◯ 私は明治大学でベンチャーファイナンス論という授業をしています。通年の授業でもう9年程度行っています。最初の授業の教え子はもう32歳くらいでしょう。考えてみたら私が33歳くらいの時から教えています。今から思えば何か教えるような付加価値が自分にあったのでしょうか。とはいえ、教え子のなかから誰かに教えるような子が出てきたらうれしいですね。
◯ 大学で教鞭をとる事にはたくさんの意味があり、常に20~22歳程度の若者と接し続ける事により、若者の感性や考え方を学んだり、私自身が彼らを通じて成長できる事です。私が教えられることはわずかです。彼らとの雑談やふとした意見、相談などは非常に面白いし、驚きあきれる事もあるし、悲しくなる事も少なくありません。呆然とするくらい浅はかなこともあるし、涙が止まらないくらい同情を禁じ得ないときもあるし、問題の根深さに絶句する事もしばしばです。
◯ 一番多いのは就職の相談です。私が大学時代に、ゼミの先生ではなく普通の授業をしている先生に就職の相談をする事はありませんでしたが、私が社会人で、相談する価値があると思ってもらえるせいか就職の相談は非常に多いです。そしてその相談がまた社会の風潮を鋭く反映します。
◯ 最近目立つのは「社会起業家になりたい」というような相談。目をキラキラさせて「私は社会貢献をしたいんです。世の中のためにたつことをしたいんです」と言います。
実際、他の大学でもそのような話が多いそうで、最近の学生はまじめになったという先生の意見もよく聞きますが、ただ「まじめ」というわけではない意識もあるんですね。
◯ たとえばこんな感じです。
「社会起業家という選択ではなくて、たとえば単に起業家というのではだめなの?」(私)
「先生、私は金儲けではなく社会貢献がしたいんです」(生徒)
「じゃあ、君が仮に起業家になったとするね。あなたが何かの商品を作ったとする。あなたが作る商品は社会に役に立たないものを作ろうとするかい?」
「いえ、そのようなものは売れません」
「では、その商品って価値よりバカ高いものを作ったとして、今の日本や世界の消費者がそんなもの買うかな?」
「買いません」
「じゃあ原料がめちゃくちゃ安いけれども健康に悪いものを作り続けたら、どうなる?だまし通せるかな」
「う~~ん、巧妙にだましている会社もいるのではないでしょうか」
「とはいえどんなに巧妙にだましても、ネット社会で様々情報がネットで書き込まれるし、従業員も良心に反する行動を長期的に強制されたら必ず怒る人も出てくるよ。現実には予想以上に悪がはびこるときもあるけれども、誰もが認めている悪が最後までまっとうできることはまずないよ」
「そうでしょうかね。企業は金儲けの手段ではないのでしょうか」
「結局は商売は正直に割安なものを作って、適正利潤を得ていくしかない.もちろんどのような会社にもきれいごとではない世界は広がっているけれども、一方で、そんなに無理もできないんだよ。根本的に社会やお客様が喜んでいないとなりたたないんだ。ところで社会起業家になることってそんなにきれいなことでもないよ。」
「覚悟しています」
「社会起業家になるためにもお金を集めなきゃいけない。そこで働く人もいるし、活動を永続するためには資金が必要だ。資金を得るためには売上をあげるか、寄付や借入か出資かでお金を集める必要がある。でもおいそれと死に金を出す人はいない。そのためには知恵をつけるか、実績をつけるか、信頼を得るかが必要だけれども、それらはそんなに簡単ではないんだ。ボランティア的な仕事は人に感謝をされるかもしれないけれども、自分が社会起業家になりたいのは優越的地位に自分が立ちたいという気持ちがあるんではないの? どろどろになって営業をしたり、上司にしかられたり、お客様に頭を下げたりする事を避けて、安直な感謝を求めているというような気持ちがあるのではないの?」
「・・・・・・・」
◯ 私は社会起業家になることを奨励していない訳ではないんです。でもそれはやはり起業家の一種であり、最終的な利益の分配が事業目的によって違うだけで、本来は起業家の活動は社会貢献そのものなんです。創業して3年以内に8割が倒産するといういばらの道であり、しかしその行為そのものが偉大なる社会貢献なんですね。たとえつぶれたとしても、社会に何かを提供し、従業員に雇用を産んでいた訳ですから、意味なく産まれる者なんてほとんどありません。起業家が金儲けで社会起業家が金儲けでないという考えはそれこそとんでもない。社会貢献性のない起業は成功しないし、事業性の全くなく湯水のように赤字を垂れ流す一方の収益性ゼロのモデルのソーシャルベンチャーもありえないんです。
