『神曲』地獄巡り36.ダンテの描くギリシアの英雄たち | この世は舞台、人生は登場

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ギリシアの英雄たち


 『地獄篇』第26歌の主役はオデュッセウスですが、背後で筋書きを支配しているのはアキレウスです。それゆえに、ダンテの詩を読む前に、その英雄の姿と伝記を予習しておきましょう。 私たちが最も知っているアキレウス像は、ホメロスが『イリアス』で描いたギリシアの英雄の姿です。


『イリアス』の粗筋とアキレウス像

古代ギリシアの英雄たちの国々

 トロイアの王子パリスは、スパルタ王メネラオスの妃ヘレナを奪ってトロイアに連れ帰りました。それに怒ったメネラオスは、実兄アガメムノンを総大将といたギリシア同盟軍を結成してトロイアに攻め込みました。『イリアス』第2巻(484~759)に挿入されている「アカイア軍船のカタログ」から推測される戦力は、参加国29カ国、指揮官44将軍、軍船1186隻で、その一隻の平均乗り組み定員50名だと言われていましたので、ギリシア軍の総勢は6万人だと試算されています。(G.S.Kirk ed. The Iliad; A Commentary Vol.I, P.237を参照)
 アポロンの神官クリュセスの娘クリュセイスをアガメムノンが奴隷にしていました。神官が身代金を持って娘の返還を求めましたが、アガメムノンは拒否しました。そのためにギリシア軍の陣営に疫病が蔓延しました。アキレウスはアガメムノンにクリュセイスを返すように求めました。しかし、アガメムノンは、その奴隷女を返還するかわりにアキレウスが愛する女捕虜ブリセイスを自分の所有にしました。それに怒ったアキレウスが戦場に出ることを拒否して陣屋に閉じ籠もってしまったので、ギリシア軍は苦戦を強いられました。『イリアス』の第2巻から17巻まで、アキレウス抜きの戦いがギリシア軍とトロイア軍の間で交わされます。ようやく第18巻で、トロイアの大将ヘクトルに討ち取られた盟友パトロクロスの仇を討つために、アキレウスは参戦してきました。いよいよ、その叙事詩のクライマックスであるアキレウスとヘクトルの一騎打ちが行われました。ヘクトルはアキレウスを迎え撃って勇敢に戦いますが、アキレウスの力のほうが勝っていましたので恐れをなして逃げました。しかし、砦の周りを三度回った後、四周目に決戦を覚悟して立ち向かいました。しかし結果は周知の通り、アキレウスはヘクトルを殺害して、戦車で引きずって自陣へ引き返しました。その後も『イリアス』の物語は続きます。パトロクロスの火葬、アキレウス主催によるパトロクロスの追善競技、プリアモス王による息子ヘクトルの遺体の貰い受けなどが続いて、物語は終わります。

 以上が『イリアス』で描かれたアキレウスですが、当然、トロイアに来る前のアキレウスの物語も、ヘクトルとの宿命の対決の後のアキレウスの物語もあるはずです。私たちにとっては、ホメロスの話が有名すぎて、その前後は盲点になっています。


『イリアス』以前のアキレウス

アキレウスに竪琴を教えるキロン
アキレウスに竪琴を教えるキロン(紀元1世紀のヘルクラネウム(Herculaneum)から出土したポンペイの壁画)


 アキレウスはホメロスが描いた最高の英雄でしたので、ホメロス以後に新しい伝説が多く創り出されました。中世時代に信じられていたトロイア出征前のアキレウス像は、スタティウス(publius Papinius Statius, 45~96)の『アキレウス物語(Achilleid)』に負うところが大きいようです。この叙事詩人は、アキレウスに関して出生からトロイア戦争の終結までの出来事を12巻で書き上げようとしましたが、960行から成る第1巻を書き終えて、第2巻の167行を書いた時点で筆を置いています。そのためにその叙事詩は、アキレウスの出生からトロイア出征までの記述しかありませんが、その英雄の『イリアス』以前の逸話を作り上げるのに強い影響を持っています。スタティウスを中心にして、有名な逸話を繫ぎあわせると、次のようになるでしょう。


