『知性の構造』・言語的活力の現れとしての価値追求 | くらえもんの気ままに独り言

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 『知性の構造』のまとめシリーズも第9回目となり、いよいよ終盤に差し掛かってまいりました。先に紹介しました廣宮孝信氏の『日本経済のミステリーは心理学で解ける』は本書が結構理解する助けになっていました。(もちろん、読んで理解しやすいのは間違いなく『日本経済のミステリーは心理学で解ける』の方ですが(;^_^A)


以下、前回までのまとめです。忘れた方はもう一度復習してみてください。

第1回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11852064051.html

第2回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11855187261.html

第3回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11857103522.html

第4回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11858974746.html

第5回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11868759535.html

第6回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11874667479.html

第7回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11904741294.html

第8回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11908318654.html


今までのまとめ

・知識人が腐ってきている、このままではヤバイ

・人間は真理を追究するようにできており、それを紡ぎ出すのが「言葉」

・真理の追及には信仰・懐疑・感情・論理のバランスが大事

・いかなる表現も仮説である

・仮説は棄却されにくいが、真理をつかむための方策があるはず

・真理に到達するには総合知が必要

・多様な前提と経験的事実を総合知によって結び付けていく作業が「解釈」

・解釈するとはすなわち生きることと等しい

・言葉には意味があり、その構造は伝達・表現・尺度・蓄積といった4つの機能で表すことができる

・表現には矛盾がつきもの

・葛藤は回避するのでなく平衡させねば、表現は病理化する

・平衡を維持するための知恵は伝統にある


第八章 『言語的活力の現れとしての価値追求』


「言語的活動の活力はどこからやってくるのか―

それを明示することはできないが、無限遠の目的(超越)と無限近の手段(自身)のあいだのどこかにあることは確かだ。(P156)」


 言語活動の構造がいかなる活力でもって動くのかは分からないというか、分かるものは構造の方に組み込まれるので、分からない何かが活力なんだろうと・・・。


 とある目的のためにとある手段がある、その手段はその下位の目的であるというように延々と続いていくきます。


 例)魔王を倒す(目的A)

   伝説の剣を手に入れる(手段A/目的B)

   レベルを上げる(手段B/目的C)

   ザコを倒す(手段C)


 この例の魔王を倒すの上位には世界平和の目的のために魔王を倒すという手段が来たりしますし、ザコを倒すという目的のために武器を買うという手段が来たりします。このように目的と手段は無限につづいていきます。


 これを無限に伸ばしていった先にある究極の目的超越というものであり、究極の手段自身ということになるのですが、普通の人間はその究極の部分まで意識するということは不可能でございます。


 また、ある目的を達成する手段も様々であったりしますが、その価値基準が多様化するような動きをする一方で、ある価値基準は画一化したりというように揺れ動きますが、想像主義的な手段を選択するか事実主義的な手段を選択するかというところでの平衡がより上位の目的、あるいはとり下位の手段へとせまるためには重要なのだろうと思われます。


 この手段(あるいは目的)が想像主義あるいは事実主義に傾くということは欲望が暴走していることは表します。「何のために」というより上位の目的、「何によって」というより下位の手段に思いを馳せないということは、何も考えずに本能のなすがままに身を任せてしまう。つまり、生きた屍と化すということですね。


 究極の目的に近づいていくことを「理想の形成」、究極の手段に近づいていくことを「自己の発見」と呼ぶこともできますが、これには限界があります。というか、究極の場所までは絶対にたどり着けないものです。


 しかし、何かしらの絶対的な到達点があるのだと仮定することによって、精神の安定をはかることができるのです。だから、信仰というものには意味があるのですね。むしろ、絶対的な到達点なんてものはなく、いろんな到達点があるんだよ的な考えをもってしまうと、何もできなくなってしまいますからね。(生きた屍のいっちょ上がりです。)


 過去のエントリーで述べたように想像主義と事実主義の間の平衡を保つのに必要なのが伝統であり、想像主義あるいは事実主義が過剰にならないようにするのが慣習(いわゆる反復運動)であります。慣習というものが忘れられてしまうと、ガラガラポンで新しいものを求めるようになり、想像主義あるいは事実主義が過剰になってしまい、理想の形成や自己の発見がおろそかになってしまいます。そして、何もできなくなってしまうと。

 また、伝統が破壊されてしまうと、オカルトに走ったり原理主義に陥ったりしてしまい、究極の理想はこれだ!とか自己とはこれだ!なんて言い張って、真理に近づいていくということを放棄することになってしまいます。


 しかも、現代は技術主義に走って慣習を捨て去ったり、オカルトに走って伝統を破壊したりすることが日常茶飯事になっています。そして、一国の首相が岩盤規制をドリルで破壊だとか言って、改革とかを叫ぶ始末・・・。


 伝統や慣習によって平衡を得ることで初めて真理へと近づいていけるわけなので、真理へ近づくためには漸進主義となるのは必然でございます。逆に伝統や慣習を破壊するようなやり方は急進主義と呼びます。つまり、目的地にたどり着くためには漸進主義でないと不可能というわけですね。


(参考)漸進主義って実は最速?

http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11803495558.html


 ちなみに急進主義(慣習や伝統の破壊)はよくないというのは政治とかの話だけではなく、言語活動全般に言える事なんですね。そして、無意識に任せていると簡単に急進主義の方に走っていこうとしちゃうので、そういうことをきちんと意識するということが大事なんですね。


 そう言えば先日の『日本経済のミステリーは心理学で解ける』の話は自己の発見にせまる話でしたが、ここでもバランスが重視されておりました。伝統や慣習についても究極までたどっていくと、元型というものというか遺伝子レベルまでたどれるのかもしれませんね。


 というわけで、今回のハイライトの図です。


八章

 この図の垂直運動が、生の活力とも言えるものですね。そして、この垂直運動を行うには水平運動を伝統・慣習によってコントロールしなければならないというわけでございます。


本日のまとめ

・究極の目的、究極の手段を求める営みが活力の源泉

・そのためには伝統・慣習による想像主義と事実主義のバランスが必要

・つまり、漸進主義(伝統・慣習が大事)とならざるをえない


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http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11932947967.html


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