ただあの人は何も告げずに | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は賜死について。

 

僕はこの前、古代インドの碑文に関する論文を読んでいた。

 

僕が古代世界の文章を何とかして読めないかと画策しているという話は以前言及した通りで、その中で北海道印度哲学仏教会の学会誌に掲載された論文を読んだということがあった。

 

…その話だけを切り取ると、なんだか色々アレだけれども、古代世界の碑文の翻訳が書かれた本がないかを探している中で、ヤフオクで「古代インド 碑文」と検索を入れたところ、件の学会誌に記載された「碑文で分かった古代インド史」という論文が検出されて、安かったからその学会誌を落札して、その学会誌のその論文だけを読んだという話だから、大したことはしていない。

 

その論文自体はまぁ、史料の少ない古代インド史の中で、通説とされていた歴史理解などについて、出土した物品からその通説が間違っていたと分かったというような話がされていて、今回話題にしたい箇所についても、インドでは伝統的に使われているヴィクラマ紀元という暦元があって、これはインド人が作ったものであるとされているけれども、出土した碑文に書かれた情報を読み取るに、どうやら異民族であるサカ族が制定したものらしいというは話がされていた。

 

ただ、今回触れたいのはその話ではなくて、そのヴィクラマの紀元がジャイナ教のテキストの中に言及されていて、論文ではその文章が引用されているのだけれど、その引用文の中に気になる記述があった。

 

そのジャイナ教のテキストである『カーラカ師物語』には、王が人民に剣を与えることによって、その事で相手に死刑を示すというやり方についての言及がある。

 

「 マーラヴァの都ウッジャイニー(いまのマディヤプラデーシュ州にあるウッジャイン)にガルダビラ(Gardabhila)という王がいた。この都にジャイナ教の高僧カーラカ師とその妹の尼僧サラスヴァティーがいた。王はサラスヴァティーの美しさに心を奪われ、彼女を強引に自分のハーレムに連れこんだ。彼女の救いを求める声を聞きつけたカーラカは王にかけあい、彼女を解放するように説得したが、王は聞く耳を持たなかった。
 そこでカーラカは「サカ族の岸」(sagaküla) インダス河の西岸であろう――へ赴き、彼らの力を借りることにした。まずあるサーヒ (sāhi)、すなわちサカ族の小王と懇ろになり、その家の寄留者になった。ある日、このサーヒのもとにサーハーヌサーヒ (sāhānusāhi, すなわち「王の王」)から贈物が届いた。サーヒは包みを開けると、顔をさっと曇らせた。カーラカをそれを見て不思議に思い、尋ねた。「主君から贈物が届いたのに、なぜ喜ばないのですか」。サーヒは答えた。「贈られてきたのは剣なのです。剣を贈られた者は、その剣で自殺しなけれならないのです。 私はなぜか主君の不興を蒙ってしまったのです」。
 カーラカはいった。「このような贈物を貰ったのはあなただけですか」。サーヒがいった。「いいえ。剣に九六という番号がついています。私のほかに少なくとも九五人が私と同じ運命に陥っているはずです」「ではその仲間を集めてインドへ行きましょう。インドには素晴らしい土地があります」(定方晟他 『インド哲学仏教学 第12号』 北海道印度哲学仏教学会 1997年 p.28)」

 

この話自体は、こういう風に横暴な王に死を賜った人々は沢山いるのだから、その人々と共に新天地に逃げ出そうという話で、その逃げだした先で土地を奪い取ったけれども、それも結局打ち破られて、彼らを打ち破った王がその勝利を記念してサカ紀元という、サカ人の紀元が始まって、それはヴィクラマ紀元の135年の時であったという話が続いている。

 

論旨としてはインド人がヴィクラマ暦を制定したとされているけれども、出土した碑文に刻まれた日付に関する記述を見るに、どうもサカ人が用いた紀元がヴィクラマ暦の大元であるというのが論述されているところにはなる。

 

僕としては、その事についてはまぁ何も言うことはない一方で、相手に剣を与えて、その事で相手に死を強いるという振る舞いについて思う所があった。

 

僕はそのように、相手に剣を与えて、そのことで相手に死ぬように言うという振る舞いに以前出会ったことがあった。

 

何処で出会ったかというと、古代中国の『史記』の記述の中でになる。

 

『史記』では僕の把握している限り、二回、相手に剣を送ることで、死を賜うという振る舞い確認している。

 

