表題通り、『ぼくらの』と『新世紀エヴァンゲリオン』について色々書いていくことにする。
本来的には『なるたる』とエヴァについてという表題で色々書いていたのだけれど、必要なことを順番に書いていったら、紙幅の問題で前後編に分かれそうな具合であるということが分かって、前半部分では『ぼくらの』の話が多かったので、前半分は『ぼくらの』とエヴァの話で纏めて、後半部分で『なるたる』とエヴァの話をして行くという形に路線変更をすることにした。
そうそう、基本的に説明が面倒なので、エヴァも『ぼくらの』も『なるたる』も全部普通に知っている人を対象に以下は書いていきます。
それと時系列的に『ぼくらの』と『なるたる』を描いた時点で鬼頭先生が影響を受けられるのは、旧アニメ版と旧劇場版なので、この記事で断りもなくエヴァと言っている時は、旧版の話だと思ってください。
このサイトで僕は『ぼくらの』の解説記事を非常に多く書いてきたけれども、そこで度々、『ぼくらの』の中に見えるエヴァ的な要素の話をしている。
他にはここ以外のサイトで僕は、『なるたる』という漫画のねっとりとした解説を書いていて、そこでもいくらかエヴァの話は一応している。
実際、僕が書いたそれらの文章を読めば、如何に鬼頭先生がエヴァの影響を受けているかは分かるとは思うけれども、ともかく、鬼頭先生はエヴァに色々な影響を受けていて、今回はそういう話をして行くことにする。
まず、鬼頭先生がエヴァを知っているのかどうかの話から始めることにする。
いや、『ぼくらの』の前作の『なるたる』の時点で、女の子の主人公であるシイナに、「あんた バカ?」と言わせてるのだから、知らないわけはないのだけれど、そういうのを抜きにしても、鬼頭先生は旧アニメ版の『新世紀エヴァンゲリオン』を見ているということは分かっている。
(鬼頭莫宏『なるたる』1巻p.25)
エヴァについては度々インタビューで鬼頭先生本人も触れていて、色々な念頭に『新世紀エヴァンゲリオン』という作品が存在しているということがそういうところからも理解することが出来る。
今から引用するのは『ぼくらの』のオフィシャルファンブックに載った『ぼくらの』のノベライズを担当した大樹先生との対談での応答で、あくまで、相手からエヴァの話を振られたからではあるとはいえ、鬼頭先生はエヴァの話をしている。
「(大樹 ノベライズ版の『ぼくらの』を執筆するに際して)いくつかの資料を戴きましたが、曖昧な部分も意外と多い。ノヴェライズにあたり、いくつか僕の方で勝手に設定してしまったりもしているのですが、中には世界設定なんて全然ないクセに、思わせぶりな単語を大量に出して人を煙にまくという『エヴァンゲリオン』のような作品もある。鬼頭先生の作品も、そちらに近いのでは、とも思うのですが?
鬼頭 そうですね。でも設定が適当じゃない創作物はないと思います。世界設定をすべて考えていたら作品は世に出せません。間に合わないんですよ。
なかなか難しい部分なのですが、物語が終わったときに画面で見えているところだけでも設定に破綻がないというのが、理想ですかね…。たとえ、最初からそう考えられていたのか、そうではないかは別にして。(『『ぼくらの』オフィシャルブック』 小学館 2008年 p.204 冒頭()は引用者補足)」
この後も対話は続いて、『なるたる』や『ぼくらの』とエヴァの関係性の話が続くけれども、この対話を見る限り、鬼頭先生はエヴァを見ているし、その影響を受けているということは確かだろうと思う。
そもそも、この話題になったのもノベライズ担当の大樹先生が、鬼頭先生から設定を渡されて、読んで少し世界観に関して情報量が少ないなと思って、もしかしてエヴァと一緒で意味深な単語や雰囲気だけある感じですか?と聞いたという流れという理解で良いと思う。
大樹先生も、『ぼくらの』に関して色々とエヴァっぽいなと思って、鬼頭先生に直接、先生の作品はエヴァの系譜ですよねと聞いているという話なのだと思う。
先の引用の後に、大樹先生は『ぼくらの』がエヴァのように中身のないキーワードしかないような場合を想定していて、鬼頭先生に『ぼくらの』の世界設定について色々聞くというやり取りが続いて、鬼頭先生はその答えとして、決して意味がないということはないと説明している。
以下は『ぼくらの』がエヴァみたいに意味深に言葉はあるけれど、そこに深い意味はないというのなら、そこを詰めることは『ぼくらの』の物語の良さを半減させるファクターになり得ることなので、そこを詰めるべきかべきじゃないかを判断したくて、その辺りの設定ってしっかり作ってあるんですか?とノベライズ担当の大樹先生が聞いている場面です。
「(大樹) そもそも、鬼頭さんにあれこれと『ぼくらの』の世界設定について伺うことが、本当に作品を楽しむ上で必要なことなのか、ちょっと不安に思っているんですが?
