聖書における預言者(ナービー) 1 | 対内言語と、対外言語と!

聖書における預言者(ナービー) 1

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聖書における預言者(ナービー)1

聖書における預言者(ナービー)2

聖書における預言者(ナービー)3-1 エリア

聖書における預言者(ナービー)3-2 エリア

聖書における預言者(ナービー)3-3 預言者は有能な政治家を評価しない‐エリア

聖書における預言者(ナービー)4;繁栄は社会的正義にあらず!

[聖書における預言者5] ホセア、旧約の中のユニークな思想家 1-a

 

聖書には、律法のほかに預言という大きな流れがある。


律法主義では、「法」を通じてしか人間は神と関係をもたない、神との契約を尊んでいる。神を信ずる信仰(フェイス)とは「神への忠誠(フェイス)」であり、それは「神との契約の絶対遵守だ」ということになる。ところが旧約には「契約」なしで登場して来る不思議な一群がある。それが預言者であり、預言者は神との契約で登場するのではない。 


 キリスト教徒は旧約聖書のなかで、この預言者の伝統を重視し、かつ継承する。一方、ユダヤ教はその中心を律法の伝統におき、イスラム教もそういえる。ユダヤ教、イスラム教に対するキリスト教の独自性はここにある。 


 預言者(ナービー)は歴史的な複雑な存在である。律法との関係で、ある時期に急に現れたものではなく、律法より古い時代から存在した。それもイスラエルだけでなく、東方一帯にあったものである。はじめは「神託を告げる者」といった意味で、多くの宗教にあるエクスタシー(自己解体・ブーム〔こんな空気ですから〕の竜巻状況)状態になってお告げをするような人だった。 


 古代の東方では主権者の周囲にも必ずこのような人がいた。これが先見者(ローエー)であり、次に記すサムエル記上の記述は、歴史的に重要なものである。 ―昔イエスラエルでは、神に問うために行くときには、こう言った。『さあ、我々は先見者のところへ行こう』。今の預言者(ナービー)は、昔は先見者と言われたのである」(九-9) また預言者(ナービー)が代言人の意味に使われている場合もある。 


 歴史的根拠としては、預言者が、見者(ホーゼー)、先見者から発展したということは明らかである。だがそれは、聖書における世編者の独自の性格を明らかにするものではない。勿論系統も大切で、後の預言者に、先見者的、代言人的性格も含まれていたことは事実だが、それは「イスラエルの預言者の特質」を示すことにはならない。