『ヒストリエ』のメムノンについて(前編) | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

漫画の記事の目次に戻る

 

書いていくことにする。

 

今回はメムノンについて。

 

(岩明均 『ヒストリエ』1巻p.40 以下は簡略な表記とする)

 

今回はこのメムノンについて、『ヒストリエ』作中の描写の由来とか、何故この人物が登場するのかについて色々書いていく。

 

…本来的には違う内容で『ヒストリエ』の記事を書くつもりだったのだけれど、それをするのが非常に労力がかかると書く前から分かっていて、そのような辛い作業を行いたくなかったから、それより作業量の少なく済むであろう題材を探して、そう言えばメムノンについて『ヒストリエ』作中の描写で気になることがあったということがあって、それを調べるついでに、メムノンについての解説記事を書こうと思ったというのが今回の経緯です。

 

あと、この記事は以前書いた「『ヒストリエ』のバルシネについて(参考)」を読んだ方が分かりやすいというか、この記事ではメムノンの兄弟や親戚関係の話があって、以前その記事でメムノンの兄弟の話とかをしているので、そっちを先に読んだ方が多分、この記事の内容が分かりやすいです。

 

それと、以下では当然の権利のようにネタバレはあります。

 

さて。

 

『ヒストリエ』ではメムノンという人物が出てきていて、ただ現状だと何故出てきているのか分からないし、普通の日本人の中で、彼について知っている人は本当に少ないような人物だろうと思う。

 

僕としても何故彼が、敵の幹部みたいな立ち位置で出てきているのかは割かし謎だった。

 

けれども、この記事を書くために『ヒストリエ』の原作であるプルタルコスの『英雄伝』を読んで、ようやく何故メムノンが登場するのかのおそらくの理由を理解することに至っている。

 

僕は、『ヒストリエ』のメムノンについてを一つの記事でまとめようと考えて、それに際して、どうせ原作である『英雄伝』の記述も引用するのだから、折角の機会だし、『ヒストリエ』の原作であるこの本の、アレクサンドロス大王の列伝を読もうと思って、ついさっき読み終わっている。(参考:『ヒストリエ』の原作について)

 

そして、今まで知らなかったことを知ることになった。

 

それが何かというと、アレクサンドロス大王の東征において、ペルシア軍がクソ雑魚ナメクジで、クッソ激烈に弱いということになる。

 

ペルシア軍はじじいのファックのほうが気合が入っていると言ってしまっていい程に弱くて、ペルシアとの戦は本当に歯ごたえのない戦いばかりで、敵の数はマケドニア軍を大きく上回るようなそれが多いけれども、実際に戦ったら本当に弱くてすぐ瓦解するような戦闘しか基本的になくて、見せ場が特にないというそればかりになる。

 

その辺りは『英雄伝』でも言及されていて、ペルシア戦役でアレクサンドロスをもっとも苦しめたのは物資不足と気候の不順だったという話がされている。

 

五十八 さてアレクサンドロスは戦場でも様々な危険を冒し度々重い傷を受けたが、その軍隊に最も大きな損害を与えたのは軍需品の欠乏と気候の不順であった。アレクサンドロス自身は豪胆を以って運命に勝ち勇気を以って敵軍を破るのを誇としてゐて、勇敢な人々には取れないものがなく臆病なものには堅固な場所がないと考えていた。(プルタルコス 『プルターク英雄伝』 河野与一訳 岩波書店 1956年 p.82 旧字は新字へ)」

 

一応、インドあたりでの戦闘の記述だと、アレクが死にかける程の重傷を負ったり、敵の攻撃で手痛い損害を受けたりという話があるのだけれど、インドに至る前までのペルシアとの戦いは、苦戦しているように読み取れるそれが存在していない。

 

もし、先の引用の記述までの戦闘でマケドニア軍が物資不足や天候不順以上に大きな損害を受けていたという過去があったのなら、あのような記述はあり得ないわけで、そういう記述をプルタルコスが選べる程に、ペルシア軍との戦いではマケドニア軍の損耗は少なくて、それくらいペルシア軍はマケドニア軍に損害を与えられていない。

