村上春樹『1Q84』 | 文学どうでしょう

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1Q84 BOOK 1/村上 春樹

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村上春樹『1Q84』(全3巻、新潮社)を読みました。Amazonのリンクは1巻だけ貼っておきます。

ちなみにぼくはBOOK1、BOOK2はリアルタイムで読んでいて、3巻通して読むのは今回が初めてです。続きが出る可能性もないわけではないと思いますが、ひとまずは完結した作品として扱いますね。

『1Q84』はご存知の通り、驚異的な売れ方をした本です。これほど注目され、熱狂的な読者を獲得した小説というのは、極めて稀なのではないでしょうか。

本が爆発的に売れたことが、そのままこの小説がよく読まれたことを意味しているかというと、それは少し違うような気もします。

つまり、『1Q84』を読んで、感動したとか、すごく面白かったとか、そういう読者の声に支えられて大ヒットしたというよりは、「村上春樹」のブランド力や、本が売れるから売れるという、ブームの側面が強い感じがします。

『1Q84』を読んでの、みなさんの感想は非常に気になるところです。ぜひ気軽にコメントを残していってください。

『1Q84』というのは、村上春樹の小説の中では、わりと読みやすい部類に入ると思います。物語の筋は基本的には2つで、

(1)青豆という女性が、老婦人の依頼である男を殺そうとする話
(2)天吾という男性が、ふかえりという少女の小説を改稿する話

がそれぞれ交互の章で少しずつ描かれていきます。2つの別々の物語が交互に描かれていくというスタイルは、『海辺のカフカ』と似たところがあります。

青豆と天吾には途中までほとんど共通点はありません。年齢が同じなことぐらいでしょうか。29歳で、まもなく30歳になる2人。物語が進むに従って、秘められた関係性が現れてきます。

前半は全く別のところで生きている2人の、全く別の物語です。この2人がそれぞれ違ったアプローチで宗教法人『さきがけ』と関わることになります。

村上春樹はかつて、『アンダーグラウンド』という地下鉄サリン事件の被害者のインタビュー集を出しました。

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オウム真理教の事件を通して、社会的、宗教的な問題を抱えた村上春樹の出した1つの答えが、この『1Q84』であることは間違いないです。

「リトル・ピープル」という謎めいたスピリチュアルな存在が、この物語の核になっています。動物や人の口から現れてくる数人の小さな存在。「ほうほう」とはやし声をあげ、「空気さなぎ」を作ります。

『1Q84』で描かれるのは、具体的なメッセージではありません。宗教がいいとか悪いとかそういう分かりやすいものではないんです。

肯定的にも否定的にもとらえられないような、スピリチュアルな出来事が描かれています。

「ひとつ覚えておいていただきたいのですが、ものごとは見かけと違います」(BOOK1、22ページ)というのは、物語の冒頭で書かれるタクシーの運転手の言葉ですが、村上春樹の小説では、出来事はメタファーとして描かれます。

メタファーというのは、あるものを別のもので比喩的に表すことです。たとえば暗闇の恐怖をお化けとして表現したり。

物語の中では、「空気さなぎ」というのが出てきます。「空気さなぎ」がなにかのメタファーだとすると、「空気さなぎ」は現実にあるなにかを、そういう形で表現したものになるわけです。

「リトル・ピープル」に関してもそれはそうです。現実にあるなにかをメタファーとして表現しているのだろうと。

ところが、「空気さなぎ」にせよ「リトル・ピープル」にせよ、メタファーとしての形、つまり物語で表現されているものとしては分かるけれど、現実のなにを表しているかは非常に分かりづらいんですね。

そこで謎解き本がたくさん出ることになるわけですが、その辺りはきっちり解釈しなくてもいいような気がぼくにはします。

現実にあるなにかをメタファーで表すことはできますが、その逆、つまりメタファーから現実にあるなにか、を厳密に導き出すのは困難だからです。そうともとれるね、という解釈のぶれは必ず生じます。

「なんとなくこういうことかな」という個人個人の受け取り方でよいですし、あまり難しく考えずに物語を楽しめればそれでいいと思いますよ。

そうした個々の現象に関しての解釈は難しいですが、物語の構造としては読み取りやすいです。

たとえば『ねじまき鳥クロニクル』では、奥さんのいる「あちら側の世界」は〈僕〉にとっては(そして読者にとっても)見ることの出来ない「向こう側の世界」でした。

『1Q84』では、青豆と天吾というのは、合わせ鏡のようになっています。

今までの村上春樹の小説が、「あちら側の世界」に行ってしまった人を追い求める物語だとするなら、『1Q84』は、追い求める同士を鏡のように合わせて、それとはまた別のところから見る感じです。

