某鬱漫画の竜に魅入られる条件について | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

書いていくことにする。

 

本来的にどう考えてもデカダンなあのサイトに書く内容だけれども、あのサイトはもう告知の記事以外を更新したくないのでここに書くことにする。

 

僕は今までに『なるたる』について色々書いて来ていて、それが故にこの漫画についてで今になって言いたいこととかはあまり多くはない。

 

けれども、少し思う所があったので、この記事では表題通りの話を色々書いていくことにする。

 

『なるたる』という漫画が完結してからもう20年以上の歳月が経って、それくらい古い漫画だから、この漫画について顧みられるということは少し前までそんなになかったらしくて、僕がねっとりとした解説を書いたのちに放置しているあのサイトは、ごくたまにログインしてみて把握していた範囲だと、アクセス数はそれ程多くはなかったような覚えがある。

 

ただけれども、マガジンポケットという、講談社の漫画が読めるアプリで無料で配信された結果として、ここ数カ月は訪問者数が毎日100人を越えているような状態であった様子がある。

 

それが関係しているのかしていないのかは知らないけれども、X上で『なるたる』の名前を挙げた人が居た様子がある。

 

 

この投稿がバズった結果として、酷いという評判の『宝石の国』より更に酷いと『なるたる』について言及されているから、それで気になって調べるとかいう場合もあったらしい。

 

ここ数カ月はマガジンポケットが理由でアクセスが多かったことに加えて、あの投稿があった日からしばらくは僕が書いた『なるたる』の解説に多くのアクセスがあって、この投稿の前の平均的な訪問者数の数字と、この投稿があった後に確認した数字とを比べた結果、のべ1000人以上がこの投稿を理由に僕が書いた何かが残されたサイトに訪れた様子があった。

 

…まぁあくまで、のべ人数だから実際何人がそうだったのかは不明瞭で、ただそうとは言え数百人は訪れていた様子があった。

 

アクセス数を確認したのはあくまで、『完全版 殻都市の夢』が発売されて、そのアナウンスの記事をあのサイトで書いた時についでに見ただけで、ただやはり万バズすると関連するワードで検索するということも多いのだろうなと僕は思った。

 

そういうことがあったから、X上で『なるたる』の話をしている人が結構いて、その投稿の中で、読んでいて僕の方で色々言いたくなるような内容のことを言っている人が居て、まぁ今回はその事についてです。

 

『なるたる』について、このようなことを言っている人が居た。

 

(https://twitter.com/Fe_8823/status/1783092032170561781)

(https://twitter.com/Fe_8823/status/1783093250083139825)

(https://twitter.com/Fe_8823/status/1783094118312501338)

 

本当は投稿を埋め込みたかったけれど、投稿が削除されたらこの記事の内容が行方不明になるからこういう形を取ることにする。

 

…まず、竜に魅入られる条件についてが一連の投稿でされているけれど、初めにある「人の親になれるかどうか」云々について、それがこの記事の主題だから、後にその話はするとしてここでは一旦置いておく。

 

二つ目の投稿はイマイチ何の話をしているのかは良く分からないとはいえ、おそらく、竜に選ばれた制約として大人になれないというようなそれを考えたのだけれど、鶴丸は親になっているから、ほなちゃうかーと思ったということが以前あって、その後にヴァンデを読んで、人の親になれるかどうかが条件なのではと思ったという話なのかなとは思う。

 

この方が言う所の、子供を生ませておいてなお、人の親になっていないという状況がどのようなそれなのかは良く分からないけれども。

 

モンシロチョウは子を生み落として終わりで、子育ては一切しないけれどそれでも親で、そのような子育てをしないような生物も、『なるたる』作中の描写に従えば、竜に見初められる様子がある。

 

最後のエン・ソフのデザインについての話は、この方はホシ丸とエン・ソフのデザインが近いのは、能力者の性質が反映された結果ではないかとしているけれども、そもそも鶴丸は多淫というわけではないのであって、アキラと動機と性質が違うのではと思う所がある。

 

エン・ソフとホシ丸のデザインが似ていることについては、結局、物語の流れとして、アキラがホシ丸を見て、自分のエン・ソフと同一の存在だと気が付くという物語の流れの必要性としてあのデザインなのではないかと思う。

 

(鬼頭莫宏『なるたる』1巻p.136 以下は簡略な表記とする)

