吾の人のかの背信は | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は小さなトピックを用意して色々書いていくいつものアレをやって行くことにする。

 

その話に移る前に、僕が書いた『ぼくらの』の解説の現段階での最新の記事に、以下のようなコメントが来ていた。

 

僕はこのコメントを読んで、「あなたが『ぼくらの』って漫画のカンジ編が好きでそれの解説が書かれると嬉しいことと、僕が無償で数時間、十数時間の苦行を強いられることに一体どんな因果関係が…?」と思った。

 

僕は何かを要求された時点で普通に札意しか抱いていない(参考)けれど、事情を理解していない人物に剥き出しの害意をぶつけても仕方ないと思ったし、完全に酔っていた時にコメントを読んだから、こんな状態で敵意があるコメントを書いたら取り返しのつかないことになりかねないと思って、以下のように返した。

 

僕としては書いても良いけれど、ものっそい不快な気分になったから、相応の対価を要求するつもりで、でもこの時点で返事は来ないと分かっていて、とりあえず穏便に済ませて、それでも相手が何かを言ってきたら、こちらの要求を伝えるつもりでこのような文章を書いた。

 

まぁ酔って書いたから、細かい文飾は後日修正してコメントを投稿しなおしているけれど。

 

ちなみに、あんのじょう、返信はなかった。

 

…知ってた。

 

僕がここまでで書いた一連の文章を読んで、僕が何に気分を害しているのか、分かっている人と分かっていない人が居ると思う。

 

まぁ色々な積み重ねで今があるし、僕はそもそもなぜあのコメントが来たかについて、少し気付きがあったので、その話をして行きたいと思う。

 

僕は来たコメントを思い返すたびに、酷く歯噛みして、思い出すたびに嫌な気持ちになっていたけれども、ある日、あのようなコメントをする人は、何かを勘違いしているのではないかという可能性に気が付いた。

 

それが何かというと、僕はその漫画の作者ではないということを理解し切れていないのではないか、という話になる。

 

僕がその漫画を描いてないなんて何を当たり前なことを、という話だけれども、そうと理解するとあのようなコメントが来た理由が分かってくる。

 

ある作品があって、その作者が同人即売会に来ているとして、その作者が依頼されたイラストを描くというスケブ依頼をしているとして、その作者に作品のある場面を言って、この場面が好きだから、このキャラクターを描いてくださいというのは普通の感覚になる。

 

作者に好意を伝えて、その好意の内容に関連するお願い事をするというのは、人間的なコミュニケーションでしかない。

 

…まぁそれは相手がウェルカムな状態な時限定の話だけどな。(激怒)

 

ともかく、その感覚で僕に『ぼくらの』の解説の続きを書くことを要求してきたのではないか?と僕は思った。

 

こういうコメントは以前にも来ていて、こういう言及をするのはこの方だけに限定される話ではない。

 

おそらく、このようなコメントは、僕がその作品の作者ではないという理解が上手くなされていないから起きているのではないかと思う。

 

そうと考えると意味の分かるコメントで、この人たちはある作品があって、その作品のクリエイターにその作品が好きだという好意を伝えて、その後に私の好きなあなたのその作品の続きを見てみたいと伝えているという"感覚"であるというのなら、変な話ではない。

 

けれども、僕目線では僕はその漫画を描いたわけではないし、作者と一切関係のない立場だから、その作品が好きだから、解説の続きを書いて欲しいと言われたところでそれは、初対面の人物が唐突に僕には関係ない自分語りを始めたと思ったら、何の脈絡もなく僕に無償で数時間、十数時間に及ぶ苦行をするように要求してきたというホラーじみた意味の分からない場面になる。

 

僕はその漫画の作者ではないし、知らない誰かがその作品が好きだという情報は、僕を欠片も喜ばせることはない。

 