 アキレウスは、プティオティス(=プティア)王ペレウスと海の女神テティスとの間に生まれました。テティスは息子を不死身にするため、冥府を流れるステュクス河の水に赤子の身体を浸しました。ところが息子の踵を持って河水につけたので、その手で掴んだ部分だけは不死身になることができませんでした。母神テティスは、息子の教育を半人半馬ケンタウルス族のケイロンに委ねました。そして、アキレウスがトロイア戦争に参加しなけれギリシアの勝利はなく、また参加すれば勝利は得られるが息子は必ず死ぬことになる、という神託を受けていました。そのため、両親は息子に女装させてスキュロス王リュコメデスの娘たちの中に隠しました。ところが、参戦を請うためにやって来たオデュッセウスに見破られたので、トロイア戦争に参加する羽目になりました。アキレウスは、50隻の軍船に盟友パトロクロスと部下たちを乗せてトロイアに来て、真っ先に周辺諸国を攻略しました。リュルネッソス国を攻略した時、そこのアポロンの神官(または国王)ブリセウスの美しい娘ブリセイスを奴隷として手に入れ、二人は愛し合うようになりました。しかしその後、アキレウスはブリセイスをアガメムノンに奪われたので、二人の間に不和がおこりました。ホメロスの『イリアス』は、アキレウスが怒って自陣に閉じ籠もった状態から物語が始まっています。この他にも、後世において、ホメロスの二つの叙事詩に描かれていないアキレウスの歴史の空白の部分を利用して、新しい物語や伝説が創り出されています。



『イリアス』以後のアキレウス

 『イリアス』は、プリアモスが息子ヘクトルの遺体をアキレウスから貰い受けて、トロイアに持ち帰り、そして立派な葬儀を営む場面で終了しています。当然、その後もギリシアとトロイアの戦争は続きます。その戦争の情況は、ホメロスのもう一つの叙事詩『オデュッセイア』に書かれている記述から推測する他はありません。トロイアでの戦役の中で、例の「木馬の作戦」は、『オデュッセイア』第8巻(487~520)において、デモドコスという吟唱詩人にその話を弾唱させていますので、ホメロス原初の物語だといえます。しかし、ヘクトルとの死闘の後から木馬事件までのアキレウスのことは謎に包まれています。
 ホメロスの作品の中では、予言は必ず成就するので、アキレウスが終戦前に死んだことは確かです。しかし、アポロン神の矢に射られたとか、パリスによって足の腱を射られたとか、諸説があって死因は分かりません。『オデュッセイア』第11巻で、オデュッセウスは予言者テイレシアスに帰国の心得を聞くため冥界訪問をしました。その時、死後の冥界でも前世にいたときと同じように皆から敬われているアキレウスに出会いました。その亡霊となった英雄は、真っ先に息子の消息を尋ねました。『イリアス』では、アキレウスに息子がいたかどうか書かれていませんでした。むしろ、トロイアの老王プリアモスが息子の遺体を貰い受けに来たとき、その老王の中に彼の年老いた父親の姿を重ね合わせて、次のような情け深い言葉をかけました。


 王位を継ぐはずの血筋の子が私以外に一人も生まれなかった。その私も早死にして、年老いてゆく父親を世話することもできないで、このように、故郷を遠く離れてトロイアくんだりに引き止められて、あなたやあなたの息子たちを苦しめて、日々を過ごしている。(『イリアス』第24巻539~542、筆者訳)

 上のアキレウスの言葉は、彼が死ねばペーレウスの家系が跡絶えると言っているのですから、その言葉にはアキレウスの子でペーレウスからすると孫の存在は感じられません。ところが、『オデュッセイア』には息子を気に掛ける父親のアキレウスが存在しているのです。その子の名前はネオプトレモスで、アキレウスの戦死後に、オデュッセウスがスキュロス島からトロイアに連れてきた若武者です。すなわち、トロイア戦争に加わることを嫌った母テティスが、アキレスに女装させてスキュロス王リュコメデスにあずけたとき、王の娘デイダメイアとの間に生まれた子です。アキレウスの死後に彼の息子がトロイアに来て活躍するという筋書きから時間の経過を推測すれば、アキレウスが戦死してから終戦までは、かなりの年月が経っていることになります。『イリアス』と『オデュッセイア』にはいろいろな矛盾が存在していますので、ホメロスの実在を否定する説も出ている程です。



