『知性の構造』・平衡、伝統そしてルール | くらえもんの気ままに独り言

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 さて、今回は『知性の構造』のまとめシリーズの第8回になります。

 実は先日、同じく西部邁先生の著作であります『虚無の構造』を読了しましたが、こちらも大変おもしろく、このシリーズが終わりましたら、取り上げていきたいと思っております。

 そのためにも、早く進めていかねば(;^_^A


以下、前回までのまとめです。忘れた方はもう一度復習してみてください。

第1回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11852064051.html

第2回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11855187261.html

第3回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11857103522.html

第4回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11858974746.html

第5回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11868759535.html

第6回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11874667479.html

第7回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11904741294.html

今までのまとめ

・知識人が腐ってきている、このままではヤバイ

・人間は真理を追究するようにできており、それを紡ぎ出すのが「言葉」

・真理の追及には信仰・懐疑・感情・論理のバランスが大事

・いかなる表現も仮説である

・仮説は棄却されにくいが、真理をつかむための方策があるはず

・真理に到達するには総合知が必要

・多様な前提と経験的事実を総合知によって結び付けていく作業が「解釈」

・解釈するとはすなわち生きることと等しい

・言葉には意味があり、その構造は伝達・表現・尺度・蓄積といった4つの機能で表すことができる

・表現には矛盾がつきもの

・葛藤は回避するのでなく平衡させねば、表現は病理化する


第七章 『平衡、伝統そしてルール』


「平衡の知恵は伝統のうちに宿る―

ところが伝統は、見出すべきものであるのみならず、

見出し難いものである。(P135)」


 さて、表現というものはおびただしい葛藤をはらんでいるのですが、その平衡を維持させていかなければならないという話を前回いたしました。では、この平衡維持をいかにやっていくのか?


 その答えは伝統の中に含まれているのです。


 しかし、近年では慣習が大事なものであるということを証明できないからという理由で「慣習=悪=破壊すべきもの」という価値観が横行しているという事態になっております。


 でも、慣習というものは長く持続しているからこそ、そこに平衡の知恵が含まれているのではないか。つまり、平衡の知恵が含まれているから長く持続しているのではないでしょうか。


 伝統は平衡を保つための綱渡りの棒みたいなものです。表現において平衡を維持しつつ真理に向かうことは可能ではあるが、油断すると簡単に転落してしまうということです。ここでは、慣習のうち、表現の平衡維持に大いに役立つものを伝統としてあるようでございます。


 伝統についてさらに形式的に定義すると、伝統とは「パラダイムの中心」ということになります。つまり、言語活動における統合機能(蓄積)目標達成機能(表現)潜在価値維持機能(尺度)につなげる構造を安定化させるものが伝統なのです。


 パラダイムについては下図参照。


広がりゆく意味宇宙

第6回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11874667479.html


 上図のように、尺度機能と蓄積機能との関係は対立であり、表現機能と蓄積機能の関連は選択なのですが、言葉を選ぶ過程において「対立と選択」の基準となるのが伝統というわけですね。


 そして、個人のスピーチ側における伝統が個人的習慣の中の伝統であり、社会のランゲジ側における伝統は社会的慣習の中の伝統と言えます。


 さて、言葉の尺度機能(潜在価値維持機能)については美徳と呼ばれるものも悪徳と呼ばれるものもある訳ですが、これらを平衡させようとするものを伝統と呼ぶのでしょう。


美徳良俗道徳宗教信仰伝統狂信邪教背徳悪臭悪徳


 オルテガの言う「よく生きる」「よく」についての西部先生の考えは以下の通りです。


①人間の言語活動が葛藤を起こしていることを感受すること

②その葛藤において平衡を保とうという姿勢に立つこと

③その姿勢を保つために伝統を不断に参照すること


 では、伝統は何であるかということはどうやったら知ることができるのでしょうか?