結局はどろどろになってお金を調達し、誰かに配分しなければいけない。その事実はベンチャービジネスであれソーシャルベンチャービジネスであっても同じ地平にあるのですね。
◯ 大学で教鞭をとる事にはたくさんの意味があり、常に20~22歳程度の若者と接し続ける事により、若者の感性や考え方を学んだり、私自身が彼らを通じて成長できる事です。私が教えられることはわずかです。彼らとの雑談やふとした意見、相談などは非常に面白いし、驚きあきれる事もあるし、悲しくなる事も少なくありません。呆然とするくらい浅はかなこともあるし、涙が止まらないくらい同情を禁じ得ないときもあるし、問題の根深さに絶句する事もしばしばです。
◯ 一番多いのは就職の相談です。私が大学時代に、ゼミの先生ではなく普通の授業をしている先生に就職の相談をする事はありませんでしたが、私が社会人で、相談する価値があると思ってもらえるせいか就職の相談は非常に多いです。そしてその相談がまた社会の風潮を鋭く反映します。
◯ 最近目立つのは「社会起業家になりたい」というような相談。目をキラキラさせて「私は社会貢献をしたいんです。世の中のためにたつことをしたいんです」と言います。
実際、他の大学でもそのような話が多いそうで、最近の学生はまじめになったという先生の意見もよく聞きますが、ただ「まじめ」というわけではない意識もあるんですね。
◯ たとえばこんな感じです。
「社会起業家という選択ではなくて、たとえば単に起業家というのではだめなの?」(私)
「先生、私は金儲けではなく社会貢献がしたいんです」(生徒)
「じゃあ、君が仮に起業家になったとするね。あなたが何かの商品を作ったとする。あなたが作る商品は社会に役に立たないものを作ろうとするかい?」
「いえ、そのようなものは売れません」
「では、その商品って価値よりバカ高いものを作ったとして、今の日本や世界の消費者がそんなもの買うかな?」
「買いません」
「じゃあ原料がめちゃくちゃ安いけれども健康に悪いものを作り続けたら、どうなる?だまし通せるかな」
「う~~ん、巧妙にだましている会社もいるのではないでしょうか」
「とはいえどんなに巧妙にだましても、ネット社会で様々情報がネットで書き込まれるし、従業員も良心に反する行動を長期的に強制されたら必ず怒る人も出てくるよ。現実には予想以上に悪がはびこるときもあるけれども、誰もが認めている悪が最後までまっとうできることはまずないよ」
「そうでしょうかね。企業は金儲けの手段ではないのでしょうか」
「結局は商売は正直に割安なものを作って、適正利潤を得ていくしかない.もちろんどのような会社にもきれいごとではない世界は広がっているけれども、一方で、そんなに無理もできないんだよ。根本的に社会やお客様が喜んでいないとなりたたないんだ。ところで社会起業家になることってそんなにきれいなことでもないよ。」
「覚悟しています」
「社会起業家になるためにもお金を集めなきゃいけない。そこで働く人もいるし、活動を永続するためには資金が必要だ。資金を得るためには売上をあげるか、寄付や借入か出資かでお金を集める必要がある。でもおいそれと死に金を出す人はいない。そのためには知恵をつけるか、実績をつけるか、信頼を得るかが必要だけれども、それらはそんなに簡単ではないんだ。ボランティア的な仕事は人に感謝をされるかもしれないけれども、自分が社会起業家になりたいのは優越的地位に自分が立ちたいという気持ちがあるんではないの? どろどろになって営業をしたり、上司にしかられたり、お客様に頭を下げたりする事を避けて、安直な感謝を求めているというような気持ちがあるのではないの?」
「・・・・・・・」
◯ 私は社会起業家になることを奨励していない訳ではないんです。でもそれはやはり起業家の一種であり、最終的な利益の分配が事業目的によって違うだけで、本来は起業家の活動は社会貢献そのものなんです。創業して3年以内に8割が倒産するといういばらの道であり、しかしその行為そのものが偉大なる社会貢献なんですね。たとえつぶれたとしても、社会に何かを提供し、従業員に雇用を産んでいた訳ですから、意味なく産まれる者なんてほとんどありません。起業家が金儲けで社会起業家が金儲けでないという考えはそれこそとんでもない。社会貢献性のない起業は成功しないし、事業性の全くなく湯水のように赤字を垂れ流す一方の収益性ゼロのモデルのソーシャルベンチャーもありえないんです。
結局はどろどろになってお金を調達し、誰かに配分しなければいけない。その事実はベンチャービジネスであれソーシャルベンチャービジネスであっても同じ地平にあるのですね。