ダンテのアキレウス観


 ダンテがアキレウスをどの様に観ていたかは、彼がそのギリシアの英雄を色欲の罪を犯した者が刑罰を受ける地獄の第2圏谷へ閉じ込めていることから分かります。中世時代の人々は、ホメロスを始めとしてギリシア文化・文学に直に接することはできませんでした。それは当時の西ヨーロッパにはギリシア語の読める人材がいなかったからです。中世の文化人の知ることができたギリシアの情報は、ローマ人たちがラテン語に翻訳したり改作したりした書物から得たものでした。中世ヨーロッパ人の先祖にあたる古代ローマ人たちは、古代ギリシアに対して畏敬の念を持っていて、大量のギリシア文献をラテン語化しました。その運動の最盛期は、カール大帝統治下のフランク王国の時代(8世紀から9世紀)に興った「カロリング朝ルネサンス」と呼ばれる古典ギリシア・ラテン文化の復興運動の時代であったと言われています。おそらくその時代に、アキレウスに関するいろいろな神話や逸話も創り出されたと推測されます。ダンテがアキレウスを肉欲に溺れて身を滅ぼしたものとして地獄に落とした根拠は、ローマ時代から中世時代にかけて流布していた次の逸話にあったと言われています。

 アキレウスは、トロイア王プリアモスとヘカベの子トロイロスを襲撃した時、(または、ヘクトルの遺体を貰い受けに来たプリアモスとアンドロマケに同行した)ポリュクセネ(ホメロスには登場しない人物)に一目惚れをしてしまいました。アキレウスは彼女を妻に貰い受けるために、ギリシア軍を裏切ってトロイア方に味方することを決心しました。そのことを申し込むためトロイアの城内に入り込みました。そしてアポロン神殿のところまで来たときに、パリスによってアキレス腱を弓で射貫かれて殺害されました。(『神曲』地獄巡り5.参照)



西洋人はトロイア贔屓(びいき)

 トロイア人のことを英語では「トロージャン(Trojan)」と言います。またその英単語には「勇士」という意味も加わっています。アメリカのロサンジェルスの名門「南カリフォルニア大学」では学生を「トロージャンズ」と呼んでいます。そして大学のシンボルにトロイア戦士像を使っています。


南カリフォルニア大のトロイア戦士像
大学校庭のランドマークになっているトロイア戦士像

南カリフォルニア大の胸像
体育学部本部校舎の上に掲げられているトロイア戦士の胸像

 上の南カリフォルニア大学の事象は、トロイア贔屓がヨーロッパだけでなくアメリカにまで達していることの証拠だといえます。さらに西洋人の「トロイア贔屓」の根源と現象を考えてみましょう。

 ギリシア連盟軍に敗れたトロイア国は滅亡しました。ウェルギリウスの『アエネイス』には、国もろともに王家は壊滅したと描かれています。トロイアの本丸が陥落する間際に、トロイア王家の傍系にあたる王子アエネアスが、父親アンキセスと妻クレウサと息子アスカニウスの三人を連れて、国外に脱出しました。


トロイアを逃れるアエネアス
「炎上するトロイアの逃れるアエネアス」バロッチ(Federico Barocci、1526~1612)作

 トロイアの落城が間近に迫ったとき、ヘクトルの亡霊が現れて「女神の子よ、逃げよ。トロイアの聖物と守護神を汝に託す。この神々を祀る新しい土地を求めて航海をして、都を建設してくれ(第2巻289~295)」と、アエネアスにトロイアの未来を委ねました。アエネアスは、新トロイアを創建するため、ヘスペリア(西方の国)を目指して航海に出ました。そして艱難辛苦の冒険を重ねながら、当時はラティウムと呼ばれていた国に着きました。そして、そこにローマ帝国の礎を築きました。


