【21】「山岳の悲劇と街の喜劇」 プロフェッショナルとしての本格犯罪【連載】 | a.k.a.“工藤明男” プロデュース「不良の花道 ~ワルバナ~」運営事務局
■銃器の習熟のために起きた浅間山荘事件

 爆弾よりも銃がよろしいという結論は簡単だが、銃の扱いに習熟するには時間も金も必要である。

 そこで山に籠もって銃の取り扱いに習熟しようということになり、山岳アジトをつくることになった。しかし、革命のためにいろいろと犯罪を重ねてきたグループだから、指名手配を受けている人間も多い。やがて山岳アジトも捜査当局の知るところとなり、追いつめられたグループが警察部隊と銃撃戦になった、というのが浅間山荘事件である。


 そこにいたるまで、銃に習熟する訓練と厳しい山岳生活の中で、仲間を何人もブルジョア性を問い詰める総括で殺してしまっているから、死んだ(ちがう、殺した)仲間のためにも一生懸命に銃撃戦をやろう。となったのが、先走って結末までいえば浅間山荘事件の背景であり顛末である。

浅間山荘

<凄惨な事件の舞台となった浅間山荘(Wikipediaより)>


 話をもどすと、そういうふうな考え方で、喉から手が出るほど銃が欲しいと考えていたものの、赤軍派はなかなか銃を手に入れることが出来なかった。

 70年によど号をハイジャックした赤軍派のグループが手にしていたのも、三島由紀夫がテレビを見て驚嘆したという日本刀である。赤軍派がもっぱら爆弾の製造で武装していたころ、銃器を手に入れている別のグループがあった。


■日本共産党革命左派の『M作戦』

 それは日本共産党革命左派というグループだが、武装闘争をやめて久しい日本共産党の名誉のために言っておけば、日本共産党に直接関係のあるグループではなくて60年安保世代がはたらきかけてつくった、元共産党員の親中国派から派生したグループである。

その大衆団体の名称が京浜安保共闘で、ここまでくれば当時を思い出す団塊の世代も多いのではないだろうか。当時の指導者は永田洋子という女性である。


 今やマニアにしかわからないこまかい組織の系譜はともかく、そのころの赤軍派は銃を入手できない代わりに、M作戦と呼ばれる計画を実行に移していた。Mがマネーをさすのか、マフィアの略語なのかは、今も両論ある。

 たびかさなる弾圧で主だった幹部を逮捕され、アラブと北朝鮮に中堅幹部が飛び立った赤軍派に残されていたのは、若い幹部が指導する中央軍と呼ばれる少数の軍事組織と学生のシンパ組織だけだった。

あいつぐ爆弾闘争で公安当局の追求をうけて、シンパ組織との接触もままならない中、東北地方に展開した遊撃隊のグループがいよいよM作戦に着手する。


■プロの仕事として周到だったM作戦

 アメリカほどではないにせよ、日本でも銀行強盗は少なくはないが、これほど実行者が自分たちの職業意識を高めて周到に計画を運んだプロフェッショナルの仕事を、筆者はほかに知らない。

これはまだ連合赤軍になる前のことである。赤軍派中央軍傘下の東北方面遊撃軍とでもいうべきか、3人からなるグループは江戸の本格盗賊ほどではないにせよ、約1ヵ月にわたる調査活動をへて強盗のプランを練っていた。

 残念だが銃は手に入れていないから、強盗の手段は腕力と刃物に頼るしかない。周到な調査で現金奪取の成功は間違いなかったが、彼らのいちばんの問題は逃走経路だった。シカゴのフレッドやマックスたちがゴルゴ13に射殺されたように、逃走後の身の処し方で仕事の仕上がりはまったく違ってくる。

 20歳代前半の、せいぜい学生運動や街頭闘争の経験しかない赤軍派の彼らに、ゴルゴ13に登場するフレッドやマックスたちの技術の蓄積があるわけではない。だが、彼らには犯罪者としてはなかなかセンスがあった。

