突き進む行き先は何処? | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥

   
   
例えば限られた時間枠のテレビ・ニュースの中で、
見る側に対して何がどう伝わっているかは、
送り手側の苦労がどうあろうと、
見る側、聞かされてる側、受け取る側は千差万別で、
「ああそうか」と思う人もいれば
「それはおかしいじゃないか」と感じてみたり、様々かも知れない。
ところが、戦後から今日まで徐々に徐々に
真綿で首を絞めるようにコングロマリット化されてきた日本の社会では
「どこどこで こういう人が こういう自殺をした」
「昨日はあそこで 今日はここで、こういう事件、犯罪があった…」
と、その知らせ、それを見て、跡を追ったり、便乗する者もいる。
“世間一般常識”も今や、
みんなと同じようにやってりゃ案心。
みんなと同じ物を持っていれば安全。
みんながやってるように自分も頑張れば・・・・やればできる
という風潮にある。
で、ある日、
「日本人口は今年、今日を境に、ここで始めて
減少の傾向にあることがハッキリしてきました」
と言い、
「超高齢化社会」「超少子化国家」などという、
学識経験者が編み出したような言葉を掲げて、
その三日後には、
「交通事故による死亡者数が昨年を下回り、
我が国は●●年の時以来、始めて交通事故死亡者が減りました」
というような内容の報道がある。
新聞もロクに読むこともなく、
それだけのテレビ・ニュースを単体に
何食わぬ顔で見て、
「交通事故が減ってるね。よかった よかった…」
と言っている、思っているお年寄り(戦争体験者)がいる。
 
年間数万人という数へ ウナギ登りの兆しにある自殺者がいる世の中で、
今日いまにも何が起っても不思議ではないほどの、
そういう災害 惨事の中で、
人口が急激に激減すれば交通事故を起こす人も少なくなるわけであって、
これが何を意味するのか?
 
文明の自然淘汰を唱えるだけの学者や、あるいは、
働く人の意識の活性化とか「モチベーション」などという言葉を吐き散らして
今まだ社員教育に力を注ごうと考える企業主にしてみれば、
そんな問題は どうでもいいことかも知れない。(今のところは)
本人達が心配なのは明日の株価や原油価格の動向…
視聴率も売上高も、自分が喰っていくためには大事な数字の計算だ。
そこにすべて間違いがあるかどうかは誰も判らない。
だけど、昨日より今日になって
「これは おかしい」と気づく問題が増えていることは確かだ。
 
例えば、正月であろうと、世間の政【まつりごと】がどうあろうと、
死んだ者に対する供養…というモノは…
残されて生きている者が手厚く葬り、
安らかに眠れるようにと、拝み、必要なら慰みの言葉も語らなければならない。
たとえ、本人には もう、生きていた時のように何かを感じ取れる肉体も名前もなく、
こちら側の その思いが届くかどうかは判らなくても。
 
ここにも送り手と受けての色々な関係がある。
 
で、何の宗教にも関係なく、先祖の供養というか・・・・
生きている数より死んだ者の数の方が多い この地球上では、
生きている者(生き残っている者)は常に、
自分の身近で亡くなった者を忘れないように、また、忘れさせないように、
何かを目印にして、一つの場所に埋葬し、
あるいは死んでしまった場所を大切に考えるなどして、
そこへ必要なら花を添えたり、
生前の想い出の品を並べてみたり、水や火のついた物を備えてみたりもするなど、
宗派、流派、流儀、仕来りを問わず、色々な慰み方を用意する。

 
生きている者が勝手に思ってやっている行為も、
姿かたち亡き者にとっては、どこまでどれだけ伝わっているかは判らない。
それでも、生きている側には色々と、そうすることの意味があって、
その思いが伝わっているものと信じて、
目を瞑って祈ってみたり、見えない場所へ届くはずの思いを
手を合わせて念じてみたりする。
 
突然に消えてしまった事実を受け入れようにも、
それだけの心構えができていない者にとっては、
涸れたはずの涙も再び地面へ流れ落ちることもあるかも知れないし、
そういう心の整理をつけられるようになるまでには
時間が掛かり、ただ黙り込むだけで、
現実に諦め切れない想いも、そこから先へ一歩も進まないほど、
生きている自分を責める人もいたりと、
哀しみや黄昏にも色々な種類がある。
それでも、生き残った者は生きて行かなければならない。
 
