貸自転車で巡った柏たなか駅周辺・・・利根川河川敷に消える県道46号線。。。
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本ブログ管理者2009.11.25撮影
↑『現役』県道46号線であることの証・・・・・地図(↓)④の位置
■貸自転車で巡った柏たなか駅周辺・・・駅と高加減速車と利根川温泉。。。
■貸自転車で巡った柏たなか駅周辺・・・利根川河川敷に消える県道46号線。。。
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■本ブログ内関連記事/モコバスで行く茨城県道46号線「下川岸の渡し」跡・・・(1)
■本ブログ内関連記事/モコバスで行く茨城県道46号線「下川岸の渡し」跡・・・(2)
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■本ブログ内関連記事/旧・高島の渡し付近を散歩する♪・・・(1)
■本ブログ内関連記事/旧・高島の渡し付近を散歩する♪・・・(2)
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本ブログ管理者2009.11.25撮影
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左へ分岐する県道46号方面は「車両通行止め」になっています。。。。。
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千葉県道・茨城県道46号野田牛久線
(ちばけんどう・いばらきけんどう46ごうのだうしくせん)は、
千葉県野田市野田の「野田市下町」交差点を起点とし、
茨城県牛久市田宮町の「田宮(たぐう)」交差点を終点とする主要地方道。
机上では1本の連続した道路だが、県境の利根川付近には道路がない。
つくばエクスプレスに並行して整備されるいわゆる都市軸道路の一部
(柏市小青田~つくばみらい市陽光台)が、野田牛久線として整備されている。
このうち利根川橋梁と小貝川橋梁は鉄道と道路が橋脚を共有することとなる。
(利根川橋梁の「車道」が開通すれば、今回記事にて紹介区間は、いずれ廃止?)
「野田市木野崎」交差点~柏市小青田は、県道7号との重複区間になっている。
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千葉県道7号我孫子関宿線
(ちばけんどう7ごうあびこせきやどせん)は、
千葉県の我孫子市(国道6号との交点の「台田」交差点)を起点とし、
柏市を経て野田市(桐ヶ作588付近の交差点)を終点とする、主要地方道。
↑早速『関係者以外立ち入り禁止』の看板が・・・地図(↑)④の位置
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本ブログ管理者2009.11.25撮影
あれぇ、、、
ここって、「県道」じゃあ?ないの???
国土交通省による「不法占拠だぁ。。。。。(笑)」
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ここは、あくまでも「河川敷」=国土交通省が『管理権』を主張しているみたいですね☆
( ■本ブログ内関連記事/埼玉県熊谷市葛和田の県道83号線の事例 を参照)
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国土交通省が少しづつ買い上げ国有地化を図ったうえで、
囲繞堤(いぎょうてい)や越流堤(えつりゅうてい)、調節池等の整備・・・・・・・
(□外部リンク記事参照
)
↑仕方なく利根運河の対岸から船戸橋を攻めます・・・・・地図(↑)⑤の位置
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本ブログ管理者2009.11.25撮影
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利根運河(とねうんが)は、
千葉県柏市、流山市、野田市を流れる、利根川と江戸川をつなぐ
一級河川の運河(人工河川/日本初の西洋式運河)。
水害防止などを目的として江戸時代初期に行われた利根川東遷事業などの河川工事により、関東地方の川筋が大きく変えられ、利根川は関宿で、銚子にいたる現利根川と、東京湾にいたる現江戸川とに分流された。この結果、東北地方の太平洋岸と江戸を結ぶ水運のルートとして、銚子から利根川に入って遡り関宿を経由して江戸川を下る、というルートが開拓された。このルートには、一部に浅瀬があって大型船が通行できず積み替えが必要だったこと、距離が長かったことなどの理由から、関宿まで遡らずに、途中を陸路でショートカットする場合があった。
明治時代になり、貨物の輸送量が増えたことから、この陸路でのショートカットの部分に運河を開削するという計画が立てられた。調査にあたったのは、1873年(明治6年)に来日したオランダ人の土木技術者のヨハニス・デ・レーケである。この計画は公共事業としては採択されなかったため、民間企業として建設すべく利根運河株式会社が設立された。
開削許可に先立ち、1888年(明治21年)7月14日に起工、
約57万円の費用と延べ220万人により、1890年(明治23年)2月25日に通水、
同年3月25日に通船、同年6月18日に竣工式を開催した。