 その部隊の隊長は、76年に日本赤軍の同志奪還のハイジャックで人質と交換でアラブに飛び去った坂東国夫という男である。

もうひとりはUという男だが、彼は長期の懲役を終えて出獄しているので、その後の本人の意向がどうなるかわからない今はイニシャルだけにしておこう。あとのひとりは、残念ながら山中のアジトで仲間に殺されてしまっている。

 銀行に押し入ったあとに彼らが選んだのは、地方都市であればオーソドックスな車での逃走だった。まだ交通渋滞もそれほどではない時代だから、この判断は間違いではない。


■捜査当局の虚をついた逃走経路

 銀行強盗のあとの選択も間違いはなかった。彼らのとったのは仕事を終えた市街地から車で逃げて、車を乗り捨てたあとはバスで市街の中心部まで戻ってくるというもの。けっこうのんびりはしているが、おっとり刀で出張ってきた捜査当局の急所をついた方法なのである。

 どうして中心部までバスで戻ってくるのかといえば、警察の非常線や検問は市街の中心から波状的に外側に向いて延びていくので、内側に逆ルートを辿るのが捜査の虚をつく安全な逃走経路ということになるわけなのだ。そして、彼らは見事に作戦を的中させたのだった。

 最初の車での逃走の途中、接触したタクシーに怪しまれる。というよりも接触事故なのだからどちらも困ったはずなのだが、そのままかまわず逃走して車を乗り捨てると、彼らは循環バスに乗って犯行現場ちかくの中心街までもどってきた。彼らは悠然と、うたたね気分でバスにゆられながら、泡を食った警察官たちが駆けまわり、捜査網が郊外へ向かうのを冷静に観察していたのである。

 奪った金銭が犯行の目的とはいえ、私的な動機や欲望はない。彼らにとっては革命という正義の一念だけの、プロフェッシュナルの仕事だったといえよう。


 さらに彼らは、学校の教職員の給与が搬入される日時をシンパの教師から聞き出し、待ち伏せ強盗にも成功する。

 待ち伏せ強盗は警備の厳重な銀行に押し入るわけではないから、現在でも素人に毛の生えた程度のセミプロというべき犯罪者たちの好む比較的安全で確実な手口だが、この手法は肝心の情報収集がむつかしい。情報を得られるその多くが内部犯行であって、犯行の容易さと同じくらい捜査も簡単なのだという。


■日本に革命戦争を起こそうという意志

 ともあれ、彼らが第二の犯行に成功したころ、米子銀行で同じ赤軍派の西日本方面軍が現金奪取に成功していた。

 赤軍派がM作戦にこだわったのは、あいつぐ弾圧で組織も弱体化し、カンパも思うように集まらない。というよりも、カンパは集めようと思えば集まったかもしれないが、おもだった活動家が指名手配されて公然と活動できる人数が少なくなっていたのである。


 彼らの場合は銃による軍事路線をまっとうすることで、いまだに火炎瓶や爆弾に頼っている他の組織も路線を変更し、やがては日本にも血で血を洗う本格的な革命戦争の時代がやって来るのだという考え方だから、いまさら地道な大衆運動をするつもりもない。

 そうすると、警察の包囲網をかいくぐって生き延びて武器を準備するには、手っ取り早くまとまった金が必要ということになる。


 ところが米子銀行を襲ったグループは、列車で逃走しているさいちゅうに逮捕されてしまったのだった。人の少ない地方では、それだけ警察官の数も少ないから押し入るのには適していたが、ひとごみに紛れて身を隠す非公然活動の原則がなおざりにされたのだった。

 まもなく東北部隊の犯行も素性も捜査当局の知るところとなり、彼らは絶望的な山岳アジトでの生活に入るのだった。そのあとに起こる悲惨な結果は、すでに書いたとおりである。

(22)金に支配されない犯罪の理由、に続く

(作家 横山茂彦)