アフリカの子供たち | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は西洋的な傲慢さについて。

 

僕はこの前、『アフリカの過去』という本を読んでいた。

 

この本はなんというか、アフリカの歴史の資料はあんまり充実していないから、過去にアフリカについて言及された資料を寄せ集めたようなもので、僕はアフリカの古代について詳しくなかったからその辺りについて知りたくてヤフオクで手に入れた。

 

まぁ読むところは少なさそうだったので、そのような本は図書館で必要な箇所だけを読むというやり方で済ませたかったのだけれども、僕が住んでいる都道府県の図書館を調べたら、大学の図書館を除いてこの本を置いているところがなかったので、しぶしぶ買うことにした。

 

 

 

それで家に届いてから内容を確かめたのだけれど、僕の御用事と関連性のある古代についての記述は最初の方に本当に少しだけあるだけで、その記述内容も特にここで言及できるようなそれもないような感じだった。

 

強いて言うとすれば、東アフリカとかスーダンの辺りだと黒檀が価値ある物品だったんだな、くらいになる。

 

まぁ、このような本で全体として言及できることがないなんてことは良くあることで、古代中国の出土文献の翻訳について、それらは一つ一つが短いから結構読んでいるのだけれど、なんにも言及することがないから特に触れていないものも多い。(『九主』『内豊』『太一生水』とか)

 

『アフリカの過去』において翻訳される原典訳の文章については特に言いたいこともなかったのだけれど、一方で冒頭にある解題のようなところで著者が言及している西洋的な発想については思うところがあった。

 

今回はそういうことについてです。

 

この本はアフリカの古代史についての本なのだけれど、その前提として西洋人のアフリカ人に対しての認識の話があって、如何に西洋人たちはアフリカ人のことを下に見てきたかについての言及がある。

 

「 すでにのべたとおり、(考古学者たちが見つけた古代世界に関するの知見についての)この大きな進歩も、ごく最近までは、アフリカとアフリカ人を認めるところまではいたらなかった。メルビル・ハースコビッツがその先駆的な著書に名づけていわゆる『ニグロ史の神話』といったもの――すなわちニグロ人は「歴史を持たない人間」であると説くあの信念――が、あいもかわらず勢力を失わないで、ハースコビッツが書いているとおり、「ニグロ人と白人との日常の接触面での差別」を合理化し、また「ニグロ人に関係する方面での政策に具体的に影響を与えている」のであった。アフリカ人は世界の発展という大きな回路にはいったためしがあるとは思われなったのである。彼らは自身の歴史を持たないのであるから、あきらかに「成人しそこなったこどもたち」であった。彼らは「遅進児」である、他の人たちと平等な取り扱いを要求する権利を取り上げられて当然であった。(B・デビソン 『アフリカの過去 原典集―古代から現代まで』 貫名美隆訳 理論社 1967年 pp.20-21冒頭()引用者補足 注釈省略)」

 

この言及自体は西洋人たちはそのようにアフリカ人を悪辣に扱ってきたという経緯についての説明で、この後にはそれは正しくないという話があるのだけれど、まぁ僕としては最初から西洋人が差別的に有色人種を扱っていたのは分かっていたから、その事については特に何も思わなかった。

 

けれども、この記述の中で気になるところがあった。

 

それが何かというと、アフリカ人のことを子供のように認識している点になる。

 

「彼らは自身の歴史を持たないのであるから、あきらかに「成人しそこなったこどもたち」であった。彼らは「遅進児」である、他の人たちと平等な取り扱いを要求する権利を取り上げられて当然であった。(同上)」

 

僕はそのようなアフリカ人についての認識について、読んだ覚えがあった。

 

何処で読んだかというと、進化論者のリチャード・ドーキンスの著書の中でになる。

 

ドーキンスはアメリカで活動する生物学者なのだけれど、彼は南アフリカで生まれた人で、幼少期もアフリカで過ごしたような人物になる。

 

彼は著書の中で自分の少年時代について振り返った時があって、その時にアフリカ人たちと自分たちの関係性について、「子供たちを教え導くように彼らと接しており、差別は存在していなかった」と言及していた。

 