鬼頭 うーん…。でも、どうなんだろうなぁ。『エヴァ』を作った人たちはガジェットマニアだと思うんですよ。歯車が組み合わさらなくとも、カッコイイ歯車を並べていけば作品になるんだという手法を提示したというのは確かに新しかった。
いままでのSFアニメとかって、実は考えていないのに、設定がさもあるように誤魔化しながら作ってきたわけじゃないですか。だから作りて側のカッコ悪さが時々垣間見える。そういった意味では『エヴァ』はひとつのブレイクスルーだったと思います。
だけど、あのやり方は一度やってしまうと、もう使えない手法なんです。だから『エヴァ』以降のほうが「設定はちゃんと作りましょう」という縛りが一段とキツくなったんじゃないかなと思っているんですけどね。
大樹 なるほど。では、鬼頭さんもそうした縛りの中で作品を作られているし、そうした部分を知りたいと思う読者の読みにも答える用意がある?
鬼頭 『ぼくらの』に関しては童話だと思っているので、多少つじつまが合わなくてもいいのかな? でもできれば世界設定はちゃんと物語は作りたいんですけど。(同上p.205 冒頭()は引用者補足)」
鬼頭先生はエヴァみたいに言葉だけの"どんがら"なんですか?と聞かれて、エヴァ以降はむしろエヴァのせいでしっかり設定を作るようになっていると答えていて、少なくとも『ぼくらの』はエヴァのようにただ意味深な言葉が並んでいるだけということもないと言及していることは確かだと思う。
『ぼくらの』についてはそんな感じだろうし、エヴァより後に作られた『なるたる』に関してもその辺りの設定はしっかりと存在していると認識して問題は個人的に感じられない。
その事を読者が理解できるかはさておいて、だけれども。
結局、大樹先生は『ぼくらの』に存在する世界観設定を読み取りきれなかったらしい。
読み取り切れていたら、重要な意味が存在しないのではないかという懸念は起きないわけであって、その辺りはお仕事で『ぼくらの』を渡されて、そこから何度か『ぼくらの』を読んで、それに飽き足らず設定資料を貰ったけれど、それだけでは細かい設定が果たして実がある形で存在しているか分からなかったという話だと思う。
結局、鬼頭先生の描く世界観は、『ヴァンデミエールの翼』、『なるたる』、『ぼくらの』までを最後まで読んで、どうにかおぼろげに輪郭が見えたり見えなかったりするようなもので、僕がその辺りを理解できたのは、それこそ異常とも思える回数を読んだことと、異常とも思える粘着質な性質によってねっとりと色々やったということがあって初めて出来たことなのであって、分からないのが普通だと思う。
色々な必要性に駆られて、僕は国立国会図書館に行って『なるたる』が掲載されたアフタヌーンを1話から67話までの計67冊を全部検証して、朝から夕方まで色々やって初めて分かった要素とかもあったりする。
そのようにねっとりと色々解説をした結果、知らん人から複数回、キチガイ扱いされているし、そのキチガイ扱いも別に否定しようとは思わないし、その辺りは自覚があるから色々仕方がない。
でもガンギマリ度合だと、最近の漫画の解説の方が僕自身読み返していて、「何がこの人をここまでさせるの…?」と思う部分があって、最近の方がより酷いとは思うのだけれど。
加えて、鬼頭先生の描く世界観は、『神話・伝承辞典』という分厚い辞典の記述があって初めて理解できる描写が『ヴァンデミエールの翼』には多かったりする。
そして鬼頭先生の『ぼくらの』前期までの作品は、難解な描写が非常に多くて、その難解な表現を説明したり、分かりやすく回収しようという気概が当時の鬼頭先生から感じられないので、大樹先生が『ぼくらの』で抱いた「エヴァと同じで思わせぶりなだけなのでは?」という懸念は仕方がないことだと思う。
大樹先生はおそらく、ノベライズのために『なるたる』も読んでいて、『なるたる』とか、誰かの解説があって初めて理解の第一歩を始めることが出来るレベルの作品なので、大樹先生は全く理解出来なかった『なるたる』を含めて、『ぼくらの』に関しても、エヴァのように世界観の説明は物語において重要な意味はないのでは?という発想に至ったのだと思う。
僕自身、もしも先のやり取りが書かれたあのオフィシャルブックが出版されておらず、鬼頭先生の弁明を読むという出来事がなかったならば、エヴァと同じようにただの演出装置として鬼頭先生の作品の描写を理解していたという可能性は実際あると思う。
けれども、『ぼくらの』においてはエヴァのように思わせぶりで実は意味がないなんてことは鬼頭先生曰くないらしい。
ただ、それでも鬼頭先生がエヴァの影響を受けているのはそうらしくて、対談ののっけから、大樹先生はエヴァの話題を鬼頭先生に振っている程度には鬼頭先生の作品には存在している。
加えて、先に引用した本は、『ぼくらの』の主題歌を歌った石川さんとの対談も載っていて、そこでも、エヴァに関連する話題がある。
以下は主題歌である『アンインストール』の作詞に関する話題です。
「(鬼頭)――特に作詞のポイントとなった点はどこでしょう?