僕は二つ目のコメントについて、「キリエと畑飼のくだりが好きだから」ではなくて、「貴方が書いた解説が興味深く、貴方の見解が知りたいから」というようなコメントだったら、アメンバー限定とかそういうやり方で再公開を考えたのに…と当時思った記憶がある。

 

加えて、僕は『なるたる』という漫画の解説を書いたけれども、その漫画に対して以下のように言及したことがある。

 

 

別に僕は『残酷な天使のテーゼ』という曲を作った高橋洋子先生について詳しいということはないのだけれど、この人物は『残酷な天使のテーゼ』という曲に酷く塩対応であるということは知っている。

 

本当に塩対応で、この曲に愛情がないとしか思えないようなことを平気で言ったりしている。

 

僕はその気持ちが分かる部分があった。

 

何故なら、『残酷な天使のテーゼ』が好きです!って話しかけられたと思って話聞いていたら、その人は『残酷な天使のテーゼ』が好きなのではなくて、この曲が使われた『新世紀エヴァンゲリオン』が好きなだけという場面が何回も、何十回も繰り返されてきたのだろうという推論があるからになる。

 

自分の曲が好きだと思ったら、話を聞いたらエヴァが好きなだけとか、普通にイラっとするような内容で、そういう出来事の積み重ねが無ければ起きえないというレベルで、高橋先生はエヴァに塩対応で、新劇場版の曲も歌っていない。

 

普通だったら『残酷な天使のテーゼ』もエヴァの一部であるし、エンディング曲も彼女が担当したのだから、新劇場版も関わる筈だというのにそうなっていて、個人的に先に書いた出来事、自分の曲が好きなのではなくエヴァが好きなパターンに辟易してしまって、エヴァの事が嫌になってしまったということがあったのではないかと思う。

 

…まぁそれだけではなくて他にも作品をいっぱい持ってるのに、一部の作品だけを延々求められるだけで、普通に人間はその自分の作品が嫌いになってしまうって部分もあるんだけど。

 

実際、自分のイメージが特定の作品のみに限定されるというのはクリエイターの間では忌避される部分があって、芸人で一発屋と言われるのを嫌う人が多いということから心情としてその辺りは察せられるし、これは2019年より前の話に聞いた話なんだけれども、『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品についても、この作品を書いた谷川流先生は、ハルヒの話を振られると露骨に元気がなくなると僕は聞いている。

 

この話は角川で小説の賞を取って、実際に角川から本を出版した人が言っていて、経歴からして角川の編集者あたりから聞いた話だろうという推論があって、個人的にマジなんだろうと思ってるし、あれほどお世話になった京アニがああいうことになったというのに、ハルヒに関連するアクションが殆どない所を見るに、ハルヒはもう本当に嫌なんだろうなと個人的に思っている。

 

まぁハルヒ追ってるわけじゃないから現在の状況とかは知らないけれど。

 

純粋に自分の作品であるハルヒでこの"ザマ"だというのに、自分の作品がメインではない『残酷な天使のテーゼ』の高橋先生がエヴァの話を振られる時の事を考えると、心中を察するところがある。

 

あなたが好きなのはエヴァで、私が作った曲は割とどうでも良いんでしょう?と何度思ったのかと思うと、想像するだけでただ辛い。

 

エヴァが無かったらそれ程売れなかったのは事実で、その事だけで自分の事を否定されている気持ちになってもおかしくないし、エヴァが無かったら『残酷な天使のテーゼ』がカラオケで未だに歌われるという出来事は決して起きていない。

 

全てはエヴァありきで、エヴァの話をしてくる人をウザったく思う事もあっただろうし、その小さな出来事が何十回もあれば本当に嫌になってしまうこともある筈で、そういう積み重ねの結果として、『残酷な天使のテーゼ』に対する塩対応があるのではないかと思う。

 

まぁ高橋先生の心中は、僕の勝手な想像に過ぎなけれど。

 