 

(1巻p.150)

 

話の流れとして、ホシ丸を見てあれが自分のエン・ソフと同一の存在であると気付いたから逃げ出したわけで、その出来事がなければアキラはシイナに自分のエン・ソフを見せたりはしていない。

 

『なるたる』作中で竜骸には決まった形はないという話がされている。

 

(8巻pp.131-131)

 

このくだりは世界中の神話やおとぎ話の中に出てくる超自然的な存在が、実は全て竜の子であったと美園が説明する場面で、竜の子の形は引用の2ページ目で見るように、決まった形は存在していない。

 

だから、リンク者の心持ち次第でどんな形にもなるわけで、一目見ただけで竜の子と分かるデザインは本来的にない。

 

けれども、話の流れとして『なるたる』の序盤ではシイナとアキラとが竜骸に関する情報を共有しなければならないわけで、それが為にはアキラがシイナを自分と同じ存在であると認識する場面が必要になる。

 

『なるたる』の場合、ホシ丸を見て、自分のエン・ソフと同一の存在だと理解して、そこからシイナがリンク者だとアキラは認識するわけで、けれども、ここで竜骸が全く違う形をしていた場合、その話の流れには進めない。

 

竜骸の形は何でもありで、まんまホウキのそれもいる。

 

(5巻p.116)

 

もし、鶴丸の竜の子の形が全くホウキであったような場合、『なるたる』でそうであったように、アキラがそれを見て、自分の仲間だと思って逃げ出して、その後にエン・ソフを見せるという流れにはならないわけで、そういう流れにするための必要性として、エン・ソフとホシ丸のデザインは似ているのではないかと個人的に思う。

 

ここで多淫であることや、進んで子作りをするという性質が象徴として何等かデザインに反映されていたら、多淫であるから、子作り志向があるから星のデザインという可能性を疑っても良いのだけれど、エン・ソフにもホシ丸にも多淫などを導き出せるような情報は造形の中に存在していないし、何より、同じく星型のトリックスターのスタンド能力者の須藤は性欲が存在していない。

 

要するに、多淫であるということと星型であるということは関係性がないという話で良いと思う。

 

そもそも…別に鶴丸は多淫だから子作りに勤しんでいるわけではないですし…。

 

さて。

 

エン・ソフのデザインについてのくだりは話の流れで触れなければならなかったから触れたけれども、本題の方は竜に選ばれる条件についての話になる。

 

先の人は、人の親になれるかどうかという条件を考えていた。

 

(同上)

 

僕はこのことについて、別にそのような条件は存在していないのではないかとこの投稿を読んで思った。

 

全体的に、この方が何故それを竜に魅入られる必要条件として考えているのか、根拠は作中のどの描写なのかは、一連の投稿を読んでも判然としない。

 

ただ、僕はこれを読んで、逆に何故それが必要条件とは言えないのかについて色々言葉にしてみたのだけれど、その時に考えたあれこれが、今までの経験上、一つの記事に出来る程の文章量に出来る話題であったから、今この記事を僕は書いている。

 

『なるたる』作中において、竜に選ばれる条件については美園が考察を行っている。

(8巻p.136)

 

ここで頭の良さがおそらく必要な条件として存在していて、けれども、それだけが条件ではないという話がされている。

 

実際の所、『なるたる』作中では竜に選ばれる条件はストレートに言及はされていないのだけれど、まぁかつての僕が書いたように、やはり、頭が良い+何かを創りたいor何かを守りたいという気持ちが必要だという話で良いと思う。

 

(4巻pp.205-206)

 

以前、『なるたる』の解説サイトと化したあのサイトで言及したように、『なるたる』で竜とエンゲージした子供たちは、新しい何かを作ったり、何かを守ったりという目的で動いていて、そうとなるとやはり、知能が高い個体が、何かを変えたいとか、何かを守ったりしたいと思った時に竜が接触を試みるという話なのではないかと今の僕も思っている。

 

無から有は作り出せない以上、何かを創りたいということは、既存の何かを使って新たに作るという話であって、そのことは何かを変えたいとも換言出来て、『なるたる』に登場する竜に魅入られた子供達に関しても、何かを守るという動機と、何かを変えたいというような動機を大体持っている。

 

