『ヒストリエ』のメムノンについて(後編) | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

書いていくことにする。

 

前回の記事(参考)の最後の方で色々書いたけれども、僕の方で色々考え直すところがあって、メムノンの解説は『アレクサンドロス大王東征記』の記述を引用するところまでで終わりにすることにした。

 

最後まで読めばどうしてそういうことになったのかは分かると思うので、まぁ、はい。

 

さて。

 

以下では『アレクサンドロス大王東征記』の文章を引用して行くわけだけれど、それに際してどのような方法が良いかを思案した。

 

やり方としては逐一全ての文章を引用する方法とか、『戦術書』のように基本要約を選んで、その中で重要っぽそうなそれに限定して前後の文を引用するという形にしようかと思ったのだけれど、東征記のメムノンの記述は全体的に彼の強さを示す内容になっていて、全体的に重要っぽそうな感じがあった。

 

なので、基本的に頭から順番にそのまま引用して行って、些細な記述については要約するという方法を取ることにする。

 

まず、『アレクサンドロス大王東征記』でのメムノンの最初の記述は焦土作戦の提唱になる。

 

「 (ギリシアとアジアの間にある海峡であるヘレスポントスを越えてマケドニア軍はヘルモトスまで辿り着き、この街を接収した。) 一方ペルシア側の指揮官はアルサメス、レオミトレス、ペテネス、ニパテス、これらに加えてリュディアおよびイオニアの太守スピトリダテスとヘッレスポントス・プリュギアの太守アルシテスの面面だった。これらの指揮官たちは東方人編成の騎兵隊とギリシア人傭兵隊をひきいてゼレイア市の近くに陣をかまえていた。すでにしてアレクサンドロスが海峡を越えたことが伝えられると、彼らは会合して現在の情勢につき協議した。席上ロドス人のメムノンが彼らに勧告したことは、歩兵戦力の点でわれわれよりはるかに優勢なマケドニア軍には、危険をおかして立ち向かわないように、しかも相手はアレクサンドロスみずからが陣頭にあるというのに、こちらはダレイオス不在の状態なのだから、ここのところはよろしく後退して、秣になる青草はこれを馬蹄にかけて踏みにじり、畑作物には火を放って、町そのものも含め一切合財を焼きはらってしまう、そうすればアレクサンドロスとても糧秣難におちいって、よもやこの国土にとどまりはすまい、ということだった。

 けれども伝えられるところによると、ペルシア側の作戦会議ではアルシテスが発言して、自分の統治下にある人民の住み家は、たとえ一戸たりともこれに火をかけさせるわけにはゆかないといい、他のペルシア人たちも、メムノンが王の殊遇を得ようとして、意図的に戦闘の引き延ばしを策しているのではないかと邪推したので、このアルテシスの意見に同意したのである。(アッリアノス 『アレクサンドロス大王東征記 付インド誌 上』 大牟田章訳 岩波文庫 2001年 pp.72-73)」

 

…。

 

なんつーかもう、この時点でクッソ激烈に有能なんだよなぁ。

 

メムノンは陸戦でのマケドニア軍の強さを知っていて、焦土作戦を行い補給を断って本体の到着を待って決戦すべきだと主張して、けれども、ペルシア諸将はメムノンが王におもねるためにそういう提案をしたと判断し、メムノンの提議は却下されたという流れになる。

 

ここだけ見るとペルシア諸将は無能にしか見えないけれど、彼ら視点だと、昔は敵だったくせに、兄のコネでペルシアに来て、それで王に気に入られて将軍になって、今ここで焦土作戦を提唱する外様の傭兵出身のギリシア人の提案なんて、却下以外の選択肢なんて存在していない。

 

『韓非子』の「説難」には、どんなに正論であろうとも、採用者である君主の判断によってその裁決は左右されるのだから、君主の性格を知って、その君主が喜びそうな言葉を選んで言って、意気盛んで血気のある人物の場合はその勢いに沿う形で意見をして、名誉を大切とする人物の場合は古例を引いて、過去の名君を例に出して主張を伝えるなどというようなテクニックの話がされている。

 

実際の文章を読み返さないで今書いてるから記憶が曖昧だけれども。

 

要するに、会議で通る議決は正解ではなく、主催者の判決や多数決なのだから、この場面でメムノンがどんなに正論を言っても無駄だっただろうと僕は思う。

 

ただ、けれども陸戦のマケドニア軍は実際強くて、この後にペルシア軍はグラニコス河畔の戦いで大敗していて、メムノンは慧眼であったということは確かだと思う。

 

『ヒストリエ』でもフォーキオンは陸戦でマケドニア軍には到底勝てないと言っていて、その辺りはもしかしたら『アレクサンドロス大王東征記』が元なのかもしれない。

 

(8巻p.29)

 

次にメムノンはグラニコス河畔の戦いの中での記述で、彼が最精鋭の騎兵を息子と共に率いたと書かれている。

 

一五 アミュンタスとソクラテスのひきいる先頭部隊が対岸に一番乗りすると、ペルシア軍はそこを目がけて上の方から矢玉を浴びせかけてきた。川中めがけて投げ槍を放つのに、土手の高みからする者もあれば、もっと低平な場所へと水際まで降りてきて槍を投げる者もあった。次いで騎兵同士、一方は川から上がろうとし他方はそれを阻止しようとして、はげしい衝突が起こった。ペルシア軍の方からは投げ槍が雨のように射込まれ、マケドニア軍は突き槍を武器として戦った。しかしマケドニア軍は数のうえではるかに劣勢だったので、最初の攻撃では手ひどい苦戦を強いられた。彼らは足許不確かな、しかも相手より低い川辺からの防戦だったのに反し、ペルシア軍の方には土手の高みから戦うという地の利があったからである。加えてここに配置されていたのは、ペルシア騎兵隊のなかでも最精鋭を誇る部隊だった。メムノンの息子たち、それにメムノン自身もそのなかにあって、戦闘の危険を彼らと共にしていた。(同上pp.77-78)」