 

最前線の戦地で、敵軍の流れ弾が雨のように向かって来る中、
つい昨日の晩、一緒に飯盒【ハンゴウ】のメシを喰った仲間が、
スグ隣でその銃撃戦の銃弾に倒れ、
また前へと進む沼地で、
自分の前にいた者が倒れ、後ろに居た者が叫び声をあげ、
それでも突き進まなければならない。
自分の生き死にには関係なく、与えられた任務、目的を遂行するために。
しかしある者は、頭を打ちぬかれ即死した者の手首から先を
銃剣で削ぎ取り、それを遺族への形見として、    (肩身→形見 2009-01-10 00:10:10 訂正。) 
首から提げた布袋の中へ収めて、また前へと進む。
いま自分が何処にいるのかも判らない。
ただ、ヘルメットを掠める時速何百キロという弾も、
付近の血の雨の匂いも、
その一瞬一瞬が自分が前へ前へ突き進むための糧にしなければならない。
 
やがて火の粉も立ち退き、生き残っても心に傷を負った負傷兵が
母国の港へ降り立ち、持ち帰った遺品や干からびた手首の骨を
しっかりと抱きかかえ、遺族の者へ渡す。
そして遺族は、その生きていた証、かつて現実の世界に存在していた証を
位牌や戒名札(?)に代え、墓石には名前を刻み、
そこに永眠されることを願い、時には偲んでみる。
 
そういう思いが、盆や法事の時になってから 寺の坊さんを呼んで
有り難いとされる お経を唱えてもらい、説教を聞かされたあとで、
特上の寿司で もてなし、カネを払ったあとあとの時間、
そこに集う家族や親戚は、生前の本人についてを語り合う。
 
親が自分の親について自分の子どもに何かを伝えようとするのではなく、
自分の兄弟が姪や甥に対して、
「おまえのお爺さんは こういう人だったんだよ」
あるいは、
「あなたの叔父さんに当たる人は いついつにどこどこで
こんなことをしていてねぇ…」などと、想いで噺をする。
 
また先祖代々継承された家族のうち、ご先祖様の供養の日ともなれば、
今日生きていて現実の世界に存在する、いちばん長生きをしている人が
かつて生きていた人のことをしっかりと覚えていて、
それを自分の孫に話して聞かせ、
またそれを聞いた子供の親は、
その自分の親のその話の内容で、それまで知らなかったことに驚いてみたり、
またいつか、その話を自分の子供の次の子供、新たな孫の前で話してみたりする。
そうして脈々と語り継がれるべき自分の家系や絆、
自分自身がこの世に存在するまでの生い立ちの断片を知り、
それを確かな事実として認識することで、
今日は孫に話して聞かせ、すべてが伝わらなかったとしても、
それを隣で聞いていた父親や母親が、いずれ自分の孫に伝えようとする。
 
この関係は言葉を交わし、相手の目の向こうにあるモノを信じようとする、
その人類にとって大切なことだった。
日常、誰もが、何に構えることもなく、どこにでもある行為として、
どこの何の宗教宗派にも関係なく、みんなでやっていた自然なことだ。
つい昨日までの日本の中の、どの家屋の中でもあったし、
そういうことを いちばん話しやすい時期が盆や正月の数十分間だった。
 

ところが、 
それを破壊してしまった日本の戦後教育、社会常識。そして、
戦後、何千万軒と乱立した様々な宗教法人。あるいは
墓地の開発、分譲拡張や必要以上なまでにデザインを施した墓石販売に到るまで、
すべてが果てない経済追求への道の中にあった。
そして現代日本人の神仏混合の意識は、今日も明日も脈々と、
次の世代へ受け継がれて行ってしまうのか・・・・・。
 
俺は戦争を賛美してるわけでもないし、ただ単に、
この国における宗教の在り方を批判してるわけでもない。
失われたモノの中で、なんとかして取り戻すべきモノの大切さについて、
そういうことが何なのかを今、自分でも確かめようとしてるだけだ。
  
