聖書における預言者(ナービー) 2 | 対内言語と、対外言語と!

聖書における預言者(ナービー) 2

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聖書における預言者(ナービー)1



聖書において未来予知を意味する言葉には「見る者(ローエー)」「先見者(ホーゼー)」という言葉がある。預言者(ナービー)は、系統からいえば見る者・先見者から発展したものだが、それらの、つまり未来予知能力を預言者にある場合にでも、それが大切ななのではない。その本質は「神の言葉を預託された者」である。
 従って、その最後に未来における神の厳しい裁きを述べても、その主体が徹底的な現実社会の不正の糾弾であっても不思議ではない。次の文章は『アモス書』からの引用である。これを読めば旧約の預言なるものが、未来予知や予言などといわれるものとは全く違うことがわかる。
「災いなるかな、自ら象牙の寝台に伏し、長いすに身を伸ばし、群れの中から小羊を取って食べ、牛舎の中から子牛を取って食べ、琴の音に合わせて歌い騒ぎ、ダビデのように楽器を造り出し、鉢をもって酒をみ、いとも尊い香油を身に塗り、ヨセフの破滅を悲しまない者たちよ。
 お前たち! 貧しい者を踏みつけ、また国の乏しい者を滅ぼす者よ、これを聞け。お前たちは言う、「新月はいつ過ぎるだろう、そうしたら我々は穀物を売ろう。安息日はいつ過ぎるだろう、 そうしたら我々は麦を売り出そう。我々はエバを小さくし、シケルを重くし、偽りの秤をもって欺き、乏しい者を金で買い、貧しい者を一足で買い取り、また、くず麦を売ろう」
〔アモス書六-4~6 八―4~6〕

 預言者が怒りかつ糾弾したのは社会的不義であり、彼等が求めたのは社会的正義だった。
 
 預言者ミカは次のように述べている。
「私は何をもってヤハウェの前に行き、高き神に拝すべきか。燔祭及び当歳の子牛をもって、その前に行くべきか。ヤハウェ数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わが咎のためにわが長子を捧ぐべきか。
人よ、彼はさきに良きことの何であるかを、お前に告げた。ヤハウェがお前に求めることは、ただ公儀を行い、へりくだってお前の神と共に歩むことではないか」
〔ミカ書六-6~8〕

 神に御供物も御賽銭も捧げる必要はない。神が求めているのは、公儀(社会正義)を実施し、慈しみを愛し、謙って神と共に歩むことだから、それらを捧げよと彼は説いている。