変態だと言わないでください | ちゃぬの裏韓国日記

ちゃぬの裏韓国日記

カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

■文教祖「大人になっても実の祖母と母親の乳を吸ったり触ったりすることを変態だと言わないでください」

『私は、おばあさんと母の心を、何度も溶かしてしまいました。何をもってでしょうか。愛をもってです。おばあさんが年老いても一番好きなのは、どういうことでしょうか。昔、子供を育てていた時の心を忘れないのです。おばあさんが寝ていたら、気づかれないようにさっと入っていって、おばあさんの乳首を触りながら吸うと、おばあさんは「こいつ」とは言わないのです。おしりを軽くたたいてくれるのです。そうしてから、おばあさんのポケットにあるお金もそのまま自分のポケットに突っ込むのです。おばあさんの目を見て笑いながら、ここに入れたり、あそこに入れたりと、そのようにするのです。そうするとおばあさんは、「しょうがないわね、ふふふ」と言いながら、喜んでいるのです。舌を出して喜ぶのを見たのです。それは実験した、経験したことなのです。
 私はそうでした。よその土地に行って帰ってくると、母親のところに行って毎日赤ん坊のようにしたのです。昔は私が母親の乳をたくさん吸ったのです。乳を吸うと「この子は、気味が悪い」と言うのですが、喜ぶのです。今でもしてみてください、私の言うことが本当なのか、そうでないのか。

(真の御父母様の生涯路程1)

成人して母親の乳は触らないし、吸わないでしょう。もし吸ったら「変態」って言われますよ。
文教祖の母親も文教祖のことを「この子は、気味が悪い」って言っているじゃないですか。

文教祖は変わった性癖を持っているようです。
母親の乳を触ることを人にも勧めているのですから。

女装して歩く趣味もあります。

先生は女装して歩いたこともあります。女装、分かりますか? 女装して歩いたこともあるのです。韓国のような所では、私は背が高いので、女性の服を着て歩けば、男性だとすぐ分かるので、雨が降る日に女装して出ていったのです。傘をさして。(笑い) 電車に乗って、ある時には男性たちの前で、気合いを入れてお尻をつねって「こいつ」と言いながら。(笑い) そう言ったといって、女性に対してどうしますか? (笑い) 逃げて回るためには、そういうこともみなしてみないといけないのです。大きなことをするためには。』
(「牧会者の道」より)

『私は今も変装して街に出れば、ご飯も乏うて食べることができます。私は女装して、ソウルの街を歩いたこともあります。』
(御旨の行くべき道 1971年年1月9日 江原道江陵教会)

女性の服を着て、首都ソウルで行ってみたことのない所はありません。非行の男性の者たちをみなひどい目に遭わせてやらなければならないというのです。暗行御史(季朝時代の王の密使)にならなければなりません。世の中を調査しようとすれば、くまなく調べなければなりません。そのような歴史がたくさんあります。』
(「文鮮明先生の教育哲学」より 1989年1月1日)

小学生でも母親の乳は吸いませんが、成長して大人になっても母親の乳を「おまえ気持ち悪い」と言われながらも触ったり吸ったりしてしまう性癖は簡単には直らないのか、若いときから遊郭や歓楽街に興味があったようで、中学時代のソウルでも、日本留学時代の東京でも「調査」目的で行ったといっていますが、だったらソウルだけでよかったのでは?????
何故東京に行ってまでさらに歓楽街に「調査」しに行かなければならないのでしょう。

『昔、(ソウルの)鍾路三街のような所には遊郭がありました。それを私が調査しなければならないというのです。なぜ美しい女性たちがあのようなことをしなければならないのかというのです。もしあれが自分の姉だとすればどうするのか、自分の娘ならばどうするのか、父や兄であれば、どうするのか、問題が深刻です。そのような若い女性たちに対して、夜を明かしながら話してあげたことを思い出します。』
(「文鮮明先生の教育哲学」より 1988年10月16日)