石川 子供たちがそれぞれ抱えている親子関係の苦しみですね。自分の母親との関係とシンクロしたということもありまして。
――親子関係、という要素は鬼頭先生も作品の中で意識されていたんでしょうか?
鬼頭 あまり〈親子〉という形で意識したことはないですが、14歳頃というのは、自分と〈世界〉との関係を考え始める時期だと思うんですよね。
それで、その年頃の子の生活に影響するもっとも重要な対象はやはり〈親〉ですから、作品でもそのバリエーションを描くことがどうしても多くなりました。でも本当は、モジの話のような、友達や彼女についての物語がもっとあってもよかったかもしれませんね。今、少し反省しています(笑)。(同上p.150 冒頭()は引用者補足)」
ここで鬼頭先生が行っている返答が、実は滅茶苦茶エヴァ的な話になっている。
どうしてかと言うと、先のやり取りは『ぼくらの』の作中でパイロットとなった子供たちの話なのだけれど、そのパイロットの子供たちは中学一年生で、中一だと年齢は12~13歳になる。
なのにも関わらず、鬼頭先生は14歳頃の子供の自意識の話をしている。
これについては…エヴァのパイロットが全員14歳なんですよね。
これは旧版のエヴァについては重要なファクターとして語られるような事柄で、14歳の子供たちが~というのはエヴァでは聞き飽きた言葉になる。
なんというか、子供が出てきている物語で、その子供の年齢が14歳で葛藤してて、と言及された時点で、それはもうエヴァの影響下にある何かと判断していいレベルで、14歳の葛藤というのはエヴァ的な話になる。
だから、自分が描いている漫画だとキャラクターは12~13歳だというのに、14歳頃の子供の話をしている時点で、滅茶苦茶鬼頭先生はエヴァを意識しているということが分かる。
こういう風に鬼頭先生は意識的にせよ無意識的にせよ、非常に強くエヴァの影響を受けている。
けれども、『なるたる』や『ぼくらの』の話をするに際して、エヴァの話をするのはかつて半ば禁忌として扱われてきたという歴史的経緯がある。
これはまぁ、鬼頭先生の作品がというよりも、2000年代くらいの作品全部についての話なのだけれども、とにかく、創作物の話をするに際して、エヴァの話題を振るということは非常に嫌悪されていた。
それには理由があって、エヴァを見た人の中で、なんでもエヴァのパクリ扱いして扱き下ろすというような振る舞いをした人がかつて大量に居て、しかもそのような振る舞いをする人は、エヴァの事は知ってても、エヴァと比較する作品には別に詳しくなかったという場合が非常に多かったために、そのような人は嫌われまくっていたという事実がある。
それは僕の印象の問題じゃなくて、実際に認知されていたことで、その事は『聖☆おにいさん』の描写から理解できる。
以下はTSUTAYAで映画を借りようとしたけれど、駄作だったら嫌だから、天界の人に面白かったか聞いてみたというくだりです。
(中村光『聖☆おにいさん』7巻pp.119-120)
この『聖☆おにいさん』の7巻は2011年に出版されたものだけれど、ここにどんな映画を見ても「エヴァのパクリ」と評価を下すという面の話がある。
かつては本当にそういう人がいて、少しでもエヴァっぽかったらエヴァのパクリ扱いしていたし、例え少しもエヴァっぽくなかったとしても、エヴァのパクリ扱いしていた人が実在していた。
だから、そのような創作物の話でエヴァの話題を振るということは「まただよ(笑)」って話になるし、そういう人は大概、エヴァ以外に詳しくなくて浅い話しかしないし、そういうことをする人はレベルの低い人という感じの認識はもう形成されていたから、エヴァ以外の創作物でエヴァの話題を振ってきた時点で、その人は大した知識を持っていないと扱われるレベルだった。
そういう経緯があっての先の『聖☆おにいさん』の「エヴァのパクリ」としか言わない云々のネタがあるし、『聖☆おにいさん』での扱いも、そんなこと言う人のレビューは役に立たないとして扱われているということが分かる。
加えて、エヴァには考察という文化があって、エヴァ関係の考察は妄想と大差ない妄言を披露しても、その事は別に咎められなかったという事情がある。