さとみに関しては、文吾に守られないで生きるというような強い自分を作りたいという動機を持っているし、文吾はさとみを守りたいという動機を持っている。

 

小森は自分の母親の世話をしなければならないという状況を変えたいと考えていて、彼は自分が母親の世話をしなければならないのは、弱い者がそれが故に死ぬべきではないこの世界が間違っていると考えて、それを変えるために色々やっている。

 

アキラはセックスしたいけど出来ないから、セックスできるという状況を作りたいと考えたのではないかと思うし、ひろ子に関してはまぁ、あの状況は誰でも変えたいだろうので、何かを変えたいと思ってはいただろうとは思う。

 

ホウキのスタンド能力者である福山京児は江角ジュンが死んだがために、他に寄る辺のない笙子のために、代わりに文通していたわけで、その動機は守るためと言ってしまって良いと思う。

 

タラスクのロバートに関しては、おそらく自身の病気があって、何かを変えたいと思ったのだろうという推論がある。

 

作中の描写に従えば、病気とタラスクとのリンクは同時期であった様子がある。

 

(10巻pp.113-114)

 

ここで10歳までは問題がなかったと言っている以上、それまではタラスクは現れていないわけで、けれども、病気が発覚した時にはジェーンはタラスクを認識している。

 

ロバートが竜の存在を隠していて、ジェーンが知らなかったという可能性はあるけれど、まぁ素直に受け取って、病気と同時期にタラスクとエンゲージしたという理解で良いと思う。

 

こういう風に竜とエンゲージする条件は、高い知能+何かを創りたい(変えたい)or何かを守りたいと思うということが必要らしいということが分かる。

 

そもそも、シイナは鶴丸に自分が竜骸と上手く繋がれなくて、どうすれば良いのかを聞いた答えが、力っていうのは何かを創り出したいか、何かを守りたいかの時に必要になるという内容で、そのどちらかが竜骸とのエンゲージの条件であるという文脈として以外、あの一連のくだりを処理などは出来ないのではないかと思う所はある。

 

(4巻pp.204-205)

 

そういう風に竜骸とのエンゲージには条件があるわけだけれども、問題は、その条件に子供を作れること、すなわち、二次性徴が条件として含まれるかになる。

 

先の方は、シイナが地球と繋がったのは初潮の後だから、子供を作れるという状態が条件だと考えている様子があった。

 

ちなみに『なるたる』作中で地球は二頭の竜だと説明されているので、涅見子とシイナのスタンドは別で、シイナはシェオルと繋がっているわけじゃないです。

 

ともかく、二次性徴が必要条件なのではないかという話ではあったけれども、殆どの人間が十数年経てばほぼ等しくその状態になって、特殊な体質である以外の場合の全ての人が子供を作れるようになるというのに、果たしてそれは条件として成り立っているのかと疑問に思う部分はある。

 

ただけれども、僕としては本当に二次性徴が条件に含まれているのかどうかに思う所があった。

 

僕はその事は条件に含まれないだろうとは考えていて、ただそうと思ったところで、そのことを論証しなければただの感想や思いつきであって、ただの思い付きで人が考えた発想を間違っていると判断するのは普通にどうかと思う話で、その辺りをしっかり頭の中で論証しようと僕は考えた。

 

ともかく、僕は二次性徴は竜との繋がりには関係ないと判断していて、何故かというと、第二次性徴が起きていないような体つきの乙姫が作中に登場するからになる。

 

(9巻p.110)

 

このワシリーサは見た感じかなり幼くて、全体的な体型が作中で二次性徴を迎えた頃のシイナよりも幼くあるように僕は思える。

 

(9巻p.123)

 

僕は先の竜に魅入られるには成熟度合が条件だという話を読んでまず、「いや、バーバ・ヤーガの乙姫…」と思ったというか、僕はあの一連の投稿を読んでまず、いや、二次性徴前に竜に魅入られた人いるじゃんと思ったということがあった。

 

同じように二次性徴前のシイナと比べても、その体つきはやはり幼い。

 

(9巻p.170)

 

この後に機関銃掃射でバラバラになって、島にシェオルによって運ばれて、その後に体に変化が、という話なのだというのに、その変化の前の状態のシイナよりワシリーサは幼い以上、先の方の言うように"人の親になれる"という状態ではないのではないかと個人的に思う。

 