まさにそうした構造にするために、この小説は1人称ではなく、3人称が使われているのだろうと思います。

こうしたスタイルにすることによって、均等に配置された青豆にも天吾にも感情移入がしづらくなっていることはたしかですが、宗教法人『さきがけ』を中心にすえた物語のメッセージは伝わりやすくなっていると思います。

つまり、運命的ななにか、と呼ぶべきものが、より分かりやすく描かれているということです。

作品のあらすじ


物語は青豆の章から始まります。タクシーに乗っていると、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』が流れてきます。首都高速道路に乗っているんですが、道はかなり渋滞していて、ほとんど動いていません。

どこか不思議な雰囲気を持つタクシーの運転手は、「あのですね、方法がまったくないってわけじゃないんです。いささか強引な非常手段になりますが、ここから電車で渋谷まで行くことはできます」(BOOK1、19ページ)と青豆に言います。

高速道路の脇にある非常階段を降りて、地下鉄に乗ればいいというわけです。青豆は、タクシーの運転手の言葉に従って車を降り、非常階段を降りていきます。

つづいて天吾の章になります。塾で数学の先生をしていて、小説家を目指している天吾。しかしいつまで経っても小説家としての芽は出ません。

文章のうまさとか、技巧はあるんですが、小説家としての大切ななにか、が欠けているんです。それでも無署名の文章を書いたり、新人文学賞の下読みなど文学と関わる仕事を少ししています。

天吾は編集者の小松と『空気さなぎ』の話をします。『空気さなぎ』というのは、新人文学賞に応募されてきた原稿ですが、その『空気さなぎ』に天吾は特別なものを感じるんですね。

17歳の女子高校生ふかえりこと深田絵里子が書いた『空気さなぎ』。その作品には小説としての大切ななにか、はあるんですが、文章や技巧は全然ダメなんです。

そこで小松はあることを考えます。『空気さなぎ』を内容はそのままで、文章だけ天吾に書き直させたらどうかと。

もちろんそれは一種の詐欺行為みたいなものであって、天吾は抵抗を感じます。ところが、それ以上に物語に魅せられてしまいます。文章を書き換えてみたいと。

一方、青豆。非常階段を降りると、警官とすれ違います。その警官の姿に青豆は違和感を覚えます。警官の制服がカジュアルになっていて、回転式の拳銃ではなく、大型オートマチックの銃を身につけていたから。

しかし青豆はあまり気にせず仕事に向かいます。青豆は、普段は簡単な武術を教えるインストラクターをしているんですが、実は裏の顔があって、殺し屋みたいなことをしています。

青豆は人間の肉体のことを知りつくしているので、首筋のある部分をアイスピックのような特製の道具で刺すことによって、自然死に見せかけて殺すことができるんです。

青豆が人を殺すのは、お金のためではありません。理由がある時だけなんです。それは、女性が不当な暴力によって、どうしようもない状況に追いやられている時。

たとえば、夫から家庭内暴力を受けているとかそういう時です。青豆はそうした状況で友達が自殺してしまった過去があり、青豆に仕事の依頼をする老婦人にも似たような経験があります。

いつものように仕事を終えた青豆。やがて青豆は不思議なことに気がつきます。月が2つあることに。いつもの大きな月のそばに、小さな月があるんです。

月が2つあり、警官がオートマチックの銃を持つ世界。警官がいつからオートマチック銃を持つようになったかを新聞記事で調べると、『あけぼの』という組織が起こした事件がきっかけであることが分かります。

そんな大きな事件を青豆が知らないはずはないんです。青豆は自分の知っている世界とは、奇妙にずれてしまったこの世界のことを、こんな風に考えます。

 1Q84年ーー私はこの新しい世界をそのように呼ぶことにしよう、青豆はそう決めた。
 Qはquestion markのQだ。疑問を背負ったもの。
 彼女は歩きながら一人で頷いた。(BOOK1、202ページ)