 

傭兵であるのにも関わらず、ペルシア軍最精鋭の騎兵を率いているのがメムノンであって、『ヒストリエ』でも彼が率いる傭兵部隊の話はされている。

 

(8巻p.87)

 

東征記のメムノン率いる騎兵隊は、傭兵だというのに最精鋭の騎兵隊の一部であるという話がされていて、『ヒストリエ』の今引用した場面についても、東征記の先の引用の記述が元なのではないかと僕は思う。

 

…というか、残る二つの史料を確かめてないから敢えて言う事はしなかったけれども、おそらく、『ヒストリエ』のメムノンのベースは『アレクサンドロス大王東征記』なんだよな、多分。

 

既に二回引用した箇所の時点で本当に『ヒストリエ』のメムノンっぽいし、他の記述もやはり『ヒストリエ』のイメージと矛盾しない。

 

それと、先の引用でメムノンの息子の話があって、ただ研究者の間では、あれはバルシネの子ではないだろうという判断が存在する様子がある。

 

「メムノンの息子たち、それにメムノン自身もそのなかにあって、戦闘の危険を彼らと共にしていた。(同上 『アレクサンドロス大王東征記』 pp.77-78)」

 

「メムノンの妻はバルシネで、彼女の父はペルシアの名門貴族アルタバゾス、母はロドス出身のギリシア人。この母の兄弟がメントルとメムノンの二人である。バルシネは伯父にあたるメントルと結婚し、息子テュモンダスと三人の娘を生んだ(アリアノス二・一三・二、クルティウス三・三・一、一三・一四)。メントルが死ぬと、彼の弟で彼女には同じく伯父にあたるメムノンと再婚し、一人の息子を得た(クルティウス 三・一三・一四)。これとは別にメムノンには、グラニコスで共に戦った複数の息子がいた(アリアノス一・一 五・二)。彼らは明らかにバルシネではなく先妻の子である。(ディオドロス 『歴史叢書』第一七巻「アレクサンドロス大王の歴史」訳および註(その一) 森谷公俊訳  参考)」

 

まぁバルシネが嫁いだ時期的に子はまだ成人してないだろうという話なのだと思う。

 

…後にその話はまたするけれど、ここに言及のあるメントルとバルシネの子供達の特にテュモンダスついては多分、メントルの先妻や妾の子であって、バルシネの子じゃないんだよな。

 

おそらく、アレクの所に行く前に生んでいたバルシネの子は、後にネアルコスに嫁いだ娘一人だけだと思う。

 

それはともかく、次にメムノンについての記述があるのは、アレクが部下をメムノンの領土に派遣したという話で、注釈ではアルタバゾスからもらった領土だろうという話がされている。

 

それに続く文章で、アレクの従兄弟のアミュンタス、フィリッポスの兄の子で本来は王位が彼にあったはずのアミュンタスがエフェソスに逃げていたという話がされているけれど、この記事で引用するような話でもない。

 

ちなみに、東征記だとアミュンタスは何もしてないけど、立場的に危ういから恐ろしくて逃げたという話がされていて、『アレクサンドロス大王伝』のように命を狙う陰謀を企てたという話はない様子がある。

 

…全文読んでるわけじゃないからよう知らんけど(関西人的表現)。

 

これについては、史料によって言及が違うか、後に粛清をするに際して、アミュンタスは命を狙う陰謀を企てることになったか、陰謀を企てたということに"なった"という話だとは思う。

 

話をメムノンに戻すと、次にメムノンの名前が出てくる場面は、マケドニア軍がエフェソスを占領した際に、その前の段階で対抗のためにメムノンを招き入れようとした人々が、降伏後に市民から吊し上げられたという話になって、これも引用するような話ではないので引用はしない。

 

次にメムノンが出てくるのは、メムノンが要塞の補修を行っていたというくだりになる。

 

「 (アレクサンドロスはペルシアの艦隊に比べて自軍の艦隊が心もとないと考え、陸路で街を占領すればおのずから港も占領でき、敵の艦隊を平らげることが出来ると判断し、自軍の艦隊を解体した。)この問題を片づけると、アレクサンドロスはカリアへ向けて軍を進めた。夷狄と傭兵とから成る少なからぬ兵力が、ハリカルナッソスに集結している、という情報が入ったからだ。ミレトスとハリカルナッソスの中間にあるすべての都市は、進軍の途上一気にこれを占領して、彼はハリカルナッソスに近く、市街からおよそ五スタディア〔約○・九キロメートル]離れたあたりに、長期の攻囲戦を予想して陣を布いた。というのも、土地の性状からしてこの都市は要害堅固だったし、しかも都市の安全を確保するうえで何らかの欠陥ありと思われた箇所は、どこも彼処もメムノンがずっと以前から補強工事をほどこしていたからだ。メムノンはみずからこの現地にあって、今ではダレイオスから下部アジア 〔小アジア沿海地方〕 および全艦隊の指揮官に任命されていたのである。それにこの都市には、外国人傭兵の大部隊が残されており、ペルシア人自体の数も多かった。しかも港には三段橈船群まで碇泊中だったから、都市防衛戦にあたっては、艦隊の乗組員からも多大の援助がメムノンに提供できる構えであった。(同上『アレクサンドロス大王東征記 付インド誌 上』 p.93)」

