【15】「国家という犯罪」 プロフェッショナルとしての本格犯罪【連載】 | a.k.a.“工藤明男” プロデュース「不良の花道 ~ワルバナ~」運営事務局

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<イメージ(函館方面江差警察署ホームページより>

■誇りと確信を持った犯罪者、「過激派」「暴力団」

 話を正義の問題にもどすと、国家に取って代わることを意識してはいなかったにせよ、天に代わって正義の鉄槌をふり下ろした本格盗賊たちが、掟破りの強盗ばたらきの輩を殲滅するまで、自分たちの仕事に誇りと確信を持っていたように、現代にも確信犯と呼ばれる「犯罪者」たちがいる。

 俗に暴力団とか過激派と呼ばれる人々がそれである。とくに後者のばあいには、明確に国家権力の奪取を思想の中に描いている。

 警察権力を占める人たちの本質的な倣いというか、恣意的で偏見にみちた俗称のゆえに、彼らは普通の市民とまるで違う生活様式だとか、根っから反社会的な思考様式を持っていると考えがちだが、それは半分も当たっていない。



■「過激派」「暴力団」が持つ社会常識

 じつは普通の市民の中にこそ、あまたのミステリー作家が好む病理的なサイコや、ありうべくもない荒唐無稽な密室殺人のトリックを目玉とする推理小説に登場するような凶悪卑劣な犯罪者の影が生息しているのであって、暴力団や過激派のほうが普通の市民よりも原則にしたがうという意味では、きわめて社会常識がある。

 暴力団や過激派と呼ばれる彼らの特異な生活様式や思考様式はともかく、借金による生活苦や個人的な恨み、あるいは生来の気質とか、ひとときの激情から凶悪な犯罪者に変身する一般市民の犯罪とは彼らは本質的に違う、と。

 さきの国家正義の唯一性や、彼らの思考体系をなさしめる独自性を考慮に入れた場合には、そういう結論にならざるをえないのだ。

 むしろ彼らの方法は、これまでにみてきた江戸期の本格盗賊にも似た、厳格な掟(綱領)や統制(規約)の下に、職業的で冷徹な「犯罪」を行うのであって、ある意味ではプロフェッショナルの理論と筋道が病理に侵されることなく貫徹している、唯一の世界ともいえるかもしれない。



■暴力や犯罪そのものが目的の集団ではない

 いや、そもそも暴力団と称される組織は、自分たちのことを極道や任侠団体と呼ぶ。

 暴力的なしのぎで利益を得ることはあっても、犯罪や暴力そのものが目的の集団ではないのだし、いっぽうの過激派とか極左と呼ばれる集団も、おおむね政治的あるいは社会的な革命を目的とする政治結社であって、世直しを標榜しこそすれ過激な行動で犯罪そのものを追求しているというわけではない。

 それが非合法となるゆえんは、彼らの任侠における筋道であるだとか、革命の戦術や戦略が現在の政治体制が持つ法体系に抵触するからにすぎないのである。

 そうすると、犯罪とはそもそも何か、犯罪を取り締まる社会正義とは何をもって根拠とするのか。というところまで、このテーマは潜行せざるをえない。

 つまり、筋道の通らない社会や政治体制に対して、人の道に外れた社会の有り方に対して筋道をただすための行為や、搾取構造を温存して腐敗した社会システムを革命する権利があるのだとすれば、現在の法体系をささえる社会的価値観そのものが、問い直されなければならないはずである。

 よしんば法理論の体系に不備がないとしても、法の解釈において法の理念がはたされていないのであれば、法解釈の恣意性にしたがって犯罪とされる行為が正当性を得るばかりか、社会正義と思われている法体系そのものが、根本から崩壊してしまうのである。

 その分水嶺は、世論が強きに靡く日本の社会では、わずかに裁判所の判例によるしかないのだ。まことに正義とは、危うい概念である。

 それではむつかしい概論を終えて、具体的な話に移ろう。

(16)極道という職業、に続く

(作家 横山茂彦)


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