「聖徳太子」が日本で最初に、国家として仏教を広めるために建立した寺院が「四天王寺」です。
新西国三十三ヶ所観音霊場、第1番札所「荒陵山(あらはかさん) 四天王寺 または金光明四天王大護国寺(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)」。創建は593年。開基は「聖徳太子」。本尊は「救世観世音菩薩像」。宗派は「和宗」。
詠歌 「ありがたや 法のはじめの 天王寺 亀井にうかぶ み仏の影」
「四天王寺」は「日本書紀」によると587年、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏との争いが始まりとされています。
崇仏派の「蘇我馬子」率いる蘇我軍についた「厩戸皇子(うまやどのみこ 後の聖徳太子)」が、形勢の不利であった状況を打開するために、白膠木(ぬるで)の木で自ら「四天王像」を刻み、「もし、この戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう」と誓願をしました。
その効験があって蘇我軍は物部軍を打ち破り、誓願どうりに「聖徳太子」は「四天王寺」を建立することとなります。
創建当初は「物部守屋」の霊を鎮めるために、大阪市天王寺区玉造の辺りにあった「物部守屋」の屋敷跡に建立したと言われています。
593年、「推古天皇」が即位し「聖徳太子」が摂政となり、国家として仏教を広めるために、現在地へ本格的な大伽藍が建立されたと伝えられています。
「四天王寺」は度々の天災や石山本願寺攻め、大阪冬の陣の兵火などで焼失し、荒廃することなく再建されます。
現在の「四天王寺」の寺観は、太平洋戦争の大阪大空襲によりほとんどの堂宇が焼失し、終戦後に再建されたものです。
「四天王寺」の境内はかなり広大で現代に再建されたものがほとんどですが、中心伽藍を中心として様々な堂宇が建っています。
全ては紹介出来ませんが、中心伽藍と主な堂宇や史跡などを紹介します。
中心伽藍へ行くには「南大門」、「東大門」、「西大門」など複数あります。
「西大門」の手前には、重要文化財に指定されている「石鳥居」があります。
「東大門」には仁王像」が安置されています。
中心伽藍には「中門(仁王門)」、「東重門」、「西重門」があり、「西重門」が中心伽藍内へ入る受付となっています。
「中門(仁王門)」にも「仁王像」が安置されています。
中心伽藍は大阪大空襲により全て焼失し、戦後になって再建されたもので鉄筋コンクリート製ですが、外観は創建当初の飛鳥建築を忠実に再現しています。
南に「中門」があり北へ一直線に「五重塔」、「金堂」、「講堂」が配置されていて、「中門」から左右に「回廊」が囲んでいます。この伽藍配置を「四天王寺式伽藍配置」と言われています。
「金堂」には新西国観音霊場の本尊である「救世観世音菩薩像」を祀り、四方に「四天王像」が安置されています。
「聖徳太子」は「救世観世音菩薩」の生まれ変わりと言われています。
「金堂」には基壇下にある「青竜池」から天王寺七名水の1つ、「白石玉出の清水」という霊水が湧いていて、「金堂」の左手にある「龍ノ井戸」から確認することが出来ます。
「金堂」前には「四天王寺」の四石の1つ「転法輪石」があります。
「講堂」には「十一面観世音菩薩像」、「阿弥陀如来像」を祀っています。
中心伽藍の周りには様々な堂宇などがあります。
「南大門」の前に「四天王寺」の四石の1つ「熊野権現礼拝石」があります。
「熊野権現礼拝石」は熊野詣りの道筋である熊野街道が、「四天王寺」の側を通っていて、この石の上に乗り熊野の方向に礼拝し道中の安全を祈願したそうです。
熊野権現礼拝石。
「熊野権現礼拝石」より東に行くと「南鐘堂(鯨鐘楼)」、「太子井戸屋形」があります。
「南鐘堂(鯨鐘楼)」の前方には「聖霊院(太子殿)」があります。
「聖霊殿(太子殿)」には「虎之門」、「猫之門」の2つの門があります。
「猫之門」は閉じられていて入ることは出来ません。「猫之門」の蟇股(かえるまた)には猫の彫刻があり、これはネズミが侵入してお経をかじられないように見張りをしているという意味だそうです。
「聖霊院(太子殿)」は「前殿」、「奥殿」と分かれています。
「前殿」には「聖徳太子16歳像」、「聖徳太子2歳像」、「四天王像」が祀られています。
「奥殿」には秘仏の「聖徳太子49歳像」が祀られています。毎年1月22日に開扉されるようです。
「奥殿」の後方には「経堂」、「絵堂」があります。
「奥殿」の右手には「黒駒厩舎」、「守屋祠」があります。
「黒駒厩舎」には「聖徳太子16歳像」と、愛馬「黒駒像」が安置されています。
「守屋祠」は戦いに敗れ戦死した「物部守屋」の霊を祀っています。
「聖霊院」から少し北へ進むと「番匠堂」があります。
「番匠堂」は「曲尺(かねじゃく)太子像」が祀られています。
「聖徳太子」は「四天王寺」建立の際に百済から「番匠」という名工を招き、高度な建築技術を導入されたそうです。
これをきっかけに「聖徳太子」は大工の神様と崇められていて大工、建築技術の向上や工事の安全祈願を願う建築関係の人たちの間で、「聖徳太子」が祀られるようになったそうです。
「番匠」の子孫が主に寺社仏閣の建築や修理を行っている、世界最古の企業である「株式会社金剛組」だそうです。