 

ここでメムノンはずっと以前から要塞の補強工事を行っていたと言及されているけれども、ここで言うずっと以前が、どれ程に前の話なのかは分からない。

 

ともかく、ずっと以前からこの辺りの戦略的な重要性を認識していて、敵に攻められたときに耐えられるように要塞を予め補修していたという話であって、メムノンの優秀さを示すエピソードではあると思う。
 
その補修がマケドニア軍に対してを想定したものなのかは分からないけれども、そうであろうとなかろうと、事実マケドニア軍は要塞を見て、ここは時間が掛かると判断して長期の攻囲を見越して陣を布いているのだから、その判断は正解だったという話にはなると思う。
 
…強い。(確信)
 
次にメムノンの名前が出てくるのは、先の要塞が、なんやかんやあってマケドニアによって陥落寸前になったという流れからの続きの場面です。
 
二三 ペルシア軍の現地指揮官だったオロントバテスとメムノンはこの段階で会合し市壁の一部はすでに崩壊し他の部分もがたがたになっているうえ、多くの兵士たちもたび重なる出撃であるいは命を落とし、あるいは手傷を負って戦闘能力を失っているそのありさまを目にしては、現状からこの先もはや長くは攻囲を持ちこたえることができないという判断に達した。 そこで彼らはこのことを考慮に入れたうえで、夜の第二刻ごろを期して、自分たちが相手方の射出機に対抗して建造していた、木造の見張り塔と飛び道具類の備蓄倉庫に火をかけた。彼らはまた市壁に近い家家にも火を放ったが、倉庫や見張り塔から発した炎炎たる火の勢いは、さらに他の地域にまで拡がった。火災は大きく、しかも風に乗ってその方向へ吹き送られたのだった。市内にあった者たちの一部は島の城砦に避退し、他の一部はサルマキスと呼ばれる岬の城砦へ移動した。撤退作業のどさくさにまぎれて脱走してきた者たちの口から、この出来事がアレクサンドロスに伝えられ、彼自身もまた市中の大火災をその眼で確かめると、事件の発生はかれこれ真夜中に近いころのことではあったが、彼はただちにマケドニア軍をひきいて現場に出動し、まだ市内に放火して回っている敵は見つけ次第これを殺させる一方、屋内にいて見つかったハリカルナッソス住民の場合は、すべて安全に保護してやるよう指示した。
 一夜が明けて、ペルシア人や傭兵たちが夜のうちにすでに占拠してしまった城砦を望見したアレクサンドロスはしかし、彼らを攻め囲むのを断念した。彼らの攻囲は地形の点からも少なからぬ時間を食うことが懸念されたし、都市の全域はすでに手中におさえている以上、さほどに重要な意味もないと考えたからであった。彼は夜間の戦闘で斃れ死者の埋葬を終えると、射出機を担当する部隊に命じて、それらをトラッレイスに搬送させ、一方彼自身は都市を根こそぎ破壊したうえ、この地域およびその他カリア各地方の警備部隊として、傭兵の歩兵三千人と騎兵二百騎をプトレマイオスの指揮下に残留させて、プリュギアへと進発した。(同上『アレクサンドロス大王東征記 付インド誌 上』 pp.100-101)」
 
話の流れが分かりづらいけれど、どうやらマケドニア軍はペルシアの複数の要塞の中の主要なそれを陥落寸前まで追い込んで、それを見てメムノンらはこの都市を放棄することを決意して、敵に物資を与えるくらいなら焼いた方が良いと判断し火を放って、マケドニア軍はその混乱に乗じてその要塞の大部分を占領して、そこから残りの要塞を見て、焼け野原とはいえ都市は落としたし、残りの要塞は無理に攻めることもないだろうと軍を違う場所に進めたという流れらしい。
 
実際、古代中国の兵法書である『孫子』では略奪が推奨されていて、敵の一を奪うのはこちらの二十にも値するという話がされている。
 

「 巧みな用兵者は、再度にわたって兵を動員したり、三度にもわたって食糧を徴発したりはしない。軍用品は国内から調達するけれども、

食糧は敵地から集めるようにする。そうすれば、軍の食糧は十分なものとなる。

(中略)

 そこで、智将は敵の食糧を奪ってこれをわが軍のために調達しようと努力する。敵の一鍾を奪うのは、わが方の二十鍾を調達するのに相当し、敵の馬料の豆がらや藁を入手したときは、その一石がわが二十石に匹敵すると考えられる。(村山吉廣他訳 『中国古典文学大系 4 老子 荘子 列子 孫子 呉子』 『孫子』 平凡社 1973年 p.428)」

 
この話はあくまで『孫子』のこの文章を書いた人物の個人的な意見であって、数量的に正確に20倍の価値があるという話ではないのだけれども、敵に奪われるくらいなら焼いた方が良いというのは実際そうなのだろうと思う。
 
もっとも、街を焼いた時にその住民にどれ程に恨まれるかを考えれば、いつでもその選択が正解という事もないのだろうけれども。
 
ただまぁ、メムノンの場合は大正解で、この状況だとペルシアの本軍の到着前の段階だから、出来るだけマケドニア軍を消耗させていた方が良いわけで、しかもこの街を取り戻せなかったというのなら、住人からの恨みも意味をなさないということになって、この場面では賢い選択と言えるのではないかと個人的には思う。
 
