無垢たる無悪たる彼らは | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は階級社会と奴隷について。

 

僕はこの前、『遥かなる縄文の声』という本を読んでいた。

 

 

…僕が200円で買った本がAmazonだと3000円越えなのか。

 

と思ったら今年の五月ごろとか1円だったみたいだから、偶然今現在だけ値上がりしてるだけみたい。

 

この本は縄文時代についての本というかなんというか、三内丸山遺跡を発掘した学者の本で、三内丸山遺跡を中心とした縄文文化についての本になる。

 

何でこんな本を読んでいたかと言うと、最近読んでいる本があれ過ぎるというかなんというか、専門書で、原典訳で、非常に難解でやってて辛すぎるから、少し辛くない本を読みたいと思ってこういう本を読んでいた。

 

い、いやじゃ…本文の翻訳より注釈の方が紙幅がある本はもう嫌なのじゃ…。

 

そういう本を読んでいる場合、本文を読んでいて「ん?」と思った時、漢籍だったら中国語のサイトで中国語の辞書を見てその語の用法を確かめたり、原始仏典だったらパーリ語の辞書で確かめたりするという作業をしていて、それから逃げ出して、そういう作業の一切要らない縄文時代に関しての本を読むことを僕は選んだという経緯で、この本を読んでいた。

 

この本は三内丸山遺跡を実際に発掘調査した人の本で、元々三内丸山遺跡はそれほど重要な存在だと認識されていなかったという話も冒頭でされている。

 

三内丸山遺跡って元々野球場を作るために工事してたら遺跡が出てきて、当初の予定だと調査だけしてそのまま球場にする予定だったところが、マスコミに取り上げられたことによって遺跡保存の気運が高まって、遺跡として整備することになったらしいっすよ?

 

それが今だと世界遺産の一部なのだから、何が起こるか分からないよなと僕は思った。

 

実際、この本の三内丸山遺跡のあれこれについては、このサイトで何か言及できるような事柄は特になかったのだけれども、この遺跡にある巨大な建造物跡についての話の中で、このサイトで言及したいと思えるような事柄があった。

 

三内丸山遺跡では数十メートルの大きくて太い栗の木を柱として建てた痕跡が残っていて、その痕跡は建造物のそれなのか、モニュメントとしての何らかの構造物なのか、トーテムポールのようなただの柱なのかについて色々な議論がされているらしい。

 

この本の著者は建造物であっただろうと考えているのだけれど、モニュメントであるという意見も根強くて、それに際して、北アメリカのネイティブアメリカンのトーテムポールと比較するために、ネイティブアメリカンの遺跡に訪れた話がされている場面がある。

 

それに関連する話の中で、気になる記述があった。

 

それはどんな記述かと言うと、狩猟民族における階級社会についてのそれになる。

 

縄文人も狩猟民族であって、一般的にそのような社会体制だと人々は平等だったという理解が前提とされる場合がある。

 

けれども、三内丸山遺跡の墓を見るに、社会的な階級があったのではないかと著者は言及していて、それに際して、実際に社会的な階級のある狩猟民族の話がある。

 

「 三内丸山遺跡では、谷の低地から複数個体の人骨が出土している。ひとつは小児骨で六歳から七歳くらいの児童の下顎骨で、一部焼けている。また、成人と思われる大腿骨と脛骨が並んで見つかっている。他には中指骨、歯などが出土した。これらは、谷のゴミ捨て場から出土しているものの、捨てたというのではなく、埋葬されていた可能性が高い。これは、墓がありながら、墓に埋葬される人とそうでない人がいることを示している。最近では、遺跡のいろいろな場所から人骨が見つかる。埋葬の場所や方法が一様ではなく、多様であったことを示している。それは当時の社会を強く反映しているものと考えられ、私はなんらかの階層社会ではなかったかと考えている。