ちなみにのちに天吾も現実世界が自分の知っている世界と奇妙にずれてしまったことに気がつきますが、「1Q84年」ではない呼び名をつけています。

やがて青豆は、少女たちを性的にひどい目にあわせている宗教法人『さきがけ』のリーダーの殺害を老婦人に依頼されることになります。

一方、天吾は『空気さなぎ』の作者であるふかえりと会い、文章を書き換える仕事を承諾します。

それから、ふかえりの保護者である戎野先生に会いに行きます。戎野先生は、ふかえりの父親の友人で、かつて有名な学者だった人物です。

戎野先生の話によって、ふかえりの『空気さなぎ』という小説が、ふかえりがかつていた環境をモデルにしていることが分かります。

ふかえりの父親は、『さきがけ』というコミュニティのようなものを作ったんですね。自給自足の落ち着いた暮らしを目指したもので、ふかえりもかつてそこで生活していました。

しかしそのコミュニティがいつしか、宗教法人になってしまったんです。その中の一部が『あけぼの』として事件を起こしたりもしました。

戎野先生は、『空気さなぎ』に登場する「リトル・ピープル」について、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』という小説を引き合いに出して、こう言います。

「・・・しかしこの現実の一九八四年にあっては、ビッグ・ブラザーはあまりにも有名になり、あまりにも見え透いた存在になってしまった。もしここにビッグ・ブラザーが現れたなら、我々はその人物を指さしてこう言うだろう、『気をつけろ。あいつはビッグ・ブラザーだ!』と。言い換えるなら、この現実の世界にもうビッグ・ブラザーの出てくる幕はないんだよ。そのかわりに、このリトル・ピープルなるものが登場してきた。なかなか興味深い言葉の対比だと思わないか?」(BOOK1、422ページ)


「ビッグ・ブラザー」に関しては、『一九八四年』の記事を参照してくださるとうれしいですが、簡単に言えば独裁者のことです。

目に見える形で人々を支配していた「ビッグ・ブラザー」に対して、目に見えない形で人々を支配するのが「リトル・ピープル」だというわけです。

すると当然、「リトル・ピープル」とはなにか? というのは問題になってきますが、ここで注目すべきなのは、「リトル・ピープル」というのは、名付けられた存在であるということです。

「リトル・ピープル」は、宗教法人『さきがけ』に関してだけ現れた特殊な存在なのではなく、今までにも起こり続けていた現象のことを、「リトル・ピープル」と名付けたにすぎないという可能性があります。

たとえば、近所の公園にノラ猫がたくさんいたとします。5、6匹うろうろしていてもあまり目には止まりませんが、その中の1匹に名前をつけたとします。

仮に三毛猫を「タマ」と名付けたとすると、5、6匹うろうろしているノラ猫の中で、自然と「タマ」を探してしまうはずですし、他のノラ猫よりも「タマ」の個性はより強く感じられるはずです。

今までもあったかもしれないけれど、うまくとらえられていなかったある存在を「リトル・ピープル」と名付けることによって、初めて生まれてきたものがあると思うんですね。

ふかえりの『空気さなぎ』と天吾の書き換えた『空気さなぎ』との間には、ささやかながら決定的な差があります。つまり、天吾の文章の方が、描写が綿密なんです。

『空気さなぎ』で描かれた2つの月や、「空気さなぎ」はやがて現実世界にも現れてくるんですが、ふかえりが書いたものではなく、天吾が書き加えた描写と同じ形をしているのは重要です。

現象のとらえ方で、現象自体が変化するんですね。「リトル・ピープル」は超自然的な現象として起こり、ある意味において物語の登場人物たちを翻弄しますが、それは同時に、ある側面だけかもしれませんが、現象としてはしっかりとらえられているということも意味するわけです。

天吾の書き換えたふかえりの小説『空気さなぎ』は、新人文学賞を受賞し、ベストセラーになります。2つの月、「リトル・ピープル」「空気さなぎ」が登場する『空気さなぎ』。

ある種ファンタジックな内容を持ったこの『空気さなぎ』は、やがて不穏なものを惹きつけるようになります。天吾の前に牛河という、どこか不気味な男が現れるようになるんです。

どう考えても現実世界を描いたものとは思えない『空気さなぎ』が、どうやら宗教法人『さきがけ』の重要ななにかと関わりがあるようなんですね。

BOOK3になると、今まで交互に描かれていた青豆と天吾の章に、牛河の章が加わります。

牛河というのは、弁護士をしていたんですが、道を踏み外して、現在は調査人のような仕事をしています。組織に依頼されて、誰かの情報を調べたりするんです。

「俺は言うなればソーニャに出会えなかったラスコーリニコフのようなものだ」(BOOK3、200ページ)と考える牛河は、『さきがけ』の依頼を受けて、青豆と天吾を追うようになります。