 

本当にペルシア軍がだらしなくて、アレクが強いというよりも、ペルシア軍が弱いだけなのではないか、と思える程に負けている。

 

…『アナバシス』の1巻を読んだ時も、ギリシア傭兵隊に比べてペルシア軍が明らかに弱くて、「この話の数十年後のアレクの東征も、アレクが強いんじゃなくてペルシア軍が弱いだけだったのでは…?」と同じことを思ったから、純粋にペルシア軍は歴史が長くて軍制が腐敗していて、それが故に軍隊が弱いとか、ペルシア軍のシステムはギリシア軍との相性が極端に悪くて、それが故にボロ負けとかそういう話なのかもしれない。

 

 

加えてアレクが戦ったダレイオス三世は、王室の嫡流の男性が全滅して、少し離れた王族から招かれた人物で、それ故に兵たちに彼に対しての忠誠がないとか、そもそも血なまぐさいペルシャ王室の争いと、それに駆り出されてペルシア人同士で殺し合うことに兵士たちは嫌気がさしていて、ペルシアの"お偉方"のために戦う意欲がなく、それが故に士気が低くて軍が弱いという可能性もある。

 

まぁ僕が読んだことがある大王伝は『英雄伝』のアレクサンドロス伝だけなのであって、他の大王伝だと違うのだろうとは思ってはいるけれども。

 

ともかく、漫画作品としては雑魚をただ蹴散らしても面白くはないわけで、強敵が居て、それを打ち破って初めて面白いのが普通で、けれども、アレクの東征では本当にペルシア軍が弱くて、そのままでは漫画にすることが出来ず、強敵が必要だったから『ヒストリエ』ではメムノンが登場するのでは、と僕は思った。

 

実際、専門家もメムノンは東征の序盤において最大の敵だったと言及していて、その話は『歴史叢書』の注釈にある。

 

ロドス人メムノン ロドス出身のギリシア人で、兄メントルとともに傭兵隊長として活躍し、東方遠征初期におけるアレクサンドロス最大の敵であった。姉妹の一人が属州ヘレスポントス=フリュギアの総督アルタバゾスと結婚したことから、兄メントルはペルシア帝国に取り立てられ、アルタクセルクセス三世からフェニキア・エジプト遠征軍の指揮権を与えられた。その後、小アジア沿岸地方全域の最高指揮権を委ねられ(ディオドロス 一六・五〇・七)、彼の死後は弟のメムノンがこれを引き継いだ。メントルの妻はアルタバゾスの娘バルシネで、 彼の死後はメムノンが彼女を娶った。(参考 下線引用者)」

 

結局、アレクサンドロス大王の東征を描くに際して、敵も強くなければ盛り上がらないのであって、物語を盛り上げるための必要として、メムノンは登場しているし、作中で表現される彼の強キャラ感は、将来的に序盤最大の敵として立ちはだからせるための布石ということになると思う。

 

(8巻pp.90-91)

 

こういう表現をしてこいつが雑魚だったら、それは創作物としておかしいというレベルだし、12巻収録分では、パルメニオンとアッタロスのペルシア遠征の先遣隊が、メムノンに苦しめられているという話がフィリッポスの口からエウメネスに伝えられている。

 

事実メムノンは東征序盤の最大の敵であるし、逆にメムノン以外に強い指揮官がペルシア側に存在しておらず、それが故にメムノンを敵の大ボスと想定して、強い存在感を持たせた描写を『ヒストリエ』では行っているのだろうという話です。

 

さて。

 

ここまででメムノンが何故『ヒストリエ』に登場するのかの話が終わった。

 

以下ではまず、『ヒストリエ』作中の描写の出典の話をして、それに際してバルシネとアレクの馴れ初めの話をした後に、史書に言及のあるメムノンの記述を引用して行くことによって、『ヒストリエ』で将来的に描かれるだろうメムノンの輪郭をぼんやりと固めて行くという方向性でやって行こうと思う。

 

『ヒストリエ』では、メムノンはかつてマケドニアに亡命していたという過去があるという話がある。

 