だから、書いている人がそうと感じたことが事実のように扱われて、本当に酷い妄言がさも公式発表であるかのように扱われていて、そのような言説はエヴァ関係では当然の権利のように繰り広げられていた。
「〇〇はエヴァのパクリ」だなんていう場合は、そんな考察をする人が大して詳しくない他の作品をエヴァありきで考察するものだから、多くの場合的外れでいい加減で出鱈目で、目障りでしょうもないそれが披露されて、それを読んだ人は多く辟易していて、それが故に「エヴァのパクリ」だなんていう人の程度は非常に劣悪なものだと認識されていたという具合だと思う。
そもそも、僕が鬼頭先生関連の漫画の解説をするときに、考察という言葉を使わずに解説という言葉を使うのは、考察と呼ばれるあの妄想文と一緒にされるくらいなら、ハナから誰にも読まれない方がずっといいと考えて、考察と使わなければ検索で引っかからないと分かっていても、自分が書いたものが考察扱いされるくらいならそれで良いと、解説という言葉を頑なに使い続けているという事情がある。
だから、僕が書いた何かを考察扱いされたときに、たびたび強い言葉を使って色々書いていたんですね。
それくらいエヴァの考察は酷かったし、その酷い考察に対するツッコミも不在だった。
だから、かつては特定の作品をエヴァと絡めて色々やった時点でもう評価に値しないという認識が存在していたし、そこまで劣悪なアレでなくとも、なんでもエヴァ扱いされたという風潮は確かにあった。
まぁ考察云々を抜きにしても、自分の好きな作品が特定の作品のパクリだなんて言われて喜ぶ人は少数で、けれども、どんな作品にでもエヴァのパクリと言ってくる人間はそれなりの数がいて、「エヴァのパクリ」だなんて言葉とそれを使う人が嫌われない理由なんてそもそもないのだけれども。
実際、そういう風に創作物がエヴァ扱いされやすかったという話は、鬼頭先生の他のインタビューからも読み取ることが出来る。
(『マンガ・エロティクス・エフ vol.51』 太田出版 2006年 pp.21-22)
まぁ読んでいたただいたらそれが全てなのだけれど、鬼頭先生自身が自身の作品をエヴァ扱いされるのを避けていたということは確かだろうと思う。
かつては何をやってもエヴァ扱いする人は居たし、実際、クリエイター側もそれを忌避していた部分があるのではないかと思う。
そういった何かに一切関係のない僕にしても、なんでもエヴァ扱いする人には反発を覚えていて、それが故に、あのサイトで『なるたる』の解説をした時に、エヴァの話を殆どしなかったという経緯がある。
言い方はあれだけれど、『なるたる』とかをエヴァ扱いする人の事を半ば本気で"浅い"と思っていた部分がかつてあった。
じゃあ、鬼頭先生の作品にエヴァ要素が存在していないかと言えば、それは実際の所滅茶苦茶存在しているので、今回はそれをまとめるというか、これってエヴァ由来なのでは?と思える内容について色々言及しようと思った次第です。
事実、なんでもかんでもエヴァ扱いされた時代はあって、それはそれくらいエヴァが強い影響を及ぼしていたというのが本当の所で、パクリとまで糾弾されるほどでもないけれど、エヴァのエッセンスが含まれる作品は1990年代後半から、2000年代では非常に多かった。
もっとも、鬼頭先生が言っているように、元々あった色々な情報をエヴァが上手く使っていて、エヴァでその事は有名だけれども、別にエヴァが初出ではないという話も多いと思う。
ただ、クリエイターの人々もエヴァを避けて通るということはそんなにしなかったようで、実際にエヴァの影響を受けていただろう作品は無数にある。
2000年代に流行っていた、『涼宮ハルヒの憂鬱』などについても、主人公が巻き込まれ系で、自分の意思とは関係なしに様々な出来事を主体的にこなしていくような物語で、ツンデレ(死語)で主人公をグイグイ引っ張る勝気な女の子と、無口で主人公のことを全力で守ってくれるショートカットの人造人間で軍艦の名前を持つ女の子が主人公の両脇に存在している時点で、エヴァの影響を受けていないだなんて無理のある推論だと僕は思う。
まぁ長門作ったのは人間じゃないから、人造ではないけれど。