 狩猟採集民は、一般に、平等社会を形成しているといわれてきた。ところが実際にはカナダの海岸先住民は、階層社会で三層になった社会構造である。首長(貴族)がいて、一般の階層があって、奴隷階級がある。狩猟採集民族であっても、そのような複雑な社会をつくりあげた人びとが現実に居るのである。(岡田康博 『遥かなる縄文の声―三内丸山遺跡を掘る』 日本放送出版協会 2000年 p.76)」

 

「 よく狩猟採集民は平等社会であるといわれているが、根拠があまり明確でない学説である。平等でなければ食料の分配がうまく機能出来ないだろうという思い込みから考えられたものと推察される。また実際に、階層社会になっていない狩猟採集民も存在している。しかし、民俗学的な調査結果を見ると、階層社会と呼べるような構成をもっている人びとのほうが圧倒的に多いのである。

 また狩猟採集民は戦争をしないともいわれてきた。これも極めて根拠の希薄な仮説である。北西海岸のインディアンの世界には、事実、戦争があった。日本の考古学者で、「縄文時代は狩猟採集民社会である。だから戦争はなかった。階層社会も存在しなかった」と主張する方がおられるが、それは根拠の薄い願望に似た学説に過ぎないことを、私自身同じ狩猟採集社会の北西海岸インディアンの社会を調べることによって、痛感させられた。もっとも民俗学者は、以前から戦争も階層社会も狩猟採取文化には存在することを明言していたのだが…。(同上 p.104)」

 

僕はこの記述を読む前からずっと、それはもう何年も前から、旧石器時代の段階で社会階層があって、偉い人も居れば偉くない人も居て、奴隷階級も存在していただろうし、集団同士の殺し合いもあっただろうと考えていた。

 

なんというか、世界中どの地域の古代世界の記述を見ても、階級がないなんて場合はないし、奴隷階級が存在していないという場合も存在していなかった。

 

古代中国の場合は出土文献である睡虎地秦簡の『秦律十八種』の中に、始皇帝が天下を統一したころの秦の国に、奴隷身分の兵士が存在していたことを示す記述が存在している。

 

「 二級分の爵位を返還することで隷臣妾の父母一人を庶人にしようと願う者、隷臣が敵の首を獲得して公士の爵位を受け、その公士の爵位を返還することで隷妾である故妻一人を庶人にすることを求める者については、いずれも許可し、(父母や妻を)庶人とする。(工藤 元男編 『睡虎地秦簡訳注』 汲古書院 2018年p.216)」

 

これは奴隷身分であった人が手柄を立てた場合、その手柄と引き換えに親族を奴隷から解放できたという法についての記述になる。

 

他には確か『墨子』に奴隷身分の人の話があったと思うし、ともかく、古代中国に奴隷が居たことは確かだし、『礼記』の記述を読む限り、古代中国はかなり厳格な階級社会であった様子が確認できる。

 

身分によって瓜の切り方も違う。

 

「 国君のために瓜の皮をむいた場合には、二つ割りにして、上から綌のふきんを掛ける。大夫のためには、ふきんを掛けないで、むき出しのまま進める。士には、二つに割らないで、横に切って、へたを取るだけで進める。庶人には、横に切らないで、かじらせる。(今市享吉他訳 『全釈漢文大系 12 礼記 上』 集英社  1966年 p.66)」

 

古代インドの場合は『リグ・ヴェーダ』に階級社会についての言及があって、プルシャという神からそれぞれの階級が生まれたという話がある。

 

その記述を引用しようと世界古典文学大系の『インド集』を確かめたら、この本の『リグ・ヴェーダ』は文語訳されてるんだな…って。

 

誰が得すんだよこれ。

 

まぁ文語訳で分かりづらいけれど、一応引用する。

 

「 一一 プルシャを切り分ちたるとき、いくばくの部分に分割したりや。その口は何に、その両腕は何になれるや。その両腿は何と、その両足は何と呼ばるるや。

 十二 その口はバラモン(祭官階級)となりき。その両腕はラージャヌヤ(王族・武人階級)となされたり。その両腿はすなわちヴァイシャ(庶民階級)。両足よりシュードラ(奴婢階級)が生じたり。(辻直四郎ほか訳 『世界古典文学大系 4 インド集』 筑摩書房 1959年 pp.36-37)」