「番匠堂」から北へ進むと「亀井堂」、「亀井不動尊」、「石神堂」があります。
「亀井堂」には「白石玉出の清水」が流れてきて、供養を住ませた経木を流せば極楽往生が叶うと言われています。
「亀井不動堂」には「不動明王像」が祀られていて、近畿三十六不動尊霊場の第1番に指定されています。
「石神堂」には「牛王尊」が祀られています。「四天王寺」建立の際に木材などの資材を引いていた牛が突然、石化して石神になって衆生に様々な恩恵を与えたそうで、その恩恵に感謝し祀ったそうです。
「石神堂」から東方向へ行くと「東大門」があり、周辺には「四天王寺」の四石の1つ「伊勢神宮遥拝石」、「亀遊嶋弁天堂」があります。
「伊勢神宮遥拝石」は石の上に乗って、遠くにある「伊勢神宮」に向かって遥拝したそうです。元は「東大門」の外にありましたが、明治初年に現在地に移されたようです。
「亀遊嶋弁天堂」は「月無池」の中央の島に建っていて、「弁財天」を祀っています。
「亀井堂」の北方向には「本坊」があります。「本坊」は大阪大空襲の被害から免れたようで、江戸時代に再建された建築物が現存しています。
「本坊」には重要文化財に指定されている「五智光院」、「本坊西通用門」、「湯屋方丈」や「四天王寺本坊庭園」があります。
「本坊西通用門」からは「本坊」へ入ることは出来ません。
「五智光院」は1623年に「徳川秀忠」により再建されたもので、「大日如来像」を本尊とする「五智如来像」が祀られています。
「四天王寺本坊庭園」ですが1万㎡の大きさの池泉廻遊式庭園「極楽浄土の庭」と、「湯屋方丈」の前にある座視式庭園「補陀落の庭」からなっています。
「湯屋方丈」も1617年に、「徳川秀忠」により再建されたものです。
「四天王寺本坊庭園」には、ルネッサンス様式の西洋建築「八角亭」があります。
1903年に開催された内国勧業博覧会の木造パビリオンで、後に「四天王寺本坊庭園に移設されたようです。
「亀井堂」を抜けると左手に「亀ノ池」、「石舞台」、「六時礼讃堂」があります。
「亀ノ池」は中央に「石舞台」があるので、2つに分かれているように見えます。
「石舞台」は日本三舞台」の1つで、重要文化財に指定されています。
毎年、4月22日に「聖霊会」という「聖徳太子」の命日の法要が行われ、この「石舞台」で雅楽が披露されるようです。
「六時礼讃堂」は1623年に「徳川秀忠」が建立した「椎寺薬師堂」を、1811年に移築したもので重要文化財に指定されています。
「六時礼讃堂」には本尊として「薬師如来像」を祀り、西国薬師四十九霊場の第16番に指定されています。
「亀ノ池」の前方に「北鐘堂」、「太鼓楼」があります。
「六時礼讃堂」から北方向へ行くと「英霊堂」、「大黒堂」、「元三大師堂」、「地蔵堂」があります。
「英霊堂」は昔、「大釣鐘堂」と呼ばれていて「大梵鐘」が釣られていましたが、第2次世界大戦の時に供出の被害に遭い、現在は第2次世界大戦で亡くなられた戦没者を祀っているようです。
「大黒堂」には1体の像に「大黒天」、「毘沙門天」、「弁財天」の顔を持つ「三面大黒天」を本尊として祀っています。
「元三大師堂」は1618年に建立されたもので重要文化財に指定されていて、比叡山「延暦寺」の中興の祖「元三大師良源」を祀っています。「元三大師良源」は、おみくじの創始者と言われています。
「地蔵堂」にはたくさんの「地蔵菩薩像」が安置されています。
「地蔵堂」の側には「融通地蔵尊」と「逢坂清水」という井戸があります。
「融通地蔵尊」と「逢坂清水」は昔、「四天王寺」の側にある「一心寺」の前を通る逢坂にあったそうで、明治時代末期に行われた道路拡張工事に支障をきたしたので、「四天王寺」へ移されたようです。
「逢坂清水」は天王寺七名水の1つでしたが、「四天王寺」へ移されたので井戸の遺構があるだけとなっています。
「石鳥居」から境内へ入ると右手に「四天王寺」の四石の1つ「影向引導石」、「聖徳太子影向引導石の鐘」があります。
葬送の際に棺を「影向引導石」の前に置いて、「聖徳太子影向引導の鐘」を3回鳴らせば、「聖徳太子」が「影向引導石」の上に影向されて、極楽浄土の世界に導びくと伝えられています。
「西大門」手前の左手に「見真堂」があり、右手には「布袋堂」があります。
「見真堂」は「親鸞聖人(見真大師)」を顕彰し建立されたお堂で、本尊として「阿弥陀如来像」を祀っています。
「布袋堂」には「布袋尊」を祀っていて別名「乳のおんばさんのお堂」と言われ、母乳が出て赤ちゃんが健康に育つようにと、女性の方が多く参拝されるようです。
「西大門」を抜けて左手には「義経よろいかけの松」があり、右手に行くと「弘法大師」を祀る「大師堂」があります。
「義経よろいかけの松」は兄「源頼朝」の怒りを買った「源義経」が、京から九州へ逃れる際に「四天王寺」に立ち寄り、松に鎧をかけて参拝したと伝えられています。
「大師堂」の右手に「弘法大師像」が安置されていて、像を囲む石垣には四国八十八ヶ所の砂が納められ、四国八十八ヶ所のお砂踏み場となっています。
最後に「大師堂」から南方向へ行くと「阿弥陀堂」、「納骨堂」、「万灯院」、「清浄水井戸屋形」があります。
「阿弥陀堂」は1953年、三重県にある「四天王寺」の末寺である「国束寺」の「本堂」を移築したものです。