どうでもいいけれど、英語版Wikipediaによれば、メムノンと一緒に街を焼いたペルシア人のオロントバテスは、火事場泥棒で財宝を掠奪して、コス島に運び込んだ(要出典)と書いてあった。
 
多分、 エウヌウスが書いた東征記の注釈とかに言及があるんだと思う。知らんけど。(関西人的表現)
 
こういう風に現時点でもアレクサンドロスに対して相応の障壁としてあって、このまま生きていたら『英雄伝』が語るように多くの苦難をマケドニア軍にもたらしそうなメムノンは、けれども、直ぐに病死してしまう。
 
『アレクサンドロス大王東征記』の次の記述はもう、メムノンの死になっていて、『英雄伝』が「今後アレクサンドロスにいろいろ厄介や無数の抵抗及び困難を掛けさうに思えたメムノーン(プルタルコス 『プルターク英雄伝』 岩波書店 1952年 p.30 旧字は新字へ)」と語る所にあったメムノンは、この時期にはもう死んでしまう。
 
そういうわけで次の引用で東征記のメムノンについては最後になる。
 
その後メムノンはダレイオス王から、全艦隊と沿海地方全域の指揮官に任命されると、戦をマケドニア、ギリシア方面にそらせようと考えまず、内通によって引き渡されたキオス島を占拠すると、そこからさらにレスボス島へと艦隊を向けた。その結果ミテュレネ人だけはなお彼に靡こうとはしなかったものの、レスボス島内の他の諸都市は、これを味方に引き入れることになった。これら諸都市の支持をとりつけると彼は、ミテュレネに進攻し、海から海へと連ねた二重の柵で町を封鎖したうえ、五か所に陣地を築いて地域一帯を造作なく制圧した。彼が艦隊の一部をしてミテュレネの哨戒にあたらせる一方、残りの艦隊をレスボス〔西端〕の岬シグリオンにさし向けたのは、そこがキオス島やゲライストスやマレアからやってくる貨物船にとって、最適の荷揚げ地点だったからで、ミテュレネ人が何らか海を経由して〔外からの〔援助〕を受けるということのないよう、船舶の航路を監視させるのが、そのねらいだった。

 とかくするうち、当のメムノン自身が病を得て死んだ。何か他に事件があったとしてもこの彼の死ほど、当時の状況においてペルシア王の立場を不利にしたことはなかった。しかし封鎖作戦の方はアウトプラダテスとアルタバゾスの子パルナバゾス、この両人の手でその後も精力的につづけられた。メムノンが死にのぞんで自分の指揮権を、その件についてダレイオスから何分の沙汰があるまで、パルナバゾスに委託したのは、パルナパゾスが自分の甥だったからである。(同上 『アレクサンドロス東征記』 pp.117-118)」

 

こういう風にメムノンは最後、病死したとある。

 

一応、メムノンは病死なのだから、『ヒストリエ』においても病死しそうなところではあるけれど、『ヒストリエ』の作中には毒に関する描写がそれになりにあるし、こんなマケドニアにとって都合のいいタイミングでメムノンが病死するのは怪しい話ではある。

 

当然、史料には病死としか書かれていない以上、病死と処理する以外のことは出来ないとはいえ、『ヒストリエ』の場合はあくまで歴史を元にした創作漫画でしかないのだから、この場面でメムノンがマケドニアによって毒などによって謀殺されるという可能性もある。

 

けれども、こればかりは『ヒストリエ』で描かれない限り、どのような描写が選択されるかは読者の立場からは判断する材料がないのであって、現状の『ヒストリエ』がその場面に辿り着けるのかが分からない以上、もしかしたら毒殺するつもりだったのかなぁと僕が思って終わりになったりするのかもしれない。

 

…この辺りが現状の岩明先生の執筆速度から考えられる『ヒストリエ』の限界到達点と僕はなんとなく思っていて、もしかしたらメムノンの最後までは描かれるかもしれないとは思っている一方で、『ヒストリエ』は未だに大王が王位を継承してすらいない。

 

『ヒストリエ』12巻収録分では、おそらく、エウメネスは生き残ったフィリッポスの子カラノス、『ヒストリエ』作中だとフィリッポスの子フィリッポス…というか、エウリュディケとフィリッポス王の子の命を救っていて、その子について、今後何らかオリュンピアスと交渉させるつもりだろうという推論がある。

 

『ヒストリエ』12巻収録分の終了時点で、オリュンピアスはエウリュディケの子を抹殺するつもりで動いていて、それをエウメネスが救って、その子を抱えた状態で物語は止まっている。

 

現時点だと『ヒストリエ』のマケドニア王フィリッポスは転身して、ディアドコイであるフィリッポスの子アンティゴノスに転身して、予定表的には大王の死後にエウメネスと死闘を繰り広げると、12巻収録分の描写で確定的に明らかになっている。

 

そして、そのフィリッポス王の子とアンティゴノスの子の生年は同じ年で、結局これも、アンティゴノスに生まれ変わったフィリッポスの息子として、アンティゴノスの子デメトリオスに転身するという想定ということで良いと思う。

 

けれども、オリュンピアスはこの生まれたての人物を殺すつもりで、殺意は全然解消されていなくて、そこをどうにかしなければならなくて、一方でエウメネスはディアドコイ戦争でオリュンピアスの要請で軍を率いているという話があるのであって、その辺りについてのエウメネスとオリュンピアスの間で何か交渉をさせるつもりなのではないかと僕は考えている。

 

