本の古代祭祀と神社の起源
自然の恩恵に感謝し、畏れ敬う感情から発祥した日本古来の信仰。
神社建築の始まり。


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