一つ目は、伍子胥の最後で、二つ目が白起の最後になる。

 

伍子胥というのは古代中国の楚の国に生まれた人物で、けれども、王に父と兄を殺されたことを怨んで、呉の国に逃げて、その後に呉の兵を引き連れて楚に攻め込んで、王墓を暴いて屍に鞭を打った人物で、現代語の「屍に鞭を打つ」という言葉の語源になった人になる。

 

この人物は最後、呉王に剣を賜って、死を命じられている。

 

「 (部下から伍子胥に関する讒言を受け、呉)王が言った。「きみの忠言がなくても、わしも、また疑っていたところじゃ。」そこで、使者をやって伍子胥に属鏤の剣を賜い、「きみは、この剣で自害せよ」と言った。(司馬遷 『世界文学大系 5B』 小竹文夫他訳 筑摩書房 1962年 p.22)」

 

 

この話に関しては、漫画版の『史記』でも描かれていて、話の流れとかは漫画版を読んだ方が早いので、そっちも引用することにする。

 

(横山光輝 『史記』 2巻pp.212-217)

 

こういう風に伍子胥は剣を賜ってその事で死んだと『史記』にあって、それに際して属鏤の剣を送られたとある。

 

この属鏤の剣の属鏤というのは調べたら宝剣の名前らしくて、特に属鏤という語には名称という以上の含意はないらしい。

 

こういう風に剣を与えることで死ぬようにと伝える話は後の時代にもあって、白起が同じように死を賜っている。

 

「秦の昭王は、応侯や群臣と論議し、「白起が陰密へうつるとき、心中なお快々として承服せず、恨みがましいことばがあった」として、使者をやって白起に剣を与え、自害を命じた。武安君(引用者注:白起のこと)は剣を引きよせ、まさに自らの首をはねようとして言った。「私は天に何の罪を犯して、このような運命に立ちいったのだろうか。」

 しばらくして、また言うよう、「私は、もとより死ぬのが当然である。長平の戦さで、降服した趙の士卒は数十万あったが、わたしはいつわってことごとく穴埋めした。それだけで十分死ななくてはならない」と。ついに自殺した。(同上 『史記』 1962年 p.75)」

 

この場面も漫画化されている。

(横山光輝『史記』5巻pp.136-137)

 

こういう風に古代中国には剣を相手に与えることによって、相手に死を強いるという文化がある様子がある。

 

僕はこの二例を知っていて、おそらくこれは古代中国の文化だろうとは思うとはいえ、如何せん、古代中国のテキストは広範で、全てのテキストを網羅的に把握などできていなくて、この二例以外で剣を相手に与えることで死を強いるという話を確認できていない。

 

ただそれでも、中国に古くからある文化なのだろうと思っていて、『史記』を書いた司馬遷の言をどれ程に信用するかの問題にはなるけれども、『春秋左氏伝』にも同じように伍子胥が剣を賜って死んだという話がされている。

 

「戦役から帰った王はこのこと(引用者注:伍子胥が子を斉に残して呉に帰ったこと)を聞き、子胥に属鏤という名の剣を賜って自殺させた。(左丘明 『世界古典文学大系 13 春秋左氏伝』 「哀公11年」 大島利一他訳 1970年 p.444)」

 

伍子胥の死は紀元前484年の出来事だから、その時代には中国にその文化はあった様子がある。

 

一方で『カーラカ師物語』に関してはいつ頃成立したかは不明…というか、古代インドのテキストのそのほぼ全てが成立時期が基本的に不明なのであって、どれくらい古い物なのかは判然としない。

 

一応、先の『カーラカ師物語』は移住した後に剣を与えられた人々が滅んだのがヴィクラマ暦135年の事だそうで、西暦に直すと西暦79年の出来事という舞台設定らしい。

 

僕としてもそういう年号の話は抜きにしても『カーラカ師物語』については相対的に成立が新しいのではないかと思っていて、何故かと言うと、古代インドの古い時代のテキストになると、読んでいて殺意しか抱かない繰り返しの表現が見られて、『カーラカ師物語』にはその繰り返しの表現がないのだから、そこまで古いということはないと思う。

 

繰り返しの表現というのは、次のような文飾の話になる。

 