(10巻p.199)

 

ここでメムノンが昔、マケドニアに居たという話がされている。

 

僕は前々からこの記述はどの歴史書にあるのかが疑問としてあって、予定していた『ヒストリエ』の解説が重くて逃げようと考えた時に、メムノンのこの話は何処にあるんだろうとふと思って調べようと考えて、どうせ調べるならメムノンの話をまとめるかと思った、というのが今回の記事を作るに至った経緯になる。

 

そして調べた結果として、『歴史叢書』にその記述があるということが分かった。

 

今からその記述を引用するのだけれど、一応説明すると、ここに言及のあるメントルというのはメムノンの兄で、メントルがペルシア王に認められたから、メムノンらもペルシアへの帰参を許されたというくだりです。

 

52 カリマコスがアテナイのアルコンだった時、ローマ人はガイウス・マルキウスとプブリウス・ウァレリウスを執政官に選出した。彼らの任期の間にアルタクセルクセスはメントル将軍がエジプト人との戦争で自らのために大きな功績を挙げたのを見て取ると、彼を他の友人よりも上位に置いた。彼をその素晴らしい作戦行動のために賞賛の価値ありと見なした彼は一〇〇タラントンの銀と最も高価な勲章を贈り、アジア沿岸部の太守に任命して最高指揮権を帯びた将軍に指名し、反乱軍との戦争を委ねた。メントルは以前ペルシア人と戦っていて目下の時はアジアからフィリッポスの宮廷へ亡命していたアルタバゾスとメムノンの両者と縁繋がりであっため、王に彼らへの告発を取り下げるよう願って説得した。また、その直後に彼は〔王宮に〕出頭させるために両者を一族全員もろとも呼び寄せた。というのもアルタバゾスはメントルとメムノンの姉妹との間に一一人の息子と一〇人の娘を儲けていたからだ。そしてメントルはその結婚で生まれたたくさんの子供たちに魅了されたために彼らに軍の上位指揮権を与えた。(参考 下線引用者 おそらくタイプミスで下線部の直後に"た"が一つ抜けているが、出典の形を保つために原文ママ)」

 

こういう風にメムノンはフィリッポスの宮廷に亡命していたという記述があって、『ヒストリエ』の先の場面は、この『歴史叢書』の記述が出典らしい。

 

『歴史叢書』の今引用した部分より前の所には、メムノンと一緒にマケドニアの宮廷に居るアルタバゾスのその状況に至るまでの記述があって、ペルシアに離反して討伐軍がペルシア王によって送られて、戦闘がされてカレスがアルタバゾス側として参戦したという話がされている。
 
ただ、負けたとか追い出されたとか逃げ出したとかいうくだりは記述されてなくて、いつの間にかフィリッポスの宮廷に居て、まぁどっかで負けて雇っていたギリシア傭兵の隊長であるメムノンとマケドニアに逃げたという話なんだろうと個人的に思っている。
 
一方で兄のメントルの方も傭兵を率いてペルシア軍と戦っていて、ただなんやかんやあってペルシア側に鞍替えして、その後に大活躍をして、その功を元に王と交渉してメムノンとアルタバゾスをペルシアに呼び戻したというのが先の引用の経緯らしい。
 

先の引用ではアルタバゾスの子供達の話がある。

 

「アルタバゾスはメントルとメムノンの姉妹との間に一一人の息子と一〇人の娘を儲けていたからだ。(同上)」

 

アルタバゾスにメントルとメムノンの姉妹が嫁いで、たくさんの子を生んだとあって、ここで言及されるアルタバゾスの子にバルシネも含まれている。

 

21人を生んだとなるともしかしたら、複数人の姉妹がアルタバゾスに嫁いでいるのかもしれない。

 

もっとも、古代中国、周の文王の正室も少なくとも10人の男児(女児については記述なし)を生んでいるので、生む人はそれくらい生むのであって、1人で21人を生んだ可能性もある。

 