確か、この話はドーキンスの『悪魔に仕える牧師』で読んだ気がするのだけれど、この記事を書くために本を確かめて、けれども見つけられなかった。

 

 

 

 

こういう時に漢籍だと、中国語の原文が載っているサイトに行って検索をかければ目当ての記述が見つけられるのだけれど、ハードカバーの本で、特にその時はその記述を重要視しなくてドッグイヤーもしていないから、どうしても見つけられなかった。

 

実際の記述は見つけられなかったけれども、僕はその記述について強い印象を持っていて、流石にその強い印象を何か勘違いで生じさせたとは思えないので、ドーキンスの著書の中に、そのような言及は存在しているとして良いと思う。

 

ドーキンスは差別が存在していないと言及していて、アフリカ人と子供と大人のような関係性で接していたと言及していた。

 

僕はそれを読んだとき、強い嫌悪感を覚えた。

 

何故なら、西洋人が一方的に大人ということもないし、アフリカ人が全員子供ということもないからになる。

 

同じ人間であって、対等の存在で、けれどもドーキンスは彼らは子ども扱いして、且つ、その上で差別は存在していなかったと言及していて、僕はその彼の振る舞いに酷い不快感を覚えた。

 

相手のことを対等な一人の人間と扱わず、教導するような子供だと認識することが差別ではないというドーキンスの発想を、傲慢であるとしか僕には思うことができなかった。

 

例えば彼が見ず知らずの外国人に大人になってから子供のような扱いをされたならば不快に思ったはずであって、けれども相手にそれをしていることを差別だと思わない彼の傲慢さにどうしても引っかかるところがあって、どの箇所にその言及があるかを忘れてしまった今でも、そのドーキンスの発想を忘れることができていない。

 

僕は同じような発想を古い人類学者についての記述でも出会ったことがある。

 

ルイス・ヘンリー・モーガンという人物がいて、彼は19世紀のアメリカ人の人類学者なのだけれども、彼はネイティブアメリカンの研究を行っていて、それに際してネイティブアメリカンを子ども扱いにしたという事実があるらしい。

 

そのことはWikipediaにも書いてある。

 

「このモーガンの学説は、アメリカ合衆国におけるヨーロッパ白人文化の優位性の立証として、人類学者たちから支持され、支配階級である白人種が、いわゆる「野蛮な民族」を「開化させ」、「進化させた」、その影響の理論として用いられた。そして「黒人やインディアンは、白人よりも遅れた劣等民族である」として人種を等級づけるモーガンの学説は、合衆国でしばしば人種差別を恒久普遍化するために使われたのである。

(中略)

モーガンはインディアン社会は白人社会よりも劣っていると主張したが、実際にはインディアンの共同体社会は高度な平等主義に基づく合議制民主主義社会である。スー族インディアンであるヴァイン・デロリア・ジュニアは、モーガンたち人類学者の「フィールドワーク」は、常にインディアンを子供扱いし、白人社会の偏見を通して行われ、歪められたものであり、その研究報告は、現実のインディアン共同体社会とは全くかけ離れたものであるとして、これを完全否定している[3]。(参考)」

 

結局の所、いわゆる未開と呼ばれる人々のことを野蛮として見下したり、彼らを子ども扱いするというのは19世紀には既に存在する古い発想であって、『アフリカの過去』で言及されるアフリカ人を子ども扱いする振る舞いや、ドーキンスが現地人を子ども扱いしていたことは、彼らがそうと考え抜いて結論としてそのように振舞っていたのではなくて、古い時代に獲得された認識がアフリカまで伝播することによって、彼らはそうと思い込んでいたという話に過ぎないのだろうと思う。

 

特にドーキンスについて、そのように大人が子供を教育するように振舞ったという話は、アフリカの白人コミュニティの中に発生した合理化に依っていると僕は考えている。

 

20世紀の初頭くらいの頃までは特にためらいもなく未開の人々のことを差別していたけれども、時代が進むにつれてそのような発想が過去のものになって、けれども、自分たちは差別してきたという歴史を持っている。

 

その直視し難い歴史を合理的に処理するために生まれたのが子供を教育する大人という言葉であって、かつての遅進児として"子供"という表現が、いつしか穏やかな関係性を意味するようになっていって、自分たちが差別していたという事実を誤魔化すための方便になったのだと思う。