「 二、 このように、神々の帝王サッカは尊師のことばを喜んで、それに感謝して、尊師にさらに質問をした。
 「では、尊師よ。嫉妬と悩みはなにに基づいているのですか。 なにから起こり、なにから生じ、なにに由来しているのでしょうか。 なにが存在するときに、嫉妬と悩みが存在し、なにが存在しないときに、嫉妬と樫みが存在しないのでしょうか」と尋ねると、
 「神々の帝王よ。嫉妬と悩みは快と不快に基づき、快と不快から起こり、快と不快から生じ、快と不快に由来しているのです。快と不快が存在するときに、嫉妬と悩みが存在し、快と不快が存在しないときに、嫉妬と樫みが存在しないのです」と答えた。
 「では、尊師よ。快と不快はなにに基づいているのですか。 なにから起こり、なにから生じ、なにに由来しているのでしょうか。 なにが存在するときに、快と不快が存在し、なにが存在しないときに、快と不快が存在しないのでしょうか」と尋ねると、
 「神々の帝王よ。快と不快は欲望に基づき、欲望から起こり、欲望から生じ、欲望に由来しているのです。欲望が存在するときに、快と不快が存在し、欲望が存在しないときに、快と不快が存在しないのです」と答えた。
 「では、尊師よ。欲望はなにに基づいているのですか。 なにから起こり、なにから生じ、なにに由来しているのでしょうか。 なにが存在するときに、欲望が存在し、なにが存在しないときに、欲望が存在しないのでしょうか」と尋ねると、
 「神々の帝王よ。欲望は粗い考察に基づき、粗い考察から起こり、粗い考察から生じ、粗い考察に由来しているのです。粗い考察が存在するときに、欲望が存在し、粗い考察が存在しないときに、欲望が存在しないのです」と答えた。(中村元編 『原始仏典 第二巻 長部経典』『サッカパンハ・スッタ』 春秋社 2003年 pp.358-359 )」

 

冗長だから省いたけれども、この後は"粗い考察"は何に基づいているのかの話が続いていて、"粗い考察"は"ひろがる妄想という想いの意識"に基づいているという話がされている。

 

こういう風に繰り返しの表現が原始仏典では頻繁に見られて、僕は出会う経典の8割がたに存在するこの表現に出会う度に殺意を抱いていた。

 

この原始仏典に見られる繰り返しの表現は仏教学では、口承によって仏陀の教えを伝えたからこのような形になったという話がされる場合がある。

 

けれども、個人的にただの流行りだったのではないかと思う。

 

何故と言うと、口承の形で伝えられたとされるペルシャの『シャー・ナーメ』やモンゴルの『元朝秘史』、文字を知らない農民の間で歌われた詩も収録されている古代中国の『詩経』をわざわざこのために確かめたけれども、原始仏典のような殺意しか抱かない繰り返しの形にはなっていなかったからになる。

 

繰り返しの表現は『詩経』にはあるにはあって、ただ、先に原始仏典で見たような表現方法では決してなかったし、あのような表現は古代インドでしかまず見ない。

 

そしてそもそも、『原始仏典』に収録されている詩歌は繰り返しの表現になっていない。

 

今から引用する場面は、神であるサッカ(インドラ)が人々の御者である釈尊の教えを聞きたいと思って、そのために彼に接近することにして、話を聞くためにまず、パンチャシカを派遣して釈尊の機嫌を取らせるために詩を歌わせた場面です。

 

「 傍らに立ってガンダッパの子パンチャシカは黄色いベールヴァ樹の琵琶を奏でながら、このブッダ(覚った人)に関する詩、ダンマ(真理の教え)に関する詩、アラハント(敬われるべき人)に関する詩、カーマ(愛)に関する詩をとなえた。

五、「太陽の輝きをもつバッダーよ
 あなたの父ティンパルにわたしは敬礼する
 なぜなら、私に喜びを生みだす美しき人をもたらしたから
 〔愛しい娘は、〕 汗をかいたものにとっての風
 喉の渇いたものにとっての、〔冷たい〕 水
 アラハンタ(阿羅漢)にとってのダンマ(真理)のようだ
 わたしにとって、あなたはまるで愛しい天女だよ
 病気に苦しむ人にとっての薬
 餓えた人にとっての食物のように
 バッダーよ、燃え上がる〔恋の炎を〕
 水によって消したまえ
 あたかも、花びらや花粉にあふれる

 水の冷たい蓮池に

 夏の暑さにやかれた象が入ってくるように(以下略)

(同上『サッカパンハ・スッタ』pp.341-342)」

 