現代の地図に重ねたアエネアスの航路
現代の地図上に重ね合わせたアエネアスのトロイアからラティウスへの航海

 アエネアスは、トロイアを逃げる最中に妻クレウサを亡くしました。そしてラティウムへ向かう途中に立ち寄ったドレパヌスで父アンキセスを亡くしましたので、ラティウムに辿り着いたとき、身内は息子のアスカニウスだけでした。
 アエネアス父子とその部下たちがラティウムに着くと、ラティヌスという王がラウレンテス族を統治して、妃アマータとの間に王女ラウィニアがいました。神意により男子が生まれず、異国から来る男と結婚することになると予言されていました。ラティヌス王は、その予言された男をアエネアスだと信じていましたが、アマータ妃は隣国のルトゥリー族の王トゥルヌスを娘ラウィニアと結婚させようとしました。そこで、トロイア人アエネアスとイタリア人トゥルヌスとの戦いが始まり、結果はアエネアスが勝利してラウィニアと結婚することになりました。それは、トロイアとイタリアとの融合であり、ラティウムの地に新トロイア国家が建設されたという意味です。そしてその家系は、ユリウス・カエサルからその後継者オクタビアヌス(アウグストゥス帝)につながってきました。さらにその後、ヨーロッパのいろいろな国や町が、トロイア人の末裔の栄誉を獲得するためにアエネアスにまつわる伝説を創作してきました。アングロサクソンの国イギリスもアエネアス伝説を拝借して、トロイア末裔を名乗っています。

注:トロイア伝説を詳しく知りたい人は、私のブログ「歴史はファンタジーでプロパガンダでした」を読んでください。


火で燃やされているオデュッセウス

 これで一応、オデュッセウス、アキレウス、アエネアスの三大英雄の予習は終わりましたので、『神曲』に戻って三英傑が登場する次の詩文を鑑賞しましょう。巡礼者ダンテは先導者ウェルギリウスに「炎が二つに分かれて、一緒に焼かれているのは誰か」と尋ねました。すると先導者は次のように答えました。


 あの中で呵責にあっているのは、オデュッセウスとディオメデスだ、二人は組んで神の怒りを買った仲だ、神罰も一緒に喰らっている。炎の中で〔トロイアの〕馬の権謀を悔いて泣いている、あれがもとで口を開き、そこからローマの高貴な血統が出た。また死後もなおデイダメイアはアキレウスを思って心を痛めているが、あの術策も火中の後悔と涙の種だ、それにパラスの像の件でも罰を喰らっている。(『地獄篇』第26歌55~63、平川祐弘訳)


オデュッセウスとディオメデスの紹介


 オデュッセウス(Odysseus)はギリシア語名で、ローマ時代のラテン語名は「ウリクセス(Ulixes)」となり、ルネサンス期になって「ウリッセース(Ulysses)」という名称が使われました。イタリア語名は「ウリッセ(Ulisse)」で、もちろん『神曲』でもその名称が使われています。
 ギリシア語名ディオメデス(Diomēdēs)は、ラテン語名も同じです。イタリア語名もほとんど同じで「ディオメデ(Diomede)」と言います。彼はオデュッセウスと比べれば有名ではありませんが、ギリシア軍中では最も巨漢の豪傑で、武術に関してはアキレウスに次ぐ英雄でした。『イリアス』では、アエネアスと決闘をして、大きな岩石を投げて腰に命中させて、彼を倒しました。アプロディテ(ローマのウェヌス)が助けに入ったとこを、女神も剣で手のひらのつけ根を刺し貫きました。また、アキレウス主催によるパトロクロスの追善競技では武闘格闘技に参加して、ディオメデスに匹敵する巨漢の大アイアスと闘って勝利しました。



詩の分析:ギリシアの英雄との出会い

アキレウスとディオメデスと面会するダンテ
ギリシアの二人の英雄と面会するダンテ(プリーモ・デッラ・クェルシャPriamo della Quercia作)