 

実際、自分たちが差別していた、または差別しているということは受け入れ難い事実であって、日本には差別が存在していないという世迷い事を言っているような人も見ることがある。

 

けれども実際問題として、日本人は差別してきたし、今現在でも差別している。

 

第二次世界大戦が終わるまで韓国人は二等国民として扱われていたわけであって、アイヌ人も差別されてきた。

 

一等国民と二等国民とで明確な格差はあっただろうし、今現在でも韓国人を差別している日本人はネット上に沢山いるのであって、今と違って明確な身分格差があった当時に、差別がなかったとするような議論は道理に適っていないと思う。

 

アイヌ人についても差別は存在していたと判断した方が妥当であって、北海道旧土人保護法だなんて法律がかつて存在していた時点で、差別が存在していなかったという議論はナンセンスだと思う。(参考)

 

そして、現在でも差別はあるわけであって、僕は大学生のころに工事現場でバイトしていたことがあるのだけれど、そこに南米出身であろう片言の日本語を話す男性が働いている現場があった。

 

彼と同じ職場で働いているとはいえ、雇われているところが違うから傍目で彼のことは見ていたのだけれど、酷い言葉遣いで命令されていたり、人より多くの仕事をやらされていたり、彼だけ残して仕事を任せて他の人は帰ったり、明らかに差別と思えるような扱いを彼は受けていた。

 

彼と僕らは全く同じ対等な人間であって、彼は他の職人と同じように技術を持って仕事をこなしていたというのに、そのような扱いを受けている時点で差別があるわけであって、彼は黒人でもなくラテン系の白人の人物で、それでもこの扱いだというのなら、"分かりやすい見た目"の人はもっとひどい扱いを受けることもあるだろうと思う。

 

結局、自分たちの集団の悪事を目に入れるのは誰にとっても困難で、おそらく、僕にも自覚できていない"そのような事柄"は沢山あるだろうし、ドーキンスがアフリカ人に対して子ども扱いをしたことを正当化したのも、無自覚な自己防衛だったのだろうと思う。

 

僕は、西洋的な価値観について、酷く傲慢だと思うようなことが多くある。

 

自分たちの文化が普遍的で正しくて、自分たちの発想が最も優れていると考えていて、それを"未開な"人々に教えてあげなければならないと考えている節がある。

 

先のドーキンスの言及についても同じような文脈であって、子供である"彼ら"に、大人である"我々"が、正しい考え方を教えてやっていると考えている部分もあるのだろうと思う。

 

けれども、僕はそのような傲慢さがどうしても好きになれない。

 

ある時、ネットニュースか何かで、北欧出身の教育者が日本の小学校に訪れて、日本の一方的に先生が教えて生徒の自主性がない授業、生徒によって行われる議論がないような授業についてを非難している様子を見たことがある。

 

僕はそのようなものが傲慢に思えて仕方がない。

 

何故、議論のある教育が議論のない教育より上だと言えるのか。

 

何故、議論をすることは正しいことなのか。

 

僕には全く分からない。

 

西洋的な社会であるならば、全体的に議論を人々が好むのであって、そのような社会で議論が出来ないとするならば、彼は社会生活を上手く営むことができないだろうという推論があって、そのような場においては教育で議論をする能力を育むということは正しいと思う。

 

けれども、日本にはそのような土壌はない。

 

ある国で行われる政策が他の国でも同じように効果を発揮するかどうかは分からないのであって、教育についても、ある国では優れた指導でも、ある国ではそうではないという可能性は存在している。

 

日本の学校で習字の授業があるけれども、その授業をイスラエルで行ったとしてもそれはレクレーション程度の意味しか持ちえないわけであって、ある国での教育方針が他の国での教育に役立つとは限らない。

 

特に日本ではディベートをするような文化的な土壌はそれほど存在していないわけであって、そのような土地で相手に強く議論を仕掛けて相手を言い負かすような振る舞いが、西洋世界でと同じように何か良い成果を生み出すとは限らない。

 

日本で生きていく上では、そのような相手を言い負かすという振る舞いよりも、全体の和を保つという振る舞いの方が評価されることもあるわけであって、そうであるならば教育の場に議論の習慣を持ち込むということにどれほどの価値があるのか、僕にはイマイチ分からない。