それと『涼宮ハルヒの憂鬱』についてはアニメが有名だから、谷川流先生も「あんたはアニメのハルヒが好きなだけだろ?」って思っての話だとするならば、高橋先生も谷川先生も事情は同じになるとはいえ、それらはあくまで僕の想像でしかない。

 

もしかしたらエンドレスエイトの件で色々嫌になったのかもしれないけれど。

 

ともかく、僕としてもあなたが好きなのは鬼頭先生の作品であって、僕の書いた何かではないんでしょう?と思ってしまうということは過去に何度も経験している。

 

読む限り…どうも僕の書いた文章が好きというよりも、僕が解説を書いたその漫画作品が好きなだけというようなリアクションを過去何度も見てきている。

 

別にその事は良いし、僕が書いた何かに重要な価値があるとは思っていないから、その事については特に何も思わない。

 

まぁ『なるたる』の解説がなければ普通あのサイトなんて開かないなんて当たり前の話だし、あのサイトは『なるたる』ありきだし、どうせ『なるたる』関係しか興味持たれてないし、だったら日記の部分要らねぇなと思って全部非公開にしたのだから、『なるたる』の話しかされないのは当然だし、『なるたる』についての好意を僕にぶつけてくる人が出ることもあるだろうと思う。

 

まぁ病み日記が多すぎたために、非公開にしたのはそうなのだけれども。

 

そういう風に漫画の方しか見てないような人は僕に善意を向けていないというか、善意を向けているのはその漫画作品の方なのだから、僕は別にその人に善意を返したりはしない。

 

まぁ、そういう漫画についての好意を僕に伝えてくるような人たちは僕目線、お門違いな話を振ってくる迷惑な人でしかなくて、そういう意味では辟易するとはいえ、だからと言って悪意を向けられたわけではないのだから、悪意を返したりはしないけれど。

 

あのサイト→胙豆という形でURLリンクを繋げてないのも、僕が書いた何か自体に関心がない人には僕は「そう…」という感情以外を抱かないし、そういう人に漫画の解説記事以外を読んでもらいたいと思っていないから、僕の日記に辿り着くことがないようにそうしているし、『なるたる』以外の鬼頭先生作品の解説を書いていることを教える義理はないからあのサイトではこのサイトの話をしていない。

 

それだけではなくて、このサイトで漫画の解説を書くときに、例え平生の日記でそれに関連する話題があったとしても、漫画の記事から日記へのリンクを殆ど設けないのも、同じ動機に基づいている。

 

別に僕が書く何かに興味が無いのはそれは当然で、けれども、漫画の解説にしか関心が無いのなら、漫画の解説だけを読んでいてもらいたいというだけの話です。

 

…。

 

この記事では自分が書いたものに価値がないと思っている話を繰り返し書いてきているけれど、以前コメントで自己卑下の記述は控えて欲しいと言われてから記事内では控えていて、ただ、自己認識は一切変わってないから仕方ないね…。

 

さて。

 

ここまでの話は以下の内容について言及するために必要だから書いて来た。

 

僕は先月、X(旧Twitter)で次のようなダイレクトメールを貰ったということがあった。

プリオンというのは僕のX上での名前で、XがTwitterだった頃に僕は定期的に"価値のない物体縛り"で名前を滅茶苦茶変えてたんだけど、それをすると誰か分かんなくなってフォローを外されると分かったので、それを途中でやめて、やめた時の名前がプリオンだっただけで意味はないです。

 

ちなみにこの後の文章は尊敬する書き手に自分の作品を見てもらうということは、クリエイターにとって大変意味があることだと思うから是非という話が続いていた。

 

とにかく、こういうダイレクトメールがその演劇の開催日の前日の夜10時に来ていて、僕がこれを読んだのは、当日の朝6時だった。

 

こういう話を伝えるのはせめて1週間前だろ…と思ったけれど、悪意はないだろうし、その日はこの方が演劇をする場所に行ける所には居て、色々都合を合わせて頑張れば行ける状態だったので、色々考えて行くことにした。