しかも『涼宮ハルヒの憂鬱』だと、世界が亡びそうになっているし、それに際して世界にヒロインと二人きりになるという、旧劇のエヴァみたいな終わり方も選択肢として実際あって、色々な要素は他のSF小説に由来している部分があるだろうとは言え、エヴァの影響が0かと言えばそんなことはないだろうし、そういう作品は多かった。
当然、鬼頭先生の作品もそういう風にエヴァの影響を受けたそれだろうし、鬼頭先生は実際、インタビューでエヴァの話をしているのだから、エヴァを知っているし、後に新劇場版の方で第三の使徒のデザインも担当しているので、まぁ鬼頭先生はエヴァが好きなのだろうと思う。
以上で『ぼくらの』が描かれたくらいの時代のエヴァの影響についてと、実際に鬼頭先生がエヴァの影響を受けているだろうという話は終わりになる。
色々書いたけれど、これは必要だから書いていて、それくらい「エヴァのパクリ」という言葉はアレな言葉で、その空気感を知っている場合、特定の作品をエヴァ呼ばわりするというなら、これくらい言い訳を用意しなければならない程だったんですよね…。
『なるたる』のファンサイトの「滑走キ」にしても、「なるたるの分からないところを解説してみるサイト」と同ぼくらのを解説してみるサイトにしても、エヴァの話題が皆無なのはそういう経緯があってのことで、実際に全ページをF3キーで「エヴァ」と入れて文章検索したけれど、「滑走キ」の『なるたる』の感想の一話の所に一度エヴァという言葉が出てくるだけで、それ以外にエヴァの話題は一切存在していない。
『なるたる』とか、あんなにラストとかエヴァっぽいのに一切エヴァの話は存在していなかった。
それくらい「エヴァのパクリ」という言葉はアレで、なんというか、昔は色々あったという話です。
まぁそうじゃなきゃ、鬼頭先生も"エヴァ除け"なんてしなかったわけですし。
さて。
以下ではいくらか、『ぼくらの』に見られる『新世紀エヴァンゲリオン』の話をして行くことにする。
…でも本来的に『なるたる』とエヴァの話のつもりでこの記事作ってたから、特にピックアップもしてなくて、色々今から探していくしかないんだよなぁ。
それに以前書いた解説の中で、その時に気付けたエヴァ由来だろう描写は都度言及しているのだから、今更『ぼくらの』はエヴァの影響を受けているだなんて説明はいらないのではないかと思う部分もある。
でも色々な体裁の問題があるので、ともかくやっていくことにする。
まず、『ぼくらの』では敵の正体が初め明かされないで、特に説明もなく15体の敵と戦わせられている。
(鬼頭莫宏『ぼくらの』1巻pp.19-20 以下は簡略な表記とする)
これに関してはおそらくエヴァ由来という話で良いと思う。
エヴァだと特に説明もなしにいきなり正体不明の敵とロボットに乗って戦うように命じられて、そのまま実際に戦っているけれど、『ぼくらの』にしても敵の説明は一切にない。
もっとも、エヴァと違ってこのことはギミックで、エヴァだと旧版の最後まで、そして新劇場版の完結まで謎の存在で終わった敵の使徒であるけれど、『ぼくらの』ではしっかりと敵の正体が明かされないことには理由がある。
エヴァだと急に正体不明の敵と戦うことになるという事柄についての説明は一切ないけれど、『ぼくらの』では普通に最初明かされなかった戦う理由は作中で示されているし、敵の存在も正体不明で終わるということもなく、その正体は後々分かるし、最初にその正体を隠した理由も別におかしな話でもない。
結局、敵が違う世界線の地球の人間だと分からない方が伸び伸び戦えるのであって、いつかはバレるにせよ、そのまま戦わせた方がコエムシからしたらお得だから、正体は明かしていないと考えて問題はないと思う。
『ぼくらの』作中だとバレたけれども、戦闘の経緯次第では最後までバレないのであって、良心の呵責もなく相手を殴れる場合の方が強い以上、コエムシとしては敵の正体が自分たちと同じ境遇の人々とばらさない方が勝率は高くなる。
エヴァだと終始無意味というか舞台装置というか、"ガジェット"だった正体不明の敵の存在は、『ぼくらの』ではしっかり意味を持って配置されている。
どうでも良いけどエヴァ、作り直して映画を4回も放映して、どうして敵が何なのか分からないままなんですかねぇ…?