事実、俺の父方(四人兄弟)の実家では、
21歳で自殺した父親の兄のことについては、
孫の代には包み隠して来たし、
それを供養することも孫の代には関係のないことのように進められてきた。
今日まで。そして明日からも。
墓は元々、広島に在った物を八王子の山中へ移してはいるが、
それをみんなで集まって手厚く供養する暇など、もう誰にもない。
父方の兄弟四人、遺産相続の分配の一件でギクシャクして以来、
かつてのように盆や正月に集い、和気藹々と顔を見合わせる関係も絶えている。
 
 
現在、五人から四人。四人から三人。三人から二人だけ。
二人から、独りとパソコン一台、 誰?)…というふうに核家族化してきた日本では、
「高齢化社会」という言葉も「少子化」という事実も
今日どこかで何かが失われ、何かが滅びるために突き進む、
その過程における節目に飾られたキーワードでしかない。
 
ここに、この地に、いま自分が生きているはずの場所に、
自分自身がどうして存在するのかも皆目 見当もつかぬまま、
我々は山肌を切り崩し、古墳や塚、沼地や沿岸を埋め立て、
本来、自然界と共存すべく与えられた営みの場所を
物の見事に破壊し尽くしてきた。
そこへまたビルやマンションを乱立させ、新たに、
今日の自分達に必要な場所を築き上げてきたかも知れない。
ところが、そこへ眠っていたはずの者も、
そこに末永く おとなしくしているはずだった場所が破壊されると、
そこから別の場所へ移動しなくてはならない ・かも知れない
 
たとえば、陽の当たる側の山の斜面も、反対側の いつも陰になっている場所も、
そこにその場所に育つ樹木や草は、すべてが同じではない。
植物も微生物も、どこにどのように存在して
何のどの種が どの辺りに集中して在るのかも、
人間がこの世に姿を現すようになる以前から決められていた。
伐採する樹木も、勝手に植林する場所も、決して人間が造った物や場所ではない。
それはどこの海の、どこの湾岸や浜辺にしても同じことだ。
ところが人間は、何の目的のためなのか、
自然界の均衡、釣り合い、摂理、宿命には関係なく、
ゴルフ場を開発し、リゾート施設やダムの建設、建築、増設、道路開発を強行してゆく。
自分達の生活のために…。
そしてある日、あたかもそれが突然にして起こったかのような
無責任な顔つき、口ぶりで、
「猿が悪さをする」
「熊に注意」
「スズメバチの大量発生」
「絶滅危惧種の保護・育成に努めよう」とか、
「自然保護」「環境保全」などと、馬鹿げたことをほざく。
渡り鳥が何のウィルスを運んで来ようが、
抗菌殺菌完備された給食調理室にて、一度に繁殖する細菌が何であろうが、
人々は自分達の責任ではないと思う。
 
そして、自分の目に見えないことについては何も解らない。   06-01-06 02:51:08の記事、リンク中)
解らないまま今日まで来て、老人ホームや介護施設、小学校では、
集団食中毒が起こり、
各地の山々では土壌を支える樹木や草木の根が枯れ果てたために
土砂災害が頻発する。
一度の大雨で川も海も氾濫し、多くの家屋を呑み込む始末。
雪も大量に積もれば、次に待つのは見たことも聞いたこともない雪崩が、
山の麓や崖下の建物を押し潰す。
 
何も日本だけに始まって起っている問題でもなければ、
俺は、目には視えない世界の”霊の仕業”がどうのこうのを云いたいわけでもない。
 
我々人間が今日まで
何を得るために
何を破壊し、
何を失ってきたか
そういうことを気づかなければならない。
気づいて次へ進むために、今、
何をしなければならない必要に迫られているのか?
 
そういう疑問を常に自分自身に対しても投げかけ、また、
今これを読んでいる読者ではなく
そのすぐ隣に存在する人が気づいている事実を
現実にある事実として確認するために書いている。
…もうちょっとだけ前へ進むためにもな。
 
 

かつて、“カツオ爺さん ”は、地震も津波も火山噴火も森林火災も、
今日この地球上における、すべての災害が人災であり
それはすべて、物凄い大きさとスピードで一度に大きく移動する
幽体の大移動である」と云っていたが、
その”カツオ爺さん”亡き今、それがどういうことなのか?
今の俺には巧く説明はできない。…まだ。
 