 

確かに、グローバルな人材として海外での活動を視野に入れるとするならば、そのような議論の習慣は必要かもしれないけれども、日本人の中でそのような人生を送ることになるような人がどれ程いるだろう。

 

殆どは日本人として外国人とそれほど接することもなく生きていくわけであって、そうであるならその議論を前提とする教育が役立つことはないし、他の多くの日本人は議論を前提とした教育を受けていないわけであって、そうとするならそのような習慣がディスアドバンテージになりかねない。

 

西洋的なディベートや自主性に富む教育に感銘を受けて実際に生徒にそれを施したところで、その学校のそのクラスの生徒しかその技能を持っていないのなら、彼らは世間様から浮くわけであって、その事が利益になるかどうかは全く分からない。

 

そのような教育が必要な進路を辿る可能性のある人だけがそのような教育を受ければ良いわけであって、大体、グローバルを売りに出している偏差値高めの大学はそういう教育を行っている。

 

現状だと一部の人にしか役に立たないというのなら、全体で役に立つように、これから、全ての子供たちをそのような議論のある教育で教導していくことも可能だけれども、既に教育を終えた大人たちとも付き合っていかなければならないわけであって、直ぐに直ぐ、議論のある社会に変えることは出来ないし、そのような社会が、今ある日本の社会に比べて優れているかどうかは僕には分からない。

 

実際問題として、議論を禁じるような発想を持つ文化もあって、それは原始仏典の更に初期のころの仏教集団で、最も成立が古いだろうと言われている『スッタ・ニパータ』という経典に、議論を行ってはいけないという言及が存在している。

 

だから、議論をするという振る舞いが普遍的に正しいということはないし、日本のディベートをあまりしないという社会的な伝統が間違っているという話に十分な根拠を僕は見出せない。

 

日本の経済的な低迷について、日本の教育や文化が悪いという発想もあるかもしれないけれど、おそらくそれは関係ない。

 

何故と言うと、景気さえよければ大体のことは良く見えるらしいという実例があるからになる。

 

僕は以前、哲学者というか倫理学者のピーター・シンガーという人物の本を図書館で少しだけ読んだということがあった。

 

なんという本で、どのような議論を行っていたのかは思い出せないのだけれども、その中で日本についての言及が存在していた。

 

シンガーがその本を書いた当時の日本はバブル絶頂期で、経済的に非常に恵まれていて、シンガーはその日本の労働環境について賞賛していた。

 

その賞賛していた内容は、きっちりと仕事を終えないで残業をしてダラダラと夜遅くまで会社に居たり、仕事が終わったら残業扱いにもならないのにみんなで飲みに行ったりと言った、今現在の日本だと非難の対象になるような古い日本の悪しき慣習のことで、それを「ここが日本の優れたところだ」という形でシンガーは紹介していて、結局、景気が良いか悪いかの問題でしかないのだろうなと思う。

 

実際、古代中国の『韓非子』という本には、君主と同性愛の関係にあった男性が、食べた桃が美味しかったから君主にも食べてもらいたいと食べかけを渡して褒められたけれども、時が経って容姿も衰えて君主の寵愛も薄れたころに、喰い残しを君主に差し出したという理由で刑罰を受けていて、まぁ一部が良かったらその実態はさておき、他のことも良いと判断してしまうのが人間なのだろうと思う。(参考)

 

同じように、景気が悪かったら本来問題のない所も悪く見えるということもあるわけであって、日本の経済的な低迷と議論の無い教育とに関係性はないと思う。

 

とにかく、僕は西洋的な傲慢さがどうしても好きになれない。

 

日本の小学校で教員を非難した彼は、自分たちの教育方法が至上であって、日本の教育は正しくないと考えてそうと非難したのだろうけれども、日本という社会で生きてく上で、議論の習慣がどうして役に立つのかは僕には分からない。

 

僕らの発想が絶対的に正しいとは思わないけれども、同じように彼らが絶対的に正しいとは考えられなくて、それなのに押し付けてくる態度を好きになることが出来そうにない。

 

