[福岡県大牟田市唐船地区に残る敵爆撃機迎撃用のトーチカ跡]
作家の佐藤優氏のコメントを新聞コラムで目にした。毎日新聞「オキナワ2013.2」。
「沖縄に「準国家的主権」を認めてはどうだろうか」、というコメント。
◇「準国家的主権」認めて
「怒りを通り越して、悲しみと冷静さが広がっている」。作家の佐藤優さん(53)は、米軍垂直離着陸輸送機オスプレイが強行配備された沖縄の現状をそう表現した。「このまま政府による沖縄への『差別』が続けば、分離独立を求める運動が始まりかねない」とも。・・・
鋭い目つきで刺激的な主張を展開する。特に官僚には手厳しい。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設を進める政府について「一時は地元が移設に理解を示したことから、官僚は金を落とせば力で押し切れると思い込んでいるが、沖縄はもはや辺野古移設を『差別』のシンボルととらえている。絶対に受け入れないということを全然分かっていない」。
米海兵隊が沖縄に駐留する理由として、政府が繰り返してきた「抑止力」も「虚妄の論理」と切って捨てる。「そもそも海兵隊員を運ぶ強襲揚陸艦は長崎県の佐世保基地にある。軍事的には海兵隊が沖縄にいなくてもいいはずだ」
「抑止力とは、日本の安全が脅かされた時に米国が助けてくれる信頼関係があるということ。普天間の辺野古移設やオスプレイ強行配備は、米軍基地が住民の敵意に囲まれて運用しにくくなる状況を作り出し、抑止力をかえって弱める」と政府を批判する。
溝が深まる一方の沖縄と本土。佐藤さんは打開策として、政府が沖縄県の「準国家的な主権」を認めることを提案する。沖縄10+件防衛局長や外務省沖縄10+件担当大使の人事に県知事の同意を必要とすることや、安全保障に関する日米協議に沖縄県も加えるといった構想だ。「沖縄の意思を尊重する仕組みを担保すれば、歩み寄れる可能性はある」
(毎日新聞・2013年2月27日-東京夕刊/西部本社版は2月26日朝刊)
沖縄に「準国家的主権」を認めてはどうか、ですか。
而して、このコラムを読んだ私の感想は、
б(≧◇≦)ノ ・・・生ぬるい! 沖縄には「主権」を認めるべきだ!
б(≧◇≦)ノ ・・・すなわち、沖縄は可及的速やかに日本から出て行け!
というもの。蓋し、予算だけポッケに入れて、やらずぼったくりの沖縄県は、そろそろ支那にでも併合されるなり独立されるなりされればよろしい。簡単なことではないでしょうか。もし、沖縄県民がそう望まれていればの話ですけれども。
畢竟、公共施設に掲げられた日の丸を焼き、皇室に火炎瓶を投げた沖縄。普天間基地問題で、やらずぼったくりを繰り返しながらいまだにごね続けてている沖縄。そして、現下においても沖縄で繰り広げられている、自衛隊の隊員諸氏、そして、同盟国であるアメリカの将兵に対する、<沖縄>の無礼千万と失礼千万な振る舞いを見るにつけ、私はそう感じる。
対支那の日本の安全保障を考えた場合、あるいは、第二次朝鮮戦争勃発の際の日本の安全保障を考えた場合、いかに、沖縄が地政学的に重要であっても、<小早川秀秋>するのが確定的な沖縄を「帳簿上味方」に記載し続けるというのは、気休めにしかすぎす、「百害あって一利なし」ですから。
畢竟、戦後生まれの本土の人間にとって「鉄の暴風雨」とやらがいかほど激しかったにせよ、それは、現在、沖縄が特別扱いされる理由には全くならないということ。大体、国民が等しくその運命を甘受するしかない戦争状態において、かつ、どの国の国土も、位置的にも地勢的にも歴史的にも非対称である以上、「沖縄が本土の犠牲になった」という表現自体が成立しないのではないでしょうか。「沖縄」は「日本」の一部ではないのか、と。
例えば、私達の郷里、福岡県大牟田市では1945年8月7日の第4回空襲で、(私達の母校「福岡県立三池高校」の前身である)三池中学、および、伝習館、ならびに、大分県豊州高等女学校等々からの勤労動員学徒41名を含む350人以上の死者が出ましたが、それは沖縄基地から飛来したB24小型爆撃機の編隊によるもの。大牟田は沖縄の<犠牲>になったのです。