 

岩波文庫の『リグ・ヴェーダ』(部分訳)だったなら、現代語で書かれてたのだろうけれど、その本が何処にあるのか分からないから仕方がない。

 

この記述はインドにおける階級の誕生についての説話で、祭祀階級は口から生まれて、武人階級は腕から、庶民は腿から、奴隷は膝下から生まれたという伝承になる。

 

このプルシャから云々の話は時々、ウパニシャッドでも言及があるから、古代インドだと割と知られた話なのだろうと思う。

 

古代中東でも奴隷階級はあったらしくて、『リピト・イシュタル法典』あたりに、主人に歯向かった女奴隷への処罰についての記述があった覚えがある。

 

引き出しの中に複写したテキストはあるとはいえ、その紙と該当箇所を探して取り出して引用するという作業は面倒なのでそういうのはしないけれど、確か、バケツ一杯とかそういうくらいの量の塩を用意して、それがなくなるまで女奴隷の歯を塩でシゴくという言及があったと思う。

 

・追記

『ウル・ナンム法典』で該当の記述を見つけたので引用する。

 

「25.もし,ある人物の女奴隷が自らの女主人を見くびり,彼女に横柄な口を聞いた場合には,彼女の口を1クオーターの塩で清めなければならない。(『西ユーラシア貨幣史 1―国家と計算貨幣の歴史―』p.11)」

 

まぁ…この『ウル・ナンム法典』には奴隷についての記述が結構あるから、別にこの項を持ってこなくてもよかったのだけれども。

 

追記以上。

 

古代ギリシアに奴隷が居たということは有名な話だろうからわざわざここに文章を持ってこないし、エジプトの場合は原典訳のテキストが少なすぎて、そもそも古代エジプト人が書いた文章自体が日本語訳が殆どないので、僕はエジプト人が書いたものの中で奴隷についての言及があるものを知らないけれど、まぁ作られたミイラの質についての話で、やはり、上流階級の人の死体だと上等なミイラが作られていて、燃料として良く燃えたという話は聞いたことがあるので、古代エジプトでも階級社会であっただろうし、奴隷階級も居ただろうと僕は考えている。

 

…まぁ旧約聖書の『出エジプト記』あたりに、ユダヤ人の祖先がエジプト人の奴隷とされていたという話があったはずだから、エジプトには奴隷は居たのだろうけれども。

 

5 わたしはまた、エジプトびとが奴隷としているイスラエルの人々のうめきを聞いて、わたしの契約を思い出した。(Wikisouce 「出エジプト(口語訳)」より」

 

このように文字資料が残っている東西の様々な地域で階級社会と奴隷という存在があった様子がある。

 

そうであるというのに、僕は原始社会では階級が存在していないという議論の意味が前々から良く分からなかった。

 

どうしてかと言うと、どんな地域でどんな文明を築こうとも人間は、ある時点で共通の祖先を持つ同じ生物なのであって、世界中の人種間を隔てた人々のうちに、等しく階級社会と奴隷という存在が確認出来る以上、その共通の祖先の時代、今から数万から数十万年前の時点で既にそのような文化、もしくは、そのような文化を作る素地となり得る脳の形質が存在していたと考えた方が妥当だからになる。

 

つまり、そのようなものが例外があるにせよ人類に広く見られるということは、古い時代にもそのようなものの原型たるものが存在していただろうという話で、何処の地域でも大体、身分差という概念があるという以上、今から数万年前には人々は階級のある社会を生きていたからこそ、その子孫たる現生人類はそのような文化を持っているという判断になる。

 

今現在の人類が多くの場合二本の足で歩くというのは、共通の祖先である数十、数百万年前の人類が二足歩行をしていて、その形質が今を生きる人間に受け継がれているからこそ、今現在二足歩行を行っているわけであって、雑食の食生活を送るのも、やはり祖先がそのような食生活を行っていて、そのような食習慣を持った生物が生き残ったから、僕らはそのような形質を持っていると判断するのが進化論的に見て妥当だろうと僕は考える。