てっきりホステスのお姉さんとのお話だと勝手に思っていましたが、遊郭(売春宿)で夜を明かしたのですか。へ~。何もしないで。へ~。

それでソウルで遊郭に行った文教祖ですが日本では・・・・

『夜寝ようと、ホテルに行くと初めて見るおばさんが布団の中に入ってくる、そんなことも多かったのです。 いったい何をしているのかというと、自分もわからずやったというのです。 』
(文先生御言選集290巻 成約時代の宣言 1998年2月3日 p86)

『女性たちが裸になって布団の中にこっそり入ってくることが何度もありました。しかし、私は、日本の女性たちの前に罪を犯しませんでした。』
(「文鮮明先生の教育哲学」より 1992年5月31日)

でも女性が裸になって布団に入れる環境って、そういう場所に行ったからじゃないのでしょうか? 下宿で女を連れ込んだのかと思ってましたが、ホテルで知らない女性が布団の中に入って来たということですから、完全に売春婦でしょう。本人は何もしないと苦しい言い訳。
それに学生が夜寝るときに下宿でなく、なぜホテルで寝るのでしょうか?
売春街通い・・・色魔と言われた文教祖ですから、まあありがちですけどね。

日本でも売春街に行っているようなのです。しかも堕落論を解明するためだとか。でもすでにソウルで調査済みなんですよね。

日本遊学の時、先生は貧民窟から私娼街まで行って見ない所がありません。といっても悪い事をやったのではありません。私娼街にいる女の過去を探ってみれば、普通の人間の過去と違いはありません。社会環境に追われ、その流れに押し流されてどうしようもなく哀れな身の上になり、あるいは父母や兄弟のために自分一身を供え物にした話も聞きました。たとえ自分の体が巷に踏みにじられ、捨てられるそんな女になっても、淋しく消える哀れな女になっても、父母兄弟を生かすという覚悟と決心をしているという時、その手を握って共に慟哭した時もありました。結局、彼らも純粋で素直な人間であったのです。その時先生は、こんな悲惨な人類の解放のために闘おうと考えたのです。』
(私のみ旨と信念 1969年2月2日)

先生は日本にいる時、新宿の路地裏などをずーっと回ったりしました。どこにでも入っていって、女性たちの過去をずーっと尋ねてみます。ビールを持ってこさせるのです。しかし、酒は飲みません。そして、横に座って話をするのです。「なぜ、このような所に来たのか」。ずっと顔を見ながら、「父母がいないようだね」、「母親がいないのではないか」と言えば、だんだんと心を開いて、「そうです」と話し始めるのです。そのようにして、ずっと研究しました。
 そのような場で、彼女の父母以上に悲しみ、彼女の兄さん以上に痛哭できる心情をどのように誘発させるかを考えました。そのようにしなければならないというのです。
 街頭の女性たちに対して、訪ねていって悪いことをするのではなく、事情を聞いて、そのような女性をどのように解放するかと、涙の同志になることができる道を探してさまよった、そのような男でした。
 また、娼婦の巣窟に入っていき、彼女らを悪の巣窟から引き出してやることもしました。ありとあらゆる誤解を受けながらも、そのようなことをしました。このような階層にいる人たちを、先生は心配しなければならないので、そのような複雑な役事がなされたのです。先生は、本当に彼らのために生きたのです。』

(真の御父母様の生涯路程1)

ソウルでの売春街での「調査内容」と同じ報告内容ですね。
「娼婦の巣窟に入っていき、彼女らを悪の巣窟から引き出してやることもしました」とありますが、お金もないのに売春業者から身請けさせたとでも言うのでしょうか。ありえないでしょう。
ソウルに上京していたときの文教祖の年齢って、18歳。(一説には16歳とも)
それで売春宿の調査をソウル、東京と独身時代を謳歌した文教祖でしたが、日本留学を終えて文教祖は見合いで結婚します。

しかしまだ売春宿での調査が足りなかったのか、結婚している身ではありますが、ある宗教にはまります。
金百文牧師のイスラエル修道院でどんなことを学んだかというと・・・