ともかく、そのマケドニアの宮廷に居たアルタバゾスの21人の子供達にはバルシネも含まれていて、『ヒストリエ』ではバルシネとメムノンがフィリッポスを言って、"あの男"としていたけれども、あれはどうやら、二人とフィリッポスは面識があって、それが故に"あの"男と言っているという話らしい。

(1巻p.42)
 
実際の歴史では海を渡ってくるのは息子のアレクサンドロスであるとはいえ、この時点でフィリッポス王の暗殺や遠征前の病気などを理由にした死などを見越して息子が来るという予測は建てられないはずなので、まぁフィリッポスの事を言っていると判断して良いと思う。
 
あの男について言及した『ヒストリエ』の先の場面の数年前に、メムノンとバルシネはともにマケドニア宮廷に居て、それが故に共通認識としてフィリッポスという男がいるし、おそらくはマケドニア宮廷でペルシア遠征の気運があって、二人がマケドニアに居た時からそういう話があったという設定なのだと思う。
 
…史書の記述ではバルシネはアレクサンドロスの子を産むわけだけれど、バルシネは幼少期にマケドニアの宮廷に居た以上、二人は幼少期に面識があって、幼馴染だからそういう関係になったと考えた方が良いんだよな。
 
『歴史叢書』の記述を見る限り、バルシネは幼少期にマケドニアの宮廷で暮らしていて、その後にメントルとメムノンに嫁いで、けれども彼らが病死して寡婦になっていたところをアレクサンドロスに見初められたという流れであって、そのマケドニアの宮廷でバルシネとアレクが知り合っていたとするならば、ダマスカスでバルシネを捕虜の中から見つけたと思ったら、アレクサンドロスがそのままバルシネとセックスするという、意味不明な流れが途端に文脈を佩びてくる。
 
『英雄伝』や『地中海世界史』だとダマスカスで捕虜になったバルシネをアレクが初めての相手に選んだとあって、捕虜を凌辱したとしか思えない話だけれど、あれは敵将の寡婦を略奪したのではなくて、おそらく幼馴染と再会して恋仲?になっただけなんですよね。
 
僕はバルシネとアレクサンドロスが幼少期に知り合っていると考えて、そうとすると二人が別れたのは何歳の時で、再会したのは何歳の時かの大体の数字を計算しようと試みた。
 
けれども、その試みは失敗に終わっている。
 
何故というと、『歴史叢書』には先のメムノンのペルシア帰参の話について、「52 カリマコスがアテナイのアルコンだった時、ローマ人はガイウス・マルキウスとプブリウス・ウァレリウスを執政官に選出した。(同上)」ということがあって、「彼らの任期の間にアルタクセルクセスはメントル将軍がエジプト人との戦争で自らのために大きな功績を挙げたのを見て取ると、彼を他の友人よりも上位に置いた。(同上)」とある。
 
これが問題で、「カリマコスがアテナイのアルコンだった」年は注釈によると紀元前349から348年の話で、「ローマ人はガイウス・マルキウスとプブリウス・ウァレリウスを執政官に選出した」年は紀元前352年であるとされている。
 
要するに、『歴史叢書』が編纂された時点で、この辺りの時代だとローマの歴史とギリシアの歴史で物事が起きた年にズレが生じているようで、実際にメムノンがペルシアに帰参したのが先に挙げたどちらかの年号か、さもなければ全く違う年号なのかを判断する材料がないから色々な計算が上手く出来なかった。
 
ローマとギリシアでズレてるんだから、ペルシアの方もズレている可能性もある。
 
弟メムノンがペルシアに帰参した年号が分かれば、それまで兄メントルとマケドニアに居たバルシネは別に暮らしていたのだから、その年より後に第一子を儲けたということが分かって、けれども、具体的に紀元前何年にアルタバゾス一家がマケドニアからペルシアに帰ったかが分からなくて、どの時点でバルシネがメントルに嫁いだのかが全く分からない。
 
この記事を書くために調べたのだけれども、マケドニアではどうかは定かではないとはいえ、古代ギリシアでは大体、女性が結婚する年齢は17歳くらいが想定されていらしい。
 
その話はヘシオドスの『仕事と日』にある。
 
「 時を違えず妻を家に入れるがよい。
三十をさほど足らぬではもなく、
あまり越えすぎてもいない、それが結婚の適期だ。
女は成熟して四年待ち、五年目に嫁ぐべし。(ヘシオドス 『全作品』 中務哲郎訳 京都大学学術出版会 2013年 p.200)」
 