 
また、
人間の肉体は心の容器であり、
その人間の容器は この自然界、
地球そのものが人類の容れ物である
と云っていた。そして、
大自然の中の小自然、人間は自然の産物である」とも云っていた。
そんな事実を述べて文献に表わした 者も、
かつてこれまで、人類には存在しなかったけど、
その事実を誰かが
もっと我々に判りやすく解き明かす人が現れてくれることを
期待している俺も、今ここに俺だけしか存在してないかも知れない。
 
でも明日は違う。
次の一秒先は、俺一人ではなく、
同じ姿かたちをしている人間であるなら、
明日は二人、明後日は三人、次の週は十人、百年後には千人、何万人と、
人間が人間として地球上に存在している意味を解って、
生きて生かされ、そこに住みよく楽な生活が営まれる時代が来ることを
俺は誰に向かって手を合わせることでもなく、
生きている自分の中に存在している創造主の一部(?)へ向かって思い、願っている。
 
それは決して、間違っても、
無念や悔いを残して死んだしまった者に対してではなく、
何かの仏像…造形物や経典、教義、教本に従うモノでもなく、
日本語でいうところの「神」なら「神」という言葉があるとするなら、
それでもいい。
神は確実に一人一人の人間の、自分自身の肉体の中に存在している。
その事実に対して願い、思う。
 
で、云うまでもなく、
こういうことは、どっかの誰か、何かの哲学でもなければ、
ダーウィンの進化論にも関係ない。
そういう程度の低い学問や学識で測れるほど
人類や人間の創られ方は単純ではない。
遺伝子がどうのこうのと云ってるすべての連中の愚説も含めて、な。
 
そんな呑気なこと話し合って研究してるうちには
明日の凶悪犯罪も明日だけでは済まなくなるし、
もう食い止めようもない次に起るべくして来る大災害も、
その果てに残された者が どう生きるべきかの問題には
何の役にも立ちゃしない。
 

クリーンエネルギーの開発や理論なんてのも
いつのどの時代に間に合う話なのか?
それも疑わしい。
タテマエばっかりだしな。子供騙しもいいとこだ。
経済追求型 発展過剰国は どこまで突き進もうというのか?
 

この自然界の激しい変化の中で、
人間の学問なんてのは、そんなちっぽけなもんでしかない。
だろ。
   
        つづく。
   
   
 
  
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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   追記1.
   

   
   
 「多分世の中の間違ってる事や矛盾って分かってる人も多いと思う。
      でもどうしたら良いのか答えまで探し出すのは難しいんですよね、きっと。
      あなたがせめて希望的観測であっても良い答えを見つけだせ…」
      その、2006-01-14 08:05:39 にコメントいただいた LOU さん の“祈り”に返して…
   
   Q.  突き進む行き先は何処?
   
   A.  その応えになってるかどうか・・・・・
   

      November 26, 2005  全体の3割のうちの独り
        
http://ameblo.jp/badlife/entry-10006494336.html  
   
      December 14, 2005  仮題:「カトリーナはアティーナへの仕返しなわけねぇよな。」の意味
        
http://ameblo.jp/badlife/entry-10007093505.html  
   
      December 17, 2005  仮題: ごめんなさい。”歩きたばこ” 今日から やめます
        
http://ameblo.jp/badlife/entry-10007153477.html  
   
   
   
   
   
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   追記2.   2006年 02月03日(金)
   

   
   そして・・・・、
   俺は驚いたぜ!
 
  報道写真家の中司さんは、現在、パキスタンに行っておられるようなんですが、
 
  その中司さんのページに、こんなことが書いてあった。
 
  
 
  http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/a6dab15f12121da4c997995f19cc819d  
2006年01月15日
 
  
 
  
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/18ab8347db72980504d2a46a36b866d6  2006年01月17日
   
   
スゲェ! 
 
  
この二つの記事を俺は、事実と思う。
   (…日頃の俺のような おかしな解釈は足元にも及ばないけど
   「共感できる」とか「うなずける」という以上に、
   日本人が日本人同士で自分たちの生活(経済意識)を騙し続けてることが明白にされてる。

   
   みなさん、姉歯堀江 のイタズラに踊らされてる場合じゃないんだぜ、今はもう。 
   
          2008-08-25 00:58:14