金百文氏の教義は「男女間の性的交際において肉体の情欲性を聖化」というものです。

文教祖はこのようなことをみ言葉で語っていますね。

『自分の性欲をコントロールしなければなりません。美人たちの間に入っていったとしても、生殖器が起きてはいけません。コントロールできる者にならなければなりません。統一教会の根が深いということを知って、その根に皆さんが接ぎ木して成長してこそ、緑の丘で先生のような木になるのです。』
(「文鮮明先生の教育哲学」より 1988年10月16日)

『皆さん、女性がそのようにくっつけば、男性たちはじっとしていますか、「うーん」とやりますか? 最高に美しい女性が近づいてきて、生殖器に触れれば勃起しますか、しませんか? 勃起してはいけません。ですから、皆さんはどんな美人を座らせても、その生殖器が勃起してはならないのです。死ななければなりません。蕩減復帰です。』
(祝福家庭天宙化時代 1997年5月4日)

この『美人の前でも勃起するな!」というのは金百文牧師のイスラエル修道院のときにで学んだ内容なのです。

金百文氏の教義は「男女間の性的交際において肉体の情欲性を聖化」というものです。
文教祖は、この教義を教わるために金百文のイスラエル修道院に入教したのです。金百文氏は、17歳のとき血分け教義の百南柱氏と共にいましたが、文教祖が言うには金百文氏は、李龍道⇒李浩彬⇒金百文という流れで摂理が相続されていったとしています。
文教祖が最初の妻と結婚式を挙げたときの主礼も神霊集団の「李浩彬牧師」でした。

このとき文教祖は結婚していましたが下記のような教義の習得にいそしんでいました。

<文教祖が金百文(イスラエル修道院)から学んだこと⇒「男女間の性的交際において肉体の情欲性を聖化」>
『一九四六年はじめ、当時二六歳になったばかりの文鮮明に大きな転機が訪れた。混淫・血分け派の<巨匠>金百文との出会いである。当時、京畿道坡州郡臨津面ソプジョン里でイスラエル修道院なるものを主宰していた金百文のものとに彼は弟子入りする。(中略)この金百文は、文鮮明より四歳年上の一九一六年生まれ。このとき三〇歳であった。彼はのちにも詳しくふれるが血分け教を理論化した大著『聖神神学』で、「男女間の性的交際において肉体の情欲性を聖化すること、すなわち人間すべての本質問題である肉体的性欲を、神の太初創成期の本性や本質で聖化することによって神に立ち帰らせる」ことを力説、これこそ聖なる神の歴史的大業」だと書いた。(中略)その恩寵を自分一人のものにすることなく万人にキリストの道の根本原理を示す恩寵の機会としようとして、金百文は二冊目の著書『キリスト教根本原理』の執筆に着手した。その執筆プランをまず三回にわたる講義形式で少人数の弟子に「いわゆる臨床学的(実験)としてくり返し、一つ一つの信仰の心霊学的(体験)成果を再検討しながら」明らかにしていったという。
面白いのは、韓国の統一協会の研究者朴英官神学博士は、この少人数の講義の受講生の中に文鮮明が含まれていたと指摘していることである。となると、文鮮明は金百文の著書『キリスト教根本原理』の素材をナマの講義で聴くことができたわけだ。(中略)ともあれ、一九四六年一月、文鮮明は血分けの巨匠金百文を訪ね、そこで六ヶ月間親しく薫陶を受けることになった。
金百文のもとで文鮮明がなにを学んだかはのちに詳しくふれるが、ここではじめて文は混淫・血分けという醜悪な教義とその実技を学んで目を開かれた。六ヶ月の修業ののち一九四六年六月六日、またも<神の啓示>で文は北朝鮮の平壌に行く。平壌は当時混淫・血分け派の本拠であり、李龍道や黄国柱というこの道で知られた<教祖>たちがいた。』

(萩原遼著「淫教のメシア・文鮮明伝」(晩声者)より)

しかし文教祖は金百文牧師から「情欲での勃起をコントロール」することを学ぶ前、十代のころからすでに売春街に通い実験済みです。
さらに磨きをかけたかったのでしょうか。

その後、六マリア、不倫で子供まで作ってしまうことになるわけですが・・・。
勉強の成果はなかったのでしょうか。