 前に載せた『地獄篇』の詩行には、オデュッセウスとディオメデスが「二人組んで神の怒りを買って、神罰を受けている(insieme a la vendetta vanno come a l'ira)56~57」共謀事件が三件書かれています。まず最初の事件は、トロイアの「木馬の奇襲作戦(il agguato del cavallo)59」です。確かにこの作戦は、トロイア陥落の最も重要な要因になりました。しかし木馬の作戦がオデュッセウスとディオメデスの共謀だという記述は、ホメロスには見つかりません。『オデュッセイア』第8巻の記述によれば、木馬の策略は、確かに考案者はオデュッセウスですが、製造者はエペイオスになっています。それゆえに、ディオメデスとの共謀説はダンテの錯覚か、私たちが知ることのない資料をダンテが持っていたかのどちらかでしょう。因みに、トロイアの陥落により出た「ローマの高貴な血統(Romani il gentile seme)60」とは、アエネアスから続くカエサルの家系のことを意味しています。
 二件目の事件は、アキレウスとデイダメイアの別離です。アキレウスの母テティスは息子がトロイアへ出征することを阻止するために、彼に女装させてスキュロス王リュコメデスの娘たちの中に隠しました。その間に、アキレウスはデイダメイアと恋に落ちてネオプトレモスという男子まで儲けました。ところがオデュッセウスとディオメデスの二人がアキレウスを見つけだして、トロイアに連れ去りました。この件に関しては、二人の武将は共謀したので、この地獄に閉じ込められていることには辻褄が合います。
 三件目の「パラス像に関する刑罰(pena del Palladio)」です。この事件は、ウェルギリウスの『アエネイス』(第2巻162~170)の逸話から採られていると言われています。「パラディオ(Paradio、ラテン語ではParadium)」とは、パラス・アテネ女神の木製の像です。イルスがトロイアを創建するとき、国の守護神としてゼウス(ユピテル)から授けられたものです。常にトロイアの城内に設置されて国の安全と繁栄を護っていました。それを知ったオデュッセウスとディオメデスが共謀して盗みだしました。それがトロイア滅亡の一因になったと伝えられています。



イタリアの三大詩人:ダンテとペトラルカとボッカチオ

イタリア三大詩人


ダンテの時代の言語運動は二通りの方向に進んでいました。一つは、各地方で方言化して乱れたラテン語を格調高い古典時代のラテン語に復活させることでした。そしてもう一つは、分化したもろもろのロマンス語(俗ラテン語)を国語として確立し、ラテン語に負けない優れて言語に成長させることでした。(詳しくは、私のブログ「『神曲』地獄巡り14.甘く新しい詩形」を参照。)

 格調高く確立されたイタリア語で最初に書かれた大作は『神曲』です。しかも世界最高の傑作です。そのダンテの偉業は、フェニキア文字から作られたばかりのギリシア文字で西洋最初の作品『イリアス』を創作したホメロスに匹敵するものです。乱れていたラテン語も未熟な俗語イタリア語も、優れた文献を書き上げるほどに成長しました。しかし、古典ギリシア語は、ローマ帝国の分裂(396)により、東ローマ帝国(ビザンティウム)の中で使用されるだけになりました。それゆえにギリシア語は、西ローマからは、最初は徐々に、最後には完全に消滅しました。言語改革に取り組んできたダンテ(1265~1321)でさえもギリシア語を学ぶ環境にはありませんでした。アヴィニヨンにいたペトラルカ(1304~1374)は、ビザンティウムから来ていたバラムという学者から近代ヨーロッパ人としては初めてギリシア語を習い始めたが、その先生は途中で帰国してしまったので習得することはできませんでした。最初のギリシア語習得者は、ペトラルカの友人で『デカメロン』の作者ボッカッチョ(1313 ~1375)です。彼は、1360年、カラブリアからピラトゥス(Leontius Pilatus)をギリシア語教授としてフィレンツェに招き、近代ヨーロッパ人としては初めて、ギリシア語を習得しました。1453年、オスマン・トルコによってコンスタンティノポリスが陥落して、ギリシア語学者が大量に西ヨーロッパへ逃げて来ましたので、ギリシア語学習も容易になりました。そして1463年頃、メディチ家の援助を受けてプラトン・アカデミーが創設され、ギリシアの研究も盛んになってきました。