 

観たいとか興味があったとかはなくて、ただこの人には以前、この人が所属する学校と国立国会図書館にしかない本の複写をお願いして、その画像データを受け取っているので、その義理もあるし、ただ見るだけで感想は言わない、本当に見て帰るだけという条件で、とりあえず行くことにした。

 

まぁ…複写についてはあっちから申し出たというのに、申し出たということを忘れて、半年以上放置されて、こちらから「忘れてるのは分かっているけれど、お願いした手前勝手に動けないから、忘れたのならそれで良いし、無理はお願いをしたいとも思っておらず、もう複写してもらえないのなら自分で国立国会図書館に行くので、はっきりとだけして欲しい」という旨を丁寧な文面で伝えて、ようやっとデータ貰えたという話で、色々思う所はあるけれども。

 

僕は一切複写してくれる人の募集とか依頼とかしてなくて、けれどもその人から言い出して、だというのに忘れて半年以上放置は…。

 

それは尊敬している相手にすることなのだろうか。

 

…先の演劇の話が事の前日に来たことについて、本人は「お会いしたこともない方にこのような連絡を差し上げていいものかという葛藤があった」って言ってたけど、純粋にズボラで忘れてただけなんだろうなと個人的に思っている。

 

まぁとにかく、行くことにしたわけだけれども、行けるって言ってもグーグルマップで調べたら行くだけで2時間かかる場所で、往復するとマジに4時間以上かかるということは分かっていた。

 

普通に往復4時間というだけでキツいし、当日は時間との兼ね合いで1時間前に現地について、けれども、開場は30分前なので、寒い中ベンチで座って30分待って、更に開場から30分待ったあとに演劇があって、僕はその演劇を見るために5時間を費やしている。

 

その方曰く、自分が脚本を書いた演劇は、『なるたる』という漫画と、その『なるたる』という漫画の解説に影響を受けているらしい。

で、実際に僕はその演劇を見たわけだけれども、その演劇の中には確かに『なるたる』的な要素や鬼頭先生の作品からの影響だろうと推論できるような要素はあって、けれども、僕の"味"は一切しなかった。

 

実際、僕は僕が書いたものを読んだ上であれこれ言っているようなネット上の書き込みについて、あぁ、これは僕が書いたものを読んだ上でのそれだなと分かる時が結構あって、文章に僕の"味"を見出すということがある。

 

けれども、その演劇には僕の味が一切なかった。

 

往復4時間かけてこの演劇を見に来て、現地で1時間待って、演劇自体も100分とか120分とかあって、更には始まりが遅れてその分も待っているし、触れ込みだと僕の影響を受けたという話だったというのに、蓋を開けてみたら鬼頭先生の作品の影響しかそこにはなかった。

 

僕は演劇を見終わって、僕は何を見せられたんだと思ったし、見ている最中は、僕は今何をしているんだと強く思った。

 

(坂本眞一『孤高の人』7巻p.120-121)

 

もし、この人物が鬼頭先生に声を掛けられるような立場に居て、鬼頭先生を演劇に誘うことが出来るような状況であったなら、僕に声をかけることは決してなかっただろうと思えるほどに、僕はそこに居なかった。

 

鬼頭莫宏先生が理解が困難な作品を描いたということがあった。

 

僕はそれの解説をした。

 

その解説を読んで、鬼頭先生の作品をよく理解したという場面はきっとあっただろうと思う。

 

それで鬼頭先生の作品をより理解出来て、より好きになっても、それは鬼頭先生の作品についての何かが深まっただけで、僕に対する何かが深まったわけではない。

 

おそらくあの人は、僕と鬼頭先生の境界線が曖昧で、何かを勘違いしていたのだろうなとしか、あの出来事を振り返ることが出来ない。

 

そうでなければ意図的に僕的な要素を入れて脚本を作らないでして、あの誘い文句はあり得ない。

 