ちなみに、ラスコーリニコフというのは、ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公です。

牛河という名前のキャラクターは、『ねじまき鳥クロニクル』にも登場します。同一人物どうかはさておき、『ねじまき鳥クロニクル』の牛河は、非常にドストエフスキーの小説のキャラクターを連想させます。

一方、『1Q84』の牛河でぼくが連想したのは、ヴィクトル・ユゴーの小説の『レ・ミゼラブル』のジャヴェール警部です。

ジャヴェール警部は執拗に主人公ジャン・ヴァルジャンを追い詰めていきます。この『レ・ミゼラブル』で特徴的なのは、ジャン・バルジャンの心理も、またジャヴェール警部の心理も読者に開かれていることです。

わりと普通はどちらかなんですよ。追われる者を中心に描くか、追う者を中心に描くか。追う者、追われる者の両方の心理を読者に対して開いてしまうと、どちらに共感していいか分からなくなってしまうからです。

『レ・ミゼラブル』はその両方の心理が開かれていることが、かえって素晴らしい効果をあげているんです。要するに、ジャン・バルジャンを悪としてとらえていたジャヴェール警部の心が揺らぐわけですね。善悪とはなにか、が大きな問題として提示されるわけです。

牛河の章では、こんな風に書かれています。

いずれにせよ輪は縮まっていた。しかし青豆も天吾も、自分たちのまわりで輪が急速に縮まりつつあることを知らなかった。牛河はいくらかその動きを感じていた。彼自身がその輪を縮めるべく活発に動いていたのだから。しかしその彼にもまだ全体像は見えていない。肝心なことを彼は知らない。自分と青豆とのあいだの距離が、僅か数十メートルにせまっていたことを。(BOOK3、340ページ)


この文章の登場人物との距離感が、『1Q84』の距離感なんです。青豆も天吾も牛河も、その誰もが中心人物とは言えません。すごく均等に配置されています。感情移入をするにはかなり遠い感じです。

そうした登場人物の配置が、物語に入り込みにくくなっているのはたしかなんですが、それだけにかえって、運命的なものを表現するには適したスタイルだと思います。

そしてなにより、たとえば2つ月があるという現象が、誰か1人の目線から語られるのではなく、複数の人物の目線で語られることによって、その不思議な現象がその人の幻想ではなく、客観的事実なんだということをしっかり表せますよね。

青豆と天吾に関して、読者はすでに知っていることを、追う側の牛河の目線でもう一度しっかりとらえなおされていくことになります。

青豆と天吾に秘められた関係性とは一体なんなのか。宗教法人『さきがけ』はなぜ青豆と天吾を追いかけているのか。知っている現実世界の1984年とは、奇妙にずれてしまったこの1Q84年で、青豆と天吾が最後にたどり着いた場所とは・・・!?

とまあそんなお話です。この小説の面白いところは、パラレルワールドともメタフィクションとも違った、独特の世界観で描かれているところです。

1984年と1Q84年の関係性は、ある種パラレルワールドに見えます。ところが、1984年はもう「ない」らしいんです。なにかのきっかけで、もう変わってしまった世界が1Q84 年なんです。

また別の読み方をすると、非常にメタフィクションに近い感じがします。メタフィクションというのは、小説が小説であること自体をネタにした小説のことですが、『1Q84』で起こる不思議な現象は、メタフィクションとしてなら、納得がいくんです。

つまり、『空気さなぎ』に登場した2つの月が、現実世界にも登場するということは、青豆や天吾のいる世界自体も、小説で書かれた世界だったいう解釈です。

その解釈を強引に貫き通そうとすれば、できないわけではないと思いますが、『空気さなぎ』で描かれたもの、「リトル・ピープル」や「空気さなぎ」が現実でも登場することは、小説が現実に影響を与えたのではなく、現実に起こったことを小説にしたから当然そうなのだという流れになっています。

そうしたスピリチュアルな出来事を通して、そして宗教法人『さきがけ』の存在を通して村上春樹はなにを伝えたかったのか。興味を持った方はぜひ読んでみてください。