歌こそが口承で伝えられる筈のものだというのに、原始仏典の詩歌には繰り返しの表現が見て取れない。

 

要するに、仏教学ではあれは口承の結果とする場合があるけれども、口承であるということと、原始仏典があのクソみたいな文章であるという事には関連性はないのだろうという話にはなる。

 

加えて、それらの繰り返しの表現が用いられている経典より更に成立が古いとされるような、『スッタ・ニパータ』や『ダンマパダ』では必ずしも繰り返しの表現は用いられていないという事情もあって、伝承方法にあのクソみたいな表現の理由があるとは個人的に判断できない。

 

そもそも、あの表現が原始仏典特有かと言えばそうではなくて、おそらく同じくらいの時期に成立したであろう、バラモン教の聖典も、ジャイナ教の聖典も、同じように繰り返しの表現が用いられていて、あの表現は当時のインドでは広く用いられていた様子がある。

 

その事については、僕はあの地域のあの時代の流行りだったのではないかと思っていて、何故と言うと、時期的に同じくらいの頃に作られた古代ペルシアの碑文に使われている文章には、同じと言うには差異があるけれど、繰り返しの表現が用いられているからになる。

 

その事については翻訳者の方も苦言を呈していて、繰り返しが続くがお付き合い願いたい的なことを言及していた。

 

考えるに、地理的に近いペルシアと古代インドで似たような時期に似たような繰り返しの表現が用いられているのだから、あの辺りの地域の流行りとして、あのような文飾があったのではないかと僕は思う。

 

ともかく、古代インドの成立の古い文章だと、そのような繰り返しの表現が見て取れて、『カーラカ師物語』にはそれがないのだから、成立はそれ程古くないし、場面設定は西暦79年で、テキストが成立したのはそれよりももっと後だろうとは僕は思う。

 

結局、剣を与えて死を賜うという文化が古代インドと古代中国で同じように見て取れて、どうやら中国の方が先行していそうな様子がある。

 

僕はここで、時系列的に中国が先ではあるだろうけれども、元は中国の文化なのかに関心が沸いた。

 

先の『カーラカ師物語』ではサカ人の王が剣を与えて死を賜うわけであって、あれはインドの文化ではなく、サカ人の文化としてあったのだろうと思う。

 

このサカ人なのだけれど、どういう人々なのかについては論文には記述がない。

 

ただ論文には注釈があって、「(1) マヌ法典 x 44-45[「シャカ」とあるのはサカの事である](同上p.44)」とあった。

 

当然、僕は『マヌ法典』を確かめたわけだけれど、こういう文章になっていた。

 

「一〇・四三 祭司儀礼を欠くことによりまたブラーフマナに相談しないことによって、クシャトリアの身分(ジャーティ)を有する以下の者たちはこの世で徐々にシュードラとなる。

一〇・四四 パウンドラカ、チャウドラ、ドラヴィダ、カーンボージャ、ヤヴァナ、シャカ、パーラダ、チーナ、キラータ、ダラダ、カシャ。(渡瀬信之訳 『マヌ法典』 中央公論社 1991年 p.346)」

 

…どうしろと?

 

ただ、民族が列挙されているだけで特に彼らについての説明はなくて、そんなこと言われてもどうすりゃいいのさと僕は思った。

 

そうとは言え、サカ人については遊牧民族の中でサカ族と呼ばれる人々が居て、Wikipediaにも記事がある(参考)し、ベヒストゥーン碑文にもサカ族の言及がある。

 

話によればスキタイ人の一派らしいのだけれども、それが正しいのかは定かではない。

 

結局、サカ人が剣を相手に与えて死刑宣告をしている描写があって、それは何処から来たのだろうかという話であって、インドよりもおそらく中国が先行しているけれども、遊牧民族の文化が中国に来て、中国でもそのような文化が存在している可能性はある。

 

ただ、個人的に中国の文化にそのような剣を与えて賜死とする文化があって、それがそれぞれ異民族である呉やサカ人に伝播したのではないかと考えている。

 

何故と言うと、古代中国の出土文献である金文は、青銅器に刻まれた文章なのだけれども、その中にその青銅器を作った経緯が書かれているものが多くて、それに際して上司から何を貰ったかが列挙されているものもあって、その中に剣が見られないからになる。

 

出土している金文史料は200を越えていて、僕はその中のごく一部だけを読んでいるのだけれど、そこで下賜されたものに剣が見当たらない。

 