「女は成熟してから四年待ち、五年目に嫁ぐ(同上)」と書かれていて、ここで言う成熟はどうも初潮の話らしくて、そうとすると結婚適齢年齢は17~18歳くらいで、注釈によると他のギリシア人も、大体近い年齢を女の嫁ぐべき年齢としている。
 
「ソロンは男の適期を三十五歳とする。プラトンによると、女は十六ー二〇で、男は三〇ー三五でするとのがよい。アリストテレスは専ら子づくりと財産相続の観点から、女一八歳頃、男三七歳か少し前を推奨する。(同上 ヘシオドス 『全作品』注釈は省略 )」
 
先の『仕事と日』の話は、プルタルコスの『愛をめぐる対話』でも引用されていて、ヘシオドスは紀元前700年頃を生きた人で、プルタルコスは紀元後1世紀に生きた人だから、数百年、ギリシアではそのくらいが女性の結婚適齢期だと考えられてきたらしい。(プルタルコス 『愛をめぐる対話』 柳沼重剛訳 岩波書店 1986年 p.24)
 
けれども、バルシネはペルシアのアルタバゾスの娘で、夫はロードス島出身なのだから、おそらくギリシアの常識は通用しない。
 
(Wikipediaより。赤色がロードス島。ギリシア本土から遠く離れている。)
 
もっと若くしてバルシネはメントルに嫁いだ可能性は十分にあって、古代インドの『マヌ法典』だと女性が嫁ぐべき年齢は8歳だとか12歳だとか書かれているし、そうした幼児婚の話題に関連して『ヴェーダ学論集』ではローマの結婚適齢期の話があって、そこでは女性は12歳が結婚の最低年齢とされたとある。 (辻 直四郎『ヴェーダ学論集』岩波書店 1977年 p.298)
 
とりあえず、バルシネはギリシアの結婚適齢期の年齢で嫁いだとして、メントルが病死するのが紀元前340年であって、バルシネにはメントルの子が四人いて、この年までにメントルは仕込み終えなければならないという話になる。
 
バルシネとメントルの子については、『歴史叢書』の注釈にその人数の子が居たと書かれている。
 

「メムノンの妻はバルシネで、彼女の父はペルシアの名門貴族アルタバゾス、母はロドス出身のギリシア人。この母の兄弟がメントルとメムノンの二人である。バルシネは伯父にあたるメントルと結婚し、息子テュモンダスと三人の娘を生んだ(アリアノス二・一三・二、クルティウス三・三・一、一三・一四)。メントルが死ぬと、彼の弟で彼女には同じく伯父にあたるメムノンと再婚し、一人の息子を得た(クルティウス 三・一三・一四)。これとは別にメムノンには、グラニコスで共に戦った複数の息子がいた(アリアノス一・一 五・二)。彼らは明らかにバルシネではなく先妻の子である。(ディオドロス 『歴史叢書』第一七巻「アレクサンドロス大王の歴史」訳および註(その一) 森谷公俊訳  参考)」

 
仮に16歳で嫁いでメントルの死の時点で21歳だったとしたならば、バルシネの生まれは前361年になって、アレクサンドロスは前356年生まれなのだから、5歳しか変わらないということになる。
 
『ヒストリエ』だとバルシネとアレクはだいぶ年が離れているけれども、史実ではちょっと年上程度の年齢差でしかなかった可能性もあって、そうとすると、久しぶりに再会した年上のお姉ちゃんが夫を失って泣いて暮らしているところを、かつては弟と姉という年齢差だった王子様が、立派に王様になって手を差し伸べたという場面になって、メムノンの寡婦であるバルシネがアレクの子を産むという出来事は、だいぶ見方が変わってくる。
 