ダンテのギリシア語


 地獄の第8圏谷第8ボルジャでオデュッセウスとディオメデスという大英雄の名前を聞いたダンテは、どうしても二人と話したくなりました。そこで、先達ウェルギリウスに「千度の価値のある一回のお願い(il priego vaglia mille)」(priegoは現伊語ではpregoまたはpreghiera)をしました。すると先達は次のように答えて言いました。

 なかなか殊勝なおまえの願いだ、だから聞きとどけてやるが、ただおまえは口を慎んでいるがいい。私がかわりに話そう。おまえが聞きたいことは私にはわかっている。彼らはギリシャ人だから、おまえの言葉など馬鹿にされるのが落ちだ。
(『地獄篇』第26歌70~75、平川祐弘訳)


 上の詩行は、ギリシア語とラテン語に対するダンテの立ち位置が分かる表現として有名な箇所です。ダンテを始めとして中世の教養人にとってラテン語能力は出世栄達のための必須条件でした。ダンテもラテン語は母国語であるイタリア語以上に使いこなすことができました。そのことを踏まえて、ウェルギリウスがダンテに向かって発した「彼らはギリシア人だから(perch' e' fuor greci)、お前の言葉を馬鹿にするだろう(ei sarebbero schivi ・・・ del tuo detto)74~75」という言葉の意味を考察してみましょう。
 この場面でダンテがオデュッセウスに話し掛けていたとするならば、イタリア語かラテン語を使っていたはずです。文学の世界では何語を使おうが、通訳なしに理解しあえるような設定で創作することがあり、それに矛盾を感じる読者もいないようです。人間の言葉だけでなく、犬語でも鳥語でもコミュニケーションが成立するように物語を作ることができます。『神曲』はイタリア語で書かれています。詩人ダンテは、登場人物のダンテやウェルギリウスを始め、ほとんど全ての登場人物にイタリア語を話させています。現実の世界ではあり得ないことですが、文学など虚構の世界では矛盾を感じません。この現実世界でダンテとウェルギリウスが会話を交わせば、使う言語はラテン語以外にはあり得ません。では、ウェルギリウスとオデュッセウスとの対話を成立させるのに必要な言語は何かと言えば、ギリシア語以外には考えられません。なぜならば、ローマの文化人たちはギリシア語を話すことができましたが、オデュッセウスはラテン語の存在すら知らなかったからです。
 古代ローマ人は、古代ギリシア文化に強烈な憧憬を抱いていました。その事情は、ホラティウスの「征服されたギリシアは強暴な征服者(ローマ)を征服した(Graecia capta ferum victorem cepit)『書簡集』Ⅱ、1,156」という言葉が如実に表現しています。また、ユリウス・カエサルがブルトゥスに暗殺される時に叫んだ「ブルトゥス、お前もか」という言葉もギリシア語であったという逸話も、ギリシアへのローマ人の憧憬の強さを表しています。ローマ人であったウェルギリウスからすれば、ダンテがイタリア語で話そうがラテン語で話そうが、ギリシア人からは馬鹿にされることになるということです。
 ダンテが活躍したのは、ルネサンスもまだ黎明期の微かな光が見える程度の時代だったのでやむを得ないことですが、彼は古代ギリシアの知識をほとんど持っていませんでした。ダンテが知るギリシアは、ローマ人がラテン語で紹介した書物で知った「又聞き」の世界でした。しかし、そのギリシアに関する情報量が圧倒的に乏しい環境にあっても、イタリア語は言うまでもなくラテン語さえ馬鹿にされるほど、ギリシア語は優れた言語であったと、ダンテは考えていたようです。ただし、ダンテは、次の第27歌で言語の混乱を起こします。しかし、この時点で明確に指摘することができるのは、アキレウスに関する知識も、オデュッセウスに関する知識も、ホメロスを読んで得たものではないということです。ダンテは、ラテン語訳でさえ、ホメロスを読むことも手にすることもできなかったようです。次回オデュッセウスの航海譚を見れば、そのことが明白になります。