考えるに、元々中華の伝統として、剣の下賜を死を意味するものとする文化があったのではないかと思う。

 

日本語で読める金文の史料は、白川静の『金文通釈』と『漢字学研究』に収録されているいくらかの翻訳文と古代中国に関する本で散発的に引用される翻訳文だけで、その『金文通釈』を僕は何冊か持っている。

 

…個人的にレファレンスとして全巻用意したいところだけれども、『金文通釈』は全10巻で、一冊定価12000円(参考)だから、レファレンスとして本棚に置ける値段ではない。

 

それなのに何冊か持っているのは、ヤフオクで良く分からない値段で出品されていたのを落札したからで、そうでなければ専門家と図書館以外が買うことはないような本だと思う。

 

…いくらで落札したかを確かめたら、定価は12000円なのに、700円+送料で一冊落としてたんだよなぁ。

 

こういった何らかのバグでも起きない限り、僕としても買うような本ではない。

 

ついでにもう2冊持っていて、それはその2冊がまとめて100円+送料で出品されているのを見つけたからで、届いた商品を見てみたら完全に新品で、何もかもが良く分からなかった。

 

定価12000円の本二冊を100円で出品するってのはどういう事なんですかね?

 

良く分からなかったけど、こちらとしては都合がいいから普通に100円で落札したけれども。

 

ともかく、そういう経緯で『金文通釈』が手元にあって、その中で記載されている実際の金文の内容を見ていくことにする。

 

…本来的に文章を引用したいのだけれども、常用外漢字のオンパレードでそれは出来ないので、何が下賜されたかを淡々と列挙していくことにする。

 

・『克盨』

善夫克の田人に関する権利

・『大克鼎』

染められた布、衣服の一種?、田、奴婢、楽官、逃亡民

・『小克鼎』

記述なし

・『伊𣪘』

赤い布、黄色い布?、旗、馬具

・『伯克壺』

記述なし

・『克鐘』

戦車、馬

・『師克盨』

黒黍の酒、赤い布、服の帯または玉、戦車、旗、馬具、戉(まさかり)

(白川静 『白川静著作集 別巻 金文通釈3[下]』平凡社 2004年 pp.485-552 )

 

…一応、本の中でここで区切られていて、抜き出しの作業が辛すぎるので一旦ここまでで終わりにする。

 

全部旧字で書かれているし、金文の書き下し文だけ読んでもその物品が何か分からないから解説を読まなければいけないし、その解説も旧字体だし、場合によっては中国人の研究者の見解を中国語のまま引用してそれ以上の説明はないし、一つの単語で研究者の間で意見が分かれているものがあって、やってて辛くて堪らないから作業を切り上げることにした。

 

結局、金文は全部で200以上あるし、しかもそれは白川が本を書いた時点での話であって、現在だと更に増えているだろうのであって、全ては把握し切れていないけれども、先に紹介した金文以外にも一応僕は目を通していて、その限りでは剣が下賜された場合は見当たらなかった。

 

器物の名前も日常では使わないそれが多くて、「盨」だとか「𣪘」だとか言った漢字を一々用意して、金文の器銘を書き写して解説を読んで色々やることを放棄して、先の分より後に記載されている金文の書き下し文だけを確かめたけれども、布や馬、馬具や戦車、旗や服などが良く下賜されていた様子がある。

 

下賜された物品の中で戉(まさかり)があるけれど、これは指揮官の持つものであって、『書経』で周の武王が、殷の討伐の前の集会で持っている。

 

「 これ甲子の未明に、武王は東の方、商都郊外の牧野に到着した。

 王は、左手に黄金の鉞(まさかり)を以って杖につき立て、左手には白い毛の飾りのついた指揮の旗を持ち、その指揮の旗でさしまねいて、

「まことに遠いところをよく来てくれたな、西方の国々の人々よ」

と、諸軍をねぎらってから、次のように告げられた。(赤塚忠訳 『中国古典文学大系 1 書経・易経(抄)』 平凡社 1972年 p.172)」

 

ここで黄金の鉞と書かれているところは原文では「黄鉞」で、果たしてこれが黄金を意味するかは定かではないけれど、黄金の鉞が出土したということは聞いたことがない一方で、青銅製の鉞なら出土していることを知っているので、多分、黄金製ではなかっただろうと僕は思う。

 