そのようなことは多くの事柄で同じように言えて、僕は西洋的な倫理観に比べて他の地域の倫理観が劣っているとは思えないし、西洋的な価値判断に比べて他の地域の価値判断が間違っているとも思えない。

 

古代中国と古代インドの本を人よりは多く僕は読んできたけれども、彼らは彼らなりに合理的であって、価値判断の基準が違うだけで、彼らの本を読み続けていると、彼らの判断に違和感がなくなっていく。

 

彼らが文化的な面で西洋人に劣っているとは判断できないし、日本人が西洋人に比べて間違っているとも思えない。

 

倫理学という分野が哲学に存在しているけれども、彼らの議論は結局キリスト教的な価値判断やギリシア的な議論に支配されていて、カント的な合理論の第一原理についても、功利主義の第一原理についても、その根拠が全く分からない。

 

結局、カント的な倫理学の場合は、その根底に神があって、神が与えた理性は正しいものだから人間の価値判断である"直観"は正しいものであるという前提があって、キリスト教徒以外には通用しない議論だし、功利主義の"最大多数の最大幸福"について言ってみても、アリストテレスが人生の目的を幸福になることであると言ったことに理由があって、その幸福を増やすということが功利主義の目的なのだけれど、何故幸福の量を増やことが正しいのかについての言及は特に見つけられていない。

 

功利主義の初期の提唱者であるJ・S・ミルの『功利主義』というテキストを僕は読んだことがあるけれど、文中でミルは功利主義がキリスト教に反しないということを繰り返して述べていて、やはりキリスト教的な文脈が存在する議論になるし、加えて、キリスト教の場合は産めや増やせやということが正しいから、幸福な人が増えることで人類が繁栄することが正義であるという発想もあるのだろうと思う。

 

別に彼らがその事を正しいと思うことは、ヒンドゥー教徒がクリシュナの永遠を求めて瞑想や苦行をして、アートマンという概念のその微小な実在を自著の中で主張するということと同じように、僕には理解できないけれど好きなだけやればいいと思うけれども、どうしても押し付けてくるその態度が好きになれない。

 

LGBTにしても菜食主義にしても、自分たちがやる分には好きなだけやればいいと思うけれども、彼らはどうしてもこっちに押し付けてくる嫌いがある。

 

麺類を音を立てて啜るという行為が汚く思えるという発想があって、麺類を音を立てて啜るべきではないという話はあるけれど、多くの"押し付け"は、麺を啜って音を立てるという振る舞いが美しく正しいことであるとして、他の文化圏に音を立てて啜るように強要するようなレベルの話になる。

 

汚いか汚くないか、正しいか正しくないかは経験学習による個人的な感想なのであって、多くの場合、それが普遍的な正しさを持っているという事実はない。

 

まぁ実際、麺を啜る話の場合は何故そのことが汚いのかの根拠とかはないし、下品だと自分たちが学んだから、その下品な振る舞いをするなと言っているだけだろうと思う。

 

古代中国の北の方、今現在だとウラジオストックの辺りに住んでいた挹婁(ゆうろう)という民族は、どうやら尿で顔を洗う習慣があったと『三国志』や『後漢書』に書いてあるらしく、奇麗か汚いかの衛生観念についての理解は経験学習の部分が大きい。(参考)

 

衛生的か不衛生かということは科学的な観点から判断できることだけれど、麺を啜ることを汚いと思うことは、そのような観点からそうと言っているわけではなくて、彼らの文化ではそれが汚いというだけで、その判断が普遍的に正しいという道理はない。

 

勝手にやってる分は勝手にやってるんだから良いと思うけれど、相手にまでそれを求めるという振る舞いが傲慢に思えて仕方がない。

 

そして、僕が一番嫌いなのは、そのような西洋的な価値観に"啓蒙されて"、日本人なのにそのような問題を日本人に求めてくるような人々になる。

 

結局の所、そのような場合だとただ耳で聞いた内容を吟味せずにオウムのように吐き出しているだけなのであって、そのようなものを好きになるというのはどうも僕には出来そうにない。

 

まぁそのような人は昔からいて、新渡戸稲造の『武士道』とかも似たような感じの内容だったけれども。

 

という日記。

 

マァコンナモノダロウ。

 

では。