なら、沖縄戦に向け戦艦特攻を敢行した大和の乗組員遺族や、沖縄戦後、その占領された沖縄を出撃および補給拠点、ならびに、機材不具合の際の避難拠点としたアメリカの攻撃に終戦の9月2日までさらされた本土の被害と恐怖を沖縄県民が償ってくれるとでもいうのだろうか、と。<沖縄>以外の日本人は誰もそんなこと思いつきもしないでしょうけれどもね。
土台、47都道府県が平等でなければならないという感覚自体がおかしい。47都道府県でくじ引きで、あるいは、人口比、または、面積比等々の指標を用いるにせよ平等に米軍基地を引き受けなければ不公平とでも言いたいのか。だったら、東京には国会の100%があり不当な負担を押しつけられているとでも。馬鹿げている。これこそ日教組流の悪しき<平等>思想の一斑、鴨。
東京大空襲は言うまでもなく、例えば、大牟田市や、あるいは、職場の同僚が密集している千葉県木更津市を含め、空襲で亡くなった本土の死者の値打ちはひめゆりの死者の値打ちより劣るとでもいうのか。あるいは、補助金もなく、限界集落続出の本土の過疎地の値打ちは沖縄の観光地より低いというのか。
47都道府県、地理的にも産業的にも歴史的にも、非対称的だからこそ、<日本>は奥が深く豊潤なのではないでしょうか。ならば、沖縄の主張は、ほとんど、「あなた何さま?」ものの主張でしょう。
蓋し、佐藤氏が言うような「米軍基地が住民の敵意に囲まれて運用しにくくなる状況」が現出すればアメリカはさっさと沖縄を出て行くと思います。
畢竟、沖縄問題は、最早、<差別>とか<犠牲>という沖縄側の視点からだけではなく、沖縄に対する怒りと呆れというアメリカと沖縄県民以外の日本人からの視点から再構築されないといけない時に来ているの、鴨。そして、その再構築のプロセスには、(ⅰ)アメリカが沖縄、そして、日本に愛想を尽かすという事態、(ⅱ)日本の非沖縄の都道府県民が沖縄に愛想を尽かすという契機が組み込まれなければならないの、鴨。
蓋し、沖縄側の視点には、その暗黙の前提として、「どうゴネても日本もアメリカも沖縄を手放さないさー」、という古き良き冷戦時代の思い込みがあるの、鴨。そんな沖縄にとって「夢のような時代」はとっくに終わっているというのに。
実際、私の乏しい20余年の<アメリカ体験>によれば、知識人層の95%までは日本の問題、就中、経済問題以外の安全保障問題などには無関心。また、日本に関心のある残り5%を100とした場合、その99%は「もちろん、有事の際には、断固としてアメリカは日本を守るけれど、本音で言わせてもらえば、なんで、日本のためにアメリカの若者が血を流さなあかんねん」と思っている。酷いことも嫌なこといろいろあるけれど、アメリカという国の立派さは、この知日派の知識人層の多数派の感覚は潜在的なアメリカの世論の意向とぴったり重なること。蓋し、沖縄県民がそれを望むのならば、沖縄はもうアメリカにとっては不要であり、よって、日本にも不要なのです。
尚、佐藤氏の言われている「沖縄県の「準国家的な主権」を認める」ということが、英国におけるスコットランドやカナダにおける諸州の如き「内政自治権」を大幅に認めるということなのか、あるいは、国家の安全保障政策に参与する権限という意味も含むのか、具体的には今一つよくわからい。
けれども、前者の自治権には原則「外交・安全保障」は含まれず、後者であれば、明らかに沖縄以外の都道府県に対する<差別>であり現行憲法上は認められない。ならば、法理上も「準国家的な主権」などの曖昧なものの出てくる余地はなく、「準国家的な主権」を巡る問題は「主権」を沖縄に認めるべきか否かだけの二択問題ではないかと思います。閑話休題。
畢竟、補助金を懐にしたうえでの「やらずぼったくり」、かつ、同盟国のアメリカと自衛隊に無礼極まりない、ふざけた沖縄の事態は、最早、左翼とか右翼とかのレベルの高尚な問題ではない。それは、最早、<沖縄>が主権国家たる日本の国家統合と安全保障に貢献する気があるのかないのかの問題だと思います。
而して、沖縄が本土の<犠牲>にされ、本土と<差別>されていると言うのなら、日本から出て行くがいい、と。準主権などではなく主権をあげるから、あとはどうぞお勝手に、と。
そう私は考えます。