ただ、そのようなものは個人の主観の問題で、僕が幼く見えたところで、その事はただの僕の感想以上の事はない。

 

他の人が見たら違うと判断しかねないのであって、見た目がそれっぽいというだけではワシリーサが二次性徴前だという主張は論拠が弱すぎる。

 

けれども、ここに至って僕は、鬼頭先生がこの年齢の子供の体つきの差異をどのように描いているかの判断材料となる描写をしていたことを思い出した。

 

『殻都市の夢』には、1年刻みで人間の体の成長を描いている場面があって、その場面を見れば、作者の鬼頭先生が、ある体つきの時はどの年齢を想定しているのかを理解することが出来る。

 

実際に見て見ればその辺りは分かる。

 

(鬼頭莫宏『殻都市の夢』pp.22-23)

 

こういう風にそれぞれの年齢の時の体つきを鬼頭先生は描き分けていて、この場面とワシリーサを比べれば、ワシリーサがおおよそ何歳くらいの時に乙姫になったかが理解できる。

 

(同上)

 

『殻都市の夢』の描写と比較すると、大体、10~11歳の体つきをしていると分かる。

 

(同上)

 

当然、その年齢で二次性徴を迎える場合もあって、けれども、そのような場合は体の肉付きもパラレルで増して行って、より女性的な体型になっているはずで、一方でワシリーサはそのような肉付きは見られない。

 

シイナに関しては先の後ろ姿でも肉がつき始めている様子が見られて、その辺りはあの場面の1年くらい前の体つきと比較すると分かる。

 

(2巻p.72)

 

(同上)

 

この引用の下の画像ですら、二次性徴の前である以上、ワシリーサはもっと幼いと判断した方が妥当で、なんというか、11歳くらいの少女の時にワシリーサは乙姫になったのだろうと判断しても良いのではないかと思う。

 

結局のところ、どうして「人の親になれるかどうか」で竜に選別される条件を満たすと先の方が考えていたのかとかは良く分からないけれども、少なくともワシリーサを見る限り、その事は条件として入っていないのではないかと個人的に思う。

 

他の例だと、ロバートも同じように二次性徴を迎えていない様子がある。

 

(10巻p.212)

 

体つきが細くて、二次性徴にはもう少し成長が必要なのではないかと思うけれども、この年齢の男児の体の変化は、女児のような形にはなくて、二次性徴の後に体が男らしくなっていくのは中学生くらいになってからだから、二次性徴が来ても直ぐには見て分かる体の変化はそんなになくて、体つきの話だけでは二次性徴の前か後かは判断しかねる内容にはなる。

 

ただまぁ、ロバートの年齢の話が『なるたる』作中でされていて、先に引用した画像でその話がされている。

 

(10巻p.113)

 

結局、ロバートの病気とタラスクの出現が同時期にあって、その時期は今から2年前で、そもそも10歳になるまでは問題がなかったとジェーンは語っているわけで、ロバートがタラスクに魅入られたのは10歳になった後の、10歳の年齢の時と考えた方が妥当になる。

 

それより後だったらジェーンの台詞が「11歳になるまでは何も問題はなかった」になるので…。

 

普通の場合、男児は10歳では二次性徴を迎えない以上、やはり子供を作れるかどうかは竜とのエンゲージに関係性がないという判断しか出来ないと思う。

 

…まぁそもそも、二次性徴を迎えていないシイナが一話の時点で声を掛けられていて、この時点で声に答えれば普通にエンゲージしたはずで、そもそも1話の描写の時点でその可能性はないという判断が出来たような話ではあるのだけれども。

 

(1巻pp.22-23)

 

ここでシイナと地球が繋がらなかったのは、シイナが呼びかけを拒絶したからで、シイナの体の生育具合とは関係性がない。

 

そういう風にまず二次性徴自体が竜とのエンゲージに関係性がない様子があって、加えてあの方はどうも、精神的に親になれていないような人間性が竜の保持者になる条件と考えていたようだけれども、鶴丸は鶴丸なりに親としての役割は果たしていて、一緒に居れない分仕送りを渡しているし、次の世代の子供を妊娠したシイナと涅見子は、別に親になれないと言われるような不道徳性は持ち合わせていない。

 

