■都合よく曲解するのはどっち?
先日、パール博士に関するエントリーを書きましたら
日印関係、わが国を破壊するマスコミスパイ活動
パール判決を貶めたい勢力
えらく、怒られてしまいました^^
パールの息子であるプロサント・パール。東条英機をはじめとする日本の戦争指導者を美化する映画『プライド』が彼の「心を傷つけ、憤らせている」とインドの新聞「インディアン・エクスプレス」は報じた。
と
「父が渾身の力を振りしぼってまとめ上げた判決書を、自分の政治的立場を補完する材料として利用しようとする者への怒りは、きわめて厳しかった」(中島p.295)
はセパレートなんだそうであります。
中島先生すいません。
というより、わかりにくい書き方しないでください。感想文の先生。
で「原典(中島パール判決)は読んだのか?」とおっしゃられる。
(厳密に言うと流し読み)
まず、中島「パール判決」は田中「パール判決」に抗する意思で
書かれていると、私は思っております。
(流し読みでもそれぐらいはわかる)
でざっと見、私はパール探求部分に関しては評価出来ません。
視野が狭い。
だから私のエントリーの本題は
「パール判決を貶めたい勢力」です。
で感想記先生はこうおっしゃる。
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どなたがどのように利用しておるんでありましょう。
正しかったというより、大義があってそれをパール博士も認めておられたのですが・・
言われる右派が原典とするのは、やはり田中正明先生でしょうが
当の先生は著書にてこのように書かれています。
(Webで引用しようとすると疑惑・・じゃない、もうすでに渦中ですが・・のところが。
なもんで手持ちから。ちなみに原著は非売だったと思うんですが^^)
『パール博士のことば』 (東京裁判後、来日されたときの挿話) 田中正明著
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中島岳志さんは何か勘違いをされているようですが
同情で判決を書かれたからという事で喜んでいる右派がおりましょうか?
博士がインドが親日的だから・・という枕詞で判決を論じて喜んでおりますでしょうか?
同情でないからこそ、パール判決は尊ばれているのです。
博士が平和を愛されていることは、
右派もよく知っており、平和主義者であるからこそ
パール判決は意味を持つのであります。
でどうしても「右派によるパール博士の利用」を言いたいのでしょう。
つまり、大東亜戦争の戦争目的の肯定論の否定です。
「大東亜戦争の意義目的をパール博士は御理解されていた。」
確かにご理解されていました。
確かにご理解されていました。
著書や語録で引用してもいいのですが
「ソースを出せ」とかになるので、わかりやすいのを一つ。
証拠
↓
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これは広島の本照寺というお寺の筧住職が
広島に訪れていた博士を訪ね
「戦死英霊、原爆殉難者ご精霊に手向ける碑文を書いていただきたい」
と慨嘆された時に
一夜想を練られて書かれた詩であります。
博士は「アジア解放のため」とされています。
これはその時にベンガル人通訳により英訳、和訳されました。
その碑は今も残っています。
ちなみに、「パール博士の日本無罪論」田中正明著
について
「パール判決書全文を公開せよ。都合によって抜粋しているのではないか。」
などと攻撃する者もいましたが
講談社よりの
「共同研究パル判決書」
小学館(?)
からの全文刊行より随分以前に
「全訳・日本無罪論=極東軍事裁判 印度代表判事 R・パール述」
として、平凡社下中弥三郎翁・田中正明先生らによって出版されたのです。
この原稿監修はパール博士ご自身です。
で感想記先生はこのようにもおっしゃいます。
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はい。確かに東京裁判でのことでありますから「判事」でもよいのです。
ただし、国際法における博士の「権威」を少し誤解されています。
博士が国際法の権威と評されるのは、東京裁判における「日本無罪判決」
に対する評価も大きな理由なのです。
だから博士のその後の権威も東京裁判判決と無関係ではない。
そして博士の無罪判決が国際法曹界で評価されます。
もちろん賛否は分かれますが、大きな論争となりました。
当時のロンドンタイムスなどは長期にわたり、紙面論争を繰り広げます。
で英国法曹界の重鎮であったロード・ハンキー卿は
「パール判決こそ正しい」として
「戦犯裁判の錯誤」という論文をを上梓します。
そして、1953年にジュネーブ国際司法委員長に推挙されたのです。
でもうひとつ誤解がある。
博士は裁判当時は国際法の権威ではなかった・・・・
確かに。でも・・・
あのぉ。東京裁判において、
国際法の学位を取得されていたのはパール博士だけなんですけど。
二人の中国人判事は裁判官資格も持っていなかった。
ソと仏の判事については法廷協定用語である英語と日本語を
理解できていなかった。
そんなのとパール「判事」を同列に論じるわけでしょうか?
それとよくある誤解。
「パール博士は裁判が法的に瑕疵があるから戦犯無罪」
とされたという見解。
確かに本質はそうでありますが、
判決後の博士の思いはまさに「日本無罪」であったわけです。
東京裁判において、日本軍の不法行為に言及されたのも
検事提出資料における、法定資料に基づくものであり、
判決後の博士ご自身の調査において、その検察提出資料の
背景なども分析され、ますます東京裁判の出鱈目さを認識されるのです。
そして、A項戦犯に対しては巣鴨まで見舞いに行かれ激励されます。
法律解釈だけでなく、現実的不法行為責任者だったと思っておられたら
見舞い激励に訪れますか?
↓
巣鴨に戦犯を激励に訪れるパール博士
そしてA項戦犯処刑後はBC項戦犯の家族にこうおっしゃっています。
「戦犯といわれるが、決して犯罪者ではない。全員無罪です。
何も罪とがを犯したわけではありません。恥ずべきことはなにもないのです」
博士は先の大戦が欧米植民地からのアジアの解放であり
それが我が国の悲願であったと認められておられるのです。
パールの生涯や思想に無関心
いえいえ、博士の生涯・思想に惹きこまれるからこそ
パール判決の人類平和への想いが尊ばれるのであります。
逆に申しますと、
中島先生は、パール判決を研究されるにあたって
田中先生とパール博士との交流について、深く探求されたのであろうか?
田中先生は我が国において、最も深く博士と交流されたお1人です。
ところで先生はこうもおっしゃる
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で中島先生の本ですね?^^
下中記念館が閑散としているのは
元々記念館は平凡社創業者である下中翁の私的別邸でありました。
しかも一般に広く訪れて貰うには、立地が悪い。
だから、東京と京都にパール博士顕彰碑を建立し、
一部展示物を遊就館へと移しているのです。今は予約制です。
なにが言いたいのかわかると思いますが、
ミスリードなニュアンスです。
陣中日誌?またその背景にある話をゆっくりとエントリーで紹介させていただきます。
端折りブログなのに細かく書いてしまった(まだ端折っているけど)
で何のことかわからないと思いますが
本質と関係のないところでいじめられているのです^^
書き忘れたので追記。
中島先生については、批判しましたが
宗教と世界観の論考については(これもざっと見ですが)
非常に面白そう。(って私なんかが偉そうに言うのもなんですが)
だから、黎明の時代の世界観、これをフラットな気持ちで見て頂きたいなぁと。
お若そうなんでびっくりですが、もう一度パール博士観を見つめなおしていただければと。
「2」期待してます。
変なイデオロギーが入っていたらだめですけど。