エウリュディケを殺したオリュンピアスの要請でエウメネスは将来的に軍を率いるわけで、現状の『ヒストリエ』ではエウメネスがそのような行動を取る必然性がなくて、その辺りは幼子の助命と引き換えに、オリュンピアスと何らかの取り引きを行う可能性がある。

 

エウメネスは戦いに敗れて捕らえられた場面が『英雄伝』にあって、その中でアンティゴノスの子であるデメトリオスはエウメネスの処刑に反対している。

 

『英雄伝』のエウメネス伝にはデメトリオスとエウメネスの絡みはなくて、それでも助命を求めたということを考えると、エウメネスをデメトリオスの命の恩人とさせる想定もあるのではないかと思っていて、そのためにオリュンピアスとエウメネスの何らかの交渉が13巻収録分で行われるのではないかと僕は思っている。

 

まぁその辺りは『ヒストリエ』で描かれる可能性がある範疇なので、今後、その推測が間違っていたと分かった場合は、一連の文章をサイレントで削除しましょうね。

 

加えて、心の座の話も消化してない。

 

ともかく、それらの話が終わって、アレクサンドロスが王位を継いで、やるか分からないけど北の蛮族を攻めて、その隙に謀反を起こしたアテネとテーバイを征伐したのちに、東征の開始がある以上、メムノンの死まで果たして辿り着くのかどうかとかは僕には分からないし、今の岩明先生が、グラニコス河畔の戦いで展開するマケドニア軍とペルシア軍を描くのに、一体どれ程に時間を必要とするのかとかは分からない。

 

ただ一つ、おそらくは読んでいる人と僕と大きな隔たりはないと思っていることがあって、想定される『ヒストリエ』の今後のビジョン、『ヒストリエ』が完結するかどうかについての未来絵図については、これを読んでいる人が感じている空気感と同じものを僕も感じているだろうと思っている。

 

話を『アレクサンドロス東征記』に戻すと、先の引用にはパルナバゾスの話がある。

 

「 とかくするうち、当のメムノン自身が病を得て死んだ。何か他に事件があったとしてもこの彼の死ほど、当時の状況においてペルシア王の立場を不利にしたことはなかった。しかし封鎖作戦の方はアウトプラダテスとアルタバゾスの子パルナバゾス、この両人の手でその後も精力的につづけられた。メムノンが死にのぞんで自分の指揮権を、その件についてダレイオスから何分の沙汰があるまで、パルナバゾスに委託したのは、パルナパゾスが自分の甥だったからである。(同上 『アレクサンドロス東征記』 pp.117-118)」

 

まぁこの人物については『ヒストリエ』に登場するファルバナゾスです。

 

(4巻p.159)

 

この人物については先の引用以上の話は今回用意していないし、彼が後にエウメネスの部下となるという話は既に済んでいるので、今回はこれ以上何もない。

 

以上で『アレクサンドロス東征記』に登場するメムノンについての記述は終わりなのだけれど、もう一つだけ気になる記述が存在している。

 

それが何かというと、メントルの子テュモンダスについてになる。

 

先のパルナバゾスがメムノンの作戦を引き継いだという話の少し後に、メムノンの兄の子である、テュモンダスがメムノンの残した傭兵部隊を引き継いだという話がされている。

 

以上のことを成し終えるとパルナバゾスは、外人傭兵をひきいて海路リュキアにおもむき、アウトプラダテスの方は他の島島へと向かった。ダレイオスがメントルの子テュモンダスを下向させ、傭兵隊をパルナバゾスから受領したうえは、それらをひきいて東上し、王のもとにいたるべしと彼に命ずる一方で、パルナバゾスにたいしても、メムノンが遺した全指揮権を継承するよう指示したのは、この間のことであった。パルナパゾスはテュモンダスに傭兵隊を引き渡すと、アウトプラダテス麾下の艦隊に向けて船を走らせた。さて両者が合流すると彼らは、ペルシア人ダタメスを指揮官として、十隻の艦隊をキュクラデス諸島方面へ派遣し他方、自分たちは百隻の艦隊をひきいてテネドス島へと向かった。テネドス島の通称「北港」へ入港すると彼らは、テネドス市民のもとに使者を遣わして、市民がアレクサンドロスおよびギリシア人たちとのあいだに交わした〔条約の〕石碑を引き倒し、アンタルキダスの発起で(ダレイオスとのあいだに) 成立した平和を今後は遵守するよう命じた。(同上 『アレクサンドロス東征記』 p.119)」

 

ここにメントルの子テュモンダスの話があって、どうやら専門家たちは彼をバルシネの子だと考えているらしい。

 

「メムノンの妻はバルシネで、彼女の父はペルシアの名門貴族アルタバゾス、母はロドス出身のギリシア人。この母の兄弟がメントルとメムノンの二人である。バルシネは伯父にあたるメントルと結婚し、息子テュモンダスと三人の娘を生んだ(アリアノス二・一三・二、クルティウス三・三・一、一三・一四)。(ディオドロス 『歴史叢書』第一七巻「アレクサンドロス大王の歴史」訳および註(その一) 森谷公俊訳  参考)」

 

こういう風に彼をバルシネの子であると森谷はしているけれど、おそらく、彼はバルシネの子ではないと僕は考えている。

 

何故と言うと、年齢が合わないからになる。

 

バルシネはアレクサンドロス大王と子供を設けていて、その二人の子であるヘラクレスは14歳以上で殺されたと『地中海世界史』に言及がある。

 

今から引用するのはディアドコイ戦争真っ最中の話で、アレクの遺領でディアドコイがそれぞれ戦争し合っている時期の記述です。

 