ともかく、軍を指揮する人が持つのが鉞で、それが王から下賜されたという話で、武器が下賜されというよりも、指揮のための権威としての鉞が送られたという話だと思う。

 

他にもパラパラと他の金文で何が下賜されたのかを見たけれども、やはり布や馬具、金属や酒と言うようなものになって、一度、弓矢が下賜された場合を見たことはあるけれど、剣が下賜された場合は今の所見つけられていない。

 

古代中国においては、剣は褒賞として下賜されるようなものではなかったのではないかと思う。

 

一応、『春秋左氏伝』には兄が弟に、宝剣を求めるという記述があって、ただそれは下賜とは話が違うから同列には扱えない。

 

「 秋、秦の人が伯萬を芮に入れて君とした。はじめ虞根 (虞公の弟)が立派な玉を持っていた。虞公がこれを求めたのに、虞叔は献上しなかった。しかし、まもなくこれを後悔して、「周の諺に『匹夫罪なし。玉を懐いて罪あり』とある。わたしはどうしてこの玉を秘蔵し、ために害をこうむるようなことができようか」といって、玉を兄に献じた。ところが兄虞公はまた虞叔の宝剣を求めた。弟は「兄は飽くことを知らぬ人間だ。この調子では、ついには命までも取られるかもしれぬ」といって、とうとう虞公を伐った。それゆえ虞公が共池(地名)へ出奔したのである。(同上『春秋左氏伝』「桓公10年」 p.28)」

 

結局、この話は下賜ではないわけで、部下に剣を送るということが死を意味する文化がこの時点であったのかは分からない。

 

…もしかしたら剣を送る=死で、キレた弟の方が、だったら剣(死)をくれてやるよこの野郎と思ったというニュアンスで、軍を起こして兄を征伐したという話なのかもしれない。

 

それはともかく、伍子胥と白起の話では剣は死を意味する贈り物として扱われていて、そのように剣を下賜してそれを死とするのは中国の文化で、その情報が遊牧民族に伝えられて、巡り巡ってインドに至ったのだと僕は思う。

 

中華の国と遊牧民が戦争をして、その和平に際して物品を送るにあたって、その物品の中に剣があったなら、中華の国の人は、中華では剣を下賜することは死を意味するから、その贈り物はやめましょうと遊牧民に伝えたような場合があったのではないかと思う。

 

勿論、金文の中で剣を下賜するようなそれが今後見つかれば話は色々変わって、ただ、紀元前484年に見られた中国人のある振る舞いが、遠く離れたインドで数百年後に見られたというのは確かで、その辺りはやはり、情報が行き来しているということを意味しているのではないかと僕は思う。

 

結局、金文史料を読み進めない限りはっきりしたことは言えないのだけれども、そもそも今手元にある『金文通釈』が手に入った時点で割と奇跡的な話で、しかも記述内容は専門家向けで、本も手に入らないし読むのも辛いとなると、その辺りをはっきりさせることは僕には出来ないのだろうなとおぼろげに思う。

 

しかも、冷静に考えてみたら、金文史料に剣を送る記述がなかったところで、そこから分かるのは、記録を見る限り剣は下賜されていないというだけで、当時から剣の下賜に死のニュアンスがあったのかは不明なままになる。

 

更には中華での初出が異民族である呉の王が伍子胥に送った場面だから、中華の伝統か南蛮の伝統かは分からない。

 

白起に関しては、伍子胥から200年くらい後の人だから、伍子胥の故事に倣って剣が送られたという可能性もある。

 

ただ分かるのは紀元前484年の伍子胥の死の時に呉には、剣を下賜することに賜死の意味合いが含まれる場合があったのだろうという点の話だけで、似たような話がジャイナ教のテキストの中に出てくるサカ人のエピソードで見られるという点の話と繋がっているのかは分からない。

 

ただ、人々と情報は行き来しているのであって、おそらくは中華にあった発想が、遠くインドにまで辿り着いたのだろうと僕は思う。

 

そんな感じの日記。

 

色々辛かったので、諸々の修正は明日以降の僕に任せましょうね。

 

では。

 

・追記

この記事を書き始める前の段階では、一つ金文史料の日本語訳の文章を引用するつもりではいて、けれども、記事を作る作業が苦行過ぎて記事を書く段階で忘れてしまったということがあった。

 

その事に気付いたのは記事を完成させた1週間後ぐらいで、もうそれ程時間が経ったのだから、まぁいいやでそのまま引用しないでいた。

 