何らかの勘違いの結果でないとするならば、僕を侮辱するために呼んだとしか考えられなくなる。

 

尊敬している書き手に自分の作品を見てもらいたいというけれど、尊敬しているのは鬼頭先生であって僕じゃないじゃないか。

 

尊敬しているというのなら、どうして劇中の何処にも僕の要素がないというんだ。

 

あの日、僕が一切存在しない演劇を見せられて、帰りに夜道を歩きながら演劇の事を振り返って、何で僕はこんな気持ちに、こんな惨めな気持ちにならなければならないんだと強く思った。

 

僕目線、貴方の肖像画を描きました!見に来てください!と誘われて、2時間かけて会場に行って、1時間かけて並んで実際の絵を見たら、違う人の肖像画が飾られていた上に、これから2時間かけて帰らなければならないという状況と全く差異はない。

 

何故僕がこんな目にあってるんだと思ったし、僕がどんな悪いことをしたんだと強く思った。

 

そして、これらの一連の出来事には通底する何よりもキツい要素があって、それは何かというと、最初のコメントの話もそうだけど、相手は僕に対して悪意も害意もないという所になる。

 

相手が悪意を以って僕に何かを投げつけて来たのなら、口汚く罵れば良いだけの話で、それをして溜飲が下がるということはあんまりないけれど、感情の向かう所は存在している。

 

けれども、この記事で先に言及した出来事は、登場人物の中で一人も僕に悪意を抱いている人物はいないのだから、僕のこの惨めな気持ちの向かう先なんて存在しない。

 

ただ、なんでこんな気持ちにならなければならないんだという、歯噛みする苦しさだけがあって、ただ僕が一人で自分の愚かしさ、僅かでも僕がそこに存在する可能性を想定して、僕がそこに存在しないことを想定できなかったという愚昧さを、恨めしく思うだけになる。

 

まぁこれがメチャ近所で開演されて、演劇自体も待ち時間も特になしで30分で終わるというような話だったら「草。」で終わりだったんだけれども。

 

それくらい僕は自分が書いているものに価値がないと思っていて、僕の何かが蔑ろにされたと思ったから色々書いているのではなくて、一連の出来事の推移があまりに惨めで、感情の向かう先がなかったから書いているだけです。

 

あの演劇を作った人は『なるたる』とその解説ブログのファンだという名乗りで、あの人はこのサイトを読んでなくて、あのサイトは『なるたる』関係以外の記事は現在非公開なのだから、今振り返ると、僕の味がしないのは分かりきったことでしかなかった。

 

 

このサイトを読んでいたら、普通に『ぼくらの』の名前も挙げるはずだし、他の漫画の解説やそうではない記事を書いていると知っているはずで、それなのにこの名乗りをしたとすると「お前の書いているものの中では『なるたる』の解説しかファンではない」という、今回の誘いをするには割と無礼なそれになって、その辺りはあのサイトの『なるたる』の解説しか読んでないからそうなっているのだろうと思うし、このサイトの『ぼくらの』の解説を読んでたら僕の名前が次郎と分かるはずで、けれども次郎と呼ばない時点で読んでないと分かるし、別に演劇内で僕の要素がなかったとしても、僕が書いた何かに重要な価値があるとは僕自身思ってなくて、反映されなくてもそれはそうだろうという問題で、ただ、入れないんだったらあの誘い文句はないだろって思うし、7時間弱を費やしての結果があれかよって話でしかない。

 

ていうか記事が膨大な量あるんだから、必要だと思ったところを適宜読む形が最上だと思うし、重要な価値はないと思ってるんだから、読まれてなくてもさもありなんって話でしかない。

 
それくらい僕は僕が書いた何かに価値がないと思っている。
 
実際、僕が書いた何かが剽窃されたということは把握している限り過去に三回あって、その全てを「草。」で済ませて相手に何も言っていない。
 
内心、「いや、大人なんだから出典くらい書けや」とは思っていて、でも本当に思っただけで何もしていない。
 

…その内一回は企業が自社のサイトでやったことだから、本当は色々言った方が良いんだけどね。

 