「 (マケドニアの一部をアウダリアタェ族へ分け与えたカッサンドロスであったが)その後、彼は、アレクサンドロスの息子で、十四歳以上の年になっていたヘラクレスが父の名のおかげでマケドニア王位へと呼ばれてはいけないので、その子をこっそり母親のバルシネと一緒に殺すように、そして、殺害が埋葬の儀式によってばれてはいけないので、彼らの遺体を土中に埋めるように、と命じた。(ポンペイウス・トグロス 『地中海世界史』 合阪學訳 京都大学学術出版会 1998年 p.238)」

 

ここで言う、14歳以上という言葉にどれ程の含意があるかは僕の知識では分からないけれど、まぁ深く考えなければ14~15歳の時に殺されたのだろうということがここから分かる。

 

ということは、この事件があった14~15年前にヘラクレスは生まれたということになって、この事件があった年が分かれば、ヘラクレスがいつ生まれたのかが分かるということになる。

 

この事件はデメトリオスがガザでプトレマイオスに敗れたのと同じころの話だと先の引用の前に言及されていて、そのガザの戦いは紀元前312年の出来事になる。

 

よって、ヘラクレスの生年を考えるとなると、そこに14を単純に足して、大体、前326年くらいに生まれたという話になってくる。

 

専門家の見解によると、ヘラクレスはバルシネの三男になって、そうとすると長男であるテュモンダスとどれくらい年が離れているかというのが問題になってくる。

 

前333年にダレイオス王の命によって、テュモンダスは傭兵部隊の全指揮権を継承していて、こんな国家の大事に若造にそんな大命を与えるとは思えないとして、ただまぁ甘く見積もってこの時にテュモンダスが仮に30歳だとすると、バルシネはその30年前にテュモンダスを生んでいなければならない。

 

そうとすると今度はヘラクレスを何歳で生んだことになるのかという話になって、バルシネが長男のテュモンダスを15歳で生んだとしても、テュモンダスが傭兵部隊を受け継いだ前333年の時点でバルシネは45歳でなければ先の仮定は成立しないし、そうとすると、ヘラクレスを生んだ前326年の時の年齢が今度は52歳になる。

 

メムノンの傭兵部隊をテュモンダスが20歳で受け継いで、彼が母親が15歳の時に生んだ子だとしても、バルシネは35歳で大王に見初められて、42歳でヘラクレスを生んだという話になって、15歳で受け継いだとしてもバルシネは31歳の時に見初められで、38歳の時にヘラクレスを生んだという話になる。

 

その年齢なら成立はするけれども、こんな国家存亡の危機に高校一年生の年齢の少年にペルシア最精鋭の部隊を任せるのかというのが問題で、テュモンダスは前333年のメムノンの死の時点で、傭兵部隊の総大将を務めるために相応の年齢である筈になる。

 

しかも今までの仮定はバルシネが15歳で生んだ想定で、実際はもう数年遅く生むのが普通なのだから、テュモンダスが優秀で若かったと想定して、仮に25歳で傭兵部隊の指揮官になったとして、バルシネが彼を18歳で生んだとしても、ヘラクレスは50歳で生んだということになってしまう。

 

バルシネが18歳の時にテュモンダスを生んで、テュモンダスが前333年で18歳だとしても、ヘラクレスを生んだ年は43歳になる。

 

そうなってくると最早何が何だか分からないのだから、要するに、テュモンダスはバルシネの子ではないのだろうと僕は思う。

 

どの数字で仮定しても、出てくる結果は意味不明なものしかない。

 

そして、その全てはテュモンダスとヘラクレスが兄弟関係になく、テュモンダスの母親はバルシネではないと想定すれば解決する話になる。

 

けれども専門家はバルシネの子だと注釈を書いていて、おそらく、過去の専門家の人たちは、メントルの子テュモンダスが史料に言及があって、且つ、メントルの妻はバルシネだから、短絡的にバルシネが生んだと判断して、誰もテュモンダスとヘラクレスの年齢差の計算をしなかったのではないかと僕は思う。
 
まぁ僕の方も、バルシネの解説書いてから3~4年くらいその事に気付いていませんし。
 
ちなみに、僕が専門家の人々と言っているのは、先の注釈を書いた森谷に関しても、先人の注釈を参考にしている様子があって、これくらいの時期の大王関係の史料の注釈は、英語も日本語も似たような言及が多くて、研究者間で見解が共有されている様子があるからになる。
 
ともかく、クソ真面目に計算すると、どう考えてもテュモンダスとヘラクレスの二人の年齢差がおかしなものになってしまって、そうとすると、二人は違う母親から生まれたと考える方が素直になる。
 
だから純粋に、テュモンダスがバルシネの子であるという見解は間違いなのだと僕は思う。
 
そうとなると、この一連のメムノンの解説の記事の最初の方に書いた内容の理解に変化が出てきて、バルシネはアレクサンドロスに嫁ぐ前に5人も6人も生まなくて良くなって、僕がその可能性を言及したようにやはり、二人は年の近い幼馴染であったのだろうという見解が俄然、妥当性を帯びてくる。
 
実際の所、史料で確認出来る、アレクに見初められる前に生んだバルシネの子は、メントルとの間に生まれた、後にネアルコスに嫁ぐ女児の一人だけなのだろうと僕は思う。
 

「 アレクサンドロスはまたこのスサで、自分自身と側近のヘタイロイたちのために結婚の式を挙げた。

(中略)