利根運河株式会社の本社は、江戸川口の深井新田(現・千葉県流山市)に置かれ、利根川口の船戸と、江戸川口の深井新田に、通行料を徴収する収入所が置かれ、付近一帯は船頭や船客相手の料理屋、食料品店、雑貨屋、回船問屋などが立ち並んだ。利根運河株式会社は、運河大師の勧請や桜並木の植樹等を行い、運河の観光地化を図り、現在の流山街道付近から江戸川口まで店が並び賑わいをみせたそうだ。。。
1896年(明治29年)12月25日に日本鉄道土浦線(後の常磐線)が開通すると、それまで蒸気船で1泊2日を要した都心まで、わずか2時間で結ばれた。1897年(明治30年)6月1日、銚子-東京間に総武鉄道(後の総武本線)が開通し、所要時間が従来の5分の1(4時間)となった。これにより、長距離航路は急激に衰退し、運河の最盛期は、開通から1910年(明治43年)頃までのわずか20年程度であった。
1900年(明治33年)、国の河川政策が大きく変わる。今までは水運を優先して、水深を深して川幅を狭くしていたが、水害対策を優先する方針に変わり、川幅を広げて堤防を高くした結果、水深が浅くなって汽船の運行が困難になった。また、汽船乗り場が町から離れ貨物の積み替えも不便になり、水運が衰退する要因となった。
1941年(昭和16年)7月22日に、台風第8号により利根川からの洪水流が押し寄せ、水堰(現在の水堰橋付近)や三ヶ尾の堤防を破壊し、運河の通行はほぼ不可能となった。これにより会社は破綻し、同年12月31日に、洪水対策として利根川の洪水を江戸川に分水する名目で215,556円で国に買収され国有化された。利根川増補計画(1939年(昭和14年)策定)に基づき、洪水を受容する流水断面確保のため、内務省により堤防の拡幅と嵩上げが行われ、両岸堤防上の6千本の桜は切られ、運河沿いの商店や住居も立ち退きを命じられ、利根川からの水も断ち切られた。
*1965年(昭和40年)4月1日/「一級河川」指定(利根川水系)
首都圏の水需要をまかなうために利根川から江戸川へ導水するための利根川広域導水事業が開始され、その導水ルートのひとつ・野田緊急暫定導水路として派川利根川が再利用されることとなった。1972年(昭和47年)に野田緊急暫定導水路工事が着工し、1973年(昭和48年)に北千葉導水路整備のため、暫定的な水路として通水が再開され、
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1975年(昭和50年)に、利根川口の堤防撤去と、
500m程下流にあった利根川との接続点の移動
および野田導水機場(運河水門)の設置が行われ、派川利根川に流れが戻った。
*1990年(平成2年)6月8日に利根運河に改称
2000年(平成12年)4月に北千葉導水路が完成し導水路としての役目を終えた現在では、
水質改善を図ることを主眼に、年間20日あまり4-6時間/日の頻度で、吐出量2.0m³/sのポンプを用いて利根川から導水が行われ、環境用水として親水公園の整備などが行われている。
*2006年(平成18年)度には、土木学会が選奨土木遺産に認定
*2007年(平成19年)11月30日には、経済産業省が近代化産業遺産に認定
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出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
↑利根川を渡る橋梁付近で県道は河川敷に消えます・・・・・地図(↑↓)⑥の位置
空中写真を見ると、⑧地点に船着場のようなものが見えますので、
県道の末端部
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昭和50年に利根川接続点を500m移設する以前の河港
(2009.11.25の現地調査で草むら&湿地&工事現場・・・良質の撮影は困難/諦観地点)
で、あったのではないか????
(っと、推定されます。。。。。)
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■本ブログ内関連記事/千葉県道46号(柏市船戸)再踏査編 参照
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■本ブログ内関連記事/モコバスで行く茨城県道46号線「下川岸の渡し」跡・・・(1)
■本ブログ内関連記事/モコバスで行く茨城県道46号線「下川岸の渡し」跡・・・(2)
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千葉県道46号指定沿革
大正9年4月1日 「七二」野田守谷線 *歴史と伝統ある「守谷街道」
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昭和34年10月14日 (228)野田守谷線
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平成6年4月1日 (284)野田守谷線 廃止
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(72)野田牛久線 認定
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平成7年3月30日 (46)野田牛久線 *整理番号変更/現在に至る
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