敵将の妻を略奪して子を孕ませるという、蛮夷である楚王ですら部下に諫言される蛮族ムーブ(参考)と思いきや、悲しみに暮れて子供たちと不安の中に生きていた所に、あんなに背が低くて可愛かった幼馴染の男の子が、王様になってブーケファラスに乗ってやって来て救いの手を差し伸べたという、そのままのプロットで月刊プリンセスで連載できそうな純愛ムーブだったというのが実態だったという可能性がある。
 
実際、『ヒストリエ』の設定だとバルシネは再会時に30を過ぎていて、それだとアレクのムーブってどうなの?って話になって、けれども、『英雄伝』ではパルメニオンがアレクの初めての相手にバルシネを推薦していて、そういうことをするというのだから、勘案するにアレクとの再会時にバルシネは二十代中盤から後半くらいで、一方でアレクが23歳前後である以上、バルシネの年齢がそれくらいなら普通に理解できる流れになる。
 
一応、バルシネの最初の夫であるメントルの死は、日本語のWikipedaiaに紀元前340年とあるから、この記事ではその前提で色々書いているけれど、この死んだ年については出典がなくて、出典が無いのだから本当にこの年に死んだかも分からない以上、再会時のバルシネの年齢の見積もりはまだ若くなるという可能性がある。
 
メントルとバルシネの子については、アッリアノスと『アレクサンドロス大王東征記』とクルティウス・ルフスの『アレクサンドロス大王伝』に息子一人、娘三人と記述があるようで、ただメントルの没年については英語版のWikipediaだと、西方指揮官に紀元前342年に就任して、その四年後に死んだと書かれている。
 
そうとすると、この記事で想定していた没年よりも一~二年長くに生きているという話になって、そうなってくると、バルシネがアレクと再会した時の年齢も、更に若く見積もることが可能になる。
 
実際の所は、先に言及したように、そう言った年号の決定を担っている歴史書の一つである『歴史叢書』も、ギリシアとローマの間の年がズレている以上、メントルの死んだ正確な年なんてものは、もはや誰にも分からないようなそれになると思う。
 
史実ではどうなっていたのかは定かではないけれども、二人は2~3年しか年齢は変わらなかったとか、下手したら同い年という可能性もあって、アレクとバルシネの関係は、敵将の女を奪い取ったという話ではなくて、ただ単に久しぶりに会った幼馴染と旧交を温めたというだけなのだろうと、僕は個人的に二人の馴れ初めについてを処理している。
 
『ヒストリエ』のように七歳以上も年が離れてたら素直に飲み込めない状況である一方で、そのように年齢の近い幼馴染だった場合は、普通に状況が理解できるのであって、僕個人としては、二人の年齢はそこまで離れてはいなかったのだろうと考えている。
 
まぁ『ヒストリエ』ではどうなるかは分からないし、現状のペースだと、そこまで至らなそうではあるけれど…。
 
そして、ここでアレクとバルシネと結婚しなかったのも、ギリシアの伝統として、男子は30歳過ぎまで結婚しないというそれがあった様子があって、バルシネとの再会の時点でアレクは23歳くらいで、ギリシアの慣例として男性が結婚する年齢としては早すぎて、それが故に結婚しなかったという話なのかもしれない。
 
「 時を違えず妻を家に入れるがよい。
三十をさほど足らぬではもなく、
あまり越えすぎてもいない、それが結婚の適期だ。
女は成熟して四年待ち、五年目に嫁ぐべし。(同上ヘシオドス)」
 
「ソロンは男の適期を三十五歳とする。プラトンによると、女は十六ー二〇で、男は三〇ー三五でするとのがよい。アリストテレスは専ら子づくりと財産相続の観点から、女一八歳頃、男三七歳か少し前を推奨する。(同上ヘシオドス)」
 
バルシネの出自は大王の正妻として全く申し分はなくて、彼女の父親であるアルタバゾスの母親、すなわちバルシネの父方の祖母は、ペルシア王アルタクセルクセス二世の娘で、アルタバゾスはペルシア王家の外戚になる。
 