 側近護衛官のプトレマイオスと王の書記官エウメネスにはアルタバゾスの娘たち、アルタカマとアルトニスがそれぞれあたえられ、そしてネアルコスにはバルシネとメントルの〔あいだに生まれた〕娘、またセレウコスにはバクトリア人スピタメネスの娘があたえられることになった。(アッリアノス 『アレクサンドロス大王東征記 付インド誌 下』 大牟田章訳 岩波文庫 2001年 p.165)」

 

彼女以外はバルシネの子であるという説明がなくて、そうである以上、状況的にそのように判断できたとしても、判断は留意する必要があるし、ともかくテュモンダスに関しては、年齢が合わないのだから、バルシネの子ではないだろうと僕は思う。

 

よって、大王に見初められるまでに少なくとも1人を生んでいれば良いのだから、おそらく実際の所のバルシネの年齢は、『ヒストリエ』で想定されるよりもずっと若く、パルメニオンが大王に彼女を推薦したという経緯を考えるに、『ヒストリエ』で30過ぎで見初められる彼女は、実際には当時23歳くらいのアレクと同い年か年下くらいだったのだろうと今の僕は考えている。

 

…メントルの没年が分からない以上、はっきりとしたことは分からないけれども、大王よりも年下だったのかもしれない。

 

(前編)の時に参照したプルタルコスの『愛をめぐる対話』に、年上の女性に恋慕する青年の話があって、そんなことは馬鹿げているという語られ方であったし、ヘシオドスの『仕事と日』でも女性は年下であるというのが望まれている。

 

「 時を違えず妻を家に入れるがよい。
三十をさほど足らぬではもなく、
あまり越えすぎてもいない、それが結婚の適期だ。
女は成熟して四年待ち、五年目に嫁ぐべし。(ヘシオドス 『全作品』 中務哲郎訳 京都大学学術出版会 2013年 p.200)」

 

加えて、専門家がバルシネの子とした、東征記では存在が確認出来ないメントルの他の子供たちについては『アレクサンドロス大王伝』に記述がある。

 

十四 大王が海岸地帯の最高指揮権を与えていたパルナバゾスの妻子も捕まった。さらにメントルの三人の娘と最も高貴な指揮官メムノンの妻子が。廷臣のどの家もこれ程の災厄から逃れられなかった。(クルティウス・ルフス 『アレクサンドロス大王伝』 谷栄一郎・村上健二訳 京都大学学術出版会 2003年 p.54)」

 

ただ、ここにもそれらの人物がバルシネの子であるという言及はなくて、どうやら、専門家は単純にメントルの妻がバルシネだからという理由で、それらをバルシネの子としたらしい。

 

結局、テュモンダスの事があるから、その三人の娘の全員が果たしてバルシネの子であったかどうかは定かではない。

 

更に森谷は、メムノンがバルシネとの間に男児を設けたとするけれども、その出典が今引用した箇所で、今引用したのは三巻の13章の14節の話になる。

 

「メントルが死ぬと、彼の弟で彼女には同じく伯父にあたるメムノンと再婚し、一人の息子を得た(クルティウス 三・一三・一四)。(同上)」

 

この情報は次の文章の中から得られると森谷はしている。

 

十四 大王が海岸地帯の最高指揮権を与えていたパルナバゾスの妻子も捕まった。さらにメントルの三人の娘と最も高貴な指揮官メムノンの妻子が。廷臣のどの家もこれ程の災厄から逃れられなかった。(同上 p.54)」

 

この部分は大王伝の日本語訳では「最も高貴な指揮官メムノンの妻子が」となっていて、この箇所を言ってメムノンとバルシネの息子の話とするのはちょっと意味が分からなかったから、英訳を見てみたらこのようになっていた。

 

(https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015008158415&seq=193)

 

僕がメムノンのくだりだけを翻訳すると、「もっとも有名な将軍であるメムノンの妻とメムノンの息子が捕らえられた」とあって、原文のラテン語でどうなっているのかは不明にせよ、英語だとバルシネの子という説明はなくて、この場で捕らえられたのはおそらく、『アレクサンドロス大王東征記』のグラニコス河畔の戦いで、最精鋭である騎兵を父親であるメムノンと共に率いた人物の一人なのだろうと僕は思う。

 

一族の家族が居る都市にマケドニア軍が迫ったという状況で、その保護のために成年の男性が一人戻って、そこで家族と共に捕らえられたという状況はあり得ない話でもない。

 

一方で何故か森谷はそのメムノンの息子とここで言及のあるメムノンの息子とは別人である判断していて、けれども、別人とする論拠とかは分からないし、バルシネの子であるという根拠とかはないと思う。

 

考えるに、おそらくはファルバナゾスとメントル一家の話が家に残るような妻や娘の話だったから、メムノン一家の方も女子供の話なのだろうという推論があって、そうとするとメムノンの妻だからバルシネで、もう一人言及される息子に関しては、家に残るような年齢の子の話だろうと推論を更に推し進めて、バルシネの息子の話なのだろうという解釈を何処かの誰かがしたのだと僕は思う。

 

ただ、そもそもとしてメムノンにはあの時点で戦線に出れる息子たちがいる以上、バルシネ以外の妻がいて、ここで言う妻がバルシネの話かどうかは未知数だし、そのバルシネ以外の妻にまだ戦場に出る年齢ではない息子がいた可能性もあって、あの記述からバルシネがもう一人息子を生んだと導き出して、そうだと断言するのは飛躍だろうと思う。

 

生んだ可能性がある、程度の記述ならまぁ良かったけど、注釈ではバルシネはメムノンとの間に一人の息子を得たって断言してるからなぁ。

 