そもそもとして、そのような精神性が条件であるという説明は作品中になくて、更には親になる前段階の性交渉を竜の子の保持者は当然の権利のように行っていて、もし、そのようなことが条件であるなら性交すらも何らか忌避されるはずというか、まぁ何を言っても、そのような精神性が竜との関係を左右するという意見について、そのことを是とするような描写が本編中に存在しないので、そんな話は作中の描写から導き出せないという話にはなる。

 

反対に、植物の乙姫が存在する時点で、そんなことは関係ないという話は導き出せてしまう。

 

(12巻p.147)

 

多くの植物は子育てしないし、例えばドングリを作るタイプの植物の場合、根元で芽吹いたパターンなどでは、親は子にとっての競合者でしかない。

 

普通植物には子供を哺育するという概念がないのだから、精神的に親であるという概念も同時になくて、そんな概念がない生物が乙姫になり得る以上、その事は条件として成り立たないはずになる。

 

この記事では竜になるには力を欲する必要があるという話をしていて、そうとなると逆に植物が何かを創りたいとか、何かを変えたいと思うのかという話にはなる。

 

ただ作中の描写に従えばそういう話と処理するしかなくて、まぁ設定として、植物でも所謂下等生物でも魂があって、その魂は何らかの恣意があって、何らか思考を行うということになっているのだと思う。

 

…先の引用ページの内容だと、魂で思考するという話になっていて、その事については大元はアリストテレスの『霊魂論』なのだろうと思う。

 

鬼頭先生は別に『霊魂論』に何が書かれてるのかとか知らないだろうけれど。

 

最後に、何故『なるたる』で竜は子供とエンゲージするかの話がある。

 

(8巻p.186)

 

これに関しては僕は何故子供なのかは全く分からない。

 

ただもしかしたらという話はあって、『なるたる』という漫画で描かれる世界において、子供であるということに何ら含意がないという可能性がある。

 

何故と言うと、『なるたる』を一つの完成された世界と考えずに、一つの漫画作品と考えた場合、登場人物の年齢などというものは、そこに深い意味があるとは限らないからになる。

 

例えば、中年のサラリーマンが主人公である漫画が存在するとして、その主人公の年齢が40才だろうと45才だろうと、作品としてはそこに深い意味があるとは限らないというか、作者がその年齢で行こうと設定したという以上の事情はそこに存在しない。

 

だから、『なるたる』に関しても、根底にあるのは鬼頭先生が子供たちが主軸の漫画を作ろうと思ったという出来事であって、そういう風に設定したから『なるたる』の中心は子供たちなわけで、そこからその登場人物があれこれする必要性のために子供たちは竜に魅入られる以上、そこに深い意味や設定があるかは正直微妙な所ではある。

 

そもそも、鬼頭先生は『新世紀エヴァンゲリオン』に強い影響を受けている。(参考)

 

僕としては『なるたる』という作品は、エヴァがそうであったように、現代が舞台の神話を漫画にしたいという動機があって、そこから物語を構築したのだろうと思っている。

 

そのエヴァに出てくる人型ロボット(サイボーグ)に乗るパイロットは14才という設定になっていて、けれども、その設定には特に意味は用意されていない。

 

『なるたる』に関しても、エヴァのような物語を作りたいという部分はおそらくあって、それが故に子供たちが主軸となったのだろうと僕は思っていて、そうとすると、登場人物の中心が子供達であるという理由は存在していても、何故竜が子供達に接触するのかという理由は特に存在していない可能性がある。

 

少なくとも『なるたる』作中にそれの答えとなる描写は存在していなくて、そうとすると子供であるということに理由なんて設定されていないという可能性は実際の所存在している。

 

結局、『なるたる』でその辺りについての説明がされなかった以上、このことは「分からない」以上の処理はどうやっても出来なくて、ただけれども、もしかしたら意味なんてないという可能性はあるので、その話もすることにした。

 

…考察とかだとあれこれ言葉を弄して意味づけを行うのだろうけれども、本編で説明がない以上、分からないという判断以外は出来ないし、分からないことを分からないで済まさないで、そうと判断できる材料が一切存在しないのに、存在しない理由をあれこれ主張する考察という文化については、個人的に本当にアレだと思っている。

 

そういう理由で考察という言葉はあんまり…。

 

だから頑なに考察ではなくて解説という言葉を選び続けている必要があったんですね。

 

そんな感じの『なるたる』について。

 

今年もノルマ達成だな。

 

では。