正妻になれないような血筋では全くなくて、彼女は高貴な家柄に生まれている。
 
だから、結婚をしなかった理由を考えた時に、ギリシアの伝統として男性が結婚するのは30過ぎで、アレクが結婚年齢に至っていなかったことが理由で、二人は結婚しておらず、そういう理由で結婚状態ではない形で二人の子であるヘラクレスが生まれて、そういう経緯で彼が非嫡出子だったから、帝国を継げなかったという可能性がある。
 
ただ…個人的に、先の引用を見るに、その事というよりも、アルタバゾスの一族が不穏だから、跡継ぎになれなかったのではないかと思っている。
 
年齢が届いていなかったからバルシネとは結婚しなかっただけで、二人の子に何か疚しい事があるということはないし、バルシネの出自は問題なくて、確実にペルシア王家との血縁がある以上、むしろ来歴が不明であるオクシュアルテスの、その娘であるロクサネよりも、正妻に相応しいと言って良いような血筋になる。
 
それでも跡継ぎにバルシネの子であるヘラクレスが選ばれなかった理由を考えた時に、バルシネの一族の不穏さとその人数の多さが目に付くそれになる。
 
先の引用には「アルタバゾスはメントルとメムノンの姉妹との間に一一人の息子と一〇人の娘を儲けていた(同上)」とあって、ヘラクレスにはアルタバゾスの繋がりのおじだけで11人のペルシア人貴族が居るということが分かる。
 
更には、バルシネにはメムノンとメントルの子もいて、ヘラクレスと彼らは兄弟であって、それだけでなく外戚としてプトレマイオスとネアルコス、そしてエウメネスが居る。
 
アルタバゾスの一族はペルシアに離反して帰参して、その後に大王が東征を始めると、アルタバゾスなどは何年もマケドニアの宮廷で世話になっているというのに、その恩を仇で返す形でマケドニアの敵にまわっているし、いつ宗旨替えしたのかは不明瞭とはいえ、後に娘たちはマケドニア諸将に嫁いでいるのだから、結局ペルシアからマケドニアに鞍替えをしている。
 
敵になったり味方になったり節操のない連中で、けれども取り潰せないというのはそれ程の勢力があるという話であって、支配領域も大王の帝国の本拠地やギリシア本土に非常に近くて、辺境の太守であるオクシュアルテスの娘ロクサネとは訳が違う。
 
アルタバゾスの10人の娘の内、バルシネは大王に見初められ、 アルタカマはプトレマイオスに、アルトニスはエウメネスに嫁いでいるけれども、残りの人たちも何処かに嫁いでいるわけであって、その嫁ぎ先もまた外戚になる以上、非常に剣呑な一族が彼らになる。
 
彼らが結託して王宮からマケドニア人の将軍を除こうと考える可能性もあって、彼らが王の外戚というのは非常に危うい状況だと僕は思う。
 
彼らを背景にしたヘラクレスが帝国を継承するのをマケドニア諸将が危険視するのは当然で、歴史上、そういう風に外戚が不穏だからという理由で帝国を継げなかったという場合は古代中国で実際に存在している。
 
古代中国の漢帝国では、初代皇帝劉邦の妻である呂后が権勢を振るって政治を専横して、一族を王に据えたり宰相にしたり色々していたけれども、彼女の死後にクーデターが起きて、呂氏が除かれた後に、現皇帝は呂后が何処かから連れてきた、先帝と血の繋がらない人物だとして、初代皇帝の息子の中で存命の者や、孫にあたる人物を新たに皇帝として招くということがあった。
 
それに際して、外戚が不穏だから候補から弾かれた人物の話がある。
 
場面は次の皇帝は誰が良いかあーだこーだ言ってるところです。
 
「 ある者が「斉の悼恵王は高祖の長男で、今その嫡子が斉王である。祖にさかのぼってみると高祖の嫡長孫であるから、この人を立てるのがよい」と言ったが、大臣らは、「呂氏は外戚として悪かったため宗廟を危うくし、功臣たちを混乱させたのである。斉王の母方の家は駟鈞の悪人で、もし斉王を立てて帝とすれば、また呂氏のように母方のものが禍いをなすだろう」と反対した。
 淮南王を立てようという意見もあったが、淮南王は年が若く、母方の家も悪いということになった。結局のところ、「代王は高祖の現存の子で、年も長じており、慈しみ深く徳が高く、太后の薄氏の家も謹良な家である。そのうえ長上を立てるのはもとより順当なことであり、人孝をもって天下に知れわたっていることは好都合である」ということになり、みな一致してひそかに人を遣り代王を招くことにした。(司馬遷 『世界文学大系 5A 史記』 小竹文夫訳 筑摩書房 1962年  p.101)」