もちろん、その辺りは僕の推論にはなって、ともかく原文を読まない限りはっきりしたことは言えないのだけれど、ここで捕まったメムノンの息子をバルシネの子とする記述は少なくとも英訳にも日本語訳にもないし、先に森谷はどう考えてもバルシネの子ではないテュモンダスをバルシネの子として扱っていた以上、ここについても情報の処理をいい加減にこなした結果の記述と判断した方が妥当そうであるというのが僕の現在の理解になる。

 

…。

 

こっちの事情も考えてよ…(憔悴)。

 

ラテン語の原文は

「14 Pharnabazi quoque, cui summum imperium maritimae orae rex dederat, uxor cum filio excepta est, Mentoris filiae tres ac nobilissimi ducis Memnonis coniux et filius: vixque ulla domus purpurati fuit tantae cladis expers.(参考)」

らしいけれども、ラテン語なんて読めないし、読める知り合いもいないからどうしようもないんだよなぁ…。

 

グーグル翻訳に突っ込んだ結果としては、英訳や日本語訳と同様、バルシネの娘だなんて記述はされてない様子があるけれど。

 

まぁバルシネっぽい単語が見当たらないし、多分普通にそんな話はされてはいないとは思う。

 

それっぽい単語である、メムノンを意味するだろうMemnonisの後に来るconiuxを調べたら配偶者と出て、filiusを調べたらただ息子と出て、おそらくは「メムノンの配偶者と息子が捕まった」というのが原文の文意だろうので、森谷や、森谷が参考にした研究者は何か早とちりをしているという線が現状では濃厚になる。

 

…調べたらacが「そして」という意味だそうで、メントルの話の後のacに続く文章が「nobilissimi ducis Memnonis coniux et filius」で、個々の単語の意味を見て行ったら、「高貴な指導者であるメムノンの配偶者と息子(が捕まった)」と書かれているようで、やっぱりバルシネの子だなんて説明はない様子がある。

 

原文から分かるのは、誰か知らんけどメムノンの配偶者とメムノンの息子が捕まったということだけで、彼らが誰であるかとかの他の細かい事は一切不明で、バルシネの子について、注釈で典拠とされた箇所の記述では、注釈の説明を導き出せないというのがこのことの真相らしい。

 

…。

 

先の大王伝の記述は、バルシネが捕らえられたダマスカスの話ではあるから、状況的にはあのメムノンの配偶者とやらがバルシネであるとも読み取れて、けれども、ラテン語の原文を見る限り「男児を生んだと思われる」が限度になるような記述で、最初の内はそういう風に「考えられる」とかそういう記述だったものが、いつの間にか事実として固定されたパターンなのではないかと僕は思う。

 

さて。

 

ここまでの話を総括すると、メムノンは『アレクサンドロス大王東征記』でめっちゃ強いし、個人的に見た感じ、『ヒストリエ』のメムノンのベースなのではと思うという話と、バルシネの子にしてメントルの子テュモンダスについては、専門家の勘違いなのだろうという話がこの記事の論旨になる。

 

元々…下調べの段階で『アレクサンドロス大王東征記』が『ヒストリエ』のメムノンの下敷きである様子が見て取れて、それ故に『ヒストリエ』のメムノンの解説としてはその話をしないわけにはいかないからそれを必ず書くとして、大王伝の方にメントルの娘の話があると僕は知っていたから、そこでバルシネの息子たちされる人物の年齢差の話をしようと目論んでいたが故に、(中編)で言及していたメムノンの解説の青写真の話があった。

 

けれども、本来的に(中編)の追記として想定していたこの記事は、この時点で16000字を越えていて、更にはバルシネの子の話も済んでしまったので、メムノンの解説はこの記事を独立した記事として上げて、これ以上のメムノンの話はもう終わりにしてしまいたいと思う。

 

…一応、『アレクサンドロス大王伝』は普通に出版されているし、ディオドロスの『歴史叢書』に関しても、少し前まではウェブ上に翻訳論文があるだけだったところが、現在では普通に出版されているのだから、岩明先生がそれを参考にする可能性は実際ある。

 

ただ、僕はもう疲れたし、僕が読む側だとしても別にこれ以上メムノンの話は必要ではないと思うし、何より、索引でメムノンを見ればそれぞれの本でどのような記述がされているのか分かるのだから、気になる人は図書館に行けばいいだけの話だと思うので、この話はとりあえず終わりにすることにする。

 

…つーかまぁ、大王伝のメムノンの子たちの話をするためにそういう話をすると(中編)の記事を書いている段階だと考えていて、ただもう、この記事でその話が終わった以上、僕の方でメムノンについて言いたいことはない。

 

もう5~6時間、この記事とイチャイチャしてるんだからいい加減辛くなってきた。

 

いやまぁ、漫画の解説書いてて辛くない時なんてないんだけどね。

 

この記事全体の点検も含めたら9時間くらいやってるぞ。

 

それと、バルシネの子について新たなことが分かった以上、以前の記事も修正した方が良いのだろうけれど、作業量と僕の体力的にそれは不可能だと思うので、やらないでおく。

 

どれだけ記述を修正すればいいかとか最早分からないし、書き直す以外に選択肢はおそらくなくて、書き直した場合はこの記事の内容に繋がらなくなって、もう色々無理だと思うので、このままの構成で押し通すことにする。

 

ただ、その事についての責任は、専門家の人々の側にあると思う。

 

僕はもう疲れたよ…。

 

そんな感じです。

 

では。