巷で言われている、リリンだとかリリスだとかそういう話も信じて良いのか分からないし。
一応、エヴァだと正体不明の敵である使徒たちは、人間の他の可能性というかなんというか、人間の亜種らしいのだけれど、『ぼくらの』にしても実は敵は人間だったわけであって、エヴァも実は敵は人間だし、旧劇場版だと、最後の敵は人間だったし、敵は実は人間という発想はエヴァ由来なのかもしれない。
…『なるたる』の最後の暴徒の襲来も、エヴァの"最後の敵は人間"に由来する描写なのだろうか。
良く分からない。
次に、パイロットの年齢について。
『ぼくらの』だとパイロットは中学一年生で、先に書いたように12~13歳だけれど、これは14歳でやったなら、エヴァだと判断されるが故に、少し年齢をずらしたという話だと思う。
そして、エヴァではパイロットが14歳で、その14歳であることと、子供が操縦することが重要なファクターとして配置されているけれど、何故14歳なのかという説明は一切ない。
一応、パイロットに選ばれた少年少女たちは、扱う機体に彼らの母親が用いられているから、そういう経緯で彼らが選ばれている部分があるのだけれど、14歳であるところの説明はないし、新劇場版だと、機体の材料が母親という設定が、初号機以外にも存在しているかすら定かではない。
一方で、『ぼくらの』の場合は子供が操縦することへの意味付けはしっかりとされていて、パイロットの年齢が低ければ低いほど強いという話はされている。
エヴァだと無意味だったところがしっかりと設定されていて、そういうところを言って鬼頭先生は先の対談の内容を話していたのだと思う。
次に、ジアースのデザインもエヴァの影響を受けているかもしれないという話があるけれど、これについてはキリエ編のときに言及したので(参考)今回は特に言及しない。
確かなことは言えないとはいえ、エヴァの初号機は紫で、ジアースは黒だけれど、暗色というかなんというか、ジアースの配色が明るい色じゃないのはエヴァ初号機由来だと思うよ。
ただ、紫にするとそのままだから、少し変えているのだと思う。
それとジアースには積層された装甲が施されているらしいけれども、エヴァもそういう風に積層されていたはずだから、その辺りもエヴァ由来なのかもしれない。
次に、病んでいくパイロットについて。
『ぼくらの』本編だと実際病んでたのはカコくんだけとはいえ、設定上だと、カコ、コモ、アンコが何らか精神的に病む予定だった様子が本編の描写から読み取れる。
(『ぼくらの』3巻p.14)
実際に精神的に不安定だったパイロットは本編だとカコだけだったけれど、エヴァとかパイロットは綾波以外基本的に不安定なので、そういうところはエヴァ由来なのだと思う。
他にもエヴァみたいに精神的に不安定な人がパイロットをやるロボット作品はあるかもだけれど、純粋に僕が把握していない。
『ぼくらの』だと、本来的に三人も精神的に不安定にさせる予定だった様子があるところを見ると、精神的に不安定なパイロットに何か強い思い入れがあるのではと思う部分があって、そうだとするとやっぱり、エヴァでパイロットが不安定だったところに由来するのかなと僕は思う。
そして、そうした精神的な不安定さは、エヴァの文脈だと精神的な葛藤と説明されている。
エヴァの主人公の碇シンジという人物は、酷くウジウジしていて、大学生の時にテニス部だった友人がエヴァを見た後に、僕に「なんであいつあんなウジウジしてんの?あれの何が良いの?」と聞かれたような覚えがある。
苛立ちは表に出さなかったとはいえ、「知らねぇよ」って思って普通にイラついたけれども。
なんでエヴァの事大して好きじゃない僕に聞いてくんだよ知らねぇよ、そもそも良いとも思ってねぇよ。
ともかく、エヴァだと非常に精神的な葛藤が多くて、主人公も葛藤しているし、アスカも葛藤している。
いや、アスカの場合は葛藤とは言わないのかもしれないけれど。
エヴァで見るような中学生くらいの思春期の少年少女の葛藤は『ぼくらの』でも見ることが出来て、カコ、チズ、キリエ、ウシロなどは非常に葛藤している。
あと一応、ダイチも葛藤はあるけれど、悩みが大人的過ぎて、思春期の葛藤とは少しずれるかなとは思う。
そのような葛藤はもしかしたらエヴァ由来かもしれない。
そして書いてて思ったのだけれど、エヴァのパイロットであるアスカは年上の男性である加地に淡い恋心を懐いている。
『ぼくらの』でも年上の男性に恋心を懐いていたパイロットは存在していて、チズは畑飼にそういった淡い気持ちを懐いていたことがあったけれど、もしかしたらそういう年上の人に恋心を懐く、精神的に不安定な少女のパイロットというモチーフはエヴァ由来だったりするのかなとおぼろげに思う。
次に、エヴァに登場する使徒と『ぼくらの』のロボットについて色々書いていく。