そういう風に価値がないとは思っているとはいえ、とある漫画作品で、作中の描写から、この作者は僕の書いた何かを読んだかもしれないなと思える、言い換えれば僕の"味"が僅かにでもする作品に出会ったことがかつてあって、その気づきがあった時は、少しだけ、本当に少しだけのそれでしかないけれども、嬉しいという気持ちは確かにあった。

 

僕が書いた何かに価値があるとは思ってはいないけれど、それでも無意味ではなかったんだな、って。

 

…そうと言いつつ、無意味であるということも分かってはいるのだけれども。

 

さて。

 

とにかく書きたいことも書いたので、小さなトピックを用意して色々書いていくいつものをやって行くことにする。

 

・本当に俺の子供なのか…?

稀にネット上で女性の不貞に関する話題で、ヨーロッパの某国では、父親と子供の血の繋がらない場合は数十%を越えるだの、もっと高いだのという調査結果の話があるのだけれど、あれって純粋に嘘なんだよな。

 

まぁ日常を生きていて、人間そこまで不倫をしないというか、あんまり起きないからセンセーショナルに取り上げられるのであって、何十%も不倫しているだなんて、ある特定の話題、例えば女性の生まれついての不誠実さなどという主語の大きな話題に際して使う、魅力に満ちた数字などといったものは、疑ってかかるべきなんだろうなと個人的に思う。

 

以上。

 

まぁ書いたまんまだけれど、ヨーロッパの何処かの国では父親が托卵されているという場合がかなりあって、話によるとそれは何十%もの高い割合で、父親と子供との血が繋がっていないという結果が出たという話題を稀に見ることがある。

 

ただ、実際のところその話は嘘らしい。

 

その話は『パレオ・ファンタジー』にある。

 

この本は日本語だと『私たちは今でも進化しているのか?』という表題になってるけれど、原題は『パレオ・ファンタジー』でアメリカで昔流行ってたパレオという自然志向について、あんなのはファンタジーで、実際の石器時代の生活は炭水化物も採ってたし、パレオで想定される古代人なんて存在しなかったという話が主題で、日本語の題だと不適切なので、今回は『パレオ・ファンタジー』って呼びます。

 

日本で見られる炭水化物をカットするダイエットはどうやら海を渡ってきたらしくて、パレオの考え方で、かつて人間は炭水化物を取っていなかったのだから、取る必要はないという考えが元で、ただその話が抜け落ちて肉と野菜のみのダイエットの話になったのが、日本の炭水化物抜きダイエットらしい。

 

そして、原始人の顎の化石の歯垢を調べた結果、炭水化物を取っていたと分かって、他にも色々そういう話が臆見まみれであるとして、あんなん嘘やでって話をすることが目的の本になる。

 

それなのに『私たちは今でも進化しているのか?』ってタイトルは不適切だから、『パレオ・ファンタジー』の方が適切だろうけれど、商業的に『パレオ・ファンタジー』じゃ売れないだろうし、僕も手に取ってなかっただろうから、色々難しい所がある。

 

話を子供と父親の血縁関係に戻すと、そういう風に人間を科学的な面から捉えて、例えばパレオ思想はファンタジーであったとかそういう話をする本だから、母親は我が子と血縁関係を確信できるけれども、父親はそうもいかないという話がされている箇所がある。

 

この父と子の血縁の話は進化論の本では頻出で、確か『利己的な遺伝子』でも同じようにこの問題を取り扱っていたと思う。

 

 

ともかく、その話の中で、僕もネットで見たことがある、父親と子供の血縁関係の話があって、母親の不貞率について、それが高いというのは嘘だという話があったので、引用することにする。

 