 その有効な方法として他者との意思疎通、討論が挙げられます。


 そして、討論の際に設けられた「ルール」、これが伝統と呼ぶものなのかもしれません。もちろん「ルール」は必ずしも口に出されるとは限りませんが、いかなる討論であろうと共有される観念はあるものです。それが伝統ということなのでしょう。分かりやすい例で言うと、初対面でいきなりタメ口をきいてくるやつがいたら、多くの人は「こいつはルール違反だ」って内心思うでしょう。これがきっと伝統なんでしょうね。


 さて、意思疎通における人間の多面性についても先ほどの図のように、顕在性・潜在性同一性・差異性の4つの尺度で切り分けてみると以下のように分類されます。ちなみに()内は言葉の機能の分類です。


顕在性・差異性個人性(表現)

顕在性・同一性公人性(達)

潜在性・差異性私人性(蓄積)

潜在性・同一性集団性(尺度)


 これを個人性・集団性公人性・私人性の尺度によって分類することで人間の性格を構造化することができます。


個人性・公人性個人的人格の表明(外面化)

個人性・私人性個人的感情の横溢(差異化)

集団性・公人性集団的規律への服属(同一化)

集団性・私人性集団的帰属感への一体化(内面化)


 そして、公人性の領域において個人性と集団性とのあいだに生じる葛藤を処理するのが「法律(ロー)」であり、私人性の領域において個人性と集団性とのあいだに生じる葛藤を処理するのが「習律(モラル)」というわけです。そして個人性の領域において人格(公人性)と感情(私人性)とのあいだに生じる葛藤を処理するのが「思索(シンキング)」で、集団性の領域において規律(公人性)と帰属感(私人性)とのあいだに生じる葛藤を処理するのが「討論(ディスカッション)」というわけです。


 つまり、これらの葛藤を平衡化するものがいわゆる「ルール」であり、これを突き詰めたところにあるのが「伝統」というわけなのです。


 さて、第2回で触れたように日本人は思索・討論といった言葉による営みが苦手と言われております。


第2回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11855187261.html


 政治家を例にとると公人性と言った場合、一個人の政治家でなく政党の政治家として扱われることが多いように、個人性の比重は軽く集団性の比重が重くなります。逆に私人性においては裏で自分の所属している集団への悪口を言ったりと集団への帰属意識より個人の感情との結びつきが強いのが日本(特に戦後日本)の特徴です。


 つまり、日本では極論を言えば、集団性≒公人性(タテマエ)個人性≒私人性(ホンネ)という二分法が日本人の行動パターンになっているのです。そして、人格(個人性・公人性)および帰属(集団性・個人性)がないがしろにされてしまっているという。


 人格が軽視されていることから公人に対する名誉棄損はマスコミなどで日常茶飯事である(=「法律」の未熟)ように、その他「習律」も「討論」も「思索」も未熟である。結果、「ルールなき社会」「言葉無き社会」となっているのが日本の現状のようです。


 このような事態となった背景について西部先生が言うには、おおよそ単一民族であり規律の形成が容易であったことと、それと同時に個人間の微差への配慮が旺盛となったことで感情が重視されたと。そこに戦後進歩主義により伝統を破壊するということが時代的趨性となってしまったことを挙げています。


 そして、「自由・平等・博愛・科学」という近代価値のカルテットの過剰により「放縦・平準・偽善・技術」へと転落してしまっている。つまり「規制・格差・競合・哲学」とのあいだの葛藤の平衡を探ることをせず「自由・平等・博愛・科学」に肩入れをしてしまったために暗黒面へ転落してしまったというわけですね。ちなみに「規制・格差・競合・哲学」に重心を傾けると「抑圧・差別・酷薄・思弁」に転落してしまいます。また、両者の平衡がとれると「活力・公正・節度・解釈」といった上の次元の平衡に達することができます。


 話は元に戻して日本人についてですが、平衡を失っているがゆえ「他者への過敏症」(外では世論迎合しつつ陰口をたたく)「自己への不感症」(人前で個性を発揮できない)という状態になっています。しかし、最近ではその反動か「他者への不感症」(礼儀知らず)、「自己への過敏症」(流行への同化)というものが若年層において見られ始めてきているとのことです。


 そういえば、反動っていうのも葛藤を回避する自己防衛機制の一つでしたっけ。平衡を目指そうということはなかなか日本人には難しいことなのかもしれません。


 それでは、今回のハイライトの図です。


ルール

 ピンク色で示した部分が日本人にとって過剰である部分であり、それ以外の人格・帰属が日本人にとっては希薄というわけですね。しかも、それらが希薄であるということは伝統という名の平衡術を探るための「法律」「習律」「討論」「思索」が機能していないことを意味します。


 まともな表現を行い真理へと近づいていくためには、平衡が必要なのですが、まずはその平衡が失われているということを認識するところから始めていかなければならないということなのでしょうね。


それでは、本日のまとめです。

・平衡を維持するための知恵は伝統にある

・伝統を知るにはルールを知ること

・ルールとは「法律」「習律」「討論」「思索」であり、これらは人間の性格の平衡において必要


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