まず、決められた数の敵が予定通りに順番に攻めてくるというモチーフは、普通にエヴァが由来ということで良いと思う。
『ぼくらの』だと15回の戦闘が最初から決められていて、エヴァにしても使徒に第〇使徒という名前があって、何体居るか分かっていたという部分があって、そういう風に順番に決められた数の敵が襲ってくるという発想はエヴァ由来だと思う。
次に、『ぼくらの』では触手で攻撃するキャンサーという大して強くない序盤の敵が登場する。
(2巻p.198)
エヴァにも触手で攻撃をするシャムシエルという敵がいて、しかも二番目という超序盤に戦う敵で、しかも弱いし。
その辺りもエヴァ由来なのかもしれない。
順番的に前後してしまうけれど、エヴァにはマトリエルという敵がいて、クモというかザトウムシみたいなやつなのだけれど、『ぼくらの』の最初の敵であるアラクネというクモみたいな敵が出てくる。
実際、アラクネのモチーフ自体はギリシャ神話とかのアラクネなのだろうけれども、敵としてクモみたいな足がいっぱいあるタイプが出てくるという話は、エヴァのマトリエルが元なのかもしれない。
ロボットアニメ見ないから、ああいう敵が他のロボット作品でも出てくるのかすら知らないんだよなぁ。
おそらく、あまり出てこないだろうと僕は考えていて、ザトウムシを元にデザインするとマトリエル的過ぎるから、そこは少しずらして、クモの方をモチーフに選んだという理解が分かりやすいのかなと僕は思う。
他にはロボットの戦闘に依らない勝利についてがあるけれど、これはコモ編の時にエヴァ由来なのでは?と言及している(参考)ので今回は特に何も言わない。
先にクモっぽいマトリエルの話をしたけれど、マトリエルは溶解液を使ってくる奴で、考えてみれば『ぼくらの』でも溶解液を使ってくるアイドルが居て、その辺りはエヴァ由来という可能性はあると思う。
…こういう風にいくらでも言えるから、かつて「エヴァのパクリ」って言いまくった人がいたんだろうなぁ。
でもまぁ、溶解液を使ってくるようなロボットアニメの敵はそんなにいないのではないかと思う。
敵のロボットの攻撃方法については、カンジの時の敵であるジャベリンが遠距離攻撃を行ってくるけれど、エヴァにも遠距離攻撃を行ってくるラミエルという敵がいる。
ジャベリンは長距離砲のような攻撃で、ラミエルはビームのような攻撃だから、そこまで似通っているということはないのだけれど、両者ともにその撃破方法は、超高出力のレーザーを敵のコアに命中させるというやり方なので、もしかしたらそういうところはエヴァが由来になっているのかもしれない。
(8巻pp.205-206)
まぁ『ぼくらの』のレーザーはレーザーじゃなくて質量兵器らしいけれど。
そのジャベリンは大気圏外から砲弾を降らせてきて、一方でそのように大気圏外から攻撃してくる敵がエヴァには居て、サハクィエルは大気圏外から落下してくるという攻撃方法を取ってくる。
その落下という攻撃方法は『ぼくらの』ではフィッグが行っている。
(3巻p.115)
落下という攻撃手段を取るロボット作品の敵を僕はフィッグとサハクィエル以外に知らないので、もしかしたらその辺りはエヴァ由来かもしれないし、けれども、大気圏外から落下だと完全にサハクィエルなのであって、そういう理由でフィッグはそれなりの高さからしか落ちないのかもしれない。
一方で大気圏外からの攻撃というモチーフは使いたくて、それが故にハワイから質料砲弾を飛ばすジャベリンは、大気圏を越えて弾を飛ばすことになったのかもしれない。
(8巻pp.105-106)
そして、この記事を書くためにサハクィエルについて調べていたら、どうやら、サハクィエルは体の一部を切り離して落下位置の軌道計算をしていたという描写があるらしくて、落下地点の修正を体の一部を切り離した爆弾で行っていたらしい。
『ぼくらの』でも着弾地点の軌道修正の話はあるから、割とガチ目に色々とエヴァ由来である可能性がある。
どちらも段々と標的に命中地点が近づいていくという描写があって、そんな話があるロボット作品はそんなに多くはないと思うし、ジャベリンは体の一部を使ってジアースにマーカーをつけている。
加えて、あんまり覚えてないけれど、サハクィエルとの戦いだと町の被害が甚大だったという話があったような気がしないでもないし、確かサハクィエルは落下地点が分からなくて攻撃が出来ないという話があって、ジャベリンも攻撃しようにも位置が把握できないからマーカーとして関さんがハワイに赴くという話があって、サハクィエル戦があれらの描写の由来なのかもしれない。
最後に、『ぼくらの』の最後の敵はジアースと同じタイプのロボットである様子がある。
(11巻p.51)
敵は存在するというのに、同じロボット同士で戦うという話はエヴァにもあって、バルディエル戦がそれに当たる。
ただ、その事はエヴァ由来というよりも、あまりに王道展開であって、エヴァ以前にもあっただろうし、エヴァ由来と説明できる内容でもないとは思う。