 

アフリカを出発した人類は8万5千年前から7万年くらいの時代に現在のイラクの辺りに住んでいて、その祖先がそこから出発して東西に分かれて、東は南北アメリカ、西はブリテン島やイベリア半島、そしてその先にあるカナリア諸島、南はオーストラリアに拡散したという学説があって、今回言及している地中海世界とインド、そして中国の話だとその8万5千から7万年くらいのイラク沿岸で暮らしていた時代には既に、階級社会に人類は生きていたのだろうという話になる。

 

…まぁ人類の拡散の話はガチガチの専門書で読んだとはいえ、何処か疑いが残るような記述が多かったから、あまり信用はしていないというか、採取した遺伝子の話がどれ程に信用できるか分からなかったから、半信半疑ではあるけれど。

 

 

僕としてはもっと古い段階から人類には階級があっただろうと考えていて、人々が平等であった時代なんて、一部の特殊な事例を除いて存在しておらず、人類は基本的に不平等な階級社会を持つ生物なんだろうと考えている。

 

なんというか、チンパンジーにも群れ内の序列があるのであって、人類とチンパンジーが同じ生物だった数百万年前の時点で既に、個体間の階級の違いはあっただろうと僕は想定している。

 

じゃあ何で、原始時代は平等だったという学説があるのかについてなのだけれど、おそらくそれは、古いヨーロッパ的な価値観というかなんというか、古い学問的な見解が刷新されておらず、その影響下で原始時代は人類みな平等だったという根拠の良く分からない議論が未だに存在しているのだろうと僕は思う。

 

いつから人類はかつて平等で平和だったという議論があったのかは分からないけれども、18世紀のヨーロッパには既にそのような発想が存在していた様子がある。

 

それはルソーの『人間不平等起源論』に言及がある。

 

 

まぁ僕はこの本読んだことないし、哲学の授業で聞いた範囲しかよう知らんけど。

 

この『人間不平等起源論』には現在存在する階級社会の発生について書かれていて、かつて人類は平等で悪はなかったけれど、人類は自己を改善するという本質を持っているから、それによって不平等が生じるようになったとか書いてあるとかなんとか。

 

人間の起源が不平等だったという話ではなくて、人間の不平等の起源の話です。

 

本当は孫引きは望ましくないけれど、Wikipediaにその辺りの文章が引用されていたので、そのままコピペすることにする。

 

…数年前も同じ作業やった気がするんだよなぁ。

 

「……森の中をさまよい、器用さもなく、言語もなく、住居もなく、戦争も同盟もなく、少しも同胞を必要ともしないばかりでなく彼らを害しようとも少しも望まず、おそらくは彼らのだれをも個人的に見覚えることさえけっしてなく、未開人はごくわずかな情念にしか支配されず、自分ひとりで用がたせたので、この状態に固有の感情と知識しかもっていなかった。彼は自分の真の欲望だけを感じ、見て利益があると思うものしか眺めなかった。そして彼の知性はその虚栄心と同じように進歩しなかった。……技術は発明者とともに滅びるのがつねであった。教育も進歩もなかった。世代はいたずらに重なっていった。そして各々の世代は常に同じ点から出発するので、幾世紀もが初期のまったく粗野な状態のうちに経過した。種はすでに老いているのに、人間はいつまでも子供のままであった。(ルソー 『人間不平等起源論』本田喜代治他訳 岩波文庫 1972年 p.80)」

 

どうやら、西洋的な伝統ではこのように原始時代は無知で、けれどもそれが故に平等で平和であったという発想が存在している様子がある。

 

その悪のない状況は子供のようなそれとして認識されていたらしく、その認識の果てにどのように"未開な"人々は無知な子供として見下されてきたかの話は以前している。(参考)

 