けれども、それとは別に、古代中国の周の時代で、王が諸侯へ物品を下賜する話があると知ったので、その文章を引用するついでに、件の引用し忘れた金文の文章を持ってくることにする。

 

その引用し忘れた金文は「四三年鼎」というもので、これはこの読めない漢字の人物が王に褒められて宝物を貰ったという出来事について記述がされていて、そこで何を貰ったかの話がある。

 

(https://www.ritsumei.ac.jp/research/shirakawa/publication/kanji-resarch/より)

 

ここでもやはり剣についての記述は見れなくて、この話をすることを念頭に記事を書き始めたのだけれど、作業が辛すぎて僕は忘れてしまったらしい。

 

加えて、『詩経』にも王が諸侯に物品を下賜する記述を見つけて、これは時代的に周の宣王の時代の話らしくて、どうもこの詩で嫁に貰ったと語られる人物が宣王の一つ前の厲王の甥の娘であると後世の注釈にあるようで、ただ本文中に厲王の話とかはなくて、その根拠とかは良く分からない。

 

なんか『詩経』の鄭玄注にそういう話があるらしいっすね。

 

ともかく、その詩では王から物品が韓の領主に送られている。

 

「 王錫韓侯、淑旂綏章。

 簟茀錯衡。 

玄袞赤舄、鉤膺鏤錫、鞹鞃淺幭、鞗革金厄。

 

 天子は韓候に次の如き多くの物を賜る。(中略)

 車の上には美しい旗、旗竿につけた美しい飾り。車には、漆塗りのあじろの蔽い。美しい色の雑(まじ)った銜(くびき)。

 黒の下地に巻竜のある衣服に、赤い舄(くつ)。これは下賜の衣服。飾りのある胸がいの金具。金物の彫のある馬の額の飾り。これは下賜の馬の模様。

 頂戴物には、この外に、軾の中央の人の憑(よ)りかかる所を革で巻いたもの。虎の皮の軾の覆い。長い革の轡かけ。手綱をしめる黄金の環。これは特に車の軾(乗る人の憑(よ)りかかる車前の横木)についていう。(高田眞治訳 『漢詩大系 2 詩経 下』集英社 1968年 pp.521-522)」

 

この『詩経』の「韓奕」には、韓侯が衣服や靴、馬具や車の装飾などを下賜されたと言及されている。

 

黄金の環という箇所の原文は「金」で、古代中国の古い時代だと金属は全部「金」だから、おそらくは木製などの素材がある中で銅や青銅で出来た馬具を貰ったという話で、考えるに先の引用文は後世の注釈を元にしていて、その注釈を書いた人は金が金属全般を言うという話を知らなかったのだろうと思う。

 

さっき画像で引用した読めない漢字の金文にも「金甬」が銅製の器具だという話がされてますし。

 

…ていうか、黄金で出来た「手綱をしめる環」が送られたと訳されていたけれども、そのような器具は物凄く摩擦や圧力がかかるわけであって、噛んだら歯形が残るような柔らかい黄金をその素材に用いるとは思えないし、金メッキだとしても、摩擦ですぐ剥げてしまうだろうから、やはり、銅か青銅と理解した方が良いと思う。

 

この詩で君主が王から下賜を受けた韓という国は、古代中国戦国時代の韓とは別の国で、周の二代目の王である成王の弟が作った国で、この国は話によれば紀元前756年に晋によって滅ぼされていて、滅んだ後に、晋の国主が一族をその土地に置いて、そこから興ったのが戦国時代の韓になる。

 

この「韓奕」にはそんな古く滅んだ韓の国主が乗る四頭立ての車が盛んであるとか、百壺もの酒を用いて祝会を行ったとか、韓の城は大きなものであるとか記述されていて、そんな話をかつて滅んだ一つの諸侯国についての詩で語るとも思えないので、この詩は韓が滅んだとされる紀元前756年より前に作られたものだろうと僕は思う。

 

ともかく、やはり下賜されるものに剣は見当たらないし、この記事で触れなかったけれど僕が読んだ金文史料に書かれた下賜される物品も、この詩や四十年なんたらという金文に書かれたものと大体同じになる。

 

そのことで剣の下賜が死刑を意味するという文化が古く周の時代からあったという話にはならないとはいえ、あまり剣は下賜されるようなものではなかったという様子は実際ある。