 

 

母方の一族が不穏というのは帝国の跡継ぎを選ぶに際して懸念材料になるという場合があるのは確かで、ヘラクレスの母方の親戚であるアルタバゾスの一族はクッソ激烈に不穏なわけで、彼が大王の帝国を継げなかったのは、母方の親戚がアレだったからだと個人的には考えている。

 

ただ、僕としてはヘラクレスが剣呑過ぎるからロクサネの子が選ばれたのだろうとは思うとはいえ、その辺りは僕の勝手な推論になる。

 

史実がどのような形だったかは不明瞭だし、上記の内容は僕が勝手に導き出しただけの話で、おそらく、専門家の中で僕が書いた指摘をした人もいないだろうとは思っていて、要するに素人による信用ならない憶測でしかないということは理解して欲しいところではある。

 

話を『ヒストリエ』に戻すと、『ヒストリエ』でメムノンがマケドニアに居たという話は、先に引用した『歴史叢書』の記述が元だと思う。

 

(同上)

 

ただ、その辺りのテキストは翻訳が出版されていないので、大王の東征について書かれた解説書の類があって、その中で序盤最強の敵であるメムノンの記述があって、そこにかつてマケドニアに亡命していたという話がされていて、それを岩明先生が読んだということがあって、そういう経緯で『ヒストリエ』のあの描写があるのではないかと思っている。

 

…本来的にはここから、アレクサンドロス大王の敵対者として、大王を苦しめる有能な将軍としてのメムノンの記述を種々の史料から引用するつもりだったのだけれど、現時点で文量が十分にたまったため、とりあえずここで一区切りする。

 

続き書くか書かないかは、来月になったら考えましょうね。

 

…ていうか殆どバルシネの話しかしてねぇじゃねぇか。

 

メムノンの解説と銘打ってこれだとマズいから、普通に続きは書くと思う。

 

ちなみに、古代ギリシアの結婚年齢の話がプルタルコスの『愛をめぐる対話』あったということは覚えていて、ただ本を何処に仕舞ったかが分からなくなったので、今回も普通に図書館で確認しています。

 

漫画の解説のために図書館に行くの、何回目なんですかねぇ…。

 

そんな感じです。

 

では。

 

・追記

この追記を書いている時点ではメムノンの解説については(中編)に加えて(後編)までを書き終えているのだけれど、そこまで書き終えた結果として、この記事には不備があるということが分かった。

 

とはいえ、その事については話すと滅茶苦茶長くなる話で、実際(後編)の記事でねっとりと説明してあるので、この場では詳しい話はしない。

 

ただ、端的にどのような不備があるのかだけ書いておくと、専門家が『歴史叢書』についての論文の注釈で、バルシネにはメントルとの間に1人の息子と3人の娘がいるという話をしていて、僕は専門家の記述を信じてこの記事を書いたのだけれど、その中で特に息子について、どうやらその話は間違いだったらしいと今現在は分かっている。

 

だったらそれを前提にして書き直せばいいのではという話になるかもだけれど、話の流れとかがあって、今回の修正は最早、全編で3万字を越えるメムノンの解説全てを書き直すという方法でしか対応は取れない様子があって、その体力は僕にはないから、弥縫策として、とにかく、あの森谷の注釈はどうやら誤りであったらしいという話だけをここに書いておくことにした。

 

詳しい話は(後編)の記事(参考)を読んでください。

 

専門家が専門分野の論文に間違った情報を記載するのは本当にやめて欲しいと思いました。(小学生並みの感想)

 

漫画の記事の目次に戻る