けれども、原始において人々が無垢であっただなんて議論は、数百年前のおっさんがした妄想である以上のことはなくて、このような議論は哲学に顕著な話なのだけれど、彼らはそれの根拠を別に示したりはしていない。

 

実際、先の三内丸山遺跡の本の引用から分かるように、階級社会は原始的な社会でもあり得るそれであって、そもそも、原始的な社会だと階級がないという議論に僕は根拠が見出せないし、あったとしてもルソーっておっさんとかがそう言っている程度のそれだろうと僕は思う。

 

そうと言えども、原始社会は悪もなく階級もなかったという発想は根強いらしくて、アフリカの狩猟民族について西洋人が書いた本で、『ハームレス・ピープル』という表題の本もあったりする。

 

 

ハームレスというのは無害であったり、悪意のないというような意味の言葉で、この1977年に日本語訳が出版された本では、アフリカの狩猟民族であるブッシュマン…今は差別的であるという理由でブッシュマンという言葉は使わずに、サン人と呼ばれるけれども、この本は彼らがハームレスであるという前提で色々書かれている様子がある。

 

どんな文化的な民族でも、どんなお人好しの集まりでも、暴力的な人や犯罪を犯すような人は存在していて、比較的平和と言われるような日本であっても、強姦殺人や強盗殺人は起こるのであって、平和であるように見えるアフリカのサン人にしたところで、ハームレスであったということはあり得ないはずになる。

 

彼らとして殺人を時にしただろうし、彼らとて善も悪もあったと考えた方が妥当というか、人間なんだから、良い人も居れば悪い人も居る筈で、等しく悪のない社会なんてものは原始時代でも縄文時代でもあり得ないと考えた方が道理に適っているだろうと僕は考える。

 

けれども、伝統的に狩猟民族や原始部族は平和だったと考えられがちな傾向にはあると思う。

 

どうしてそのような発想が発生したのか色々考えたけれども、もしかしたら、アダムとイブの説話に由来があって、原罪を背負う前の人々に悪はなかったという考えがあって、それから、文明という原罪を背負う前の人々に悪は存在していないとかそういう話なのかもしれない。

 

そのような伝統的な発想があるとはいえ、僕としては数万年や数十万年前の時点で悪も殺人も強姦もあっただろうし、正義も審判も、貴族も奴隷も、そして支配者たる王もあっただろうと想定している。

 

何故なら、等しくそのようなものは古代世界のテキストの中で見られて、そうであるならばそれぞれの文明を作り上げる前の段階、人々が生息域を広めて定着する前の段階でそのようなものを作りがちな形質を持っていたからこそ、広まった後に等しくそのようなものを構築していると考えた方が妥当だろうと僕は考えるからになる。

 

一方で、前回の記事で言及したように、多神教で見るような神という概念は、中東やその近縁では見られる一方で、古代中国では見られないので、比較的新しく獲得された文化であって、人類の根底にあるそれではないのだろうと思う。

 

ただ、神の王というかなんというか、超自然的な存在で一番偉い人という発想に関しては、ギリシャだとゼウス、中東だとアヌムやマドゥルク、インドだとプラージャーパティやブラーフマン、中国だと天が存在しているので、そのようなものは人類普遍の形質というか、人々が分かれ住む前の段階で存在していたのかもしれない。

 

そんな感じの日記。

 

では。

 

・追記

この記事の最後の方で、ブッシュマンという語が差別的だという話をした。

 

けれども、どうやらその辺りは込み入った事情があって、専門家は未だにブッシュマンの事をブッシュマンと呼んでいるらしい。

 

何故と言うと、サン人の中にも多様な生活をしている人が居て、サバンナ地帯に住んでいない人々もいるから、そう言った原始的とされる狩猟採取生活をしている人々を限定的に指し示す語がブッシュマンというそれしかないからという話らしい。

 

 

朝鮮人という語が差別的だとしても、南北朝鮮が分かれる前に日本に移住した在日の人を言う場合、出身は北朝鮮でも韓国でもないのだから、元朝鮮人としか言えないわけで、その辺りの言葉遣いは難しいよなと思う。