「 そして世間の人々は、こうした用心すべて(引用者注:托卵されて実子ではない子を父親が育ててしまうという事態を防ぐ用心)が必要だと強く思っているようだ。父親が実は違うというケースが、人口全体でどのくらいの割合であるか推定してもらったところ、ほとんどの人が一〇か二〇パーセントと答え、三〇パーセントという人までいた。三〇パーセントというのは、サウスカロライナ大学の生物学教室の学生を相手に、私が数年前に調査を行なった結果である。つまり六〇人強の学生がいるその教室では二〇人近くが、生物学的には父親でない男性をパパと呼んで生きてきたということになる。それを指摘すると、彼らは悪びれることなく、わけ知り顔でうなずいた。科学者でさえ、一〇パーセントと答えることが多い。遺伝学者で男性の性染色体を研究している(そのため本当の答えを知っている)知り合いが、会議の席でまわりの生物学者たちにその質問をして突き止めたことだ。

 ところが真実は(私たちが知る限り)それほどセンセーショナルではない。できるだけ偏見を排した調査では、西欧諸国において父親とされている男と子どもの血がつながっていない例は、だいたい一パーセント前後で、調査によっては三パーセントから四パーセントになったケースもいくつかある。高いほうの数字をとっても、世間一般の予想の一〇分の一にすぎない。まったく偏りのない予測が難しいのは、父性鑑定というのはもともと遺伝上の父親であることを疑って行なう人がほとんどだからだ。そのため、鑑定キットを販売している会社のデータを用いると、本当の親子でない確率を実際よりも高く予想することになる。(マーリーン・ズック 『私たちは今でも進化しているのか』 渡会圭子訳 2015年 p.188)」

 

 

日本ではネットで西洋の某国では父親とこの血が繋がらないという場合が何十%もあるという話がまことしやかに語られる程度だけれども、アメリカではそんな感じではなくて、托卵は頻繁に行われていると思われているらしい。

 

話としては、そういう風に父親と子供が血が繋がらない場合が多いとアメリカ人は思っている一方で、実際に信頼できる調査を見たところ、自分と血が繋がっていないと疑っている場合が多いそういった血縁鑑定の依頼を見ても数%程度で、実際には托卵は殆ど起きていないというのがアメリカの実態らしい。

 

まぁそりゃそうだよなと思う反面、こういう風に何処か疑わしい数字というか本当ぉ?と思うような話が、海外の話題では結構ある。

 

例えば、西欧の某国は子育て支援を国は滅茶苦茶頑張っていて、そのおかげで出生率は良く伸びているだの、西欧の某国の医療は素晴らしくて、日本のそれは劣っているだのなんだの。

 

僕はそういう、特定の話題、今挙げた例なら日本の政治を下げる話題において便利な数字や施策について、その実態は甚だ疑わしい所だよなと思う部分がある。

 

実際、出生率が上がったというような国の実態を見てみれば、移民が子を産んでいるだけで元居た国民の出生率は低いままで制度は関係なかったという話や、医療は優れていようとも、殆どの国民はその優れた医療の恩恵に預かることが出来ず、その国では日本のように風邪をひいた時に病院に行くなんて出来はしないという制度だったという話を聞いたことがある。

 

そういうある主張をするのに魅力的な数字や話は、それを疑った方が良い部分もあるのだろうなと思う。

 

ただ、そうと思ったところで実行できるのか、正しい情報とそうではない情報との区別ができるのかというのが問題で、おそらく僕は出来ていないのだろうと思っている。

 

調べたら托卵率が数十%という話を僕は一切信じてはいなかったけれども、某国の出生率については特に疑っていなくて、そういう風に正しいそれを得ないままでいる話が沢山あるのだろうと思う。

 

そして、そうであるときに僕が出来ることが何かといえば、間違いが発覚した時はそれを素直に受け入れて、自分の考えを修正するだけになる。

 

そんな感じの日記。

 

まぁ多少はね…。

 

では。