けれども、結局同じようなロボットに同じように人間が乗っていて、本当は戦いたくないのに戦うというのはまさにバルディエル戦の話だから、『ぼくらの』全体として、やはりエヴァの影響は強いと思う。
・追記
エヴァの一話で第三使徒サキエルがやってきたときに、通常兵器で迎撃して、それが全く効果がないという描写があるということを思い出した。
『ぼくらの』でも通常兵器はぬいぐるみに対しては役に立たなくて、おそらくそれはエヴァ由来だと思う。
エヴァではN2爆雷という超強力な爆弾を持って特攻する場面があるし、『ぼくらの』でも特攻で敵を倒す場面があるし、超強力な爆弾である核爆弾を用いたけれども、敵は無傷だったという描写がジャベリン戦である。
もしかしたらその辺りもエヴァ由来だったりするのかもしれない。
N2爆雷は核兵器より強力な爆弾で、ただ『ぼくらの』の場合はそのような架空の兵器よりも核の方が適切だったというか、流石にN2爆弾を使ったらまんまエヴァだし、エヴァっぽさを出さないで爆弾で無傷となると、核爆弾という兵器が適切だったのかもしれない。
まぁ『ぼくらの』作中の核爆弾は、3メガトンの威力だそうだから、水素爆弾なんだけれども。
広島型原爆が13キロトンだそうで、水爆の威力は広島のそれの数千倍らしい。
N2爆弾はその水爆より強力な爆弾って話だから、まぁねぇ。
加えて、エヴァに出てくる機体はロボットのようでロボットじゃなくて、一応、汎用人型決戦兵器という名前があるサイボーグになる。
そういう設定があるから、ファンの間ではエヴァをロボット扱いする人のことを嫌悪する慣習があったというか、エヴァをロボット扱いする人を俄かとして軽視する風潮があったのだけれど、最近、製作者側はロボットアニメのつもりで作っていたということが分かったというよくわからない出来事もあった。
その公式発表を受けてエヴァで声優をやってた人が「あ、(エヴァって)ロボットアニメだったんですか?」とか反応してて、声優の人もエヴァはロボットアニメじゃないと思っていたらしくて、もう何が何だかわからない。
ともかく、『ぼくらの』に関しても、どう考えてもロボットなのに、ぬいぐるみとかそういう呼称なのは、エヴァに関する文化が影響を与えての結果だったりするのかもしれない。
追記以上。
まぁとりあえずそこそこの文字数になったのでこれくらいにすることにする。
正直、『ぼくらの』とエヴァの関係性については、前半の記述はともかく使徒と『ぼくらの』のぬいぐるみとの話は精査が足りてない部分があるとは思う。
そうと言えどもそれらの部分はこの記事を書く前の段階では一切想定していなかったから、記事を書き始めてからかき集めたもので、そうである以上、やはりアレである可能性は拭いきれない。
本来的に鬼頭先生がエヴァの影響を受けているという話が終わったら、そのまま『なるたる』の話に移行する予定だったものを急遽予定変更して『ぼくらの』の話に挿げ替えたのだから、まぁ色々ね…。
『なるたる』の方は半年以上前から準備をしていて、まぁ数は多くはないけれど、おそらくその辺りはエヴァ由来なのだろうという話は一応用意はしている。
そもそも、この記事自体は四ヶ月前にTwitterで空リプで、「四ヶ月後くらいに『なるたる』の解説記事を書く予定です」と某人物に言ってしまったがために、その言動が嘘にならない様に用意した記事で、でも結局、『ぼくらの』の話をして『なるたる』の話はメインではしていないのだから、どの道、有言実行出来ていないというしょうもない有様になっている。
それに…彼は今はもうこのサイト読んでいないだろうし、そもそもこのサイトの存在を把握しているかも存じ上げていないし、別にこちらから敢えて書きましたよとも伝達するつもりもないので、彼がこの記事を読むことはないのであって、全てのことが根本的に無意味でしかないんだよなぁ…。
まぁそもそも、漫画の解説を書くという作業自体が無意味だから、全てのことが今更でしかないけれど。
そんな感じの『ぼくらの』とエヴァについて。
どうでも良いけれど、この記事を作るに際して一番大変だったのは、『聖☆おにいさん』で「エヴァのパクリ」の話をしているコマを見つけ出す作業でした…。
心がその作品に向いていないというのに、作中にある一コマを見つけ出すために、今月末までというリミットを設けて、今別に関心もなければ読みたいとも思っていない漫画を1巻から読んで、特定のコマを探すという作業は普通にやってて辛かったです…。
前々から言っているけれど、漫画の解説のために興味のない本を読むのは苦行なんだよなぁ。
まぁ数年ぶりに読んだ『聖☆おにいさん』は面白かったけれども。
一応、来月は『なるたる』とエヴァになるだろうけれど、根本的に僕にやる気がないので…はい。
そんな感じです。
では。